2019年トルコ研修旅行記 4月3日 その1
イスタンブール②
1.聖ゲオルギオス大聖堂
2.コンスタンティノープル競馬場
3.ブルーモスク
4.トプカプ宮殿
5.グランドバザール
(3.から5.は「その2」へ)
ダニエルの解き明かした「夢」を想う旅
私たちは、イスタンブールの旅で、東ローマ帝国時代とキリスト教の発展を前日、また本日、辿っているですが、かつてTBSが五回シリーズで、ドキュメンタリー番組を製作していたのを発見しました。
この二日間で訪れたところ、ハギア・ソフィアを始め、一つ一つを鮮明な映像で演出しています。この旅行記と共に視聴されると、理解と楽しみが倍増まちがいなしです。東ローマ帝国史は、自分の世界史観を変えてしまうほどの衝撃でした。また聖書預言そのものでした。このことを、ブログ記事にしたので、よかったらぜひ読んでください。↓
1.聖ゲオルギオス大聖堂(コンスタンディヌーポリ)
(コンスタンティノープル総主教庁)
ホテルから聖ゲオルギオス大聖堂まで(グーグル地図)
これから向かう聖堂は、現在のコンスタンティノープル総主教座の所在地です。ハギア・ソフィア教会が、オスマン帝国の支配下に入る前までは総主教座の所在地でありましたが、それ以降、1600年頃からはここが座所になっているそうです。
使徒たちがいなくなった後、キリスト教会は、6世紀ぐらいまでには、五か所に監督権のある所在地(総主教座と呼びます)がありました。ローマ帝国の都であるローマ、それが遷都したコンスタンティノープル、ローマの有力な都市であり異邦人への宣教の拠点となったアンティオキア、それから教会が誕生したエルサレム、そして、アフリカを管轄するアレクサンドリアです。(このうちローマは、東西教会の分裂によってカトリックの聖座となります。)
正教会においては、ローマ教皇のような上に立つ唯一の権威はなく、ちょうどフランチャイズのようなイメージで、各総主教は並列に位置しています。それでも、かつて東ローマの首都であったことから、コンスタンティノープルは全地の総主教であり、全世界の正教会信徒の精神的な指導者とみなされているそうです。
建物に近づくと、ハギア・ソフィアなどビザンティン様式の建物とは異なることに私も気づきました。度重なる火災で19世紀に改造されたようであり、新古典主義の影響を受けた建築だとのことです。そして中央の入口の上にある紋章は、「双頭の鷹」と呼ばれて(写真)、ローマの象徴であり、東ローマ帝国を継承した象徴として使っているようです。
この鷲の紋章を見て、なんかアメリカ合衆国の国章の鷲に似ているな?と思いました。調べてみると、世界の多くの国でも紋章として使われていて、特に欧米では、ローマ帝国の国章に模して使われているようです。ますます、ダニエル書の、人の像の夢を思い出しました。二本の鉄の脚の先は、「鉄と粘土が混じり合った足」でしたが、現代の欧米諸国にその姿が色濃く残っていることが分かります。
次の動画は、聖堂内で撮影したものです。ちょうど復活祭に近づいており、祈祷が行われている最中で、邪魔をしないようにディレクさんが非常に小さい声で解説をしています。神品(正教会の聖職)の方々が祈祷を献げている姿を見ることができますので、貴重な映像を撮れたと思ってます。
ところで正教会が日本に宣教に来て、私たちが一般に知っている一つ一つの言葉に独自の用語が使われています。例えば、礼拝は奉神礼と呼び、聖餐式は聖体礼儀と呼びます。そして、聖堂は、ユダヤ教の神殿に模しているようであり、聖所(内陣)と至聖所(アプス)に区切られていて、その区切りをイコノスタシス(聖障)と呼ばれます。ここにイコン(聖像)が飾られているためです。一般の信徒は聖所までしか入ることが出来ず、至聖所は神品とその補助のみが入ることができます。動画では、誦経(祈祷文を読む)もしくは、詠隊(聖歌隊)が歌唱しているのか?と思われます。(写真)
ちなみに、イコンについては、正教会の信者さん自身の説明によると、こうなるのだそうです。「聖像、イコンは単なる大切な人の写真以上の意味があるのだそうです。神が人となった、物質的な肉体と精神を持つ存在として私達のただ中に来られたという神学的な意味を帯びて、人間をより神に近づけるための道標として古の教会から受け継いだ聖なる伝統なのです。第七回全地公会議」ゆえに正教会に行くと、イコンがめちゃめちゃ多いですね。
その伝統に基づいた祭儀は、自由に祈り、歌い、簡素な礼拝順序しか持っていない、プロテスタントの福音派教会の私としては、内容は同じものを信じているのだろうと何とか想像するのですが、あまりにもの違いに正直、戸惑います。私たちが、聖書のことばを聞き、そこで見えてくる、霊的な実体を信仰をもって受けとっているのでしょうが、彼らはおそらくは、そうした表象的なもの、視覚的なものを通して、その奥にある霊的なものに触れて礼拝を献げているのでしょう。ただ、驚いたのは、祈りを献げたり、賛美をしている人々が、余りにも無表情、堅いことです。私の表情が堅いのがお分かりになるでしょう。そうでもしない限り、笑顔でも見せるものなら、ここにいることができないとまで感じたからです。
しかし、もしかしたら儀式や伝統の要素のない自由な方式のほうが、キリスト教会全体としては少数派なのでしょう。何度か、ユダヤ人信者たちが集まる、メシアニックの礼拝に参加しましたが、決められた祈祷文や聖句を読み上げる部分が非常に大きく、長い時間かけていました。元来、礼拝や祈祷はそのように、定められた式辞のようなものがあるのが主流なのかもしれません。
ディレクさんは、側廊にある二人の聖人(正教会では「克肖者」)の不朽体の説明をしています。不朽体とは、聖人の遺体のことで、正教会では崇敬の対象となるそうです。2004年、バチカンが、十字軍が東ローマ帝国を攻め取った時に奪った聖遺骨を、「傷ついた記憶を清める」ため返却したとのこと。(関連記事)名説教で有名なクリュソストモスとカッパドキアの神学者グレゴリオスのものです。正教会では、バシレイオスも入れて三人を「三成聖者」と呼ぶそうです。時の教皇、ヨハネ・パウロ二世はトルコと親交を深め、中東地域に対する十字軍のしたことに心を痛めていたそうです。初代教会の指導者教父たち(正教会では「聖師父」)には、小アジアやカッパドキアなどトルコ出身者が多いのです。
もう一方の側廊には、女性の不朽体、聖遺物があります。大致命女(女性の殉教者)、聖エウフェミアは、キリスト者に対する最後のローマの迫害で、拷問を受け死にました。テオファノは、レオン6世の妻、九世紀のビザンチン帝国の皇后でした。もう一人がサロメなのですが、マリアと共に主の十字架のそばにいた女とされていますが、定かではないそうです。(当聖堂についての詳しい説明)
「正教会」の信仰
ところで、イスラエル、ヨルダン、エジプトへの聖地旅行をするにあたって、キリスト教会というと、正教会やその他の東方教会の姿が大半なので、予てから正教会の存在が気になっていました。それで、トルコ旅行、特にイスタンブール訪問は、その起源ともいうべき歴史に触れることができ圧巻でした。日本にも正教会は来ています、ロシア正教会からのものです。御茶ノ水のニコライ堂を始めとして、「日本正教会」があります。そこの公式サイトには、正教会とはという項目と、東方正教会の歴史の項目があります。ぜひ読まれることをおすすめします。
なぜ、「正教会」というか?というと、「唯一の正統な教会」という意味からでしょう。「イイスス・ハリストス(イエス・キリストの日本正教会訳)の十字架刑による死と三日目の復活という出来事を「神による人間の救い」として直接体験し、その証人として世界中に伝えたお弟子たちのことを特別に「使徒」と呼びます。正教会はこの使徒たちの信仰と彼らから始まった教会のありかたを、唯一正しく受け継いできたと自負します。」(「正教会とは」から)
新約聖書の写本を守り、正典化したのは正教会。異端を排除して、教会の正統さを守り抜くために、合計七つの公会議を開いたことを自負し、中東の東方諸教会を異端と宣告しました。教会の東西分裂については、分裂したのではなく、西方(カトリック)が正統な教会から分かれ出てしまったと主張。プロテスタントに至っては、カトリックにある腐敗に抗議したまではよかったものの、正教会に回帰すればよかったものの、「聖書だけだ」と主張していると批判しています。他教派への排他的姿勢が目立ちますが、それが一つの信仰の表現でさえあると感じました。「正統性を守り抜いている」という自負と責務があるからです。
正教会の教えとしては、カトリックは「ギリギリ」であり、プロテスタントに至っては救われていないとまで考えていると、正教徒の人たちから聞きました。かつて、福音派の教会にいたけれども、正教会に改宗する人々は欧米では一定数います。「改宗」手続があるのですから、その排他性はすさまじいです。
正教会の基本的な教えを傾聴すれば、私自身も基本的に信じていることであり、それもそのはず、歴史的、正統的な教えを受け継いでいるからこそのキリスト教なのであり、それはプロテスタントの信仰でも同じなのです。けれども、仔細なことの違いで、それは根本的な違いだとして、異端的とみなしていく傾向があるようです。私は、ここにキリスト教会のヘレニズム化(理論体系化)、分裂の種があると感じました。異端宣告にも、人間的な、政治的な思惑とは無縁ではなかったとさえ感じます。けれども、私の、ただかじっただけの知識では、早まった判断はしてはいけないでしょう。以下の本をいつか、読まないといけないとは思っています。⇒ 「正教会入門」
以上ですが、参考記事としては「【徹底比較】キリスト教にはどんな宗派がある?3つの宗派をまとめてみた」があります(細かい点で、事実の間違いがありますが、大まかなことは分かりやすくまとめられていると思います)。けれども、正教会とて、ローマ帝国の中で主導権を握ったということで、異端宣告をした東方諸教会はさらに東方、中東にある教会の元祖的存在です。その一つシリア正教会は、充実した日本語のサイトを持っています。そして、次の本がおすすめです。 → "The Lost History of Christianity: The Thousand-Year Golden Age of the Church
in the Middle East, Africa, and Asia--and How It Died" by Philip Jenkins
2.コンスタンティノープル競馬場(復元図1、復元図2)
聖ゲオルギオス大聖堂からコンスタンティノープル競馬場まで(グーグル地図)
私たちは前日、訪れたアヤソフィアの近くに戻ってきました。アヤソフィアの前には、「スルタンアフメット公園」が広がっています。前日、アヤソフィアを背景にして全体写真を撮ったところも公園の一部です。その向かいに、後で訪れるブルーモスクがあります。この一帯は、皇帝の大宮殿でした。宮殿の跡は、この公園の下に深く眠っており、発掘できない状態です。その宮殿の横、ブルーモスクに隣接して、コンスタンティノープル競馬場があります。(地図)
写真に見るように、今は、細長い公園になっています。実際の遺跡は2㍍ぐらい下に眠っており、両側にあった、10万人を収容できた観客席もなくなっていて、残っているのは、オベリスクなどスピナ(「背骨」の意)と呼ばれてる、トラックの中央の障壁の真ん中に立ち並んでいる記念碑のみです。当時の姿は、次のページに、数多くの絵や地図を掲載して、説明してくれています。→ How much of a popular force was chariot racing in the Byzantine Empire?
ローマ帝国における戦車の競走は、映画ベンハーに出て来る、カイサリアの競馬場の場面にあるように、非常に人気のある競技でした。大きな都市には競馬場があり、アレクサドリアや、私たちが次の日に訪れるアンティオキアにもありました。ローマが東ローマでキリスト教化されて、キリスト教徒は、この娯楽を嫌がっていました。文字通り流血を見る残酷なものですし、コロッセウムではキリスト教徒たちが野獣に喰い殺されるのを人々は楽しんでみていたのです。けれども、あまりにも人気があったので、このコンスタンティノープルでも作ったようです。
大宮殿が隣接していますから、皇帝は、直接つながっている皇帝専用席に着いて競技を観戦していました。それは、自らその娯楽を楽しむというよりも、ローマ市民と皇帝が同じところにいることのできる場だったからです。そこで試合を楽しみながら、皇帝にも意見を言うことのできる、いわばローマの民主政治の場だったのです。競技の他に、政治的な会談、皇帝の即位式、凱旋式などの政治的行事や、公開処刑の場としても使われていたそうです。そして、ここはローマの退廃もよく表しているところで、皇帝に対して不満があっても、無料で食糧を提供し、娯楽を提供することで不満を解消させていた、「パンとサーカス」の場でもありました。
そして、ハギア・ソフィアを後に建てるユスティニアヌスは、この戦車競技場で、後の妻、テオドラに会います。彼女はなんと、踊り子でした。皇帝は、彼女に一目ぼれしたのですが、彼の叔父ユスティヌス一世の母が反対しました。彼女の死後、結婚したのです。彼女は政治にも助言をし、女帝さながらでした。そして、前日の旅行記で説明した「ニカの乱」がここで起こります。青と緑のチームの抗争が政治的、宗教的思惑とも絡まって暴動に発展し、市民の抗争になることもありましたが、その中で532年に起こったニカの乱では、3万人が皇軍によって殺されたのです。そのきっかけが、テオドラの言葉によることは、前日の旅行記でお話しした通りです。この時にハギア・ソフィアにも火が付けられて消失していたので、反乱鎮圧後に速やかに再建しました。
聖書の面影① 「蛇の柱」と「ペルシア兵の青銅製武器」
コンスタンティヌス一世とその後継者は、新たな首都のイメージを高めるため、帝国全土から芸術作品を集め飾ったとされます。その芸術作品をスピナに設置しました。そして、ジェイさんが説明している「蛇の柱」は、スピナの中央部に設置させました。青銅でできていて、頂上部に三匹の蛇の頭があり、その上に金の鉢があったそうです。その鉢は、十字軍の時に略奪されたそうで、頭も一つの一部が見つかって、イスタンブール考古学博物館に展示されています。蛇の頭からは水が流れていて、泉となっていて、それによって競技場の涼みに役立っていたそうです。
そして、この柱には、聖書の面影があるとのこと。コンスタンティヌス一世は、これをギリシアのデルポイのアポロン神殿から持って来ました。元々が、紀元前五世紀にギリシアの都市国家群が、遠征してきたペルシア帝国に戦った「ペルシア戦争」にて、最終的に勝利したプラタイアの戦いの戦勝を記念してのものなのです。その時に敗戦したペルシア兵の青銅の武具や武器を溶解して、この蛇を作ったのこと。このペルシア戦争に、聖書の背景、面影があります。そう「エステル記」です。1章と2章の間に、時のペルシア王クセルクセスが、何度となくギリシアの遠征して、敗北しました。この後に、追放した王妃ワシュティに変わる王妃を全国中から探し、エステルが選ばれました。
ペルシア戦争について、ジェイさんは多くを語ります。エペソの長老たちをエルサレムに行く途中で自分のところに集めたパウロが、彼らと会ったのは「ミレトス」です。そこにペルシア軍が攻めてきて、そのギリシアの都市を支配しましたが、彼らは反乱しました(イオニアの反乱)。ペルシアは、後日私たちが訪問するサルディスに代表者を集め、反乱を鎮圧させましたが、その知らせがギリシアの都市国家群に知られ、彼らは融和するのではなく、連合して戦うことを決意させました。その中に、マラソン競技の起源となったマラトンの戦いがあり、私たち夫婦が2018年に訪れた、テルモピュライの戦いもあり、300人のスパルタ精鋭軍による勇猛がありました。そして最終的に、プラタイアの戦いでペルシアを敗北せしめます。
聖書の面影② トトメス3世のオベリスクの土台と「上に召してくださる賞」
オベリスクは、日本語では「方尖注」とも呼ばれるようで、見ての通り、四角形の断面を持つ、高く長い石柱です。先端部はピラミッド状になっていて、そこに金や銅が装飾されていて、光を反射して輝くようになっていたそうです。古代エジプトの記念碑で、太陽神を模しています。側面には神や王への讃辞が刻まれており、太陽神と共に王の威厳を示す象徴となっていました。
けれども、このオベリスク、世界中で見るようになりました。これほど外国に流出したエジプトの記念碑はなかったのではないかと言われています。ローマは、エジプトに侵攻した時に、戦利品として頻繁に略奪しました。その一つが、この競馬場に残っているオベリスクです。皇帝テオドシウス一世が、持って来ました。ちなみに、テオドシウス一世がキリスト教を国教化(392年)した張本人です。
これは、エジプトのファラオ、トトメス三世がルクソールのカルナック神殿に建てたものだと言われています(紀元前1490年)。トトメス三世は、出エジプト記で、モーセがアロンと共に向かったファラオと言われています(参照記事)。このオベリスクはあまりにも高いので、三つに分割して、コンスタンティノープルまで運ばせました。現存しているのは、その一番上の部分のみだそうです。それでも相当高かったです。ジェイさんによると、あまりにも高いのでこれを直立させるも、反対側に倒れてしまうことも多々あり、相当の技術を要したそうです。
第四回十字軍がコンスタンティノープルを攻めた時、ここにある記念碑も略奪していったのですが、さすがにオベリスクは高く、重いので動かすことができなかったそうです。はるか昔、3500年前に造られ、1600年前に移されたものが、今、ここに立っているのですから、すごいことです。(参照記事、非常に詳しいです)
注目すべきは、このオベリスクの台座です。これは、テオドシウス一世が造らせたものです。(写真)戦車の競技で月桂冠を勝者に与える本人を描かせています。(三面に少しずつ違った彫刻があります。)
ここでジェイさんは、映画「ベン・ハー」のことを話します。ローマ総督ピラトが駐在していたカイサリアにも、競馬場があり、イスラエルに行けば必ず訪れるところです。今でもその遺跡を見ることができます。そこを舞台に、ベン・ハーが、メッサラと戦車の競走で対決して、ベン・ハーが勝利します。(この場面の動画を見ると、ローマ人たちがいかに娯楽として戦車の競技を興奮して見ていたか、またいかに残虐で流血の伴うものであり、観客がその血にも飢え渇いていたかよく分かります。)
ベン・ハーは、時の総督ポンテオ・ピラトの座する席まで上がって行き、そこで月桂冠を受けます。
そこでピリピ3章13-14節の、パウロの言葉を解き明かします。「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」上に召してくださるとは一体、何なのか?当時のローマ帝国の人たちは、この言葉を聞いて、誰もが理解できた、明かなことでした。それは、勝者が権威者、主権者のところまで上がるように召されて、賞を受ける場面でした。
そこでジェイさんが強調していること、「聖書は、そのまま分かるように書かれている」ということです。一部の神学者たちしか分からない暗号、隠されたものではなく、よく分かっていることで書かれているということです。
この話が終わった後に、私の隣にいた大城勝さんと私は互いに顔を見合わせました。つい3日前、私たちの教会で、勝さんが礼拝説教で、ピリピ書3章12-16節から御言葉を語ってくださっていたからです!(動画)なんというタイミング、なんという解説なのか!と、笑いながら感動してしまいました。
欧米諸国の模す、古代ギリシャ・ローマ帝国
ところで、エジプトのオベリスクが、ここコンスタンティノープルを始め、古代ローマのあちこちにあることを知って、驚きました。そして後で気づいてもっと驚いたのは、オベリスクが欧米諸国の大都市に、あちこちに建てられていることです。(例えば、ワシントン記念塔もオベリスクですね。)エジプトから奪い取ってきたものもあれば、それに象って造っているのもあります。こちらのサイト「世界のオベリスク」に、世界にあるオベリスクの訪問記がありますが、こんなにもたくさん存在します。
2018年には、ギリシャのアテネを訪れました。そして今回、イスタンブールを訪れました。そこにある建造物が、今の欧米諸国にある建造物にそっくりなのです。これは紛れもなく、「古代ギリシア・古代ローマへの憧れと復興」であることが分かります。新古典主義という、ギリシアとローマの復興主義があって、それに基づいて建築も行われていったからです(「新古典主義建築」)。アメリカに限って見ると、公共の建築物は、ことごとく復興調です(「アメリカ合衆国の建築」)。ワシントン記念塔はローマのオベリスク、リンカーン記念堂はまるで、アテネのアゴラで見た神殿のようです。2021年1月に襲撃事件が起こった議会議事堂も新古典主義だし、最高裁判所は、アテネのパンティオン神殿のギリシャの神々が登場するペディメントを思い起こさせるものです。ジェファーソン記念館は、ローマのパンティオンを模しているそうです。
ローマは滅んでいるのですが、やはり、アメリカの世界支配(パクス・アメリカーナ)や、その前のイギリスの世界支配(パクス・ブリタニカ)、そして東ローマ帝国の次に現れた「第三のローマ」として、ロシアを始めとして数々の帝国が名乗る辺りなど、世界の人間の歴史は、確かにダニエル書の描いている、ギリシアとローマが織りなす、終わりの日に向けた世界帝国の姿に合致するものであります。
(3.以降は「その2」へ)