2019年トルコ研修旅行記 4月3日 その2
イスタンブール②

1.聖ゲオルギオス大聖堂
2.コンスタンティノープル競馬場
3.ブルーモスク
4.トプカプ宮殿
5.グランドバザール


(1.と2.は、「その1」へ)

ブルーモスク

コンスタンティノープル競馬場からブルーモスクへ(グーグル地図

 先にお話ししたように、競馬場に隣接して、ブルーモスクが、スルタンアフメット公園の中にあります。Turkish Air&Travelから拝借した右の写真で確かめてみてください、右端に競馬場が、オベリスクが立っているのが見えますね。向こう側の海はマルマラ海です。噴水が見えますが、この前で、前日、全員写真を撮りましたが、アヤソフィアを背景にして撮っていました。すべてが同じ敷地にあります。

 前日と今日の前半は、1453年に滅んだ東ローマ帝国の遺構を観てきましたが、ここから、オスマン帝国時の遺構と名所を観ていくことになります。

 ブルーモスクはいわば別称で、正式には「スルタンアフメト・モスク」と呼ばれるようです。おすま帝国の第14代のスルタンであったアフメト一世が建造したものだそうで、1609年から1616年の7年の歳月がかかったそうです。つまり、向かいにあるアヤソフィアの一千年紀を経て、建てられているということですね。

 アヤソフィアに形が似ています。それもそのはず、アヤソフィアに模して、かつそれに勝るモスクを建造したからです。アヤソフィアは、バシリカ(長方形の聖堂)に比べて、中央ドームの他に二つの副ドームをつけるという画期的な方法を取っていました。けれども、前日、内部を見たように、それをするには四本の巨大な柱が必要でした。千年間という時を経て、技術が前進していました。柱を壁の中に埋め込むことに成功したそうです。

プロテスタントっぽい発想(でも根本は違う)

 さらに、Turkish Air&Travelには、興味深い説明があります。「ブルーモスクはスレイマニエ・モスクの半世紀後に作られましたが、オスマン建築の最高傑作といえます。副ドームは大小4つありますが、相互に組み合わせたような形で一つのドームのようになっているのです。その天井は信者の頭の上に大空のように青く広がり、モスク内のどこに立とうが座ろうが、中心にいるように感じられます。私見ですが、バシリカはキリスト教の建築様式です。キリスト教は聖人・聖像・奇跡を重視します。バシリカ内部のそれぞれの位置はキリスト教における階級性を示しており、外観の垂直な線や鋭い角度は、神と人間の関係の反映に他なりません。」

 これは、プロテスタントではない、正教会を始めとする伝統的な教派の聖堂についていうならば、その通りです。プロテスタントの信仰のスリム化に似ている部分があります。アッラーへの従順を証言することで、他の改宗手続きもなくムスリムになるのだそうです(参考記事)。信仰によってのみ救われるとするのは、プロテスタントですね。アッラーと人との間にはいかなる仲介者も置いてはならないとしますが、プロテスタントでは、マリアや聖人の助けなくとも、イエス・キリストのみが仲介者だと信じています。すべての信者が神に対する祭司であり、階級はありません。あとでモスクの中に入るとわかりますが、幾何学的な模様のみの装飾であり、それは偶像礼拝を拝するためで、私たちプロテスタントも表象物は十字架ぐらいですね。

 しかし、イスラム教には根本的違いが、もちろんあります。イエスが神の御子であるということの否定、行いによる功徳です。彼らが証言する言葉には、「崇められるべきものはアッラーの他になく、かれには配偶者も子もいない」というものがありますが、つまり「神には御子がいない」ということがあります。私たちの信仰告白、「イエスが神の御子キリスト」を真っ向から否定する言葉が、信仰の表明になっているのです。ヨハネ第一によると、御子を信じないものは神を持っていないとあり、イスラム教は私たちの信じている神と異なる神を信じている、と私は思っています。

キリスト教に模し、優位性を見せるイスラム教

 それにしても、アヤソフィア自体もモスク化して、それでも向かい側に、似たような、けれども、より優れたモスクを建てるところ、イスラムらしい発想だと個人的には思っています。啓示は、ユダヤ教からキリスト教、そして最終的にムハンマドが受けたコーランによって与えられたとしています。ユダヤ教とキリスト教に論駁、対抗する文面がコーランには散りばめられており、それでいて一定の尊重も持ち、それでイスラムにおいて完成したとしています。ですから、聖地イスラエルでは、ユダヤ教とキリスト教のゆかりの地に、そのままモスクを建造して、「ここはイスラムが征服した」と見せるという発想です。

 エルサレムでは、岩のドームがその典型です。イエス様の十字架刑とよみがえりを記念する聖墳墓教会に対抗して、同じ八角形の形をした。岩のドームを、ユダヤ教の神殿が建てられていた跡地、神殿の丘に建てたことです私は、ブルーモスクがアヤソフィアの向かいに建てられているのを見て、イスラエル旅行での岩のドームを思いだしていました。(「イスラエル旅行記2016年」)

モスクや祈りの意味



 モスクの門を通り抜けると、初めに中庭があります。動画で見るように、ここで既に女性たちは頭に覆いをしていますね。これは入ってくる女性全員がしなければいけません。そして、ディレクさんが中庭で、ブルーモスクの大まかな説明をします。そして、モスクやムスリムの礼拝の基本的な知識を教えてくださいました。中庭のある目的です。第一に、外の喧騒から免れるために、礼拝堂に入るまでの緩衝材的な役割を果たしています。第二に、礼拝の時間に間に合わず、本堂の戸が閉じられたら、メッカの方角を向き、自分自身の、祈るためにひざまずく絨毯を敷きます。なぜ絨毯を敷く必要があるのか?そこが聖なる地だからです。モーセに対する主のことば、「はきものを脱げ、ここが聖なる所だからだ。」と言われたのと似ていますね。各家庭に、先祖伝来の絨毯があるそうで、ディレクさんも持っているとのこと。

 この中庭に、礼拝堂の中の写真展示があるので、そこで説明をします。天井のほうから取った、礼拝を献げている大勢の男性たちの写真があります。大きな縦長の門が前方にありますが、それは、メッカを向く方向に造られているミフラーブと呼ばれます。これがディレクさんの説明では「パラダイスへの門」とのことです。ここを通過して、パラダイスに祈りが届くという意味があるようです。またこの門はあなたの心そのものだとの注釈もつけていました。そして、天井のドームには、コーランの「御光」の章があるようで、そこには「光の上に光を」とあり、「燈はガラスの中にある」という文言があります(35)。心がガラスのように清くないといけないという意味だそうです。

 次に祈りの意味を教えてくださいます。ムスリムであればだれでも行う祈りのしぐさに何の意味があるのか、調べてみたそうです。初めに、メッカの方向に体の正面を向けて立ちます。そして両手の手のひらを前に向けて、耳の横に持って来ます。これは、「神よ、私は聞く用意が出来ています」という仕草だということ。黙示録の七つの教会に、イエス様が「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われました。

 次に、女性であれば両手を胸の前に持って来ます。男性はお腹の下に持って来ます。女性の胸に手を持ってくる仕草はエバのいのちの原理で、男性の腹に手を持ってくるのは、アダムのいのちの原理とのこと。胸は愛や忍耐について、腹は食べ物が入る所で、勤勉に働き、家庭を支えなければいけないこと。それから、両手を手のひらを上にして開きますが、これは、神の光に自分を開くことを意味しています。

 そして両手を膝に当てておじぎをし、また額を地面につけてひれ伏します。祈りの絨毯の上でそれを行うのですが、それがミフラーブのかたちに模しているとのこと。そこにはガラスの光があり、真ん中にいのちの木があるとのこと。額をガラスの光に触れさせ、神の光が自分の内に入るということを示し、いのちの木が自分の中に入り、神の光によってそれが照らされるという意味合いがあるそうです。それから、「これは神秘主義の解釈で、私個人の信じ方なんだけれども」と前置きをして、「燃える柴は、いのちの木であった」というものがあるそうです。

 ディレクさんとは、二回、トルコ旅行のガイドとして時間を過ごさせていただきましたが、イスラムの神秘主義であるスーフィーの影響を受けている方だと察しました。こちらの記事に、近代西欧化した世俗のトルコ人に、スーフィーが入ってきているという説明があります。(ディレクさんは、イスタンブール大学という名門校出身でアメリカ留学で考古学専攻までしました。)とことんまで「信仰者の心」を問題にしていくとの説明があり、またスーフィーはキリスト教をも巻き込んでいくと聞いたことがあります。ディレクさんは私たちキリスト者に対抗的などころか、とても親和的ですが、その信仰に由来しているのかもしれません。

 そして、ドームの天井が青いですね、また二階のバルコニーにあるタイルがありますが、そこから「ブルーモスク」と名付けられているそうです。



 そして礼拝堂の中に入ります。私は個人的にモスクに入るのはこれが二回目です。一回目は、アブラハム、イサク、ヤコブの葬られている、ヘブロンの族長の墓です。そこはユダヤ教のシナゴーグとモスクとの区分けがなされていますが、そこでもここと同じことをしました、靴を脱ぎます」。ここらへんも、モーセの前に現れた主の命令に似ていますね。私たち日本人には全く違和感のない習慣ですが。

 そして動画を見ていただくと分かりますように、修復工事中なので、ブルーモスクの上の写真のような青色の天井を楽しむことはできませんでした。イマームが説教をする、七つの階段のある説教壇も見えませんでした。ところでイマームは一番上の会談までは上がらないそうで、それはコーランにムハンマドが七つ目の階段に行き、そこで天にたどり着いたとあるからだそうです。

 もっと装飾を施された二階のステンドグラスのタイルは、「イズニックタイルと呼ばれ、トルコの伝統工芸になっているそうです。イズニクは、元々東ローマ帝国時にはニカイアでした。ニカイアで公会議が開かれ「ニカイア信条」とも呼ばれていますね。ジェイさんが指摘していましたが、イズニック湖で古代教会が発見されたニュースがありました。


4.トプカプ宮殿

ブルーモスクからトプカプ宮殿へ(グーグル地図

 ブルーモスクから次の目的地、トプカプ宮殿までも、徒歩で行きました。スルタンアフメット公園を歩き、アヤソフィアを横目で見ながら通り過ぎ、その裏に帝王の門があります(ストリートビュー)。そこを入って、チケット売り場までも結構歩きますが、「第一庭園」と呼ばれるそうです。そして第二の城壁が見えてきて、「送迎門(挨拶門)」と呼ばれるものが見えます(ストリートビュー)。ここでチケット購入、セキュリティーチェックです。そこに広がる「第二庭園」は、芝生と花壇が整えられていて、周りを取り囲むように建物があります。左奥がハレム、右側に厨房があります(ストリートビュー)。


(「地球の歩き方」から)

 この第二庭園から、ディレクさんのガイドが始まります。



 ここは、オスマン帝国のスルタンの居城でした。1453年にメフメト二世がコンスタンティノープルを陥落させた後間もなくして、宮殿を着工。その後、さまざまなスルタンが増築を重ねました。15世紀から実に、第一次世界大戦で敗戦後、解体させられる20世紀初頭まで、オスマン帝国が支配していました。こちらに帝国の最盛期の時の地図がありますが、ウィーン付近から黒海、ペルシア湾にまで及び、アラビア半島、果ては北アフリカまでを支配していたのですから、ものすごい大帝国でした。「トプカプ」という名は、「トプ(大砲)」と「カプ(門)」から来ています。メフメト二世が、コンスタンティノープルの難攻不落の城壁を破壊するために大砲を使っていましたが、その大砲が門に置かれていたところから、この宮殿の名が付けられました。

 四つの庭園から成っています。第一庭園は、既に通り過ぎたところ兵舎として使われました。第二の庭園には先ほど説明したように厨房があり、そこに中国からの陶磁が展示されています。中国とは、元々トルコは中央アジアから来ていますから、中国はオスマン朝を贔屓にしました。そして、「正義の塔」と呼ばれ、ボスポラス海峡をクルーズした時も目印のように見えることが出来ました(グーグル写真)。その下で政治が執り行われ、スルタンが側近たちと頻繁に会っていた場です。

外廷

 そして私たちは、この正義の塔の下にある、スルタンの御前会議場のところまで来ました(写真)。オスマン朝の最盛期の時のスレイマン大帝が建てたものです。とんでもない豪華な作りです。イスラム教の国の御前会議場はディヴァンと呼ばれるそうですが、当時の会議場の様子を絵にしたのがウィキペディアにありました。下の写真と比べてみてください。真ん中の金の柵からスルタンが会議の様子を眺めていたそうです。



 その他、天井のドーム奥の部屋奥の部屋2など、豪華絢爛です。

 そして、ここで確か、「武器庫」を見ました(外観)。オスマン帝軍の様々な武器が展示されていました。撮影禁止だったのだと思います、写真は残っていません。

内廷

 この奥に「ハレム」があるはずですが、たぶん見なかったようです。さらにチケットを購入しなければいけない別の博物館になっているようです。地球の歩き方には、「トプカプ宮殿の最大のみどころの一つ」と評されていました。黒人宦官、女性たち、スルタンの母、スルタン、皇太子、そして「お気に入りの女性たち」のそれぞれの住居があるそうです。ディレクさんも説明してくれましたが、こちらのサイトに詳しく写真付きで解説がありました。いわゆる、官能的で倦怠に満ちたイメージとは勝手に作り上げたイメージであり、意図的に妃の一族が権力を持つことを避け、オスマン帝国が弱体化する原因を作らないために、「奴隷商人から売られて様々な国や民族の女性」を、この宮殿に入ってきたとのことです。

 その中で唯一、スルタンの正式な妻となったのが、スレイマン大帝の側室の一人ロクセラーナという女性で、「オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~」というトルコの超大作ドラマがあるとのことで、ディレクさんが紹介していました。ウクライナ出身の正教会司祭の娘であり、奴隷としてやってきた子でした。けれども、それまでの慣習を破って、スレイマン大帝との間に複数の男子を設けて、事実上の一夫一妻の関係を築いたそうです。それ以来、スレイマンの後継争いに策動して、ハレムの住人が権謀術数によって、帝国の政治を支配するようになったそうです。

第三の庭園へ

 そしてハレムを出たところに、「謁見の間」があります。幸福の門を入ってすぐ目の前の建物です。ここら辺でディレクさんが、ここからの区域は「禁城」となっていて、スルタンや妃、側近たち、決められた衛兵しか入ることが許されなかったとのことです。ここで、王に仕える若者たちを教育するところです。そしてジェイさんがコメントしていますが、前日、説明しましたように、スレイマン大帝こそが、エルサレムの今の旧市街の城壁を建設した人です。つまり、彼らが、ここからイスラエルも支配していました。

 そしてこの庭園に宝物館がありますが、今、改築中で見られないのですが、そこに、「トプカプの短剣」「スプーンのダイヤモンド」などが展示されているそうです(写真入り記事)。

第四の庭園へ

 そして私たちは、金角湾を眺望できる、宮殿の最も奥のところまで来ました。多くのキオスクがあります。キオスクは、庭園の簡易建造物で、ここはスルタンと家族の最も私的な空間でした。テラスにある金色屋根の建物は、イフタリエというそうですで、スルタンが、ラマダンの期間、日没の後に夕食を食べるところだったようです。バグダッド・キオスクなど、いろいろなキオスクがあり、「割礼の部屋」という部屋もあります。幼少の皇太子たちに割礼を施すところだったそうです。その奥に、ものすごく大きい、イズニックタイルがあるとのこと。それから、イェレヴァン・キオスクもあり、これらのキオスクは、オスマン帝国が征服した都市にちなんで名付けたとのこと。

バグダッド・キオスク


割礼の部屋


割礼の部屋の奥にあった、イズニックタイル


 以上ですが、日本語でトプカプ宮殿を分かりやすく説明している動画がありました。





 そして私たちは、宮殿内の"Konyali"というレストランにて昼食をとりました。金角湾が一望できる、すばらしい眺めでした。そこで、ハワイ島のヒロでカルバリーチャペルで牧会をしているロンさんと同じテーブルになり、いろいろ話しました。私たち日本のカルバリーは、カルバリーチャペル・ホノルルから来ている宣教師たちが日本で開拓をしているので、共通の知人たちがいます。

5.グランドバザール

トプカプ宮殿からグランド・バザールまで(グーグル地図
注:バスを乗った場所は違ったところからだと覚えています。ハギア・ソフィアの裏手にある歴史的な邸宅がならぶ通りを歩いた覚えがあります。

 この日の最後の訪問地、そしてイスタンブールの最後の訪問地はグランド・バザールです。ここは、歴史由緒ある巨大市場で、広大な土地に4000軒以上ものお店があり、60を越える通路が走っているそうです。貴金属や絨毯、革製品やランプなど、トルコを代表する品々が並んでいます。入口はこちら。



 1461年と書かれているとおり、そう、メフメト二世がイスタンブールの町を始めて間もない時にすでに始まっていた!という、単なる市場でなく、歴史的名所でもあるのです。スレイマン大帝の時に大幅に拡張したとのこと。

 そういうことで実は、私は個人的に、ここに来るのを楽しみにしていました。エルサレム旧市街の街並み、その細い路地にお店が所狭しと並んでいる、あの姿は、オスマン時代のものだと聞いていたからです。ビザンチン時代の聖墳墓教会が、ビザンチンの総本山アヤソフィアにそのルーツを見た思いをしましたが、ここを歩いて、「なるほど、旧市街のルーツはここにあるんだ!」と。日本人旅行者による旧市街訪問のユーチューブ動画をご覧になると()、以下の撮影したグランド・バザールと雰囲気が似ているか分かると思います。



 老舗的カフェを通りかかったのを覚えています、ジェイさんたちがトルコ・コーヒーを飲んでいたので。

 ということで、濃密なイスタンブール訪問は終わります!明日は、空港に移動、そこから一気にアンティオキアのあるハタイに飛びます!