2016年イスラエル・ヨルダン旅行記 2月19日

1.エイラット
2.ティムナ国立公園
3.ネゲブ沙漠
4.マサダ
5.エン・ゲディ
6.クムラン
7.エリコからエルサレム
8.シャバット・ディナー


 19日は、イスラエルの南端エイラットからエルサレムへ一気に北上します(Googleマップ)。

 ついにイスラエル、乳と蜜の流れる約束の地の旅を始めます。2008年の旅のことをいつも思い出します。灼熱のシナイ沙漠を横断して、紅海が見えた時の感動。越境した時、他の人を待っている時に眺めていた、真っ青な紅海、そして同じ沙漠でもアカシヤの灌木が見え、先端の農業技術による沙漠の中での緑地を思い出します。

1.エイラット
1999年の旅2008年の旅

男たちの企み!

 そして何度となく、海水浴を楽しみました。ですからまずデボーションの前に楽しまなければいけないのは、海水浴です。これは無謀な計画なので人を選びました。男の一部だけに声をかけ、物好きな四人が集まりました。ロビーでの集合時間は何と午前5時半!徒歩10分ぐらいで、すぐに公共海水浴場に着きます。けれども、こんな物好きな旅行客はさすがいないようです。真っ暗な中、なんと気温が15度ぐらいにしかなっていなった時、真っ暗の中でものすごく冷たい紅海の水に預かりました!

 そして私たち夫婦は、他の人たちより大きいスイートの部屋になりましたが、そこに集まってもらってデボーションです。箇所はずばり、出エジプト40章にある「主の栄光」です。モーセが幕屋を立てた後に栄光の雲が幕屋に満ちたところから、これからの旅は主の栄光に見える旅になることを教えました。ここでハプニングです。妻が賛美でギターを弾いていたところ、隣の部屋の人が強くノックして、「こんな朝早くうるさい!」と怒られてしまいました。せっかく大きな部屋にしてもらって、おもいっきり歌いたかったのに・・。まあ、いいでしょう。(^^;そしてヨルダンより一段、質が上がったと感じるイスラエルの朝食にも預かります。

ホテルからエイラット港まで(Googleルート

 ホテルを早めに出発、始めに紅海を眺めてから北上したいと思っていました。ホテルから、エイラット港の手前まで行きます(エイラット市内のビデオ・クリップ)。ここはイスラエル人の荒野の旅の「エツヨン・ゲベル」、そして「エラテ」があるところです。ですから私たちは、イスラエルの民の荒野の旅の前半部分、エドムとモアブの境を歩く旅の手前に戻ります。

・シナイ半島とアラビア半島の間にある部分が「アカバ湾」。
・エジプト、イスラエル、ヨルダン、サウジアラビアが使用。
・荒野の旅(民数14:25; 21:4; 33:10–11; 申命 1:1, 40; 2:1)
・エイラットとアカバ(申命記2:8)
 •ヨルダンのアカバが「エツヨン・ゲベル」、イスラエルとヨルダンの国境辺りに「エラテ」
 •ソロモンと王の交易の町(2歴代8:17‐18)
 •ヨシャパテ(1列王22:47-48)、ウジヤ王(2列王14:22、2歴代26:2)、アハズ(2列王16:6)。

 エイラット港の手前に停車、外に出て自動車が並んでいるのを見ながら、向こう岸のヨルダン、サウジアラビア、そして手前にエジプトがあります。四つの国がこのアカバ湾の北端部分を利用し、イスラエルにとってはインド洋、そして太平洋や大西洋につながる、世界貿易のための大切な港です。同じようにソロモンの交易が、ここから行なわれました。オフィルの金の採掘、またシェバの女王(今のイエメン)もここからエルサレムに謁見に行ったはずです。またエイラットから次のティムナ国立公園にかけて、鉱山を見ます。申命記8章9節に、「その地の石は鉄であり、その山々から青銅を掘り出すことのできる地である。」とあるとおり、であります。

 上の写真うつりはあまり良くないですが、こちら(Google)Biblewalks.comにアカバ湾の紅海がどれだけきれいか堪能できると思います。

 そしてこちらは、エイラットの美しい映像。


2.ティムナ国立公園

2008年の旅行

エイラットからティムナ国立公園まで(Googleルート

 バスを走らせること30分程で、ティムナ国立公園に到着します。ここは、ネゲブの沙漠の中にあるティムナ渓谷であり、侵食した様々な奇岩(マッシュルーム岩、アーチ岩など)あります。古くからの鉱山も残っています。紀元前14‐12世紀のエジプト王朝がここを採掘し、ミデヤン人やケニ人を労働者として雇っていました。そのため、当時の岩への絵画やエジプト人の女神である「ハトホルの神殿」もあります。(Youtube動画

 自然公園ですから、キャンプでテントを張って宿泊する人々も多く、なんと夏にここで若者たちがロック・コンサートを開くのだとか。私は、「夏のネゲブは絶対に来たくありません。」と恭仁子さんに文句を言いました(笑)。2008年の旅で、本当に暑い思いをして、エイラットでの風は熱風で、これによって聖書に「東風」が作物を枯らしていくような怖ろしいものであることを知りました。僅かに灌木が生えており、川が流れていたであろう涸れ川も見えます(ビデオ・クリップ)。

実物大の幕屋(たけさんの紀行

 そしてこの中に、実物の幕屋を展示してあります。まさしく彼らが彷徨っていたパランの荒野において、その幕屋があると言うことは意義深く、この幕屋に主の栄光、キリストの十字架による贖罪が鮮やかに出ています。出エジプト記の学び「24‐26章」「27‐29章」が最適であろうと思われます。そしてレビ記の1-7章のいけにえの捧げた方も参照すると良いでしょう。上の「たけさんの紀行」には、イスラエルの宿営の配置から詳しく説明されていますので、ぜひ参考にしてください。

岩の裂け目から見える幕屋(Bibleplaces.com)


 参加者の人々も、とても楽しみに、期待しています。ガイドのジョンさんが、前置きで30分近く、聖書の贖いのストーリーを語ってくださってくださいました。


 次に、外庭と幕屋の説明です。


 幕の説明です。

 そして聖所に入ります。まず、こちらに音声をお聞きください。聖所だけでなく至聖所の中身も説明してくださいます。

供えのパンの机


燭台


祭司と大祭司


香壇


契約の箱と贖いの蓋


十戒の石板、マナの壺、アロンの杖


 そしてジョンさんによる最後の言葉です。


 ジョンさんが、「自分の罪のため、主が死なれ、そして甦られた。あなたがたにとっても、そうであってほしい。」としめくくってくださいました。一つ一つが、鮮やかにキリストの御業につながっていることがお分かりになったと思います。3400年位前に、神は荒野を旅するイスラエルに、このように私たち一人一人の罪を赦す型を示しておられました。

 聖書講解によって、福音を知り、キリストを知る作業をしておられる方々にとって、これは真新しいことではないと思います。けれども、ガイドの恭仁子さんはユダヤ教徒にたくさん触れておられるので、聖書のみを見ていくジョンさんの解説に大変感銘を受けていました。彼女曰く、「正統派のユダヤ教徒は、聖書をきちんと読まない。」のだそうです。その解説は読み、伝統や慣習は数多く守っているけれども、ではなぜそんなことをしているのか尋ねても回答がない場合が多いとのことです。そして、私たち聖書信仰を持ち、福音を信じているいわゆる「福音派(Evangelicalエヴァンジェリカル)」の人のほうが、聖書を知っているという認識が、イスラエルの中でも広がっているとのこと。

ソロモンの柱

 私たちは次に、ソロモンの柱を見ます。


 エイラットの町には、やたら「ソロモン」の名をつけているものが多いですが、これもそうです。ソロモンとは関係がありません。柱状になっているのは、ティムナ山の南側の部分の赤い砂岩がその柔らかさのために侵食し、削り取られたためです。けえども実は、この右側、すなわち東側に行くと、先ほど説明した、エジプト王朝ラメセス三世の時の鉱石掘削の跡と、ハトホルの神殿跡があります。Biblewalks.comのサイトでお確かめください。全体では、こんな感じになります。



3.ネゲブ沙漠
2010年の旅(ネゲブ全般)、2013年の旅(アラデマクテシュ・ラモンとベエルシェバ
ティムナ公園からマサダまで(Googleルート

 これから一気に、ネゲブ沙漠のアラバを北上する旅になります。上のグーグルによれば車で次の目的地、マサダまで二時間半はかかります。つい昨日まで、私たちはアラバ渓谷を、ペトラのエド・ディルから遠くに眺め、一昨日は死海道を走っていました。ですから私たちの今回の旅は、イスラエルの荒野の旅を満喫する旅、またイスラエルのユダの相続地の南の部分を楽しむ旅となっています。もう一度、アラバのおさらいをしましょう。

lヨルダン地溝帯の一部
lガリラヤ湖の下から紅海までの低地であるが、通常、死海から紅海までの地域を指す。長さ166キロ、巾10‐15キロ
l水面下393メートルから始まり、103キロ辺りで200メートル、77キロ辺りから水面に戻る。
l東はエドム山地(薄い蒼色から、夕方にかけてピンク、赤、紫に変わる)、ネゲブ山地は石灰岩と火打石
l聖書
 •五人の王の戦い(創成14:1‐12)
 •アラバの町の破壊(創世19:1‐29)
 •荒野の旅(申命1:1,2:8)
 •ヨシュアの占領地(ヨシュア11:16,12:1‐3)
 •イスラエルによる占領(ヨシュア1:7,3:10,4:49)
 •約束の地の東境(ヨシュア18:18)
 •ダビデ、アラム人に勝つ(2サムエル8:13)
 •ダビデ、エドム人に勝つ(1歴代18:10‐13、詩篇60篇)
 •シェバの女王の旅行ルート
 •アマツヤがエドム人に勝つ(2列王14:7、2歴代25:11) 

 イスラエルの南部で総面積の半分を占めてしまう広大な沙漠「ネゲブ」です。主はイスラエルを「ダンからベエル・シェバまで」と言われましたが、その南にネゲブが広がっています。ネゲブ沙漠は、シンの荒野当たり前でが2010年の旅において、全般的なネゲブの紹介、また聖書的な背景を書きました。そして前回、2013年の旅ではネゲブの北の中央部分、アラデ、そしてマクテシュ・ラモンとベエルシェバを訪れているので、そちらをご覧になると良いでしょう。

 聖書時代のイスラエルの地を知るには、次の尺度が良いでしょう。北から南に書いていきます。

①ダンからベエル・シェバまで
 ダンが、あの金の子牛を据えたイスラエルの北端で、ベエル・シェバが南端です。イスラエル全域を指す時の呼称となっています。ベエル・シェバ以南が沙漠になっており、それがネゲブです。アブラハム、イサク、ヤコブの族長は、このベエル・シェバに長いこと滞在していました。

②ツィンの荒野
 ベエル・シェバ以南は著しく降水量が減ります。けれども冬季に二、三度降り、その時は鉄砲水状態になります。その川の跡、涸れ川(ワジ)がありますが、その川はアラバ渓谷に向かって流れて行きます。その大きな一つがツィンの川(Nahal Zin)です(地図)。死海の南端に向かって、北東に向かって走っている川です。その一帯を「ツィンの荒野」と呼びます。ツィンの荒野は、イスラエルの相続地の南境を成しています。ユダ族の割り当て地の南の部分を占めています。

 荒野の旅は、ツィンの荒野とパランの荒野の境にあるカデシュ・バルネアで40年間さまようことになりますが、以下の出来事が起こります。

・イスラエルの十二人が偵察へ(民数13:3‐21)
・荒野の旅(民数20:1; 27:14; 33:36; 申命 32:51)
・ミリヤムの死(民数20:1)
・メリバの水(民数20:2‐13; 申命32:51)
・エドムに通過を願うが拒まれる(民数20:14‐21) 


③パランの荒野
 さらに南は、もっと降水量が減りさらに荒涼としています。けれども、そこにも涸れた「パランの川(Nahal Paran)」があります。アラバに向かって北東に走っています。そこから南一帯、シナイ半島の北部にまで広がっているのが「パランの荒野」(地図)です。ティムナ渓谷もその一部です。ここもイスラエルの民の荒野の旅の現場です。

 そしてハガルとイシュマエルは、アブラハムによって追い出されてから、ツィンの荒野、そしてパランの荒野に行きました。そしてエジプトに向かうところの荒野、地中海沿いの荒野は「シュルの荒野」と呼ばれます。

④シナイの荒野
 さらに南がシナイの荒野、あるいは「シンの荒野」と呼ばれます。シナイ山の位置するところです。

 英語ですが、こちらにすばらしいユーチューブ動画チャンネルがありました。衛星地図に基づく聖地案内です。ネゲブ地方の説明です。




 私たちは90号を一気に北上して、まずパランの荒野、またその涸れ川のところを通ることになります。至る所にアカシヤの灌木が見えます。


パランの川(Bibleplaces.com)


90号線の右手には、エドムの山々が次のように見えます。


 そして死海も近づいたところで、ツィンの川を通ります。


 恭仁子さんが言及していましたが、ペトラからガザに至るまで、ツィンの川の辺りが「香の道」と呼ばれるナバタイ人の通商路となっていました。そして、アヴダトなどイスラエル側にもナバタイ人の町の遺跡があります。そして、スデ・ボケルという、イスラエル建国の父ベン・グリオンの家のある町の付近にまで続きますが、そこにはアヴダトの泉があり、流れる川になっています。

ツィンの川(Biblepalces.com)


ソドムの山

 恭仁子さんが車中のビデオ映像で仰っていましたが、死海の南端に近づけば、右を見ればそこはエドムの山地からモアブの山地に移る、ゼレデ川があります。そして岩も砂岩から次第に塩岩に変わっていき、色も白色になります。


 説明にあるように頂上は平らになっており、海底ではなかったのかと言われています。それでソドムの山と呼ばれています。(Youtube動画

死海
2013年の旅2010年の旅

 今、私たちは死海の西側に来ています。死海について、改めてここにまとめておきましょう。

uシリア-アフリカ大地溝によって、ガリラヤ湖、ヨルダン渓谷、死海、アラバ、紅海は低くなっており、死海は海面下420メートルという、世界の陸地で最も低い地点。
uヨルダン川などから水が流入するが流出するのは水の蒸発のみ。したがって塩分やその他の鉱物が残り、塩濃度30パーセント。
u聖書での呼称:「塩の海」(創世14:3,申命3:17)、東の海(ヨエル2:20,エゼキエル47:18、ゼカリヤ14:8)、アラバの海(申命記3:17,2列王14:25)
u五人の王と四人の王の戦い(創世14:1-12)
uイスラエル部族の境界(民数34:3,ヨシュア15:2,5,18:9)
u御国において死海は癒え、魚も棲む(エゼキエル47:6-12)

 死海の南側は、写真にあるように鉱物を死海から抽出する姿を見ます。ヨルダンもそうですが、これがイスラエルの産業の重要な鉱物資源となっています。


 そして少し北上すると、死海南側にあるホテル・リゾート地が見えます。2013年の旅エイン・ボケクがそれです。さらに北上すると、死海が完全に切れてしまう部分が出てきます。北からの水を南に流すために運河を作っています。死海の水位低下は本当に深刻です。イスラエルは、海水を淡水化する事業を強力に推進することによって、ガリラヤ湖からの水を汲むことによって起こっている水量低下の問題を減少させるべく努力しています。

とても詳しい記事:中東のオアシス「死海」が直面する死の危機とは

4.マサダ
2013年の旅2010年の旅2008年の旅
参考:たけさんのイスラエル紀行(2013年)

 ティムナから一気にバスで北上した私たちは、まずマサダのレストランで昼食を取りました。


 それでロープウェイに乗って向かいます。当時は蛇の道を使って上り下りしており、今でもそこを使うことができます。マサダについての説明は、たけさんのイスラエル紀行にある地図や説明、そして2013年の旅をご参考にされるとよいでしょう。ここでは新しい発見というか、確認として、「死海を挟んでペレア(ヨルダン側)にはマカエラスを、こちらユダヤにはマサダを要塞として作った。」ということができます。その他、ユダの山地、ベツレヘムの南にヘロディウムの要塞があり、北には、ヘロデの冬の宮殿がありました。マカエラスやマサダからは、これらの要塞や宮殿を互いに眺められたのではないか?と推測します。こうやって、ヘロデは自らの命が狙われることなく自らを守っていたのかもしれません。

 そして、これら要塞と宮殿の真ん中に位置している所に、あのバプテスマのヨハネが宣教活動を開始したのですから、ヘロデ大王の息子アンティパスは、どのように彼を見ていたのでしょうか?脅威には感じていなかったのでしょうか。福音書には、

因みに、ヘロデの建造物としては、もしかしたらヘブロンの族長の墓もそうだと言われており、そしてカイザリヤの港と、何よりもエルサレムの第二神殿の大改築が最も有名です。改めて、マサダの経緯を見ていきましょう。

  • おそらくダビデの要塞だった(1サムエル22:4-5,23:14,24:22)
  • ヘロデ大王が建てた要塞(36B.C.)
    • 自分の家族をパルティア人の侵略から守るためにここに避難させる。
  • ユダヤ人反乱(66-73年)
    • 熱心党の急進派「シカリ」が篭城
    • エルサレム陥落(70年)後、エルアザル・ベン・ヤイルに率いられ967人の男、女、子供が篭城。
    • ローマ軍一万五千人による包囲
    • 73年、ローマの傾斜路により陥落。直前集団自決、生き残り(女2人と子供5人のみ)。
  • 1838年に位置が発見され、1963年から本格的な発掘。
    • マサダのシナゴーグで、申命記33-34章、エゼキエル35-38章発見(干からびた骨の幻も含むまれている)!

 上にあるように、ヘロデ大王が建てたものですが、その他にカイザリヤから勃発し、ユダヤやガリラヤ全土に広がったユダヤ人反乱の、西郷の篭城の場として使われたということが、大きな意義を持ちます。イスラエルにとって祖国を失った最終的な場であり、1949年の独立戦争終結の後、イスラエルに戻ったということで「マサダは二度と陥落せず」という誓いを立てる場でもあります。そしてキリスト者にとっては、熱心党のユダヤ人はマサダを選んだ一方で、キリスト者のユダヤ人はローマの包囲が一時解除された時に、ここから北、ガリラヤ湖の下にあるベテ・シェアンのヨルダン川の向こう岸にある、デカポリスの一つペラに避難したという対比があります。イエス様の命令を受けてのことです。

 まず、全体の遺跡を高精度の映像でドローン撮影したものをご紹介します。


 そして次のビデオもドローン撮影ですが、1分35秒辺りから、再現されたアニメーションが始まります。


 そして、これからの訪問にあたって、たけさんの紀行にある地図を参考にされるとよいでしょう。


 ケーブルカーで上り、始めに見えるのが「採掘場の跡」で、すぐに入口があります。そしてそこがマサダの中心部で司令官の住居跡のある部分です。



 たけさんの紀行から。


 ここから見た、司令官の住居(正面)の写真がこれです。(クリックして拡大)


 この右にある正面玄関(カーテンのところ)に入ります。ここの特徴は、フレスコ画です。


 そして倉庫を抜けて、大浴場に向かいました。


 大浴場の遺跡に入りますが、以下の図をご覧ください。


 上の中庭と階段付きプールから、着替え室のところに入ります。


 そして冷浴室(コールド・ルーム)と微温浴室(ウォーム・ルーム)、それから高音浴室室(ホット・ルーム)に入ります。


 ローマ風呂については、ベテ・シェアンにも遺跡がありますし、ウィキペディアに詳しいです。そして当時のローマ風呂を再現するドキュメンタリーの映像があります。

Mysteries Of Lost Empires Roman Bath Full Documentary

 大浴場を出て、北の宮殿に向かいます。宮殿に上がる時の階段が、復元のものと元々のものがはっきりわかるところがありました。


 階段を上がって振り向けば、次のようになります。


 そして、北の宮殿を下に眺めて、エン・ゲディも見えるような遠景を見ました。


 次に、北西部分を眺め、ローマの駐屯地を眺めながら説明を聞きます。


 そして北の部分の模型を見ます。


 そして2013年の旅で、この北の宮殿に降りて行った写真と報告があります。たけさんの紀行と私の書いた旅行記をご覧ください。そして下には、在豪イスラエル大使館の支援である人が作った、北の宮殿の復元模型です。


 それからシナゴーグ方面に向かいますが、その手前に貯水槽があります。


 そして水利システムの模型です。


 そしてローマの駐屯地を見ながら西側を歩いています。


 そしてシナゴーグに入りました。ヘロデの時も既にシナゴーグであった可能性は大きいですが、反乱軍の使ったものです。


 巻き物は、申命記33-34章とエゼキエル35-38章も見つかっています。二つの箇所とも、ユダヤ人の帰還、土地と国民の回復が預言されているものです。ぜひ2013年の旅におけるここでのメッセージをお聞きください。2016年の旅は、そのメッセージの続きになります。

エゼキエル37章から

・以前は、涸れた骨の復興から、イスラエルの復興を見た。
・しかし、もう一つの約束がある。それはイスラエルとユダの統一だ。
・分裂したが、それを主が一つに戻してくださる。

・ユダヤ人の反乱の問題、エルサレムの中では内部で殺し合いをしていた。
・そしてイエス様の時代には、ローマに反発していて、ローマに迎合する者たちと対立。
・ユダヤ人は、仲間で殺し合いをして敵に攻められたことを反省、イスラエル建国では対立があったが、一つになって戦う(ハガナとイルグン)。

・しかし、主は、そのどちらでもなかった。ローマに迎合もしておらず、ローマに反対もせず、そういった次元の中におられなかった。むしろ、そのどちらも否定するような「神に仕えなさい」という立場であった。第三の道なのだ。
・ユダヤ人が死んでいく中で、死んで行かなかったユダヤ人がいた。
-イエス様の言葉を聞いて、それに従った。「ルカ21:20-21しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。
-このために、一時包囲が解除された時に逃げて、ペラに住んだ。一人も死ななかった。

一つになったイスラエルは、ダビデ、あるいはキリストを王とする。同じように、私たちがキリストを王としているとき、つまりこの方の主権に従い、自分ではなく神の命令に従っている時に、私たちの間には平和があり、一つになれる。 


 そして少し進むと、ローマがついに突破した傾斜路の跡を見ます。


 当時、こうなっていたのでは?という図。


 そしてローマが駐屯し、五世紀以降、ビザンチン時代に修道院がここに建てられます。


 そして私たちは出入り口に戻りました。


 そしてロープウェイに戻る所に、先ほどの貯水システムの遺跡の一部を見ることができます。


 そして私たちが戻って、バスが来るのを待っていると、そこにいる二人のイスラエル兵が私たちの仲間の写真撮影の徹底抗戦(?)を受けました。



5.エン・ゲディ
2013年の旅行2010年の旅行2008年の旅行

マサダからエン・ゲディまで(Googleルート)

 マサダから北に約20㌔行きますと、エン・ゲディです。私たちは今、死海の脇を北上しているのですが、その左側の崖の上は下の上空からの写真のように「ユダの荒野(Wilderness of Judah)」になっています。(Bibleplaces.comから)


 エルサレム(Jerusalem)が遠く北西方向に見えるでしょう、近づいています。ユダの荒野は、エルサレムからエリコまでの渓谷「ワディ・ケルト」が北で、それからネゲブまでのユダの山地と死海の間に広がっている荒野です。なぜ、ここだけが荒野か?と言いますと、地中海から吹いてくる風で空気中の湿気が内陸に入ってきますが、ユダの山地のところで全てそれを受けとめてしまい、残るは乾燥した風だけが吹いています。ですから、エルサレムの東、オリーブ山から死海方面を眺めると、早速、そこには荒野が広がりつつあります。ちょうどこれは、日本海側の地域から吹く風がアルプス山脈に当たって、新潟などのほうは大雪になっても、太平洋側には乾いた風が吹くのでそれほど積雪がないのと似ています。

 ここはヨシュアたちによる占領により、ユダの割り当て地になりました(ヨシュア15:62)。そしてユダ王国の時、モアブ人とアモン人がここから攻めてくる噂を聞き、ヨシャパテが非常に恐れ、それで主の宮で熱心に祈ったという記述が歴代誌第二20章にあります。ここからユダの荒野を通り、ユダの荒野が決戦の場となりました。

 そして荒野ということで、ここはエルサレムから人が逃げてくる時の場となり、また神と独りになる場ともなり、それでダビデがサウルから逃げ隠れていたのがユダの荒野が多く、あのエン・ゲディでの出来事が起こり、また、ユダの荒野がバプテスマのヨハネの預言活動の場、またイエス様の誘惑を受けられた場となります。そして、次に行く目的地クムランには、クムラン教団と呼ばれるおそらくエッセネ派であろう人々が共同生活をしている遺跡も見つかっています。

 エン・ゲディの意味は、「子やぎの泉」です。ここには、アイベックス(野やぎ)が多くいるからです。「高い山は野やぎのため、岩は岩だぬきの隠れ場。(詩篇104:18)」そして、岩だぬき「ハイラックス」もたくさん出てきます。「ダビデの川(Nahal David)」と呼ばれる川と、アルゴトの川(Nahal Arugot)があり、その他、泉からの水があります。冬には、ダビデの川からの増水で、90号線にまで水が押しよせ氾濫することさえあるそうです。(Youtube映像

 とにかく、乾いた地においての潤いと癒しを与えるオアシスであります。雅歌によると、ここにぶどう園があったようです(1:14)。そして、詩篇42篇1節には、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐ」という表現がありますが、このような水、普段は涸れ川になっているようなところで、僅かな水や川の流れを探していた、ということでしょう。そして、流れ着くところは死海なのですが、エン・ゲディより少し北のところに、僅かに淡水の溜まっている場所があるそうです。しかし、イエス様が再臨されてエルサレムが回復し、ご自身が着座される神殿が再建されると、そこから流れる生ける川は、地中海とそして死海に流れ込みます。そして、漁をすることができる海へと変わります。「漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。(エゼキエル47:10)

エン・ゲディの美しい映像


 2013年の旅も、その前の旅もエン・ゲディ自然保護区の公園の中に入ったのですが、残念なことにもう閉館の時間にほとんどなっていたので、入ることができませんでした。しかし、今までずっと行けなかったところに行けました。


 上の写真は、2013年の旅の時に撮ったものです。ダビデの川をずっと上り、その滝のところまで行った後で死海を背景に撮ってもらったのですが、私の真後ろに小さく、崖の上の木を見ることができるでしょう。2010年の旅でもアーノルドがあれを指して、「アカシヤの木です」と教えてもらった木です。私たちは、その木のある「エン・ゲディ自然の家(Field School)」に行ったのです!下がそのアカシヤの木。



 位置関係は、たけさんの紀行にある地図でお確かめください。私たちは右下のEn Gedi Field Schoolにいます。ここからですと、ダビデの川からの滝が僅かに見えます。そしてすぐ近くには、アイベックスが歩いているのも見ました。



 そんな中で、サムエル第一24章にある、ダビデがサウルの上着の裾を切ったところを読みました。


6.クムラン
2013年の旅(クムラン)たけさん紀行2013年(イスラエル博物館)2010年の旅2008年の旅

モアブの山々

 クムランに行く途中に、死海を眺望する見晴らしの良いところに駐車、私たちが二日前にいたばかりの「モアブの高原」を眺めます。(クリックして拡大)


 そしてバスに乗り込み、少し走ると、凄いすごい、ネボ山が見えます。映像では左上の黒い部分です。


エン・ゲディ自然の家からクムランの洞窟1へ(Googleルート

 私たちは、エン・ゲディと同じく、クムラン集団の住んでいた遺跡のある国立公園は、既に閉じているため入ることができませんでした。特にこの日は、まもなくシャバット(安息日)が始まるため、どの国立公園も他の曜日より一時間、早く閉門になります。けれども、エン・ゲディと同じく、公園の外だからこそ楽しめる穴場があります。クムランも同じ、第一発見された洞窟は実は、公園の外にあるのです。

 公園をもっと先に行って、左に曲がる道があり、小さな入植地に行く道の右側の崖にあります。下の映像で、恭仁子さんの詳しい説明があります。

 
 上の映像の二つの洞窟の左側です。しかも、その洞窟の中の上の部分の穴が「洞窟1」だそうです(下の穴は、考古学者が発掘できるために掘ったものだそうです → クムランの洞窟1と2の説明(Bibleplaces.com)

 その他、膨大な、興奮の富む話が過去の旅行記にあります。過去の旅行記には、公園の中身も眺めることができます。そこでお読みになっていただければいいと思います。

7.エリコからエルサレム
2013年の旅(エリコ)2010年の旅(アドミムの坂)1999年の旅(ベタニヤ)

クムランからエリコの検問所まで(Googleマップ

 私たちは、死海沿いの90号線に戻り、北上、そして死海の最北端も通り過ぎたところでついに、エルサレムにつながっている1号線に入ります。そして私は、旅行社には「エリコ市内は入らなくても良いけれども、エリコを眺めるところのできる所でエリコについて話したい。」とお願していました。けれども、時間的に、先のクムランの映像を見ていただければ分かりますように、日が暮れそうになっています。けれども、そのことも見据えて恭仁子さんの案は、「今のイスラエルとパレスチナの現実、現状を見てもらうのもよい」ということでした。そう、パレスチナ自治区の検問所のところまで行くということです。

 1号線に入ると、すぐにエリコまで北上する道路がありますが、そこを1号線から右折、数分で検問所に到着しました。

 私たちは2013年の旅でエリコに行きましたので、ぜひじっくり見てください。その時はヨルダン川へのバプテスマ式の後に行き、東から西にエリコに向かう道を行きました。その時にパレスチナ人ガイドに代わり、検問所はスルーです。なぜならバス運転手が、アラブ系のムスリムであるからです。運転手がそうであれば、イスラエルのナンバーであっても構いません。さらに今回、ヤイールさんはユダヤ人ですが、自治区に入る許可証を持っているので、入ることができたのです。けれども恭仁子さんは、イスラエル国籍で、ガイドの協定で自治区でのガイドができません。(これは逆も真なりで、パレスチナ人ガイドは、イスラエル領でのガイドはできません。)そういったことが、上のビデオの会話の背景です。そして映像の右に出てくるホテルらしき建物は、おそらくGoogleマップにあるOasis Hotelだろうと考えられます。

イスラエルとパレスチナの現実

 イスラエルとパレスチナの現実についてですが、基本知識をご紹介します。まず、「パレスチナ自治区」と呼ばれる西岸地区とガザ地区ですが、それぞれ聖書の「ユダヤ・サマリヤ地方」「ペリシテ人の平野」であります。西岸は、イスラエル人の聖書の現場ですから、そこにユダヤ人の入植地が多くあります。しかし1999年の旅においては、アリエル(サマリヤ地方にある入植地)、シロ(ユダヤ地方にある入植地)、エリコ、ベタニヤ、ベツレヘム、ヘロデウムに訪問しましたが、イスラエルの管轄であっても自治政府の管轄であっても、かなり容易に行き来できました。なぜなら、分離壁&フェンスがなかったからです。イスラエル・ユダヤ人のガイドも、またイスラエルのバスを誰が運転していても、そのまま入ることができました。そして、自治区に住むパレスチナ人も数多くが比較的容易にイスラエル側に出稼ぎに行けました。その時のベツレヘムの町の喧騒を覚えています。

 しかし、2008年の旅には悲しい思いになりました。ベツレヘムの入口はコンクリートの壁ができており、そこを入ると閑散とした町になっていたからです。99年の旅ではその喧騒が嫌でしたが、逆にそれが懐かしくなり、中にいる人々が仕事ができずに困っているだろうことはすぐに想像できました。また、イスラエル人も自治区に入るのは基本的に危険なので、イスラエル治安当局や軍によって引き止められます。ですからパレスチナ人だけが不便や苦しみを強いられているだけでなく、イスラエル人も多くのところが行けなくなったのです。

 しかし、安全は確保できました。分離フェンスを作ったのは、第二次インティファーダが起こったからです。この時に、「自爆テロ」という言葉が世界中に定着した時です。人々が日常生活をしている、特に集まっている所で次々と自爆していきました。しかし、分離フェンスを設置することによって、イスラエルの中での自爆テロは激減、今はほとんどありません。非常に大きい効果があるのです。イスラエルは常に、安全との戦いがあります。パレスチナは常に、分離壁に取り囲まれている閉塞感との戦いがあります。

 パレスチナの様子を、旅行者の視点から紹介している良いビデオがあります。こちらのブログ記事で紹介していますので、どうぞ。

「親パレスチナ」の人に言いたい事

 そして分離壁の考えを発明した人が、案内をする旅行ビデオがあります。

Tour of the West Bank barrier with the architect who built it Part 1/5


エリコからエルサレムのホテルまで(Googleルート

エリコ道

 私たちはこの後ひたすら1号線、エルサレムの道、上り坂を行きましたが、ここが旧約、新約において非常に重要な道となります。なぜなら、エルサレムからヨルダン川またガリラヤ地方に行く時は、この道を必ず使っていたからです。現代の道路とエリコからエルサレムまでの道は、一部を除いて合致していません。今は、このユダの荒野の渓谷にある道をハイキング・コースになっています。詳しく説明しているビデオがあります、英語ですが、上空からの映像、またハイキングをしている若者たちによる説明は、圧巻です。

 (そして、こちらにはフランクリン・グラハムによる娘さんを聖地旅行に案内したビデオがあります。)

 ここの様子がよく分かる聖書の出来事は、ダビデのアブシャロムからの逃避行(2サムエル15‐16章)、ゼデキヤがエルサレムを捨てバビロンから逃げる道(2列王25:4)、そしてイエス様による良きサマリヤ人(ルカ10:25-37)、そしてイエス様がエリコからエルサレムに向かわれた道(ルカ19:28等)です。上のビデオに沿ってさらに説明していきましょう。

 エリコは、旧約時代のエリコの遺跡にある住居地区と、新約時代のヘロデの宮殿の遺跡が残っている行政地区があります。そして、ゲオルギルス修道院のあるワジ・ケルト、それから、ユダ族の割り当ての北の境界線であった「アドミムの坂」があり、そして、オグの渓谷、そしてローマ時代の上り坂の遺跡、そしてオリーブ山のふもとにあるベタニヤやベテバゲ、そしてオリーブの山があり、ケデロンの谷を降って神殿の丘になります。映像の中には、エリコからエルサレムまでの高低を示す地図がありますが、直線距離は22キロなのですが、エルサレムはエリコよりも1㌔も高いです!

 エリコに戻りますと、住居地区のエリコが北に、2キロ離れたところに行政地区のエリコが下にあります。このことが分かれば、一見矛盾する聖書の箇所が考古学発見により、一つにつながります。この二つの地区の間で、あの盲人バルテマイの出来事が起こったのです。「彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。(マルコ10:46)」「イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。(ルカ18:35)

 ヘロデの宮殿の遺跡を出ると、アドミムの坂に向かうワジ・ケルト(写真)に入ります。そこは険しい谷のすぐ横を走っています。ここら辺は荒野でありますが、先に説明したようにユダの山地が地中海からの湿気をすべて受けとめてしまうからです。残る乾燥した空気のみがヨルダン渓谷に向かって吹きます。そして2010年の旅に出てきますが、アドミムの坂があります。アドミムは「赤」という意味です。「境界線はまた、アコルの谷からデビルに上り、川の南側のアドミムの坂の反対側にあるギルガルに向かって北に向かう。また境界線はエン・シェメシュの水に進み、その終わりはエン・ロゲルであった。(ヨシュア15:7)」映像には、確かに川(渓谷)の南に坂の跡があります。南(左側)がユダで、北(右側)がベニヤミンです。その上り坂が終わるころ、ローマの要塞の跡があります。戦略的な位置だからです。

 ここを過ぎると、1号線と重なるところが数㌔続きます。その途中に、「良きサマリヤの宿」と呼ばれる良きサマリヤ人の話を記憶するところがあります。それからオグの谷となり、下るのです。このように、そのまま上り坂になっておらず凸凹なので、イザヤがこう預言したのです。「荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」(イザヤ40:3-5)

 そこを過ぎると、オリーブの山がすぐ見えてきます。現代の1号線とは違うところに、ローマ時代の坂の遺跡があります。こんなところで、サマリヤ人が半殺しにされていたユダヤ人を助けたことをイエス様は話されたのでしょう。そしてオリーブ山の手前、"Shoulder(肩)"が見えます。バフリムの遺跡がそこにあります。「ダビデ王がバフリムまで来ると、ちょうど、サウルの家の一族のひとりが、そこから出て来た。その名はシムイといってゲラの子で、盛んにのろいのことばを吐きながら出て来た。(2サムエル16:5)」ここをダビデは通って、ヨルダン川を超えて、ギルアデのマハナイムに行きます。

 そしてベタニヤとベテパゲが、オリーブ山の南東の麓にあります。イエス様がヨルダン川の向こう側、ペレアにおられた時にラザロが病であるという知らせを受け、二日待って、それからベタニヤに行かれました(ヨハネ10:40)。そして、ルカ13章22節から17章10節までの、エルサレムへ向かうルカの描く旅は、ガリラヤ湖の南のところでヨルダン川の東に渡河して南下し、それからエリコの手前で再び渡河、エリコに入り、そしてこの道を通ってきました。

 そしてベテパゲからろばの子にイエス様は乗られて、オリーブ山からエルサレムに入城されました!

8.シャバット・ディナー

 私たちのバスはエルサレムに入る時は、もう日がかなり暮れていました。そして、エルサレムの西にあるホテル、「ラマダ・エルサレム」に到着しました。2013年の旅と同じです、ここで三泊します。私たちはホテルで夕食を取りません。恭仁子さんと、ヤイールさんだけが食べて、私たちはホテルに荷物を降ろした後、ちょっとだけ良い服に着替えて、それでついに、楽しみにしていた「シャバット・ディナー」に向かいます!場所は、イエメン系ユダヤ人のご家族の住む家、ホテルから車で20分ぐらいのところです。参加者の方の知り合いのつてで、この方々と知り合いになれました。

 安息日の夕食が、ユダヤ人にとってどれだけ大切であるかは、イスラエルに在住する人々やいろいろな関係者から聞いてきました。聖書的にももちろん大切な儀式ですが、今のイスラエルのユダヤ人にとっても、まさに私たち日本人の正月祝いのように、いやそれ以上に、この時のためにきちんと備えをし、家族で集まる大切な時となっています。次のサイトに、安息日と食事の詳しい説明と手順が書かれています。

ユダヤ教 ━ 安息日「シャバット」

 ここに書かれている手順が、認めることができました。「祈り」を捧げます。祈りといっても、朗誦で歌のようなリズムがあります。そして、ぶどう酒が注がれます(キドューシュ)。キドューシュの時、いつもはイエメン語で祈りを捧げるそうですが、ヘブライ語で行われました。(私もいくつか、神に祝福あれ、など、単語を聞き取ることができました。)そして杯を取り、飲みます。安息日用のパンも用意されています。パンを裂く時も、祝福を祈って、それから裂きました。まさにイエス様の過越の食事で行われた次のことを思い出しました。「そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。・・それからパンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。(ルカ22:17,19)」もちろん、これは過越の食事ですが、これも安息の日なので、基本は同じなのでしょう。そして家の主人が食べたら、他の人々が食べることができます。

 ビデオを撮ったのですが、けれども私宅でのものなのでお見せすることはできません。次回の旅行に参加することを考えておられるなど、関心のある方は自己紹介をしてから、リンク先のリクエストをしてください(Eメール)。下の食事のテーブルの様子をご紹介します。
 

 私たちは皆で二十名以上いるのに、なんと全員のために、満腹になるほどの食事を用意されました。なんでそんなもてなしができるのか?と尋ねたら、「アブラハムも旅人をもてなしたではないか。」とのこと!ものすごい単純に、聖書に従い、自分たちの先祖に倣っているのです。