イスラエル・ヨルダン旅行記 6月9日 - ヨルダン南部

1.ペトラ
2.ワディ・ラム
3.アカバに到着


 ついに私たちは、ヨルダン旅行の最高峰であるペトラを見学します。前日の旅行記で説明したとおり、私たちのホテルは入口まで徒歩で行くことができます。荷物をホテルに一つにまとめて、最小限の手荷物で歩き始めました。

ペトラ

 ペトラの有名な別称は、「時の刻みが止まった薔薇色の古代都市」です。世界の古代世界の新・七不思議にされ、ユネスコの世界遺産に登録されています。ちょうど中国の万里の長城を見るような気分で来る人が多いと思いますが、実は聖書に密接に関係のある所です。

a) ボツラ

 それは、「ボツラ」と呼ばれているエドム人の首都として登場するからです。前日話したブセイラがそうだという人もいますが、アーノルドの解説に従って説明していきたいと思います。

 ここは、主が再臨される時に初めに来られる所です。順を追って説明したいと思います。初めに、キリストが来臨される前に、反キリストが現われます。ダニエル書9章27節にある「荒らす忌むべき者」が契約を破棄して、聖所の中に入り、我こそが神であると宣言します。それでユダヤ人に対する大迫害が始まります。

ユダヤ人の逃れ場

 イエス様はオリーブ山で弟子たちに、こう命じられました。「ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。(マタイ24:16)」この「山」とはどこなのか?ユダヤ地方は既に山地なので、唯一、ヨルダンにある東の山しか考えることができません。そこで、他の聖書箇所を眺める必要があります。黙示録12章14節に、「女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。」とあります。つまり、この山はヨルダンにあり、かつ荒野でなければなりません。そうすると、北中部ではなく南部のエドムの山地になります。事実、イザヤ書33章16節には、終わりの日に残されたイスラエルの民がどのように養われるかがが、具体的に説明されています。「このような人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される。」まさに、エドムの山地の様子そっくりです。

 そこで、主は具体的な町の名を挙げて、ご再臨に当たり、イスラエルを守られることを宣言しておられます。「ヤコブよ。わたしはあなたをことごとく必ず集める。わたしはイスラエルの残りの者を必ず集める。わたしは彼らを、おりの中(=ボツラ)の羊のように、牧場の中の群れのように一つに集める。こうして人々のざわめきが起ころう。(ミカ2:12)」この続き13節に、キリストの再臨の預言があります。「おりの中」と訳されているヘブル語は「ボツラ」です。

 ペトラの地形は、ダーナ自然保護区と同じく渓谷になっています。現在は「ワディ・ムサ(モーセの谷)」と呼ばれている、ワディ・アラバまで続く渓谷の入口に位置します。入るためには、徒歩あるいは馬車などでしか通ることのできない岩の細道「シーク」を通り、岩山に囲まれた中に行くことができます。ちょうど「羊の囲い」が、羊飼いが一匹ずつの羊を杖を横にして調べることができるぐらい狭いように(レビ27:32、ヨハネ10:7、エゼキエル20:37参照)、ボツラは自然要害として現代の軍事分析においても戦略的な所です。

 
 (ワディ・ムサ中心部から見たペトラ)


 ペトラは、「セラ(=岩)」と呼ばれる山脈のふもとに位置していますが、セラがモアブに対する預言の中にも出てきます。「子羊を、この国の支配者に送れ。セラから荒野を経てシオンの娘の山に。モアブの娘たちはアルノンの渡し場で、逃げ惑う鳥、投げ出された巣のようになる。助言を与え、事を決めよ。昼のさなかにも、あなたの影を夜のようにせよ。散らされた者をかくまい、のがれて来る者を渡すな。あなたの中に、モアブの散らされた者を宿らせ、荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となれ。しいたげる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消えうせるとき、・・・(イザヤ16:1-4)」散らされて、逃げ隠れてきたユダヤ人をセラが守ることを主が語っておられます。そして、この地域が反キリストの攻撃を免れることを、ダニエル書11章41節でも教えています。「彼は麗しい国に攻め入り、多くの国々が倒れる。しかし、エドムとモアブ、またアモン人のおもだった人々は、彼の手から逃げる。

反キリストの攻撃

 反キリストは、ボツラに集まっている残りの民を、世界の軍隊を引き寄せて攻め取ろうとします。「わたしは自分にかけて誓ったからだ。・・主の御告げ。・・必ずボツラは恐怖、そしりとなり、廃墟、ののしりとなる。そのすべての町々は、永遠の廃墟となる。」私は主から知らせを聞いた。「使者が国々の間に送られた。『集まって、エドムに攻め入れ。戦いに立ち上がれ。』(エレミヤ49:13-14)

 この時に、残りの民は真に悔い改めて、メシヤによる救いを願い求めるのです(レビ26:40-42、ホセア5:15、イザヤ53章)。

キリストによる復讐

 そこで主は、これら反キリスト率いる軍隊に対して戦われます。「天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊ややぎの血と、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。主がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。野牛は彼らとともに、雄牛は荒馬とともに倒れる。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える。それは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。(イザヤ34:5-8)」「「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。(同63:1-4)

 そしてハバクク書3章3節に、セラの山脈と同じ地域にあるテマンとパランの山のことを、再臨の預言の所で言及されています。「神はテマンから来られ、聖なる方はパランの山から来られる。セラ/その尊厳は天をおおい、その賛美は地に満ちている。

 そしてこの戦いが、エルサレムのオリーブ山と神殿の丘の間にある、ケデロンの谷の一部である「ヨシャパテの谷(ヨエル3:2)」に移り、主は世界の軍隊を滅ぼし、オリーブ山に立たれるのです(ゼカリヤ14:4、使徒1:11)。(以上の文章はアーノルド博士著の"The Footsteps of the Messiah"を参照。図はこの本から一部借用。)

 これだけ数多くの預言によって、一貫して場所を特定して主の再臨の場が啓示されています。私たち聖書を信じる者たちは、これを無視することも軽視することもできません。

b) ナバテア王国

 
 (go2petra.comより借用)

文書記録のない民

 次にペトラを、歴史を追って眺めてみます。現在の遺跡の大部分は、「ナバテア王国」の時のものだといわれています。「ナバテア」という名は聖書に出てきません。実は、他の文献にもその正体について不明確なままです。ペトラの遺跡においても、説明がいつも「明らかではない」「推測される」という言葉ばかりです。彼らの残した荘厳な建造物以外は、彼らの生活を語ってくれる文書が欠落しているためです。周囲にいた外部の人間、すなわちギリシヤの歴史家ディオドロス(紀元前1世紀)、同じくギリシヤの地理学者ストラボン、そしてユダヤ人のヨセフスがわずかに書き残しているだけで、碑文もほとんどないそうです。

 その大きな理由は、彼らが遊牧民だということです。聖書の中で生粋の遊牧民であるレカブ人がこの生活を端的に説明してます。「あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め。』と言ったからです。(エレミヤ35:7)」このように遊牧民は、決まった所に住んでいるわけでもなく、国や社会などは度外視で生きており、国境も全くないに等しく、そのためイスラエル政府はベドウィン対策で苦心しており、またある中東の国王が道を車で走っていたとしても、彼らの羊と山羊の群れのほうが優先なのです。定着していない人を、政府が統計に入れるのが極めて困難であるのと同じように、「記録」というものを持っていません。(参照:"Grand View Resort - The Nabateans")

 そのわずかな資料から推測できることを書きたいと思います。ナバテア人は、アラビア半島から出てきたアラブ系遊牧民です。ヨセフスによると、彼らはイシュマエルの子孫十二部族の長男「ネバヨテ(イザヤ60:7)」だとのことです。(参照:"NABATEA.NET")彼らは、独自の砂漠における水の確保によって、砂漠における案内人、また仲介者としての地位を確保し始めました。ディオドロスの描く初期の彼らの姿は「盗賊」です。山賊ならず「砂賊」というところでしょうか。けれども、そして徐々に、周辺地域との交易に関わり始めました。乳香、没薬、香辛料が主な商品でした。また、ナバテア人を大きな町に派遣し、また、イエメンからインドへの隊商を保護する役目も担いました。(参照:"Places of Peace and Power")

 そして彼らは、今のワディ・ムサの所に既にいたエドム人の所に住み始めます。この時にエドム人から陶器の技術を学んだと言われています。そしてエドム人が、紀元前586年のエルサレム破壊とユダヤ人のバビロン捕囚によって、残されたイスラエルの地を貪って移り住むようになりました(エゼキエル35章参照)。それで、ペトラの地域は徐々にナバテア人の手に移っていったそうです。

 そして紀元前一世紀から紀元後一世紀にその最盛期を迎えます。ペトラの近くには、世界をまたぐ交易路が交差していました。一つは、ガザとペルシヤ湾を結ぶ東西路で、つまり、シルクロードと、エジプトやギリシヤ・ローマをつないでいました。もう一つの南北路は、紅海とシリアをつないでいました。その為に関税、また通行料を隊商に課すことによって、巨万の富を築きあげるようになったと言われます。当時、二・三万人がペトラに住んでいたと言われます。

 そしてこの時期の王国は、初期の略奪者のイメージは待ってく消えていて、むしろ文明的な制度を持っていることを、先のギリシヤ人の地理学者ストラボンが記録しています。王はいるのですが極めて民主的な政治だったそうで、女性も財産所有の権利を有していたそうです。

 周辺で支配しているのは、もちろんギリシヤそしてローマです。その時々に権力者がここを攻めましたが、その頑強な自然要塞によって打ち負かすことはできませんでした。それに加え、強靭な経済力も持っています。上手に独立を維持していました。ギリシヤ・ローマが建てた「デカポリス」には、当然のことながら、ナバテア人たちの勢力への対抗意識があったでしょう。

聖書に登場するナバテア

 そしてこの時代のナバテアを描いた箇所が、聖書に二箇所、いや三箇所あります。一つは「アレタ王」です。「ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕えようとしてダマスコの町を監視しました。そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれました。(2コリント11:32-33)」ナバテア王国の最盛期時の王アレタ四世であると考えられます。ダマスコが、勢力圏の最北でありました。そしてもう一つは、この話の続きでガラテヤ書1章17節です。「アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。」この時代のアラビア半島は、もちろんナバテア王国の中にあります。この時に、使徒パウロが何をしていたのか、天国に行ったら聞いてみたいものです。

 そして、バプテスマのヨハネが斬首刑にあったマカエラスの話を思い出してください。「実は、このヘロデが、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、・・ヘロデはこの女を妻としていた。・・人をやってヨハネを捕え、牢につないだのであった。(マルコ6:17)」ヘロデ・アンティパスは、ピリポの妻ヘロデヤと結婚するために、自分の妻を離縁させています。この妻が、先のアレタ王四世の娘だったのです。そしてヘロデ大王の父アンティパトロスの妻、つまりヘロデの母はナバテア人キプロス(Kypros)でした。つまり、ヘロデはエドム人とナバテア人の混血であり、ここからもエドム人とナバテア人の共生の長い歴史を垣間見ることができます。

 ナバテア王国の中枢地域の地図をご覧ください。死海の南東にあるレキム(Rekim)という町がペトラです。レキムが、南北に走るセラ山脈の中にあることにお気づきください。ワディ・ムサがそこから、低地ワディ・アラバへと流れています。そしてこの地図から、ナバテア人の町はヨルダン側だけでなく、イスラエルのネゲブ砂漠一帯に広がっていることに気づかれると思います。ネゲブにも、ナバテア人の遺跡が数多くあります。

 そしてナバテア王国は、ついに紀元106年ローマの手に下りました。かつてギリシヤのセレウコス朝が紀元前312年にここを攻めようとしたとき、その軍はたった数人のナバテア人によって追い払われました。なぜなら「シーク」での戦いだったからです。けれども、ローマは彼らの高精度な技術によって出来た水道を“閉栓”してしまったのです。それで戦わずしてローマはナバテア人を屈服させました。技術が高度であればあるほど、むしろ脆弱になるというのは昔も同じだったようです。したがって、遺跡にはローマ風のものも残っています。そして395年以降、ビザンチン時代に入りました。主教の座がここに設けられ教会の遺跡も残っています。

 けれども二回の大地震によって、ペトラは廃墟となりました。十字軍の時に少し復興しましたが、微々たるものです。

 そして長い歴史の中で神話化していきましたが、1812年、スイスの探検家ヨハン・ブルクハルトが見つけることによって西洋世界に知られることとなりました。彼はアラビア語に堪能で、アラブ人に扮してベドウィンに「アロンの宮でいけにえをささげたいから、連れて行ってくれないか。」と頼みました。そこに行くまでの道がペトラであるはずだからです。そしてこれは功を奏し、今私たちが観光ルートで歩いているシークとエル・ハズネの方面を通ったのです。

偶像礼拝の砂漠の民

 (nabatea.netより借用)


 次の遺跡見学ですぐ分かりますが、ナバテア人の宗教は汎神論的な信仰、つまり偶像礼拝です。遺跡群は墳墓群と言っていいぐらい、墳墓の跡が多いですが、そこには6月5日のピリポ・カイザリヤで見たような壁に偶像を安置するために彫った壁龕があり、高き所の祭壇の跡、神殿、霊廟等があります。主神がオアシスの豊穣を司る「ドュシャラ」で、女神はアル・ウッザー」です。カナン人のバアルとアシュタロテに匹敵します。原始的な石柱崇拝や山岳信仰がその特徴です。左の写真の立方体の霊石のように、朴訥なのが主体ですが、同時に色濃くエジプト、ギリシヤ、ローマの影響もあり、それぞれに存在する神々と宗教建築を自由自在に取り入れています。

 アラブ人というと私たちはすぐにイスラム教を連想し、偶像を破壊する情熱をもった唯一神信仰者というイメージを持っていますね。けれどもペトラの遺跡を見れば、むしろ私たち日本人の古来からの先祖供養に極めて似通っていることを発見します。実際、神は、アラビア半島のこれらの遊牧民を、偶像礼拝者として描いているのです。「わたしは、こめかみを刈り上げている者たちを四方に吹き散らし、彼らに災難を各方面から来させる。(エレミヤ49:32)」「こめかみを刈り上げる」のは、異教の儀式で行なっていたことであり、ゆえに主はイスラエルの民に「あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両脇をそこなってはならない。(レビ19:27)」と命じられました。「文明論」や「比較宗教学」とう称する学問の中に、しばしば、「唯一神信仰は砂漠の気候の中で生まれてきた。」という説明があり、それは暗に「緑豊かな東洋には多神教が適している」ことを主張していますが、全然違うことがこれで分かりますね。

 ペトラ遺跡の端的な説明として、こちらのサイトのが私はいちばんピンと来ました。「ペトラ(ギリシヤ語で「岩」という意)は、赤、ピンク、オレンジの砂岩のそびえ立つ崖を削っていき、神殿や墳墓とした共同墓地の都市が遺棄されたものである。」住居や商業・文化活動も盛んに行なわれていたらしいのですが、遺跡を見る限り、死者の霊に仕える偶像礼拝が盛んに行なわれていた都市ではなかったのかと思います。

 ペトラを知るのにどんな書籍がありますかとガイドさんに聞いたら、「ジェーン・テーラー(Jane Taylor)」という人を挙げていました。確かにペトラやヨルダンの観光名所にある本屋にはその人の著作がたくさん置いてあり、私も一冊買いました。Grand View Resortというサイトには、この本に依拠した説明と写真を詳しく載せています。また他の本を書いている人によって運営されているNABATEA.NETがあります。膨大な資料が揃っています。

c) 遺跡群

 それでは、実際の遺跡を辿っていきます。ここは「とにかく大きい」です。二日前に見たジェラシュは大きてびっくりしましたが、ペトラは比べ物にならないぐらい大きいです。ただ眺めるだけで優に数日かかるだろうと思います。そして、太陽の光線によって微妙に色が変わる岩の美しさに魅了されます。確かに「バラ色」と表現しても良い色彩を放つ岩の崖がそびえ立っています。さらに、その一枚岩を利用して、建物を“建てる”のではなく、“掘り込んでいく”ことによって建造物を作っています。この自然と人工の対称があまりにも美しく、息を呑むことがしばしばでした。


バブ・アス・シーク

 上の地図(「2009-2010年 地球の歩き方 ヨルダン・シリア・レバノン編」から借用)を辿りながら、説明を読んでいってください(クリックすると別ウィンドウで見ることができます)。地図の下にある「メインゲート」が入口です。そこに乗馬のための乗り場がありますが、私たちは徒歩で行きます。下の写真をクリックしてください、映像にアーノルドと他の仲間が映っています。ここからシークまでは、「バブ・アス・シーク(Bab as-Siq)」と呼ばれます。アラブ語で「シークへの門口」という意味だそうです。ここに、かつて隊商らのらくだや馬で埃が巻き上がり、また犬が吼え、この町に出入りする人々で喧騒な所だったと想像できます。

 ここは、今のワディ・ムサ市から7キロ東にあるアイン・ムサ(「モーセの泉」の意)から、ワディ・ムサへ流れ入って水によって形成された紆余曲折の川床です。もちろん砂漠の中にありますから、水が流れるのはごく一時期です。


 しばらく行くと、遺跡らしき岩が出てきます。こちらにアップで撮られた写真があります。これは、「ジン・ブロック(Djinn Blocks)」と呼ばれます。「ジン」と言えば分かる方もおられると思います、アラブ民俗に出てくる悪しき霊です。

 けれども、これらが何のために造られたかは、はっきりしていません。先に話しましたように、遊牧民ナバテア人については不明瞭なところが大きく、そのためこれからの説明もあやふやになってしまいます。おそらく、彼らの主神ドュシャラを表し、入口の守護としているのではないかということです。こうした立方体の偶像が、ペトラにはたくさんあります。

 そして遠くに、穴が見えると思います。それらも墓ではなかったのか、ということです。



 そして
、少し進むと下の墳墓があります。これは上部を「オベリスクの墓」と呼び、下部を「トリクリニウムの墓」と呼びます。紀元25-75年に作られたものです。オベリスクの墓の特徴は、ピラミッドを上下に引き延ばしたような形をしたものが並んでいることです。これはナバテア人が死者を記念するための印だそうです。そして下のトリクリニウム(ラテン語で「三つの長椅子」の意)の墓は、ナバテア人が葬儀の時に遺族が食事をする場所であったということです。・・・なんか、日本の仏式の葬儀に似ていますね。

 そしてこの道の向かいの崖にギリシヤ語とナバテア語の両方で書かれているそうで、ギリシヤ文化の影響が色濃く残っているのを見ることができます。ナバテア人はその移動性から、国家間を行き来する国際性を有していたようです。







 そして歩き続けると、シークの入口があります。その手前に「ダム」があります。左の写真は、シーク入口の右側を撮ったものです。左下にダムがあり、そして正面にはトンネルがあります。そして今、立っているところは、低い橋になっています。

 上空からの写真がこちらにあります。私たちが歩いてきたのは下からです。そこから、年に数日だけ鉄砲水が流れるのですが、そのままにしておけばそのままシークに入ります。シークの幅は数メートルしかなく、高さは80メートル、そして長さは1.2キロの、いはば「岩山の裂け目」です。ここに水が入っていったら、もう終わりです。実際、近年でも旅行客が死んだ事件が起こりました。それでヨルダン政府が、左下に見えるダムを作ったそうですが、ナバテア人の時代にもあったそうで、シークの方に歩くと確かに全体が上昇しています。

 そして正面に見えるトンネルはナバテア人が作った水の迂回用のものです。そして他の渓谷を通して、ペトラの中で貯水します。このトンネル、ダム、橋の三つでシークに水が入り込まないようにしています。ちなみに、写真の中央右に見える立方体は、再びジン・ブロックです。

 今でもこのトンネルを抜けることができるそうです。小さなシークがあります。奥には偶像を安置する壁龕もたくさんあるようです。こちらのページをご覧ください。


シーク

 そしていよいよ、「シーク」に入ります。ここが唯一のペトラへの出入口です。徒歩あるいは馬車によってでしか通り抜けることができないほどの幅しかありません。したがって、陸上からは、まずもって中にいる人々を軍事攻撃することはできないということです。

 シークには主に三つの特徴があります。一つは両脇にある水道管の跡です。ナバテア人は非常に高度な水道設備を有していたので、このような砂漠の中にいても水に事欠くことはなかったそうです。そしてもう一つは、両壁にある壁龕など偶像を安置する跡です。彼らによって出入口を守る神々というところでしょうか。そして三つ目は、この両側に迫っている岩の絶壁の美しさです。光に当たり具合によって色彩がどんどん変わります。









 左写真は左側にある水道管の後です。ペトラが長い期間のこと放置されていたとき、ダムが決壊していてこのシークに水が流れ込んでいました。その時、上の蓋と管が外れて流されてしまったそうです。







 右の写真は、右側にある水道管の跡です。当時の姿がもっとよく分かるんじゃないでしょうか。












 下は岩壁の一写真です。後に出てくる岩の色と比べてみてください。





 そして右写真は、ナバテア人時代の舗道の跡です。儀式用に使われていたのではないかという説明がありました。
















左写真は、「サビノス・アレクサンドロス置場(Sabinos Alexandros Station)」と呼ばれるそうです。神々を安置する壁龕です。







 そして道の真ん中にある霊石を撮り忘れたのですが、印象に残っているのが右写真ですこちらから借用.。こちらにもシーク全景から撮ったきれいな写真があります)

 祠が刻み込まれていて、その下に二つの長方形がありますね。左側の大きいのが女神「アル・ウッザー」で左の小さいのが「ドュシャラ」です。ちょうどお母さんと一緒にいる男の子のようにドュシャラが並んでいます。

 もっとアップにした写真がこちらにあります、クリックしてみてください。お母さんのほうには、はっきり目と鼻が見えますね。

 サイトNETなどの説明によると、自らの神々もエジプトやギリシヤなどの神々に強い影響を受けたそうで、母子の関係を持つエジプトの神「イシス
と「ホルス」に似ています。これは、バビロンにもギリシヤにもローマにも存在している神々の関係であり、この延長線上でカトリック教会の中にある「幼児イエスを抱くマリヤ像」を考えれば良いです。いかに、マリヤ崇敬が異教そのものであるかが分かるでしょう。

子どもたちはたきぎを集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて、『天の女王』のための供えのパン菓子を作り、わたしの怒りを引き起こすために、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いでいる。(エレミヤ7:18)

 聖書の神は、このように、各地域、各宗教に現れる女神を「天の女王」として断罪しています。



 そして少し進むと、右写真のようにナバテア人隊商の彫像の跡があります。後に来た、恐らくイスラム教徒が壊したのではないかと思われます。












 そして私たちは出口に近づきます。


 さほど離れていないところで撮った岩が下です。上の写真の色と比べてください。この変化は岩に鉄分が含まれているからだそうです。下の写真をクリックすると、映像を見ることができます。
 

 そして出口です。まぶしい光が見えてきますが、そこで非常に驚きます、突然、燦々と輝く「エル・ハズネ」が現れるからです。下の写真をクリックしてください。


エル・ハズネ(宝物殿)



 この荘厳な建造物が、ほとんど修理・改築されることなく残っています。回りを見ればお分かりの通り、これは、一枚岩の絶壁を彫っただけのものです。

 「エル・ハズネ」とはアラビア語でそのまま「宝物殿」という意味です。地元の遊牧民が、ペトラ全域は黒魔術によって財宝が埋蔵されたのだと考えていました。特に、ペトラの中で最も荘厳なこの建造物の中に、エジプトの黒魔術師パロが自分の宝をここに隠したのだろうという、古代神話がありました。てっぺんに壷があるのですが、そこにその財宝が隠されているのだと思い、銃を持っている遊牧民は通りがかりのついでに一発打ってみたそうです。それで弾痕がたくさん付いているのだそうです。十九世紀に、探検家ブルクハルトが来た頃は、遊牧民は、「全ての西洋人は魔術師であり、自分たちの手中からこっそり運び出してしまうのではないか」と疑っていたそうで、それでここに西洋人が入るのが許されていなかったそうです。

 この建物が、何の目的で建てられたかは不確かなのですが、それでも「宝物殿」でないことは明らかです。ここに彫刻されているものから「死」に関連することは確かです。ギリシヤ神話の神々が大勢、登場しています。ディオスクーロイ(ゼウスの息子たち)、斧を振るうアマゾーン(女武者からなる部族)、翼のついたニーケー(勝利の女神)、メドューサの頭、鷲などで、みな葬儀に登場する者たちだということです。(参照:NETの写真

 そして、トロイ(周注円形堂)の中心に登場する女性(右写真)は、運の女神「テュケー」です。豊饒の角(幼児のゼウスに授乳したと言われる山羊の角)を持っています。彼女の下にある彫像台の図柄は、エジプトの女神「イシス」です。彼女の頭には太陽の円盤があり、また両脇には麦の穂があります。イシスは、バビロンの「イシュタル」、カナン人の「アシュタロテ」、ギリシヤ人の「アフロディテ」、ローマの「ビーナス」に相当する性愛の神であり、そしてナバテア人にとっては「アル・ウッザー」であり、先に話したとおり聖書的には「天の女王」です。イシスもまた、神話の中で死者の霊を守り導く働きをしていました。

 したがって、エル・ハズネが何の目的のためであるかは、主に三つに分かれます。一つは王の墳墓だということです。確かに死体を埋葬するための部屋らしきものが内部にあります。もう一つは神殿だったというものです。その部屋は聖域だったのでは、という意見です。そして三つ目は、霊廟だったのではないかというものです。ナバテア初期の王オボダス(Obodas)一世は既に神として祀られていました。

 その中ですが、下写真のように伽藍堂でした。これが、さらにいろいろな憶測を呼び起こしているようです。


 そして建造の時期にも意見が分かれており、使徒行伝にも登場するアレタ四世(BC9-AD40)だという人もいるし、アレタ三世(BC86-62)だという人もいます。前者は、ペトラの町を建築ラッシュで沸かせ、都市化させた人物であり、後者はナバテア王国にヘレニズム文化を大幅に取り入れた人物です。いずれにしても、この建物は、コリント式の柱頭といい極めてギリシヤ的であり、ナバテヤ人独特の変更が施されています。

 そしてエル・ハズネは、私たちが見ているものが全てではなさそうです。2003年から始まったさらなる発掘によって右の写真にあるように、地下四メートルにも部屋が見つかっています。これらは墓だそうです。ということは、今、私たちが立っている所よりも当時は四メートル下にあったという可能性が出てきて、シークから見るハズネの姿は、なおさらのこと高くそびえ、光り輝いていたと考えられます。

 ここに、ペトラの中心部を旅したい人たちのためにラクダがたくさん待機しています。


ファサード通り

 エル・ハズネのある広場の左側は、山々に囲まれていて行き止まりのようになっています。右に曲がると、先ほどのシークよりは幅の広い「外側のシーク」が始まります。ここを過ぎると、ペトラの中心部に入っていきます。













 左上写真の道の左奥にわずかに見えますが、それが、右の写真にあるナバテア人の墓です。入口の上についている三角形の部分はギリシヤ式の「ペディメント」だそうです。そして上部に階段がついていますね。これは、死後に天に上がることが出来るようにするための階段だそうです。











 そして、もう少し歩くと、右写真のように周りに、もっと小さく、簡素な墓がたくさん出てきます。建物の前に刻む装飾を「ファサード」と呼びますが、墓の前面にある装飾彫刻があるので、ここを「ファサード通り」と呼びます。

 おそらく簡素なこちらの方は、それだけお墓にお金をかけることができなかったということで、経済的な水準を表しているのだろうということです。








 右のように墓が侵食したものもあります。







円形劇場

 この、墓の跡が数多くある岩の隣に、右の写真のように円形劇場の遺跡があります。「ローマ円形劇場」と名づけられていることがありますが、かつては106年以降、ローマがペトラを併合した後で、非征服民に娯楽を与えるためのものであった、と言われていたからです。けれども今は、ナバテア人が、おそらくはアレタ四世の治世の時に、作ったものであることが分かっています。もちろんローマ式なのですが、大きな違いはこれも「岩を削って、彫っていった」ものであることです。また、柱頭の花模様はローマではなくナバテア独自のものだそうです。

 写真の両端にいる人の大きさを見れば、この劇場が非常に大きいことが分かるでしょう。収容人数は5千人だっただろうと言われています。

 ペトラを見学して、私はどうしてもこの巨大な共同墓地都市が理解できませんでした。「墓地」と「都市」が一つに合体していることが、現代に生きる私には想像できないからです。生活がなぜこんなに「死」と隣り合わせだったのでしょうか。その究極が、この円形劇場です。墓場でなぜ娯楽を楽しんでいるのでしょうか?まあ桜の時期になると、霊園で花見や酒盛りをしている人たちを時々見かけますが・・・(汗)。

 おそらく異教ならではの生活だったのだろうと思います。それは「死」をたたえる文化です。それはエジプト旅行に行った時にも感じました。仏式の葬儀も、死後の霊を敬う儀式が非常に多いですね。私たちキリスト者は、今、生きていることに焦点を合わせます。そして死ではなく、死後の「復活」に希望を置いています。墓を大きくすることよりも、墓から出てくることを喜ぶのです!

「ベドウィンと結婚して」

 私たちはここで休憩を取りました。地図にしたがうと、ファサード通りの「ローマ円形劇場」の斜め向かいにあるカフェにおいてです。アーノルドがいつもトルコ・コーヒーを飲んでいるので、僕もぜひ飲みました。味は、・・・とても濃く、きついです。そしてコーヒーの粉がそのまま入っているので、カップの中で沈殿するまで待ちます。実際に飲める量はかなり少ないです。ダブルを頼んだほうが良いかもしれません。アーノルドに、なぜいつもトルコ・コーヒーを飲んでいるのかと聞くと、アメリカではほとんど飲めないからだ、とのことです。

 そして、その付近で物売りの屋台がありますが、その中で目を引いたのは白人の女性がネックレスなどと共に自著を売っていたことです。その題名は、"Married to a Bedouin"(ベドウィンと結婚して)でした。ペトラの洞穴に暮らしていたベドウィンに恋をして、結婚したそうです。ご主人は既に亡くなられたとのこと。ニュージーランドの方でした。ちなみに旅行仲間にもニュージーランドの女性がいます。

ペトラ中心街

 そして私たちは今、ペトラの中心部分にいます。円形劇場を過ぎると、道が左へ曲がっていきます。そしてまた直線の道になり、そこは「柱廊通り」の入口です。右の写真は、その角の所からビザンチンの教会の方向に撮った写真です。

 こちらのNETにある衛星写真を見ると、もっと位置関係が分かると思います。エル・カズネが町の入口ならば、柱廊通りのカスール・アル・ビントが中心部の最後ということになります。円形劇場辺りから始まるこの一帯に、神殿、商店などの繁華街が広がっていたと考えられます。






 柱廊通りの反対方法を向くと「王家の墓」があります。「王家」と言っても、その壮麗さを表現しているだけで、実際のナバテア国王が使ったものかどうかは定かではありません。後でそこをじっくり見に行くので、その時に説明します。

 そして右の写真をクリックしてください、この一帯を撮った映像が出ます。









 それではまず、柱廊通りを見てみましょう。その前に、予期しないお客さんがやって来ました。ベドウィンの山羊の群れです!このように世界遺産の真ん中であっても、お構いなく移動しています。その様子は、かつて遊牧民ナバテア人たちと重なりました。ナバテア人もこのように町の中を行き来していたのかもしれません。(右写真をクリックしてください、映像が始まります。)








 手前は砂道になっていますが、奥を見ればここがローマ式の石灰石を敷きつめた街路であったことが分かります。さらに奥に行くと、修復された柱廊が左側に並んでいます。

















 さらに進むと正面に凱旋門が見えます。左奥に見える柱廊は、今から行く「大寺院」です。復元図と比べてください。



 実はこの街路の3メートル下に、紀元前四世紀頃の住居跡が眠っています。同時のナバテア人のものです。非常に簡素な、石と土で建てられたものだそうで、当時のナバテア人の様子を伺わせます。定着することは死に値すると言われた遊牧民が、変貌を遂げた初期の段階です。

 そして紀元後一世紀に、都市開発を行ないました。これら家々を潰して幅15メートルのテラスにし、中央に砂利道を作りました。さらに王アレタ四世がこの道を改良して、公道また儀式を行なうための街路にしました。その後、切石の建物を建てるようになり、その荘厳さがさらに増し加わることになりました。

 106年にローマがナバテア王国を併合して後すぐに、ローマがここに建築物を加えたことははっきりしていますが、今見る通りと柱廊がローマによるものなのか、アレタ四世によるものかは意見が分かれるそうです。

 凱旋門に近づきましたが、その手前、左手ににある「大寺院」を見てみたいと思います。

 右の写真はプロピュライアと呼ばれる神殿の入口であり、そして大きな聖域が広がっています。そしてさらに上にあがる階段があって、奥の聖域があります。下は後で撮った全体の写真です。(こちらに図があります)












 その奥の聖域には、右の写真Nabatea.netから借用)のようになぜか小さな円形劇場があります。これはローマが後に、かつて神体安置所があったところに建てたものであると言われます。1993年から発掘を始めたブラウン大学の考古学隊がここを「大寺院」と名づけたのですが、はたしてこの建物自体がもともと神殿だったのかどうか考古学者はますます悩んでいるそうです。もしかしたら、ナバテア王の一般市民に対して現れる集会所であったのではないか、とも推測されています。ストラボンによると、王は自ら自分の生活様式を市民に審査させたとのことですから、その民主的な活動をここで行なったのではないか、とも言われています。





 復元図が左になります。かなり華やかな建物ですね。この建物の左隣には、この砂漠の都市の中になんと人工の池があったそうです(右)。アレタ四世による都市化はここまで発展していたようです。

 この復元画像等は、Chrysanthos Kanellopoulosと言う人が作製しています。










 そして、私たちは「凱旋門」を通過しました。


 右の復元の図Nabatea.netから借用)のように、元々三つのアーチを持っていた門です。この門を通ると、すぐ左側にナバテア人の拝む神殿であるカスール・アル・ビントがあります。この境内への入口がこの門の役目です。

 左写真は、上の写真の柱形の枠の一部を拡大したものです。ご覧のように、花柄模様と、半身像が彫られています。この半身像は神々を描いたものです。地面に落ちていた枠も見つかっており、今は、すぐそばの博物館に展示されているそうですが、ヘルメスやテュケーなどのギリシヤの神々と、ドュシャラ - セラピスの神だそうです。








 そして私たちは、神殿「カスール・アル・ビント」を見ました。

 「カスール・アル・ビント」とは、「パロの娘の宮殿」という意味があります。その伝説によると、パロの娘が、「この宮殿に始めに水道管をつなげた者が私の夫になる。」と宣言しました。二人の男が同日に完成させました。一人にどのように作り上げたかを尋ねると、自分の力と部下たちの力だと答えました。もう一人は、神の力、そして自分と部下の力とらくだの力だ、と言いました。この敬虔な後者の男をパロの娘は選びました。そして受け入れられなかったとこの作った水道管にいなごの羽が落ちて、それが水を詰まらせることになったとのことで、パロの娘の賢明な選択を確認できたとのことです。

 けれども、これは宮殿ではなく明らかに神殿だそうです。凱旋門を通った参拝者は、手前にある祭壇でいけにえを捧げます。そして祭司が神殿の階段を上がってアーチ内のアーチをくぐり、聖所に入ります。そしてその奥に至聖所があります。そこは三つの部分に分かれ真ん中に神体安置所があり、そこにはかつて少なくとも6メートルの人の大理石の像があったと考えられます。この建物は右の復元図のようにNabatea.netから借用)、色彩の明るい上塗りが施されていました。

 人の像であるので、ナバテア人固有の神々ではなく(固有のは四角い顔をしている)、外国の神々を自分たちのに一体化させたものではないかと考えられています。ギリシヤ語による奉献碑文の欠片が発見されており、一つはアフロディテ、もう一つはゼウス・ヒュプシストス(至高者)です。ナバテア人は、ゼウスをドュシャラと一体化させていましたが、「ヒュプシスト」という名前から、彼らが取り入れていたシリアの神「バアル・シャミン(Ba'al Shamin)」ではないかということです(参照:Grand View ResortのJane Taylorの書籍から)。NETのサイトには、アル・ウッザーの石碑が見つかっているとの事から、「アフロディテ」と「ゼウス」のコンビは、「アル・ウッザー」と「ドュシャラ」が祭られていたのではないか、ともありました。

 いずれにしても、なんだが、インドから来た仏を固有の神と一緒くたにした日本の「神仏習合」にも負けない折衷・接収がありますね。(汗)

断念したエド・ディルへの道

 ・・・ここまで来ると、ペトラ中心部の終わりになります。ここから先は自由行動になりました。ペトラの地図を見てください、「エド・ディル」とアラバ渓谷を見下ろす見晴台への道がさらにあります。午後一時までにホテルに集合という時間制限が付いたので、ガイドさんはエド・ディルへの道はぜひ行かないように、とのことでした。私のルームメートのライアンは、歩くことにおいては自信があります。本当は行きたかったみたいです。けれども、まだこの周囲一帯を見ていないところを見て、また円形劇場の手前に入口のあった「犠牲祭壇」を見たいと思っていました。私も、エド・ディルに行けないなら、せめて犠牲祭壇までは登ってみたいと思いました。

 ということで、エド・ディルへの道はあきらめました。ここを紹介する日本語のサイトがありますので、ぜひご覧ください。

  <エド・ディルへの山道
  <エド・ディル

(注:このサイトの中で、エド・ディルの向こうにアロンが死んだ山があることを紹介していますが、これは聖書の記述に合致していません。民数記20章17節に、モーセはエドム人に「王の道」を使用することを申し出ていますが、エドム人がこれを断っています。それで、彼らはホル山に着いてアロンが死んでいます(同27-29節)。ペトラは王の道沿いにあるので、ここではないことが分かります。)

中心部の残り

 私たちは、柱廊通りの向かい、大寺院のある反対方向の部分を、王の墓の方面に歩き始めました。初めにある遺跡は、「翼をもったライオンの寺院」です。なぜその写真を撮らなかったのか、またそこに訪れなかったのか今でも覚えていませんが、隣のビザンチン教会に行く途中で通り過ぎてしまったみたいです。それで、Grand View Resortにある写真を左に借用、添付しました。

 神体安置所のそばにある祭壇を取り囲む二本の柱廊の柱頭に、この翼を持ってライオンの彫刻があったそうで、そこから名づけられています。神殿の他に、地下室、別館、居間も見つかったそうです。

 大理石の細工品も見つかっているようで、そこにはっきりと、「民を愛するナバテア王、アレタ四世の第34年のアブの第4の日」という碑文が見つかったそうで、その時は紀元27年です。改築時のものなのかもしれないのですが、その場合、元々のは紀元前後の建築であっただろうと言われています。

 奉献用の小立像で悲しみのイシスと、その配偶者オシリスの小像が見つかっているそうで、このエジプトの神々の一対は、先に説明したとおり、イシスはギリシヤのアフロディテであり、ペトラではアフロディテは必ずアル・ウッザーなので、ここはアル・ウッザーと、オシリスと一体化したドュシャラではないかと言われています。

 そして、NABATEA.NETによると、ここで先に紹介した目のついた四角い偶像が発見されたそうです。

 次に、「ビザンチン教会」に行きました。これまで見てきた遺跡は、紀元直後の特にアレタ四世によるものでした。けれども、この柱廊通りの北側にあるビザンチン教会は、四・五世紀のペトラの姿を見ることのできる貴重な遺跡です。ペトラに教会は王の墓を使うなどいろいろありますが、ここに一番大きな教会堂があります。

 イスラエルで見たビザンチン教会の遺跡、特にモザイクは、イスラムの侵略によって、殊に人の姿を彼らが剥ぎ取ったものが多かったですが、この教会はかなり原型を留めています。現在は床のものしか見ることができませんが、当時は壁にも装飾が施されていたようで、しかもモザイク石はガラス製のもので、この教会堂の重要性を物語っているそうです。事実、ペトラは、この地域の主教の座があり、この教会はその大聖堂であったとのことです。

 右上の教会内地図を見てください。入口から入ると、初めにあるのはアトリウムと呼ばれる前庭があります(左写真)。その中央に貯水槽があります。








 中に入ると、右写真のように、左右がモザイク、そして正面奥に三つのアプス(半円形の部分)がある聖堂があります。

















 そして、南側のモザイクの写真をご覧ください。ガリラヤ湖東岸のクルシにあった教会のと比べると、人物像が残されており、はるかに良い状態で保存されていることが分かります。イスラムがそれほど浸透していなかった、ということでしょうか。(左写真をクリックすると、南側モザイクの映像が始まります。)北側モザイクも同じようにきれいでした。

 このモザイクには列記とした主題があり、床から壁に向けて、初めに自然界が、次に聖徒と殉教者がいて、それから聖地におけるキリストの生涯の場面が、それから天井に全能者キリストの絵があったそうです。

 そして右上の写真の左奥には、「巻き物の部屋」があるそうです。そこで、140ものパピルス製の巻き物が発見されました。六世紀の記録だそうです。七世紀の火事によって炭化してしまいましたが、解読は可能だそうで、当時の土地売買のやり取り、訴訟裁判の記録、遺言、納税書、結婚届など、三世代に渡る富裕層の家族の法的手続きの内容でした。

 ナバテア人の名前もギリシヤ語化したものが出てきたとのことで、まだナバテア人が残存していたことも分かっています。


 モザイクを見た後に、アトリウムの後ろにある洗礼槽を見ました。やはり、クルシで見たときと同じように、全身を水で浸かることができるものであり、滴礼ではなく浸礼であったことが分かります。

 そして私たちは、王家の墓に向かいました。その前に、教会の前で周辺の景色を映像で撮りました。途中に出てくるおじさんは、もう一人のルームメイトのロンさんです。












 「王家の墓」の全景をもう一度ご覧ください。ここをクリックすると、拡大写真を見ることができます。そして先ほどリンクした「シリア・ヨルダン旅行記」に、同じ写真が、墓の名称付きで掲載されています。ぜひクリックしてご覧ください。これらはフブサ山という山の麓にあります。

 初めに、もっともきわだって大きかった「宮殿の墓」に行きました。

 「宮殿」という名は単にローマ宮殿に似ているからであり、王族が使ったという根拠からではありません。幅が49メートル、高さも同じぐらいで五階ぐらいあります。上部はおそらく、岩を削ったのではなく建てたのではないかと言われています。時はおそらく、この荘厳な造りから、ナバテア王国の末期、ラベル(Rabbel)二世(70-106年)の頃ではないかと言われています。

 そしてそのすぐ右に、「コリントの墓」があります。フブサ山麓の墓の中では二番目に大きいものです。

 名称は、19世紀にここを訪れた人がコリント式の建物だと思ったところから来ています。かなり侵食が激しいです。明らかに、エル・ハズネを真似たものですが、ずんぐりとした体型、また折衷して作ったデザインから美的に乏しいという批評です。マリカス(Malichus)二世の治世(40-70年)の時のものかと言われています。

 この中に入りましたが、確かに遺体安置らしき場所が残っています。








 そしてさらに右に進むと、「シルク(絹)の墓」があります。(左の写真は下部が写っていませんが、リンク先の写真に全部が写っています。)

 シルクと名づけられたのは、岩の縞模様がそうなってみえるからです。ナバテア人の墓に典型的な、天国への階段も付いていますね。




















 次が「壷(アーン)の墓」です。あまりにも大きいので、近くからは全貌を撮影することはできませんでした。こちらの写真をクリックして見てください。

 この墓の名称は、一番上に付いている壷のような形の彫刻からです。マリカス(Malichus)二世か、あるいは30年前のアレタ四世のものではないかと言われています。

 興味深いのは、埋葬されていたのは下の床の穴ではなく、上部の柱の間にある壁龕です。三つありますね、その真ん中のにはまだ墓板が残っています。(こちらの写真参照)

 中に入ると、NABATEA.NETのサイトにあるように五世紀半ばに、教会がここを礼拝堂として改造しているのを見ることができます。碑文も残されており、446年、「最聖主教ヤソンの時、この場所を救主キリストに捧ぐ」と記されています。







犠牲祭壇

 ここまで、パット、ロン、ライアン、そしてニュージーランドからの姉妹(写真の右下、青いスカーフを肩にかけてている女性)で行動していましたが、ホテルに到着しなければいけない時間が近づいてきました。これから犠牲祭壇に行くのは、往復30分程度で戻ってこなければいけません。階段数は800以上あります。これをやり遂げることができるのか・・・。でも、ペトラまで来たのだから・・・、ライアンが行くというので、私は彼についていくことだけ考えていれば、何とか登山できるだろうと思いました。

 「犠牲祭壇」と訳されているのは英語で"High Place of Sacrifice"です。最初の二文字は「高き所」です。バビロン捕囚になるときまで、イスラエルとユダの民が偶像礼拝の場として使ってきた所です。このペトラにある遺跡を見れば、当時の高き所を窺い知ることができます。

 Madhbah山の頂上にある犠牲祭壇の入口は、当時、いたるところにあったそうですが、その中の二つだけを使えるようにしています。代表的なのが円形劇場の横にある入口で、案の定、ろばさんが待ち迎えていました。けれども、それでは当時の偶像礼拝者が苦労して上がっていく霊気(?)が分からなくなります。

 左の写真はその入口です。わずかに見える三人は右からニュージーランドの姉妹、ライアン、そして私です。この入口の写真ははNABATEA.NETにもあります。そこの説明には、色彩のある装束の祭司、楽器の音、祭壇犠牲のための薪を運ぶ動物とともに上がり、また香を炊くための火皿も持っていただろうと思われます。Grand View Resortのサイトには、セム系の民族のいけにえには類似性があると説明してありました。イスラエルの民は、この「似て非なる」いけにえに引き寄せられて、ヤハウェへの礼拝から離れてしまったのだと思います。

当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の、忌むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。(1列王11:7)」(王ソロモンの場合)
それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。(1列王12:31)」(北イスラエル初代王ヤロブアムの場合)

 次に、しばらく登っていくと、「ライオンの噴水」があります(写真を撮らなかったので、Grand View Resortから借用)。ライオンの頭の部分がありませんが、犠牲祭壇の山頂に降った雨から流れてきた水を、ライオンが口を大きく開けて受けていたとの事。巡礼者の疲れ安めになったことでしょう。








 ライアンは、かなりのスピードで歩いています。私は、必死についていきました。一息ついて後ろを振り向いてみたら、入口まで階段を見ることができました。


















 ついに「高き所」の入口に来ました。右写真のように、砦らしき壁の跡があります。ナバテア人が聖なる所を守るために作ったのか、それとも十字軍がここを再利用したのか、定かではありません。












 そしてそこにあった案内図が左写真です。大きな長方形の部分は、ナバテア人が山の頂上を削り取って、平らにした庭です。横14.5メートル、縦が6.5メートルです。60センチの深さがあります。そして左右の下の方の三辺に長椅子があり、ローマ式のトリクリニウム(食卓用の寝椅子)に似ています。

 そして真ん中に、少し高くなっている台座のようなものがあります。ここで祭儀を執り行う祭司が、高き祭壇のある西方を向いていたと思われます。

 そして高き祭壇には四つの階段があります。その祭壇には四角い窪みがあります。ここに、立方体の神、ドュシャラあるいは、アル・ウッザーが埋め込まれていたのでしょう。そしてそのすぐ南方に、丸い祭壇があります。ここで動物、またまれに“人間”のいけにえがささげられていたと考えられます。ナバテア人の儀式の記録の中に、人間犠牲も残っているそうです。

よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう。」と言わないようにしなさい。あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行ない、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。(申命記12:30-31)
 そしてその丸い祭壇には小さな排水路もあり、犠牲の血が流されたとも考えられます。そしてその手前にある四角い印は、手を清める洗盤と考えられます。

 では写真で見てみましょう。まず、大きな長方形の窪みです。上の図の、左横から撮ったことになります。ですから高き祭壇は左側にあります。











 次に高き祭壇の写真です。物売りをしているおじさんが座っていました。写真をクリックすれば、ここの映像を見ることができます。

 そしてこの高き祭壇の上の部分も写している写真がNETにあります。いかがですか、四角い窪みがありますね。そこに立方体の偶像が安置されていたものと考えられます。

 そしてこのすぐ左にあるのが、このNETの写真のとおり、丸い祭壇です。ここで血を流す犠牲が行なわれていたと考えられます。

 Grand View Resortが抜粋しているジェーン・テーラー著の説明によれば、 ナバテア人は、ここで動物や鳥などの血による犠牲、また穀物や油の供え物、また高価な貿易品目であった乳香も捧げていただろうと書いています。つまり、レビ記等に詳細に主が命じられている物とそっくりだったことがわかります。また、三辺の長椅子では祭りとして食べたり飲んだりしていたそうです。これもまた、和解のいけにえ等でイスラエルの民が行なっていたことです。違いは、そこに像がなかったかどうか、ということです。

 「高き所」というのは、必ずしも偶像礼拝とは限りませんでした。神殿が建てられる前、ソロモンはギブオンの高き所でいけにえを捧げています(1列王3:4)。けれども、これだけ似ていますと容易に偶像礼拝に転化してしまうのは想像できます。主が、なぜ一つの場所だけで礼拝しなさいと命じられたのかが、よく理解できます(申命記12:5)。

 そしてこの高き所から見えるペトラの全景をお楽しみください。下の写真は、高き祭壇の向こう側を撮ったものです。右側にカスール・アル・ビントが見えます。


 そして、王家の墓の方面を撮りました。もっと崖の近くに行かないと墓がちゃんと見えなかったのでしょう、わずかに下の部分に見えます。

 そしてここをクリックしてください。全景を映像で撮りました。

 私たちはそこに十分ほど留まってから、すぐに降りていきました。その時ちょうどニュージーランドの姉妹が上がってきました。(時間までに戻ってくることができるのか心配でしたが、ホテルには真っ赤な顔をして、ぎりぎりセーフで戻ってきました。)私たちは来た道をまっすぐ帰っていきました。エル・ハズネの前で、再び写真を撮って、シークを通り、バブ・アス・シークを通りました。入口にある売店でペトラの葉書とジェーン・テーラーの本を買って、ホテルに戻りました。非常に疲れましたが、これでヨルダン旅行の最高峰を上り詰めたという達成感でいっぱいでした。

 そしてワディ・ムサ市内にあるレストランでお昼を食べました。そのテラスで仲間が撮ってくれた私の後姿が右の写真です。疲れた背中を感じることはできるでしょうか?首の後部が皺だらけになっています。日焼けで既に痛くなっていました。


ワディ・ラム

 ここまでヨルダン旅行記を読まれた方も、ご苦労様です。後は、旅行も下り坂です。残るは、さらに南方にあるワディ・ラムに向かいます。ワディ・ラムではジープに乗って、砂漠観覧です!そしてワディ・ラムから最南端の紅海の町アカバまでは、現代ヨルダン国の始まりを知る「アラブ人反乱」の舞台であります。そう、映画「アラビアのロレンス」の舞台です。

 道は、「王の道」であった35号線が「砂漠の道(デザート・ハイウェイ)」である15号線に合流します。ペトラのあるセラ山脈の中では山々の中で篭っている感じでしたが、ここまで来ると砂漠は平地になり、ああ紅海に近づいているなという感覚がやって来ました。けれども、地球の歩き方にある言葉を借りると、「赤く細かい砂の大地の中に、これ以上に武骨で荒々しいものはないと思われるような巨大な岩山が、あちこちにそそり立っている。」という地形になります。この濃い茶色の岩山が、イスラエル側のネゲブから見たエドムの山地なのだ、と、感慨深くなりました。

 15号線のAr-Rashdiyyaという町で左に曲がり、東方を走りました。平行して、貨物用列車の鉄道も走っています。そして右に曲がり南に走ると、そこはワディ・ラムの観光案内所です。

 ワディ・ラムは当然、かつてエドムの地であり、そしてナバテア人も住んでいましたが、ここを有名にしたのは、「アラブ反乱」の「アカバの戦い」で、イギリス人将校T.E.ロレンスがここを通過したことです。彼は、アラブ非正規軍を統率して、アカバに常駐するオスマン・トルコ軍を瓦解せしめましたが、トルコ軍は大砲を紅海に向けていました。それはこの砂漠を敵は通ってくることはまずできないと目算していたからです。そこで、ロレンスはワディ・ラム通過を決行したのですが、その旅の過酷さを映画「アラビアのロレンス」は実に生々しく描いています。

 観光案内所から、ワディ・ラムで一番有名な山「知恵の七柱」がそそり立っています。ロレンスの主著の題名がこれだからです。(ちなみにその題名は箴言9章1節から来ているとのこと。)彼はこの辺りを「広大で、音の響き渡る、神のような場所」と描写しました。

 私たちは、確か四台のジープに乗りました。上には日よけ用の毛布がかけられただけでした。けれども乗ってみたら、これだけで十分でした。灼熱の暑さというものではありません。


 左に、地球の歩き方の地図を抜粋しました。後でガイドさんにこの地図を見せて、どこを走ったのか尋ねたら、ボールペンでなぞってくれました。1-2時間の旅だったと思いますが、それだとこのくらいしか回れないことが分かりました。南の部分に、まだまだ数多くの見所があるようです。



















 私たちのジープが一番先に出発しましたが、二番目に出発したジープの人が私たちを撮ってくれました。クリックしてください、私が二番目のジープを撮った映像も出てきます。ハンガリーから来た夫婦の奥さんの声が聞こえますが、「あのアメリカ人たちは・・・」と言っています。二番目のジープが少し先頭に立った時に、子供のようにはしゃいで「俺たちが勝ったぞ!」と言わんばかりにこぶしを挙げていたからです。アメリカ人の楽天能天気さは世界に知られているようです。







 ジープは、途中で停車し、私たちはちょっとしたロック・クライミング(岩登り)をしました。














 そして突然見えてきたのは、ベドウィンの天幕です。なんと、この砂漠のど真ん中に「休憩所 兼 お土産店」があるのです!ベドウィンの商売根性には驚かされました。後で調べると、ワディ・ラムに元々か彼らは住んでいて、ヨルダンがここを観光地にすることによって、彼らが上手にその役目を担っているそうです。




 中に入ったら、紅茶のサービスをしてくれました。エジプトでもそうでしたが、暑い砂漠の中で、少し砂糖の入った暖かい紅茶を飲みます。ライアンと一緒に、写真を撮りました。

 ここでイスラエルの宣教師さんは、ガイドのヨルダン人の人に一生懸命伝道していました。彼が間もなくエルサレムを訪れるとのことで、続けて伝道できればという期待を持っていたそうです。後で聞きましたが、結果は、「かなり固い」とのこと。イスラエルのユダヤ人ガイドと同じく、聖書の知識は豊富でも御霊の新生体験をしていません。



 そして、この天幕の向かいにある岩には、ナバテア人が書いたであろう落書きがありました。らくだが見えます。










 そして私たちは、そびえ立つ岩山の間を走っていきました。左写真をクリックしてください、ここで出くわしたベドウィンの羊と山羊の群れの映像が流れます。










 この岩山の高さを写真で収めることはできませんでした。でも拡大すれば、少し感じが出るかも(右写真)。





















 岩山の間を通り過ぎると、平坦な砂漠になりました。右写真はロンさんです。サングラスが壊れたので、ちょっと傾いていますね。

 ロンさんが後で話していましたが、「砂漠なのに大して暑くなかった」という意見に同意です。もう夕方に近かったからでしょう、ちょうど良い気候の中でワディ・ラムを楽しむことができました。








アカバに到着

 ついに私たちは、ヨルダンの最南端アカバへと出発です。ごつごつした山々もしだいになくなっていき、港町に入った時には完全になくなっていました。そして、ついに紅海も見えてきました。(こちらにワディ・ラムからアカバまでの写真があります。)

 私にとっては、99年、08年にイスラエルのエイラットとの比較の旅となると思っていました。けれども、類似点が意外に多かったです。一つは、開放的で、規則に緩い町だということです。夜の街を歩いていると、エジプトでは決して見ることのなかった「水煙草を吸っているムスリム女性」をたくさん見かけました。もちろんイスラエルのように、肌を露出させるような服は着ていませんが。コーヒーショップがたくさん立ち並び、屋外にまでテーブルがあるのですが、そこで自分のパソコンで無線LANでインターネットを使っている人もいるし、近代的です。

 ホテルもまずまずでした。夕食と朝食のレストランは、これまでのホテルの中で一番良かったかもしれません。そしてロビーでは、無料で無線LANが使えました!それでライアンはアメリカにいる奥さんと、私のスカイプを使ってたっぷりお話をして、そしてロンさんにとっては私は救世主(?)のような存在になってしまいました。携帯電話の充電アダプターが壊れてしまって、ヨルダンかイスラエルで換えのを買おうと思っていたそうです。家に電話しなければいけない絶対必要な連絡があったみたいで、私が、「それなら、スカイプで電話すればいいじゃん。一分間で30セント程度だよ。」と話しました。このような機能を初めて聞いたロンさんは、国際電話といえばものすごい通話料のはずなのに、嘘でしょう・・・という反応でした。でも解決できて、ライアンを含めた三人で主に感謝しました。

 講義もこれで最後になりました。旅行の間、一日の復習と共にアーノルドは、"The Historical and Geographical Maps of ISRAEL AND JORDAN"の説明を続けましたが、ついに古代エジプト時代から終末のイスラエルまでの地図をこの日で網羅しました。そしてこの後、アーノルドに感謝の一言を何人かの人が述べました。私も述べましたが、ガリラヤ地方の旅でキブツの畑の真ん中を通って、ギデオンの町オフラを見た例を取り上げて、「他の人の旅行では絶対に行かない所を連れて行ってくださったたっぷり」ことに感謝しました。

 オーストラリアの仲間のまとめ役であるスーさんが、最後だから外でコーヒーを飲みましょうとのことで、私はライアンを誘い一緒に行きました。人数は20人ぐらいいたのに、一つのお店でテーブルを合わせて、一つになって皆でお話しすることができました。私はここで、ダブルのトルコ・コーヒーを注文しました。

 明日は午前中、休憩です。アカバも聖書的な町で、また歴史もありますので、明日の旅行記で詳しく書きたいと思います。