2016年イスラエル・ヨルダン旅行記 2月20日 その1
1.オリーブ山
2.ゲッセマネの園
3.ベテスダの池
4.ヴィア・ドロローサ
5.聖墳墓教会
6.クライスト・チャーチ
7.チェナクルム(屋上の間)
8.鶏鳴教会
9.園の墓
昨夜は、シャバット・ディナーをいただき、そのままホテルに戻り就寝。次の日の朝は、詩篇122篇からエルサレムへの都上りの御言葉を読み、また歌もうたいました。エルサレムに来れば、思わずにはいられない歌です。
都上りの歌。ダビデによる
1 人々が私に、「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、私は喜んだ。
2 エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。
3 エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。
4 そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝するために。
5 そこには、さばきの座、ダビデの家の王座があったからだ。
6 エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。
7 おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」
8 私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」
9 私たちの神、主の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。」
参考文献:「エルサレムの概観」
2013年の旅行記に、エルサレムの初日にあたってこの町を概観した説明を書いております。とてつもない歴史的、考古学的に重厚な町であり、一歩前に進めば、その地点を数メートル掘っていき、一つの歴史が古代から現代に至るまでのことが発掘されます。そしてキリスト者にとっては何よりもさらにイエス様の贖いの中心地、そして聖書預言の成就の地と、圧倒される厚みを持っています。玉ねぎの皮を一皮ずつ向いていく興奮と戸惑いがあります。
1.オリーブ山
(2013年の旅、2008年の旅)
ホテルからオリーブ山まで(Googleルート)
エルサレムは、歴史的なエルサレム、つまり旧市街があり、そこが手狭になったため近代に西側に住み始めた新市街があります。ラマダ・エルサレム・ホテルからオリーブ山に行く時は、新市街の中にある、クネセット(国会議事堂)等があるギブアット・ラムの周りを走り、旧市街の南西から動いていきます。バスは、旧市街の北の城壁沿いを走っていきます。恭仁子さんの説明を聞いてください。
ダマスカス門の前を通っています。ここは、旧市街の城壁の中で主要な門の一つであり、ここから幹線道路によってシリヤのダマスコにまで通じる道がありました。ヘブル語ではシェケム門と呼ばれ、ヤコブが住んでいたところ、ヨシュアが律法を朗読したところ、つまりイスラエルの中心部分につながっている街道になっていました。さらに、シリヤのダマスコにまで続いています。かつてパウロがキリスト者を捕縛するためにダマスコに行こうとしたのも、この門から出て行った(もちろん、今の門はオスマン・トルコによって建てられたものですが)と言われます。恭仁子さんは、この場所がとても治安上悪いことを話しておられました。なぜなら、ここはムスリム地区に隣接するところであり、六日戦争によってヨルダンから奪取した東エルサレムに入ったばかりのところだからです。独立戦争後、六日戦争までの休戦ラインを見れば、旧市街の西側の壁沿いに休戦ラインがあり、北側は東エルサレム側、つまりヨルダンの占領下にあったことが分かります。六日戦争でイスラエルが取って、そこを併合しました。私は2010年の旅で、シェケム(ナブルス)に旅をする時に旧市街の中を突っ切って、このダマスカス門の向かいにあるファラフェル店でお昼を食べ、そして園の墓の横にあるアラブ・バス乗り場から出て行きましたし、またグループで城壁の周りを歩いた時にこの前を歩きましたが、大きな問題はありませんでした。けれども、一匹狼型のナイフによるテロは、この辺りが頻繁に起こっていたので、恭仁子さんは注意喚起をしてくださったものと思われます。
濃厚なアラブ・ムスリム人の行き交うダマスカス門でありますが、しかし同じく黒装束の超正統派ユダヤ教徒が歩く姿を見るのです、上のビデオにも出て来ますね。メア・シェアリーム(日本人による旅行記事)という古くからの彼らの町が北西にある、ユダヤ教の最も聖なる「嘆きの壁(西壁)」まで歩くには、近道がまさにダマスカス門だからです。こちらのグーグル地図とYoutube動画で確かめてください。
そして、さらに走り、「ヘロデ門」を右に見て、それから「ロックフェラー博物館(たけさんの旅行記)」を左手に見ます。
神殿の丘の東側沿いの道に右折するのではなく、そのままケデロンの谷を通ります。正面にオリーブ山が見えますが、塔として目立っているのが山頂にある「昇天教会」、その手前が病院と教会を兼ねた「オーガスタ・ビクトリア病院」、そして左にはヘブライ大学の塔があります。ウィキペディアの説明を読んでいただくと分かるのですが、エルサレム旧市街の北東のスコーパス山にある当大学は独立戦争の時にアラブ側から激しい攻撃を受け、休戦後、そこだけがユダヤ側の飛び地になってしまいました。それで、キャンパスをクネセットもある西エルサレムのギブアット・ラムへと移設して、六日戦争後はスコーパス山のキャンパスも発展させました。なのですが、恭仁子さんはさりげなく、「ネボ山からこの三つの塔が見えるという話があるそうだが、そういったことはないという話です。」と言っています!私たちは2月16日にネボ山に上って、そんな話聞きましたよね。(笑)
オリーブ山の聖書的背景
旧約時代
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オリーブ山からは、エルサレムを一望できますので、ここから説明をしておられます。(全景の写真はこちら。)手前が旧市街で、かつてはここだけに人々は住んでいましたが、奥は新市街です。そしてオリーブ山のケデロン川の向こう側にある、城壁の門は黄金門。その手前にムスリムの墓地があります。そしてユダヤ人はメシヤがこの門を通って入る(エゼキエル書43:4、詩篇24)と信じているけれども、それを阻止するため、ユダヤ人が死体に触れると汚れるということで、墓地をムスリムが作りました。黄金門はムスリムによって封鎖されましたが、神殿の門を訪れる時に分かりますが、非常に堅固な建物があります。
そして手前は、ユダヤ人の墓になっています。ソロモンの第一次神殿時代から今に至るまでの墓です。海外のユダヤ人からもここで葬られることを願っています。そして、これらの石もオリーブ山からのものであり、ユダヤ人は「泥からできた人間を泥の中に戻す」という考えがあります。これはまさに、伝道者の書12章7節の「ちりはもともなった地に帰り」のことですね。そして手前の建物が、これから降りてみますが、「主の泣かれた教会」であり、そこから神殿が目の前に見えるようになります。そしてすぐそばの黄金の屋根の建物はロシア正教会の「マグダラのマリア教会」そして麓に、これも後で見ますが「万国民の教会」があります。
そして恭仁子さんは、ここからイエス様の最後の週が一望できると説明しています。ずっと左に、シオン山があります。今立っているところがオリーブの山、そしてケデロンの谷、そして黄金のドームが立っているのがモリヤの山、その向こうが今はふさがっているけれどもチオペロンの谷、そしてシオンの山となっています。山あり谷ありです。(注:シオンの山は、聖書的にはモリヤの山の南、つまり左側のシオンの要害「ダビデの町」がそれです。けれども、ビザンチン朝の時にそこがシオン山だと間違って名づけてしまいました。今のエルサレムでは、その向こうの三角の灰色の屋根のところがそれです。)シオン山のあの辺りで、イエス様が最後の晩餐を取られました。その後に、ケデロンの谷を越えて、一㌔以上歩いてはいけないので、距離内のところのオリーブ山のゲッセマネの所だったということです。そこで捕らえられて、再びケデロンの谷を越えて、シオンの山から斜め左が灰色のドームの屋根が、カヤパの家があったところだったところです。そこで、ユダヤ人から死刑宣告を受けられました。そこでその教会が鶏鳴教会と呼ばれます。そこで一晩捕らえられた後に、ピラトの官邸に連れて行かれます。一年の三度、ユダヤ人の祭りの時にカイザリヤから総督が駐屯します。アントニア要塞があるところです。そこで死刑判決が下ります。そして、灰色のドームの所「聖墳墓教会」のところまで行き、十字架につけられ、そばの墓に葬られ、甦り、四十日後にこのオリーブ山から昇天されます。
今の話を地図で見ますと右のようになります(クリックして拡大)。
そしてビデオの中では説明されていませんが、オリーブ山から左、すなわち南側の様子は次のようになっています。(たけさんの旅行記「オリーブの山」から、クリックして拡大)
手前、右端の「考古学公園」は、神殿の丘の南壁とそのふもとになっているオフェルにあります。そして道路を挟んで左に「ダビデの町」があります。これが元祖エルサレム、シオンの用が居です。この町の特徴は泉がケデロンの谷のほうに流れ出る「ギホンの泉」があり、この水を城内の確保するためにシロアムの池まで地下水道を造ったのが、ヒゼキヤです。そしてシロアムの池ですが、あの生まれつきの盲人が目を洗ったところです。そのシロアムの池のところま当時のエルサレムは城壁がありました。今の、考古学公園のところの南壁は、オスマン・トルコ時代に城壁を当時の城壁の上に建てるはずなのが、間違ってそこが南壁を作ってしまったという話があります。ですから混乱するのですが、壁はシロアムの池のところまで、そしてヒンノムの谷の手前のところまでありました。そしてヒンノムの谷から鶏鳴教会の辺りは、チロペオンの谷の一部のため低くなっており「下町」と呼ばれ、新約時代も貧しい人たちが住んでいました。けれども鶏鳴教会のところから今のシオンの山があり、そちらのほうは「上町」と呼ばれて、ヘロデ宮殿もそこにあり、また祭司長たちはその裕福な所に住んでいて、カヤパ邸も上町にあったのです。
オリーブ山からゲッセマネの園まで(Googleルート)
「主の泣かれた教会」へ
そして山腹を降りていきます。途中で右に曲がり、「主の泣かれた教会」の敷地内に入っていきます。すると、右手に墓の跡があります(左の写真、クリックして拡大)。これは、その教会をビザンチン時代に建てる時に、そこが古代からの墓地であったので、洞窟の墓地が数多く出て来ました。その内の一つです。オリーブ山、とうよりもユダ地方はみな、このエルサレム・ストーンと呼ばれる石灰岩でできています。
見えているのは、遺骨の墓なのです。当時の墓は自然の洞窟に、床を彫刻します。そこに遺体を寝かせて、一年ぐらい経って遺骨だけになるとその遺骨箱に入れます。墓の場所が狭くなると、奥へ奥へ掘っていけばよいです。そして、骨箱に彫ってあった名前から、どうも初代ユダヤ人クリスチャンのものであろうものです。(恭仁子さんの音声説明)
そして、教会に行きます。この教会は、イエス様が神殿を眺めて、涙したところ(ルカ19章41‐44節)を記念している教会で、1955年に建てられています。この教会の特徴は、祭壇が西側を向いていることです。教会の祭壇は必ず東側なのですが、祭壇のところにある窓から神殿の丘が見えるように造ったので西側を向いています。
この教会堂の反対側、神殿の丘(岩のドームのある所)を背景にして私が、短く御言葉を分かち合いました。
オリーブ山(ルカ19:41-44) 1A 神の栄光が去った所 1B エルサレム → 荒野の幕屋の神の栄光が一つの所に留まった。 「申命12:5 ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。」 2B ところが、そこで神の栄光が去ることが起こる。 1C 神の箱は動かなかったが、ダビデはオリーブ山を越えてアブシャロムから逃げた。(2サムエル15:30) 2C ケルビムの上にある神の栄光はオリーブ山から去った(エゼキエル11:23) 2A 出迎えられるが、見捨てられる 1B ホサナと共に、見捨てた石 「21 私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。22 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。23 これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。24 これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。25 ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。26 主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。」 1C イエスは、主人の息子を殺した農夫の喩えで、この箇所を引用された。 2C 八つの呪いを宣言された後に、「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と宣言する日までは、イエスを見ることはないと宣言。 3C その日に至るまで、まず神殿が崩され、困難があり、それから人の子が来られる。 2A 神の栄光の中心が、自我の住むところとなる。 1B 私たちが聖霊の宮、しかし自分がそこに住んでしまっている。 2B イエスが呪われたいちじく、木は生い茂っているが、実は結んでいない。 |
2.ゲッセマネの園
(2013年の旅、2008年の旅)
そして山腹をさらに降りていきます(写真)と、麓にゲッセマネの園があります。ここはカトリックのフランシスコ会の「万国民の教会」の敷地内にあります。正確には、Basilica of Agony(苦悶の聖堂)と呼ばれています。8本の樹齢の木、生命力が強く復活を象徴する。幹が太くなって樹齢が高くなるのではなく、回りに株が生えて来て、中が洞になります。ここでも新しい枝が出て、実がたわわになる。この木が、二千年前にイエス様が触れたとキリスト教徒は信じたいのだが、おそらくはローマによるエルサレム陥落の時に、今もそうだがこの地域では木はとても貴重なので、火を放つ前にきちんと切り倒していたと、ヨセフスは言っている。だけれども、オリーブの木は生命力は強く、根が残っていれば生えてきます。植物学者は、少なくとも七百年ぐらいの樹齢は保証しています。油搾りの場所「ガット・シュマニーム」というヘブル語が「ゲッセマネ」という言葉に変わったけれども、先ほど見た最後の晩餐のシオン山の後にここに来られて、人間的な面と神の子の面を持ち合わせて祈られました。血が出て来るというのは、医学的にも極度のストレスの中でそうなることは証明されています。血の汗というのは、ルカだけが書いたのですが、医者であったからでしょう。
そして、ここで捕らえられてカヤパ邸へと連れていかれ、ビザンチン朝時代に、初めにここで教会が建ち、それが壊されてその上に十字軍の教会が建ち、その二つの遺跡の上に第一次世界大戦の後に今の教会が建てられた。その建設中、ビザンチン朝の時の教会の床が見つかりました。壁に三枚の絵画が掲げられていますが、その一つがイスカリオテのユダがイエスを接吻する絵がありますが、ユダヤ人が髭を生やすとみな似たようになるし、夜には誰が誰なのか分からないけれども、間違って逮捕したらいけないので、ユダが接吻をした男がそうだということにしていた、ということです。(恭仁子さんの音声)
そのオリーブの木の前で御言葉を分かち合いました。
マタイ26章36‐39節
l イエスや弟子たちにとって、ここは私的な場所 「ヨハネ18:1-2イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこにはいられた。ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。」 l しかし、イエスはその中で三人を選ばれ、さらにお一人になられた。 Ø ここに「互いの交わり」と、「独りで主の前に行く」バランスがある。 l 主が、「取り去ってください」と言われた「杯」は? Ø 神の御怒りの杯(エドムやボツラへの裁きの中で見た) Ø これをイエスは受け取られることになる。例:「イザヤ51:17さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。」(エレ25:15,17,28;49:12,51:7;エゼ23:33,34;ハバ2:16;ゼカ12:2) Ø 「神よ、神よ、なぜわたしをお見捨てになられたのですか。」 Ø ゆえに、この方によって神の怒りから救われる。 l 「あなたの御心のように、なさってください」 Ø 祈りの原型。「私ではなく、キリスト」 |
ゲッセマネの園からベテスダの池まで(Googleルート)
ケデロンの谷
この後に、万国民の教会の中を軽く見て、そしてそこを出るともうそこは、ケデロンの谷です。ここは、オリーブ山とモリヤ山またダビデの町(シオンの要害)を分ける、南北に走る谷です。この谷はエルサレムの南を走るヒノムの谷とダビデの町の南東で合流し、それから34㌔先の死海へと流れる「ナハル(川の意味)・キデロン」になります。エルサレムから東へ向かう時は必ずこの谷を下ってオリーブ山を上り、その反対もしかりです。ダビデがアブシャロムから逃亡する時にも、その様子がうかがえます(2サムエル15:23)。アサ、ヒゼキヤ、ヨシヤなど主を愛する王たちが、この谷で偶像を砕いていました(1列王15:13,2歴代29:16,2列王23:4-7)。そして、恭仁子さんが説明しておられたように、イエス様がこの谷を何度も行き来し、最後の夜も、今のシオンの山で過越の食事をされた後にここを渡ってゲッセマネの園に行き、捕らえられて、再び渡って、シオンの山にあるカヤパ邸に行かれました。ケデロンの谷において、神殿の丘のあるモリヤ山とオリーブ山の間が「ヨシャパテの谷」と呼ばれて、ヨエル3章やマタイ25章31‐46節によると、再臨のイエス様が君臨される時にそこで異邦の国々をお裁きになります。そして神の国ではその谷を含めてエルサレムの町が聖別されます(エレミヤ31:40)。英文ですが、谷からの案内の動画があります。
ここは、午後に訪問する鶏鳴教会の敷地から眺め、また次の日、ダビデの町の訪問時に再び通ります。
谷を渡る時に、十字軍時代の「マリヤの墓の教会」があります。まさに谷の底にあるので、相次ぐ洪水に遭ってきたようです。
獅子門(ステパノ門)
ケデロンの谷から獅子門までは、当然ながら上り坂になっています。到着すると、少し息が荒くなっていました。
この門が、利用できる門の中では神殿の丘に最も近い門でしょう。そして、ここを奥に入ればピラトの官邸(アントニア要塞)があり、イエス様が十字架を担がれた受難の道「ヴィア・ドロローサ」になります。ですから、私にはとても、期待でわくわくさせる門であります。そしてかつての歴史だけでなく、六日戦争でイスラエルがエルサレム手中に収めた時、この門から入って神殿の丘に行き、嘆きの壁に動いたのです(動画)。
神殿の丘に近いということで、羊の市場があったであろう羊の門がこの門をもう少し入ったところにかつてありました。ステパノが石打ちの刑で殉教したのがこのあたりだと言い伝えられています。パウロが荷物の番をしました。そしてベテスダの池の横に十字軍時代の聖アンナ教会がありますが、それはマリヤの母アンナにちなんでおり、マリヤがここで生まれたと、イスラム教徒にも信じられている言い伝えがあるからです。
そして門の両脇を見ると、かなり頑丈、堅固な鉄でできたものです(写真)。今の城壁は16世紀にできたものですが、聖墳墓教会は今は城壁内にありますが、当時は外にありましたが、この門を見ると、日が暮れるとどんな事情があっても、旅人が予定通り来なくても、しっかりとこの扉を閉めたのだそうです。旅人は、恐れと寒さに震えながら、一晩、門の外で過ごさなければいけませんでした。そのことを知っていると、新しいエルサレムで、「都の門は一日中決して閉じることはない。(黙示22:25)」というのは大きな意味を持ちます。(恭仁子さんの説明音声)
3.ベテスダの池
(2013年の旅、2010年の旅)
ベテスダの説明:(たけさんの旅行記、Biblewalks.com, NET)
概略
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ステパノの門を通ると、右手にはムスリムの人たちだけが通れる神殿の丘(岩のドーム、アルアクサ寺院))への入口があります。そして少しさらに進むと右を曲がり、そこが聖アンナ教会の敷地の中になります。聖アンナ教会の建物が右手(東側)にあり、その左手に巨大なベテスダの池の跡があります。イエス様の時代の当時の姿は、イスラエル博物館に次のようにあります(たけさんの旅行記から)。
私たちがいる位置は、神殿の丘の北に隣接する東の部分です。後で、エッケ・ホモの教会の地下に、ハスモン朝時代の貯水槽の一部を見ることが出来ますが、ここは神殿の敷地に隣接するところであり、大量の水を必要としていたところでした。神殿での礼拝に、水洗いの清めの儀式はもちろんのこと、大量のいけにえの血が流されるので、その洗浄に水が使われたためです。では、どうしてこの北に隣接する部分なのか?と言いますと、地形の関係です。以下の写真を見てください(NETより)。
これは北から神殿の丘を撮った写真です。この写真の右下の角に矢印がありますね。そこから、聖アンナ教会(Church of St.Anne)の右(西側)にベテスダの池がありますが、そこを通過して、ケデロンの谷(神殿の丘の左、東側)へ川があったとのことです。今は瓦礫で埋められてしまっていますが、それでも僅かに、見方によればうっすらと谷の窪みが見えるかも?であります。つまり、大雑把に言いますと神殿の丘はモリヤの山で、その東にケデロンの谷が走っていて、全体的に北から南へ高度が下がっていますので、自ずとこの辺りに支流が流れているというということです。その水を基本的に使って貯めています。
ベテスダの池は、その原型はソロモンの第一神殿時代からあります。自然にできていた池を貯水池として使い、そこから開渠として神殿の敷地内につなげていました。それを、イザヤ書7章3節で「上の池」と呼ばれているものです。そして紀元前3世紀に、第二の池を貯水量を増やすために建設されました。中心を堤で分離して、それで北の池と南の池ができます。そして池の周りに柱廊があります。二つの池の大きさは、120㍍×50㍍で深さは15㍍もあったそうです。今の遺跡では、両池の堤側の部分が、深い池の底のところに見えるそうです。
そして、この旅行記を書いていて驚いたのは、ヘロデの時代、ベテスダの池とはまた別に、そのすぐ南東のところ、つまり先ほど横目で見た、神殿の丘のムスリムの入口の、今、駐車場になっているところに、ヘロデが「イスラエルの池(Birket Israel)」というものを造っていたそうです。こちらは東西に110㍍、南北に38㍍で、さらに深さがベテスダよりも二倍あったとのことで、驚きました。(Wikipedia)
ここは1930年代に写真のように水も無くなり、貯水池としての役割も果たしていなかったので埋め立てたそうなのです。そして、ずっとここがベテスダの池だと思われていたそうです。当時の地図を見ると、どこにこの貯水池があり、またベテスダの池だと思われていたかが分かるでしょう。そして、ヨハネ5章にある「羊の門=ステパノの門」のことだろうということで、ここがキリスト者の巡礼地になっていました。ところが、1870年頃に聖アンナ教会の西に池の跡があるのを発見して、こちらが本物のベテスダの池だという結論が出ました。
そしてベテスダの池に戻りますと、ヘロデの時代、この「イスラエルの池」を造ったので貯水地としてのベテスダの池の役割がなくなりました。そして別の用途、すなわち「沐浴」や「療養」に使われるようになります。ヨハネ5章に水が搔きまわされることが書かれているように、間欠泉があたったと言われます。ユダヤ人が水洗いの清めの儀式をしたことがありましたが、イエス様が足なえの男を直された時に、水が動いたときに一番先に入ったら癒されると信じられていたように、癒しを受けると信じられていました。そして、「羊の池」とも呼ばれましたが、ヨハネ5章に「羊の門」とあるように、ここは犠牲の羊が数多く連れてこられて、洗われていたと考えられます。1980年代までは、この付近で羊の市場がにぎわっていたそうです。
そしてローマも、蛇の形をした癒し、医療の神「アスクレピオス」を祭った異教の宮を建てています。ユダヤ教によるベテスダ(慈しみの家)がこれら異教の施設と併設していたのか、それとも取り替えられてしまったのか分かりませんが、今の遺跡にはそのローマのは目立ちますがベテスダの跡については意見が分れます。しかし、ビザンチン時代の五世紀、この異教の宮を完全に破壊して、その東半分を宮の跡の上に、西半分を池の中にアーチ橋を七つ作り、南の池と北の池の真ん中の柱廊にまたがる形で造りました。そして614年のペルシヤ軍によって破壊され、間もなくして再建されましたが、イスラム勢力に再び破壊され、十字軍が来た時には廃墟となっていました。そこに小さなチャペルを十字軍が建てました。
ということで、ここはイスラエルの遺跡の典型的な姿、すなわち一つの所に第一次神殿時代から十字軍までの建物が時代ごとに積み上がって建っている跡を観察します。では、恭仁子さんの説明を聞きましょう。
そしてここで御言葉を分かち合いました。
新約聖書はギリシヤ語で書かれていますが、ヨハネはそれをヘブル語で「ベテスダ」と呼ぶと言っています。この意味は「慈しみの家」です。(「ベテ」が家で「ヘセド」が慈しみという意味です。)そして「五つの回廊」があります。これはモーセ五書と呼ばれていますが、旧約聖書の最初の五冊、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記を指していると言われています。ですから、神の律法があり、その真ん中に神の慈しみがあるのだ、ということを表している池です。 l しかし、律法の中にあるはずの「神の慈しみ」を彼は経験できないでいた。 l モーセの荒野の旅を思い出す。約束はあるのだがそれにたどり着けない。 「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:17)」 l ここに相克がある、「新しい働きに、古い人は入れない」 Ø イエスが「直りたいか?」と尋ねられた。 Ø 男は、直っていない理由を述べる。 Ø しかしイエスは、「起きて、床を取り上げなさい」と言われる。そして起き上がる。 Ø 新しい働きを経験した、しかし彼は古い制度の中に留まった。 Ø 男のところにイエスが行かれる、フォローアップのためだ。 Ø 「罪を犯してはならない」病というよりも、新しい働きの中にいるのだから古いままでいてはいけないということ。 Ø ところが「イエスが、自分を直した人だ」とユダヤ人に告げ口。
→彼は、新しい働きを受けたのに、古い制度の中から出てこなかった。
l それは、罪の中にいたかったからだ。
l イエスは、新しい働きを始めておられる。その中にいるには、罪の悔い改め、主に自分が心を広げること、イエスに付いていくことが必要だ。 l 明日、生まれつきの盲人の話を聞く。彼はその新しい働きに乗っかれた人だ。 |
それでは遺跡を見たいと思います。まず、東からの写真はこれです(クリックして拡大してください)。手前がローマの遺跡が目立ち、奥に第二神殿時代の深い北と南の池、そしてローマにも、第二神殿時代の上にも、全体的にビザンチンの教会の跡があります。
そして2013年のたけさんの旅行記にある写真と説明が秀逸です。写真からそれぞれの時代の跡地を色付き線で囲ってくださっています。
こちらは、方向を変えて北からはこちらです。そしてBiblewalks.comにも図面があります。
第二神殿時代の「南の池」の遺跡は驚きます。これによって、第二神殿時代の池がどれだけ深かったのかが分かります。Biblewalks.comにある写真を見ると分かりますが、背景にあるムスリム地区の家屋との高低を見れば、確かにここが谷の一部なのだということが分かります。そして底には階段が付いています。後日訪問する、シロアムの池もそうですが、階段を下って行って身を清めるように恐らくしていたことでしょう。ただ、そんな深いところになぜ階段があるのかが不思議です。水が多い時はただ貯水池として、少なくなった時に身の清めを行なったのでしょうか?そして、柱やアーチがありますが、これはビザンチン時代の教会を支えていたものです。
そして、中央の建物(右端に人が出てきている部分)は、南の池と北の池の堤であり、建物自体はビザンチンの教会のポーチコ(柱廊式玄関)です。そこで学者によれば、この柱廊が一つ、そして北と南の池の四辺の柱廊で四つ、すなわち五つの柱廊(回廊)があり、ヨハネ5章の表現と合致していると言います。この中央玄関の中に入って見ると、まだ水が入っていました。そして、何とアフリカ系の兄弟が、バプテスマを受けようとしていました!
「十字軍のチャペル」は、この写真の右側にあるものです。中央の柱廊式玄関斜め向かいにあり、ここは北の池の端の部分の上に立っていることになります。こちらがチャペルの中から撮った写真です。このチャペルの裏手も「北の池」です。他の地点からの北の池はこちら(2013年の旅)です。そして、Biblewalks.comにある図面を見ますと、北の池は、十字軍のチャペルによって埋め立てられているために、南の池のように深い部分が出てきていないと言えます。
そして「ローマの沐浴・療養施設」の跡ですが、沐浴や療養のための石の浴槽や洞窟が散らばっているのが分かります。アーチ状の形と真ん中の柱は、ビザンチンの教会跡です。その教会を発掘している中で、ローマ時代の遺跡も発掘されたようです。この向かい側から取った写真が、Biblewalks.comにあります。
4.ヴィア・ドロローサ
(2013年の旅、ウィキペディア、Biblewalks.com)
ベテスダの池から、鞭打ちの教会、エッケ・ホモ教会まで(Googleルート)
イエスが十字架を背負い、ゴルゴダまで歩かれた道(カトリックの伝承あり) 第一留 イエス、死刑の宣告を受ける (マルコ15:1-20等) 第二留 イエス、十字架を担わされる (ヨハネ19:17) 第三留 イエス、初めて倒れる 第四留 イエス、母マリヤに会う 第五留 イエス、クレネのシモンの助力を受ける (マタイ27:32等) 第六留 イエス、ヴェロニカより布を受け取る 第七留 イエス、再び倒れる 第八留 イエス、エルサレムの婦人らを慰める (ルカ23:28) 第九留 イエス、三度目倒れる 第十留 イエス、布を剥がれる (ヨハネ19:13等) 第十一留 イエス、十字架に釘付けされる (ヨハネ20:25,27等) 第十二留 イエス、十字架に死す (マルコ15:37等) 第十三留 イエス、十字架より下ろされる (ヨハネ19:31-38) 第十四留 イエス、墓に葬られる (マタイ27:59-60等) |
私たちは、イエス様の受難の道、ヴィア・ドロローサを歩きます。イエス様がピラトによって死刑宣告を受け、十字架に付けられ墓に葬られるまでの行程を辿ります。ピラトの官邸であるアントニア要塞があったところから、ゴルゴダの丘と園の墓があったとされる聖墳墓教会内のところまで、十四の留(ステーション)があります。(地球の歩き方からの略図)これは、キリストの受難を覚えるための霊的な要素、巡礼の意味が強いので、必ずしもその時点で一つ一つの出来事が起こったということではなく、過去に道程の変更もありました。そして、カトリック教会によって始まった伝承なので、その言い伝えの部分も多いです。
日本語のウィキペディアは、とても説明が詳しいですので、そこを開きながら各留を辿ってみてもよいでしょう。
第1留:ピラトに裁かれる(ヨハネ18:28‐23 Biblewalks.com)
第1留は、アラブ人の男子校(ウマリヤ小学校)の敷地内にあります。この写真では、右側の壁の白い看板が学校の表示で、その上の丸い金属製のプレートに第一留の印があります。このアントニア要塞の遺構の上に十字軍の時代に礼拝堂が建てられましたが、イスラム勢力がそこを墓地に改装し、その後いろいろな建物が建築されました。学校は1923年のものだそうです。敷地内には授業終了後しか入れないので、私は一度も直で見たことがありません。
背景の灰色のドームは、すぐ後で訪問するエッケ・ホモ教会です。そして、Biblewalks.comにあるこの中庭から撮った写真では、はっきりと神殿の丘の北に隣接していることが分かります。
第2留:十字架を背負わされる(ヨハネ19:1‐7 Biblewalks.com)
第2留は、カトリックのフランシスコ会の所有する「鞭打ちの教会」と「有罪判決の教会」の中にあります。入口に、円形の第2留のプレートがあります。私たちはこの中に入って、恭仁子さんから説明を受けます。
恭仁子さんの説明では、十四の数字の意味をマタイ1章のイエス・キリストの系図から来ている説明をしておられますね。アブラハムからダビデ、ダビデからバビロン捕囚、バビロン捕囚後からキリストまでの十四です。それぞれの教会の写真はBiblewalks.comの「鞭打ちの教会」「有罪判決の教会」でご覧ください。興味深いのは、有罪判決の教会の西にある、ごつごつした岩です。これは、ヨハネ19章13節にある、ピラトの裁判の席が「敷石(ヘブル語でガバタ)」の一部だと考えられていた、「リソストロトス(Lithostrotos)」と呼ばれます。次の訪問場所「エッケ・ホモ教会」のシオン女子修道院へと続く通路の一部となっています。
有罪判決の教会の西側 ごつごつした石はリソストロトスの一部 |
エッケ・ホモ(Ecce Homo)教会
ヴィア・ドロローサのステーションにはありませんが、この教会を訪問しないわけにはいきません。今、話しましたように、教会の地下に当時のローマ時代の敷石を見ることが出来るからです。
「それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。(マタイ27:27)」
この集めたところが、「アントニア要塞」と呼ばれる所です。ヘロデが、紀元前37年にエルサレムを征服して、すぐにハスモン朝時代の砦が建っていたところに、これを建設しました。アントニアという名は、ヘロデの支援・保護者であったアントニウスに敬意を表してつけられました。ここは、エルサレムの北に位置していますが、エルサレムは東はケデロンの谷、南と西はヒノムの谷がありますが、北には谷がないので攻められると最も弱い地形になっていますが、急斜面45㍍の上に、北の守りを固める役を果たしていました。そして、ここから神殿内がよく見えたので、何か問題があれば、兵士がすぐに駆け付けることができました。それでパウロが、群衆によって捕えられる事件が起こった時も兵がすぐに駆け付けています。(使徒21:30‐22:1)大きさは、108m×40mあったと言われています。中には、軍事用設備の他に、豪華や部屋や風呂などが備えられていて、ヨセフスは「まるで宮殿のような豪華さであった」と書いているそうです。(「イエス時代の日常生活」32頁を参考 復元図はこちら)
「エッケ・ホモ(Ecce Homo)教会」と呼ばれるのは、ピラトが鞭で打たれた後のイエス様を群衆に見せて、「さあ、この人です(ヨハネ19:5)」と言ったとされるアーチなのではないか?というところからそう呼ばれています。けれども、これから説明するようにイエス様の時代のアントニア要塞の跡ではなく、第二次ユダヤ反乱であるバル・コクバの乱を鎮圧したハドリアヌス帝の時代のものであることが分かっています。官邸は第一留のウマリヤ小学校のところにあったことでしょう。しかし、時代的にとても近いので、当時がどのような状況だったのか想像しやすい痕跡が残っている、イエス様が十字架の判決を受けるところがどのようなところだったのかを思い巡らすことができます。
中に入りますと、「雲雀の水槽(ストルティオン)の池」を見ることが出来ます。
A.アントニア要塞 B.ストルティオンの池 C.リソストラソス D.エッケ・ホモのアーチ 1.有罪判決の教会 2.鞭打ちの教会 3.ヴィア・ドロローサ 4.シオン女子修道会 5.ウマリヤ小学校 (Terra Sancta Museumから) |
この貯水槽は、52m×14mで、神殿の丘の敷地の北西から南東に向かって掘られています。右の図の斜めに走っているBがそれです。北が4.5㍍、南が6㍍の水深です。東西にある壁は水平ではなく南に向かって下がっています。かつては、天井がなく青空で、両側の壁に石切り階段があり、水を汲むことができました。
しかし、ヘロデが何もないところから建設したのではなく、紀元前1世紀にハスモン朝時代の貯水槽から改良したものであります。ハスモン朝時代の、この池の南の端に出ている水道の跡が出てきていて、明日訪れる西壁トンネルの終わりのところで見ることが出来ます。その水道は、神殿の丘の下にある貯水槽につながっているものです。
そして、かつては青空が見えたこの貯水池に、二列のアーチ状の丸天井で覆われました。これはその上に石畳の道を作るためであります。そして先ほど話した、これから見る「敷石(ヘブル語でガバタ)」の一部だと考えられていた、「リソストロトス(Lithostrotos)」があります。しかし、当時はこの貯水池があったので、イエス様がピラトから判決を受けたところではないことが確かになりました。下の絵が、池の上に覆いをかけた復元図です。
上の門ですが、ここではなくハドリアヌス帝がバル・コクバの乱を鎮圧した後、エルサレム凱旋を記念して建てたものではないかと言われています。そして右側の広場が、池の上に造ったものです。下の写真は、発掘した後1864年の凱旋門です。
そして下が今のアーチ。(上下の写真とも、ライオン門方向を向いています)。発掘された左の部分は、エッケ・ホモ教会の建物の中にあります。
(二枚の写真の出典はseetheholyland.netから)
教会の中には、展示物もあり、ここで発掘された第二神殿時代の土器、またローマ・グラスと呼ばれている今日のベネチア・グラスに匹敵するような高価な食器や花瓶が出があります。(2013年の旅の時の写真)そして、さらに進むとリソストラソスがあります。恭仁子さんは、私たちに興味深い石を見せてくれました。
ギリシヤ語ベータが見えると言われていますが、ビデオでは分かりませんでした。こちらの写真をごらんください、左下に確かにΒの文字があります。「王様ゲーム」という、王様の格好をさせて乱暴狼藉をするそのゲームを、イエス様に対して当時のローマ兵が行なっていた(マタイ27:29‐31)ということです。ここはピラトの官邸跡ではないので、実際のイエス様が受けたものとは異なりますが、それでも同じようなことが二世紀にも行なわれていたということですね。そして、ここのリソストロソスは、こんな感じです。
他の誰も旅行者のグループがおらず、本当に静かなところで主の受けられた苦しみを想う時が与えられました。
エッケ・ホモ教会から聖墳墓教会までの道筋(Googleマップ)
エッケ・ホモ教会を出て右に曲がり、ヴィア・ドロローサ(Via Dolorosa)通りを歩きます。先ほど話したアーチの下も歩きます(写真)。そして、エル・ワド(El Wad ha Gai)通りにぶつかるので、そこを左折します。ここを右折するとエルサレムの城壁の門で最も主要な「ダマスカス門」に行きます。そのそばに園の墓があるので、プロテスタントの一部の巡礼者は左側が本当の受難の道だと信じている人たちもいます。
左折したところで、私たちが先に見たリソストロス(石畳)が見える部分があります。
ここで恭仁子さんに確認しましたが、ここがチロペオンの谷(⑤)の一部です。ケデロンの谷(④)、ヒノムの谷(⑥)の三つは、ヘブライ語の「シン(Shin)」に似ていると言われます。
こちらの地図がハドリアヌス時代のアエリア・カピトリーナ(エルサレム)の様子です。
チオペロンの谷の凹みが見えますね。今は埋め立てられてほとんど分かりません。(参照:"Exploring Aelia Capitolina, Hadrian's Jerusalem")当時、ここの谷にある道は、ダマスカス門から南北を通っているカルド(Cardo)と並んで第二の道にされていました。私たちの第一日目の旅、マダバにて巡礼のための地図を見ましたが、エルサレムの町中心を南北に通じているカルドの上の第二の道が、しっかりと描かれています(写真)。
第三留: 最初に倒れた場所(Biblewalks.com)
ヴィア・ドロローサ通りからエル・ワド通りに左折したその角に、第三留があります。ここで、イエス様が初めて十字架の重みで倒れたことを記念します。しかし、これは後年の伝承であり、聖書には記載されていません。ここに、ポーランドのアルメニア人のカトリック教会があります。
第四留: 悲しむマリヤに出会う(Biblewalks.com)
その隣に、第四留があります。同じポーランドの教会の敷地内にあります。マリヤの苦悩を記念するアルメニア人のカトリック教会があるそうです。マリヤの悲しみを慮って、祈りを捧げるのだそうです。もちろん伝承にしか過ぎないし、マリヤを想ってイエスに近づこうとする信仰も、私たちは共有しません。
第五留: クレネ人シモンがイエスを助ける(ルカ23:26 Biblewalks.com)
第四留の先に、再びヴィア・ドロローサ通りが出て来ます、右折しますが、その角のところに、第五留があります。ここは、シモンがイエス様の十字架を担いだところとして記念されています。ここは小さなフランシスコ会の教会だそうです。
「彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。」
恭仁子さんの説明は流石ですね、いわゆる善意や憐れみの行為では全然なかったことを話しておられます。なぜ十字架をローマ兵がシモンに担がせたのか?十字架刑に処せられているのだから、その見せしめと苦しみに合わせないといけないので、その前に死んでもらってはいけないから、ということです。
そしてここから上り坂です。当時の壁の城外に出て行くところに近づいています。
第六留: ベロニカがイエスの顔を拭く (Biblewalks.com)
途中に第六留がありますが、石柱が埋め込まれています。これも伝承ですが、ベロニカという女性がイエス様の血だらけの顔を布で拭ったら、そこに主の顔が写ったというものです。そしてそこに、「小さな姉妹(Little
Sisters)」と呼ばれる人々による「聖顔(The Holy Face)」という教会です。この中に入りました。
ここに入ると分かるのは、階段で降りないといけないことから、この教会を建てた時はヴィア・ドロローサがもっと低いところにあったことがうかがわせることです。旧市街全体がテル(遺丘)であることを思わされる一面です。
第七留: 二度目に倒れた場所 (Biblewalks.com)
ここも伝承です、イエス様が二度目に倒れた場所であるとされています。しかし、とても大切な分岐点になっています。恭仁子さんの説明を聞いてください。
ここはヴィア・ドロローサ通りが、スーク(市場)であるハン・アル=ザイト(Han Al-Zeit 別名Beit HaBad)通りとぶつかるところです。このハン・アル=ザイト通りが、ハドリアヌス時代のエルサレム、すなわちアエリア・カピトリーナの主要な南北の通り「カルド」になっています。そしてこのヴィア・ドロローサ通りは、東西の通りであるデクマヌスであり、この教会の中にはその交差点の跡である4塔門建築(Tetrapylon)の跡が残っているそうです。
ここの教会の裏ところに、後にキリスト者が名づけた「裁きの門」がありました。当時ここに第二城壁があり、40年代にヘロデ・アグリッパ一世によって第三城壁が建てられました。ですから、現在は城壁内なのですが、当時はここから城壁外になります。
裁きの門において、重罪人の罪状書きが書き記されています。イエス様の罪状も書かれていたことでしょう。上のビデオの通り、イエス様は政治犯に仕立て上げられて、ローマ法に基づいて裁かれました。処刑場であるゴルゴダに近づいています。なぜ城外であることが大事であるのか?レビ記にある「罪のいけにえ」が、肉体が宿営の外で焼かなければいけないということから、「イエスも、ご自分の血によって聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。(ヘブル13:12)」が成就するためでした。
第八留: イエスがエルサレムの婦人たちに語りかける (ルカ23:27-29 Biblewalks.com)
ハン・アル=ザイト通りを南下しますが、すぐに出て来るアル=ハンカ(Al-Khanka)通りに右折、すると南側に聖カラランボ教会という、ギリシヤ正教会の修道院が建っています。そこが第八留です。石に刻み込まれたギリシヤ語は、"IC-XC NI-KA"とあり、「イエス・キリストは勝利される」という意味です。(こちらにビデオで説明)
「大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。(ルカ23:27-29)」
ここでの説明も大事ですね、言葉の表面だけ読むと誤解しがちな箇所です。ここはもう城外で、ここの女たちは弟子たちではなく、半ば演出的に泣きを入れています(当時は、葬儀の時にも泣き屋を雇って、泣いてもらっていました)。そしてイエス様の上の言葉は、オリーブ山でエルサレム破壊を涙を流して預言されたその預言を彼女たちに向けているのです。
第九留: -三度目に倒れた場所- (Biblewalks.com)
一旦、スークに戻ります。さらに南進すると上り階段の通路があるので右折します(皆が右折するように、案内しつつ撮影しました)。歩いていくと、奥に聖墳墓教会の屋根が見えてきました。 この奥にコプト正教会のエルサレム総主教座の置かれた聖アントニウス教会があります。(Googleマップ)手前、施設の外壁を支える柱の一つが第九留のシンボルとなっています。
ここで感動したのは、ご覧になってお分りのように、2015年2月12日、リビアの海岸で、エジプトから出稼ぎに来ていた21人のコプト教徒の若者が、イスラム国によって斬首され、その21人をコプト教会が聖人としたことを、横断幕に張っていることです。あまりにも感動したので、ロゴス・ミニストリーのブログの写真に、これを選びました。エジプトのコプト教徒について記事を書いています。「リビアの海岸に流された聖い血」「エジプト人キリスト者に広がる愛の御国」「エジプトのキリスト者:鉄のような赦しの力」
聖墳墓教会の入口への行き方は、そのままコプト教会の中に入って、聖墳墓教会の屋根裏に行き、階段を下りるか、またスークに戻り、南進してアレクサンドル・ネフスキー教会のある角を右折するかのどちらかで行きます。私は、1999年と2008年の旅では後者でしたが、2010年の旅以降、前者、すなわちコプト教会の中に入って、屋根裏に行くほうで入っています。
この聖墳墓教会の屋根裏は、デイル・アル=スルタンという、エチオピア正教会の修道会の区画になっています。そして半球天井は、アルメニア教会の「聖ヘレナ・チャペル」の天井になっています。
これから、聖墳墓教会が主に東方教会と呼ばれている教派によって管理されていることに気づきます。カトリック、それから派生したプロテスタントは「西方教会」と呼ばれますが、中東、ギリシャ、アナトリア、東欧に広がった諸教派のことです。ギリシャ(東方)正教会、アルメニア使徒教会、シリア正教会、エチオピア正教会、ロシア正教会などがあります。私たちには非常に馴染みのないものですが、イスラム国などイスラム過激派が中東のキリスト教徒を迫害するようになって、カトリックだけではない、これらの教会の存在が取り上げられるようになりました。
そして小さな入口を入りますと、エチオピア正教会の聖ミカエル教会の中に入ります。
エチオピア正教会の始まりとなる、列王記第一10章の、シェバ女王のソロモン王への謁見の絵画が掲げられています。ここで彼女が妊娠し、そこから、エチオピア系ユダヤ人が始まったとされています。それから、エチオピア人の宦官がピリポの伝道によってバプテスマを受けました。そして、恭仁子さんが先ほど、聖職者と信徒の間に仕切りがあり、聖画(イコン)で仕切られていると仰っていましたが、確かにそうなっていました。
ヴィア・ドロローサの第十留から第十四留までは、聖墳墓教会内にあります。それは次のページで見て行きましょう。