2019年トルコ研修旅行記 4月2日 その1
イスタンブール①

1.テオドシウスの城壁
2.カーリエ博物館
3.アヤソフィア
4.ミリオン(道路元標)
5.古代東方博物館
6.考古学博物館
7.ボスポラス海峡クルーズ


(4.から7.は「その2」へ)

 ホテルでの朝食をおいしくいただいて(写真)、第一日目が始まります。

ホテルからカーリエ博物館まで(グーグル地図

 新市街から、金角湾に架かっているアタトュルク橋を渡って旧市街に向かいます。昨日も説明しましたように、旧市街がかつてのコンスタンティノープルがあったところで、オスマン帝国に入ってからも首都として機能していたところです。世界遺産になっている建造物が集中している歴史地区であります。



 ディレクさんが説明しているのは、橋から左側に見えてきたスレイマニエ・モスクです。オスマン帝国の最盛期の時のスレイマン大帝のために造られたモスクです。

 スレイマン大帝と言えば、イスラエル旅行でも聞く名前です。エルサレムがローマによって滅ぼされた後、ビザンチン、イスラムの支配、十字軍、再びイスラムの支配があり、その後にオスマン帝国の支配下に入りますが、その時に、今、見るエルサレムの城壁を建てました。スレイマン大帝が、かつてのエルサレムの城壁に沿って建てるように命じました。(一部、建築家が間違って、ずれてしまったのですが、かわいそうなことにその失策で死刑を命じられています。)今の旧市街は、オスマン帝国の名残が濃厚で、市場の様子は明日、訪問するグランド・バザールを小さくしたような様子になっています。

1.テオドシウスの城壁ウィキペディア

 バスは、テオドシウスの城壁の見えるところを通りかかりました。



 カーリエ博物館を訪問した後に、もっと原状を留めている部分を見ることができましたが、ここで、この城壁について説明したいと思います。



 キリスト教を公認したローマ皇帝、コンスタンティヌスが、バルカン半島の東端に位置するビザンティオンに首府を遷都させ(330年)、自分の名にちなんでコンスタンティノープルとしました。ローマのある西ローマ帝国は5世紀早々に終わりますが、ここ東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の都は、オスマン勢力によって陥落する1453年まで続いたのです。この都の繫栄と防衛を担ったのは、まさにこの城壁で、その難攻不落の姿が、ローマ帝国をさらに1000年間、維持させたと言ってもよいでしょう。

 5世紀にテオドシウス二世がこれを築き、それ以降、実に数多くの敵が何度となく攻撃をしても崩れることがありませんでした。オスマンの王、メフメト二世が大砲を使って攻城するも、包囲して陥落するまで6週間もかかっており、圧倒的な物量と迂回作戦、防衛側の不手際がなければ不可能だったとされ、城壁自体は依然として十分に耐えられるものでした。

 ところで、1453年のコンスタンティノープルの陥落に至ったドラマ・シリーズがあり、史実を正確に再現したであろうすぐれた内容でした。メフメト二世が主人公ですが、ビザンチン帝国の最後の王、コンスタンティヌス11世の姿も克明に描いています。

オスマン帝国 皇帝たちの夜明け」(ネットフリックス

 トルコまたイスタンブールが東西文明の十字路と言われる所以が、ますます理解できました。一千年紀も続いた西欧キリスト教世界にイスラムの世界帝国が出現した瞬間でした。


2.カーリエ博物館
ウィキペディア公式サイト

 主要道路で停車したバスから降りた私たちは、住宅の並ぶ閑静な道を5分ぐらい歩いて、布に覆われた建物が見えてきました。おそらく修復工事をしていたのでしょう。ここが初めての訪問場所です。

 「博物館」とありますが、ここは、元々、正教会の修道院付属の聖堂でした。東ローマ時代、11世紀に建設されて14世紀まで増改築が繰り返されたようです。規模は小さいですが、14世紀に作成された、キリストや聖書の世界を描くモザイクとフレスコ画が壁面を覆っていて、それが、「ビザンチン美術」の最高作と評されています。



 ディレクさんが、詳しく説明してくださいましたが、彼女の説明と共に、私がこの博物館を通して受けた感動と衝撃をお分かちしたいと思います。

ビザンチン文化

 先に説明したとおり、ここは、紀元前にギリシャ人が入植して建設された街でした。母ヘレナが信仰を持ったため、313年にキリスト教を公認したローマ皇帝、コンスタンティヌスが330年、ここに遷都して、帝国の都としました。ローマでの言語はラテン語でしたが、こちらはギリシャ語が公用語です。帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国がなくなった後も存続し続け、キリスト教圏最大都市として繁栄して、「世界の富の三分の二が集まる所」と言われました。正教会の中心にもなりました。

 ここで発展した文化を「ビザンチン(ビザンツ)文化」と呼びます。私個人は、ローマと言えば、今のバチカンまた西欧にあるようなものしか知りませんでしたが、文化は実は何世紀にもわたり、こちら東ローマのキリスト教圏で隆盛を極めていたということに衝撃を受けました。私の信仰は、西欧からのプロテスタントの宗教改革からのものですが、プロテスタントはカトリックから分かれ出た信仰運動です。そのカトリックは、その西ローマ帝国からの伝統であり「西方教会」と呼ばれるものに対して、正教会などは「東方教会」と呼ばれます。ですから、同じキリスト教と言えども、長い時間、別々に発展したものであり、自分にとっては新鮮さと同時に、あまりにも違うので戸惑いも覚えました。

 しかし、イスラエルに行けば、伝統的な教会は東方教会のものが殆どであり、カトリックは後発隊ぐらいの雰囲気があることに気づいていました。コンスタンティヌスの母ヘレナが巡礼に来て、主のなされたことのゆかりのところに教会堂を建てて行ったからです(聖墳墓教会や生誕教会)。

 このビザンツ文化には、第一に、古代ギリシャと古代ローマの文化を受け継いでいます。そこに第二に、キリスト教が入ってきました。理性、論理、知識の追及、そういったものはギリシャから来たものでヘレニズムと言います。そして、一神教、聖書の啓示、律法、終末といったことは、ヘブル人の思想ということでヘブライズムと言います。つまり、ビザンツ文化には理性や知識を追求するギリシャ的なものもありつつも、元来のキリスト教にあるヘブライ的なものも取り込まれていて、その後の欧州の文化に与えた影響は大きいとのことです。

 しかも、東ローマ帝国は、イスラムが台頭してからも存続してます。イスラムの人たちは、ビザンチン文化にある古代ギリシャの文化に非常な興味を持ちました。ギリシャの古典は、ここにギリシャ人が多く住んでいるので伝えられていきました。イスラムの人たちにも、ビザンチン文化から影響を受けます。例えば、当時のモスクは、ビザンチン時代の建築物にかたちが似通っています。エルサレムでは、岩のドームが神殿の丘の上にありますが、聖墳墓教会の形に似ているのもそのためです。



 そして、カーリエ博物館に来て、そのフレスコ画、モザイク画を見て驚いたのは、非常に写実的なのです。イエス様の絵は、白人の格好の良いそれであり、本来、中東系であったはずのその容姿は、ヨーロッパの白人のその姿に似ていたことです。ビザンチン美術の後期の姿は、古代ギリシャの復興とも言えて、神の世界以上に、人間を描くことに集中しているからと言ってよいでしょう。

 ビザンティン帝国は、14世紀には、政治経済面ではかなり衰退していましたが、文化面では教会美術が隆盛を極めたそうです。その最後の王朝、パレオロゴスは、「パレオロゴス朝ルネサンス」として知られているそうです。1453年にコンスタンティノープルが陥落してから、そこにいた知識人がイタリアに移動して、イタリアのルネサンスの古典復興に多大な影響を与えたと言われます。例えば、ディレクさんが説明している「生神女就寝のモザイクイコン」は、イタリア・ルネサンスの画家の作品と似通っているのだそうです。まさか、ルネサンスがここイスタンブールから出て来ていたのです。

 そして、オスマンのイスラム美術にも、東ローマ帝国のビザンチン文化の影響があるのところです。西欧においてのルネサンスは、東ローマ帝国からギリシャ・ローマの古典を学んだイスラムから、逆輸入されたということもあったとのこと!

 ところで一つ一つの壁画については、英語でディレクさんが説明していますが、大半が聖書から出てきているものです。いわゆる聖画というのが、私は、興味が出てこない、というか、共感が難しいというのが正直なところですが、聖書の話があると共に、教理や神学を象徴しているものもあります。例えば、上の壁画のイエス様は、親指と薬指を重ねて、残り三本の指を立てていますが、三本は三位一体を表しています。親指と薬指は、「神と人の二つの性質」を示しているとのことです。

 そして話題になった壁画が、パウロのそれです。パウロは、トルコの人と言ったらびっくりするでしょうが、ディレクさんはそう紹介しました。タルソ出身の人で、タルソは数日後に私たちも訪れます。

 彼の見栄えについては、「パウロとテクラ行伝」という2世紀に書かれた外典に、こう記されています。「パウロは体が小さく、頭の髪がうすく、両足は曲がり、胴体の格好はよいのですが、両方の眉毛がくっついており、鼻はやや鉤鼻であり、恵みに満ちており、ある時は人のように見え、ある時は天使の顔のように見えた!」下の絵を見て、いかがでしょうか?どこに行っても、「禿」の話題は尽きないですね、トルコには、「金鉱には草は生えない」という言い回しがあるそうです。(笑)

 
 その他、ウィキペディアに行けば、いろいろな絵画の詳しい説明を読むことができます。

 そして、カーリエ博物館について、もう一つ大事な歴史があります。オスマン帝国の時代になると、ここはモスクに変えられました。その時に、これらの壁画は漆喰で上塗りされました。イスラム教では偶像礼拝が禁止されているからです。しかし、それがかえって良い方向に働きました。20世紀に発見されましたが、トルコ共和国になってから、教会に戻すことも、モスクにすることもさせず、無宗教の博物館としました。(これは、アヤソフィアと同じです。)発見されたとき、空気にさらされずに保存されて、良好な状態だったのです。なるほど!ですね。

 イスラエルでも似たような話があり、教会堂が建てられて、せっかくのゆかりの地が実際はどうだったのか分からなくさせられている所が多いのですが、その建物のおかげで、下にある遺跡がよく保存されているという話を聞きました。

 自由時間が少し与えられて、それから外で少しの間、待っていました。かなり寒かったですね。イスタンブールは、東京と気温が変わらないといったほうがいいでしょう。トルコといっても、七つの教会のある西トルコや、アンティオキアのほうに行かないと、温暖な地中海性気候にならないようです。

3.アヤソフィア
詳しい説明ウィキペディアHagia Sophia Research Team

カーリエ博物館からアヤ・ソフィアまで(グーグル地図

 再びバスに乗り、次の目的地は、いわばイスタンブール訪問におけるハイライト、ビザンチン帝国の最高峰と呼ぶべき建物「アヤソフィア」です。この名はトルコ語ですが、ギリシャ語では「ハギア・ソフィア」で「聖なる叡智」という意味です。人となられた神であられるキリストご自身が、神の知恵そのものであることを意味する名称です。



「歴史的キリスト教」の代表的な遺物

 ディレクさんは、中に入ってすぐのところで、ハギア・ソフィアの意義を一言で言い表していますが、「イスタンブールにとってどころか、世界にとっての意味がある。なぜなら、この大聖堂こそが『キリスト教信仰の象徴』であり、記念物による表現である。」世界の人も、キリスト教の私たちでさえ、その認識は少ないと思います。キリスト教と言えば、「バチカン」またローマ教皇を思い出すのではないでしょうか?

 けれども、ディレクさんの発言は間違っていません。もう一度繰り返すと、コンスタンティヌスがキリスト教を公認し、ローマ帝国の首都をこちらに変えたのでした。そして、大シスマとも呼ばれる1054年の東西教会の分裂が起こるまでは、キリスト教会は、こちら、コンスタンティノープルでまとまっていたからです。そして教会の中心、「総主教座」は、このハギア・ソフィアにありました。今もその伝統を頑なに守り受け継いでいるのが、「正教会」と呼ばれます。世界において規模としては、カトリックとプロテスタントがずっと多いので、存在感が薄いですが、中東地域や、本場ギリシャ、そしてロシアでは、かえって正教会や他の東方教会のほうが主流です。

 そして、ハギア・ソフィアは、建造物としても象徴的な存在です。「ビザンティン建築」の代表的存在です。私は、ここイスタンブールに来て、初めて、イスラエル旅行、ヨルダン旅行を含めて、「キリスト教の建物」のルーツ、起点を見た思いでした。キリスト教の建物といっても、それはローマ帝国がキリスト教を公認した後のものであり、その前は、非公認ですから遺っているはずがありません。初めは家とユダヤ教会堂を使い、激しい迫害下では、カッパドキアなどで地下都市を建設し、礼拝を献げていました。けれども、公認されたので、教会のための建物を建てることができるようになったのです。

 そこで「初期キリスト教美術」が発展し始めました。建物として、古代ローマの公共建造物である「バシリカ」が採用されました。バシリカの建築構造を調べたり、またイスラエルの神殿の中身を思い出すと、聖堂の作りを理解することができます。要は入口から、中に、奥に入っていくにつれて、そこが聖所、そして至聖所に近づいていくようになっています。


 そして、ハギア・ソフィア大聖堂は、宗教性の高いドームを取り入れました。神の世界への上昇する空間をそれで造ったのです。プラネタリウムでは天座を見るわけですが、ドームではまさに神の御座のある天を示していると思われます。当時の人々にとっては、この空間に入ることによってまさに、神の世界の中に自分がつながったと感じたことでしょう。(動画

 そして、モザイクなどの絵画も始まります。公認前は、キリストご自身を示す時は、偶像礼拝につながるとして絵画で表現することをせず、良き羊飼いや羊など、象徴のみで表されました。それに、描いてしまったら、見つかって迫害される惧れもあったことでしょう。けれども、ニカイア公会議というもので、イエス様が神であり、また完全に人であるという教会の見解が出た後は、人としてのイエス・キリストを表現してもよいという、ゆるみが出てきました。それでも、モザイクやフレスコ画が多く描かれるようになったそうです。

 イスラエルを何度となく見てきた者にとって、コンスタンティヌスの母ヘレナが建設するように命じた、イエスの墓の上に建てた、エルサレムの「聖墳墓教会」と、主が降誕されたベツレヘムの「生誕教会」は、まさにビザンチン時代の建造物で、ハギア・ソフィアがその正体のようにも見えました。

痕跡の少ない、公認前の古代キリスト教

 けれども、私の心の中では、やはり「公認前のキリスト教のあり方」にもっと共感、親しみ、模範を見ます。キリスト教らしき装飾もない状況って、まさに今の自分の教会の姿だし、イエスの像も置きたくないと思っていて、霊とまことによる礼拝であり、象徴物は置かないほうがいいのではないか?と思っているほうなので。日本は信教の自由はありますが、それでも、社会的には認知されていない状況は続いているわけで、公認前の古代キリスト教の姿のほうに、想いを馳せています。例えば後日向かう、エペソ。そこには、道端にキリスト者たちの集まる暗号のような落書き「イクサス」があります。

 とはいっても、その後のキリスト教があってこその今の自分たちでもあり、これはこれで何か、大事な教訓であり、とてもよい学びです。

教会 ⇒ モスク ⇒ 博物館 ⇒ 再びモスク

 ところで、オスマン帝国はカーリエ博物館と同じように、アヤソフィアをモスク化しました。聖堂の周りにミナレット(尖塔)があったり、モスクとしての基本的な機能を取り入れています。そしてモザイク画は漆喰をしました。そして、トルコ共和国が始まって、トルコの近代国家、世俗化を目指していたアタトュルクは、ここを教会でもなく、モスクでもない博物館にし、漆喰は剥がして、モザイク画は見えるようにしました。

 しかしところが、2020年7月に、エルドアン政権がここをモスクに戻したのです。聖画のところには布の覆いをかけて、エルドアン大統領自身が、コーランを朗誦しました。ギリシャを初めとして、「世界中のキリスト教徒への侮辱」と抗議が出ました。世界遺産に指定したユネスコも、深い懸念を表明しましたが、今は礼拝以外は、一般人に公開されるという、従来のやり方を守っているので、世界遺産の資格は剥奪されていないようです。そして、実はカーリエ博物館もモスク化したとのこと。こちらも同じように、礼拝以外は一般公開されていると思います。

ハギア・ソフィアの再建者、ユスティニアス帝

 ハギア・ソフィアは、二度の火事に遭いましたが、今の大聖堂として再建させたのが、六世紀に君臨していたユスティニアス帝です。金に糸目をつけず、世界中から工員を集めて、工事開始を急がせたそうです。そして、たった6年近くで工事は終了して、537年に献堂式を迎えています。

 ディレクさんによると、なぜユスティニアス帝が建築したのか?と言いますと、一つは、ローマ世界にキリスト教の象徴的記念物が必要だということがあるけれども、もう一つは、ニカの乱という暴動があったためだと言っています。

 ユスティニアス帝とその妻テオドラはとても興味深い人物です。時は、すでにローマ帝国は東西に分裂していて、西ローマ帝国は外敵の侵入によって滅亡していました。かつてのローマ帝国を再統一させるべく、西地中海に征服戦争を開始し、一時、地中海全域における支配を再現しました。けれども、そのために莫大な重税を課したりして無理があり、死後は元のビザンツ帝国に戻りました。これが長期的には、東ローマ帝国の衰退につながったそうです。

 彼の話を聞くと、非常なる理想主義者、理念の強い人で、とても真面目で不眠不休で働いた人だけれども、それゆえに専制君主になったと言う感じですね。

 彼の時代に、ローマの司法を改革するべく、法制の集大成である「ローマ法大全」を完成させました。後の欧州の法典に影響を与え、今も影響を与えているそうです。そしてつい最近まで、世界の貨幣制度を支えていた金本位制も彼が導入したものです。宗教においては、熱心に神学の関心を寄せる人だったようで、カルケドン公会議でキリストの単性論を異端として退け、他宗教と共に取り締まっていったそうです。

 そして、先ほどのローマ領奪回のための戦争ですが、その戦費のため国民に重税を課すようになりました。当時、市民は「パンとサーカス」という言葉にあるように、権力者から無料でパン(食糧)が与えられ、また、サーカス(娯楽)が与えられることで、満足していました。そこに皇帝が現れて、市民が直接、対面でき、皇帝が市民から認められるという、愚民政治として批判されながらも、市民政治が維持されていました。ローマのコロッセウムが最も有名ですね。

 コンスタンティノープルでは、ハギア・ソフィアの向かいに戦車競技場(ヒッポドローム)があり、そこがサーカスの役割を果たしていました。翌日、そこを訪問します。皇帝が即位する時は、ハギア・ソフィアで戴冠式がありますが、それは形式的なもので、競馬場で即位式が市民の前で行われました。戦車の競走がほぼ数日毎に行われて、青と緑のチーム分けがされて、それぞれに高官たちがスポンサーとなります。従来、皇帝はどちらかを選択することが慣わしになっていましたが、ユスティアヌスは青色に付きましたが、内心はこうした遊びにかかわるのを蔑んでいたようです。

 応援団の暴徒が犯罪を犯して、処刑台で刑吏が処刑に失敗し、二人が教会に逃げ込みました。官憲が教会を取り囲みました。競馬場の市民が、音頭を取って釈放を呼びかけますが、聞き入れられませんでした。それで、「勝利(ニカ)を!」と叫んで立ち上がり、暴動となったのです。これが「ニカの乱」と呼ばれる所以です。暴動が収まらず、逃げようとしていた時に、妻テオドラの有名な言葉があります。「帝衣は最高の死装束です!」と訴えたのです。それで、鎮圧に着手しましたが、その時、三万人もの市民を殺したと言われています。

 この暴動の時に、市民は教会に火をつけ、ハギア・ソフィアも消失しました。そこでユスティニウスは早急に復旧に取りかかったのです。しかし、復旧というよりも、これを機にこれまでにない規模の荘厳な聖堂を建てることを決めました。こういうわけで、「ハギア・ソフィアがニカの乱をきっかけに建てられた」と言われる所以です。

 ところで、建築が完成し、献堂式の時に、イスラエルのソロモンの神殿を超える聖堂を建てたので、「ソロモンよ、余は汝に勝てり!」と叫んだとのことです。

聖堂内見物


(「地球の歩き方」から)

 といっても、ハギア・ソフィアの建築の構造は、ソロモンの神殿とも違うし、従来のギリシャ・ローマ様式でもないとディレクさんは説明しています。従来のギリシャ・ローマ式、バシリカ様式では、長い長方形が特徴ですが、上で見ての通り、それほどではありません。天井に大きなドームもあります。もっと円状の設計図になっているとのことです。

 大聖堂の設計図には、その位置でそれぞれの名称があります。こちらのウィキペディアは、西欧の大聖堂の平面図なのですが、多少なりとも参考になるでしょう。ハギア・ソフィアの中心部は、奥行75㍍、幅70㍍、ドームまでの高さが41.4㍍という広がりです(写真)。これだけの荘厳さがあり、コンスタンティノープル市民がここに入れば騒動のことも忘れてしまうだろう、ということで、ユスティニウス帝は罪償いの思いがあっただろうとのこと。

 ドームなど、これだけの重さを支えている巨大な円柱が8本あり、その一部はある古代神殿(?)から運ばれてきたものですが、後で説明があります。そして、オスマン帝国になってからモスクに変えたことをディレクさんは言及しますが、円盤がありますが、そこにはアッラーの名や、ムハンマド、カリフの名前があります。モザイク画を漆喰をしたのですが、トルコが共和国になってから剥がします。けれども、一つだけ、ドームに上塗りされた、15世紀のイスラム美術を表している書体はそれ自体が美術的価値があるので、そのままにしているのだそうです。

 中に入っていき、「オンファリオン(おへそ)」と呼ばれる四角形の部分があり、立ち入り禁止になっています(写真)。真ん中に、円形の部分がありますね。ここで、皇帝が戴冠式で冠を受けました。皇帝の戴冠は、キリスト教世界の中心であり、つまり世界の中心と考えられていました。これは、中央のドームの下にあるのですが、やや外しているのは、ドームは主イエスご自身の御座を表しているため、その真下にはならないようにしたと、ディレクさんは説明しています。

 最も奥の後陣のところに行きました。正教会では「至聖所」と呼ばれているところで、重要な聖体機密(私たちの言う聖餐式)が執り行われるところだそうです。

 上の半円ドーム(写真)を仰ぎますと、右のように聖母子画(マリアと子イエスのモザイク画)があります。カーリエ博物館で見てのとおり、その描き方は、後のルネッサンスに影響を与える写実的なものですね。当時、建てられた時はなかったもので、9-11世紀に描かれたものだろうとのことですね。

 ここら辺には、モスクの痕跡も残っています。「ミンバル」と呼ばれる説教壇があり、「ミフラープ」と呼ばれる壁龕があるのですが、方角が建物の中央を向いていません。理由は、聖地「メッカ」を向くようにするためです。建物全体のやや右よりに設置したのです。(ですから、エルドアン大統領などがモスクとしてここで礼拝した時の写真が、僅かに傾いてみなが拝礼しているのはそのためです。)

 そして、イスラム教の図書室になっていた部分に動きます。それよりも向かいにある、青緑色をしている円柱にディレクさんが注目させます。これが、エペソのアルテミス神殿からの再利用物なのです!キリスト教公認の後、彼らはアルテミス神殿を破壊しましたが、ここハギア・ソフィア大聖堂でその四つの柱が残っている、ということですね。なんで異教の宮の柱をキリスト教に使っているの?という疑問に対して、ディレクさんは、「再利用のため、実際的な理由よ!」と簡単な回答を与えました。(笑)ジェイさんが、このことを説明します。



 それからコリント式の円柱にモノグラムが描かれているのですが、それがユスティニアス帝と妻テオドラのものだとのこと。ユスティニアスがあれほどの人になった原動力はテオドラだと言われています。ニカの乱の鎮圧にも彼女の助言によって行われたのであり、その彼女の絵画をここに残していくのは刺激的過ぎる、と判断し、イニシャルだけにしたとのこと。

 入口の拝廊のほうに向かいました。一階の南側部分のティンパヌム(扉上の半円部分)に、「聖母子に献上する皇帝」が描かれています。聖母子が中心にいるところを、左にいるのはユスティニアス帝で、ハギア・ソフィアを献上しています。右側にいるのはコンスタンティヌス帝で、コンスタンティノープルの都を献上しています。



 ディレクさんの説明では、「国家と教会の結合」を象徴しているとのこと。みなさんはどう思われますか?私は、ドンピシャだと思います。これは、教会の霊的な純潔が汚されたとも言うべき出来事とも言えるのではないか?と思います。そして、興味深い洞察をくださいました。なぜ、コンスタンティヌスが、ローマから遷都したのか?ということ。ローマは、異教があまりにも強く、新しい場所が必要だったということです。

 拝廊の北のほうに、石畳の坂道があります。凸凹で急勾配になっているのですが、これもまた見ものです。敵の侵入を防ぐために敢えてそうしたのだということ。上りきると、二階のギャラリー(トリフォリウム)があります。ここに、皇后が立っていた場所を示す緑の円柱があり、下層階を見るには絶好のシャッターチャンスをつかめます。(写真1写真2

 しばらく歩いていくと、「デイシス」と呼ばれる、ビザンティン美術において伝統的なイコン(聖画)があります。



 イエス様が玉座に着かれ、聖書を持ち、傍らにマリアとバプテスマのヨハネがいます。ハギア・ソフィアのモザイク画の中では最高傑作と言われているそうで、1260年頃に描かれたと言われています。カーリエ博物館、またハギア・ソフィアの後陣にある聖母子と同じように、ルネサンス式の洗練さがありますね。ところで、何で下部がなくなっているかというと、ここを巡礼に来る人々が、お土産としてモザイクの石を一つもらっていってしまったとのこと!

 これで全体を見回りました。ユーチューブですと"Hagia Sopia"の検索できれいな映像がたくさん出てきますが、日本語の解説付きのがとても見やすい、分かりやすいと思いますのでご紹介します。



 そして外に出てから、全体写真を撮りました。これが、私たちのグループメンバーです!


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