2019年トルコ研修旅行記 4月8日 その①
ヒエラポリス・ラオディキア・フィラデルフィア・サルディス
1.ヒエラポリス-パムッカレ
2.ラオディキア
3.フィラデルフィア
4.サルディス
トルコを周回している私たち
私たちは、パムッカレにあるホテルに宿泊し、ついに、黙示録の七つの教会の旅に入ります!もちろん続けて、パウロなどの宣教の旅の足跡もあるのですが、使徒ヨハネが、聖書の最後の、イエス・キリストの啓示を受け、それを回覧したアジアの地域であります。ここは、エーゲ海沿岸の西トルコにあたり、これまでの気候と異なり、温暖で、イスラエルとあまり変わらない地中海性気候になります。七つの教会を巡り、北上すれば私たちは見事に、トルコの西半分全体をイスタンブールから時計回りで周遊することになります。
この地域は、去年(2018年)、使徒の足跡をたどるトルコ・ギリシアの旅で、同じ団長とガイドによるものを経験していますので、重複するところは、そこの旅行記から援用するか、参照しながら進めていきたいと思っています。
まず、これから行くヒエラポリス、ラオディキアでありますが、コロサイと並んで、肥沃な三角地帯と呼ばれるほど、近隣にあるということです。コロサイ書に、コロサイに福音を届けた、エパフラスのことをパウロが言及していますが、そこに、ヒエラポリスの家の教会の人たちに挨拶をし、またこの手紙がラオディキアの人たちにも回覧するようにお願いしている文面が出てきます。したがって、ヒエラポリスに訪問した後にラオディキアに行きました。(時間がなかったので、コロサイの遺跡には行けませんでしたが、2018年には訪れています。)
1.ヒエラポリス-パムッカレ
(2018年の旅)
Doga Thermal Hotelからパムッカレの南門まで(グーグル地図)
ホテルから、バスでものの10分で現地に到着します。去年と同じように、赤い、アネモネが咲き乱れています。4月のトルコはイスラエルと似ていて、さらに花が咲いているというイメージです。
ここは、ヒエラポリスとパムッカレという二つの名前がありますが、前者はギリシャ語で「聖なる都市」という意味で、後者はトルコ語で「綿の宮城」という意味です。当時の全体を眺望する図が、以下にあります。(クリックすると拡大できます)
北(上の地図では左側)から南(右側)に広がっている町で、西側に、パムッカレと呼ばれる所以になっている石灰棚が拡がっています。ここは、紀元前2世紀に、ペルガモン王国のエウメネス2世が建設し、ギリシアの町として始まりました。ペルガモン王国はその後、ローマに王国を自ら明け渡すので、ローマの町になりました。地震が後17年に起こり、大体的な再建をしているので、今見る遺跡はほとんどがローマのものです。
そうしたローマの町ヒエラポリスの特徴は、1)温泉、2)ネクロポリス、そして3)教会の跡、です。1)の温泉について、そのために石灰棚が出来ていますし、今も温泉が流れています。当時のローマの大浴場の遺跡(上の⑬)も残っていて、なんと、遺跡が底に横たわっている浴場が、今も観光客用に開いています。(アンティーク・プール)この温泉によって、温水がラオディキアにまで水道管で流れて行ったということが、ライディキアに対するイエス様の言葉、「熱いか、冷たいかであってほしい」につながっていきます。そして、「プルトニウム」と呼ばれる、二酸化硫黄が出てくるところの遺跡がありますが、そこも実は、聖書の、ある難解な箇所と深い関わりがあります。
そして、次の特徴は、墓場と一体化した都市、ネクロポリスということです(地図では最北の①)。湯治のため、長寿のために多くの人がここにやって来たのですが、皮肉なことに、ここでそのように願望した人たちが一生を終える人たちも多く、それで墓も多いということです。2018年の旅の時は、ここまで訪問しましたが、そこにユダヤ人の墓の跡であることがすぐに分かる、メノラ―を形どったものとかがあります(写真)。これは、とりもなおさず、セレウコス朝のアンティオコス大王がバビロン地方からユダヤ人家族を移住させたためであり、それ以上、トルコにおけるユダヤ人の社会的地位は向上し、それが、パウロたちが宣教に来ていた時の背景でした。ユダヤ人にまず福音を伝え、それから異邦人にも福音が伝えられていきました。
そして、教会の跡ですが、福音がヒエラポリスに届いたのは、コロサイに福音を伝えたエパフラスによってではないか?と思われます。エパフラス自身は、パウロがエペソで福音を伝えてアジア中にみことばが広まったのですが、それで信仰を持ったのではないかと思います。彼の働きによって教会が、教会がこの地域に根付きました。次のラオディキアには、ビザンチン時代の教会跡だけでなく、なんと一世紀の家の教会であろう跡までが見つかっています。そして、ここヒエラポリスには、使徒ピリポの墓が発掘されているのです。
使徒ピリポの殉教者廟(マルティリウム)と墓
ディレクさんが、ワゴン車を一時間レンタルして、すばやく動けるようにしました。ヒエラポリスでは有名な劇場を通り過ぎ、上り坂を過ぎますと、ヒエラポリスとパムッカレの石灰棚を眺める全景が見えるところに到着します。そこに、使徒ピリポの殉教を記念する殉教者廟があります。殉教者廟とは、殉教者を記念する礼拝堂のことです。
ピリポの殉教は、伝説として言い伝えられています。彼は、スキタイ地方で(今のウクライナからトルコまでの広域)で、熱心に伝道していました。こちらのページに、彼の磔刑の絵画がありますが、ローマの軍神アレスを祭っている神殿で、竜を追い出しました。偶像礼拝だからです。その竜が、神殿に姿を表した時に強烈な悪臭が出て、人々が命を落としました。それを、ヒエラポリスの神官たちが死を持って償えということで、ここで命が絶たれた、ということです。
正面から写真で見ると、こちらのようになります。八角形であったことが容易に想像できますね。復元図の写真も撮りました。八角形になっているのは、数字に象徴性があるからであり、神が七日で天地を創造され、八は「永遠」を意味して、キリストの十字架によって永遠のいのちに入ることを意味した、とのことです。殉教者は、永遠のいのちに既に入っているということで、殉教廟を八角形にしているのです。
イスラエルに行けば、まさに主ご自身の墓のある教会、聖墳墓教会の、墓の部分の「アナスタシス・ロトンダ」は、まさに、このマルティリウムなのです。アナスタシスとは復活のことで、ロトンドは円形の建物でドームがあります。初めの殉教者イエスが、復活の体をもってよみがえられた、その建物が八角形の内装で、円形のロトンダの形をしています。この形が、他のキリストに連なる殉教者を記念する、マルティリウムの始まりです。(参照記事)
そして、中に入りますと、ビザンチン式の教会堂にある、半円形の至聖所(アプス)には、必ず観覧席のように座る部分があります(写真)。なぜなら、まだ教義が固まっていなかった時に、議論するためでした。例えば、イエス・キリストのご性質とか、三位一体論とかです。九世紀辺りになると、もう公会議によって教義が定まっていますから、この形はなくなりました。
ビザンチンの建築形式については、コンスタンティノープルのハギア・ソフィア訪問の時に説明しましたが、私たちの知っている欧州中心にある、バシリカ式の聖堂とは異なり、「集中型」とも言えて、祭壇(至聖所)の周囲に信者が集まれるようになっています。ですので、形が細長い長方形ではなく、円形であったり長方形であっても、それほど長くありません。(参照記事)カルバリーチャペル・コスタメサの礼拝堂の作りが、説教者や賛美リードのそばに多くの会衆が座れる集中型になっているな、と連想してしまいました。
そして、ディレクさんは、聖餐式の仕方について説明します。自分の心の奥で起こった、神がキリストの贖いをなされているところを、至聖所でキリストの血とパンを用意して、それから、パンとぶどう酒を信者たちに渡していくという形式です。
それから、それぞれの柱のアーチに、十字架が刻まれている石がありますが、そこを「要の石(key stone)」と呼ばれていますが、なぜかというと、その石を外せば、全体が崩れるからです。そして、イエス様が、要の石と預言され、主と使徒たちがその詩篇118篇の預言を引用しました。
それから、大理石の柱があったけれども(写真の下にある日本の白い柱)、それは「癒やしの聖所」ということで、癒やしのわざが行われたとのことです。
そして、殉教廟から下に下がったところに、ピリポの墳墓教会があります(写真)。こちらが、その復元図のある標識です(拡大することができます)。
ローマ時代の墓ですが、イエス様の墓と同じように、ベンチが両側と奥にあり(写真)、家族が遺体を置いて、何回も使うのですが、使徒ピリポの場合は、彼だけが安置されたとのこと。
そしてジェイさんが、使徒ピリポのことについて話します。まず、この墳墓について伝説的なものが非常に多い中で、考古学的に実際のピリポの墓であることはかなりの可能性があるのことです。そして、ピリポですが、福音書で出てくるのは、第一に、ナタナエルにメシアに会ったことを伝えて、彼が信じなかったので、「来て、見なさい。」と言いました(ヨハネ1:46)。そして、五千人の給食の時に、「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」と言いました(6:7)。実際的な考え方をしている人ですね。
それから、イエス様がエルサレムに来られた時に、ギリシア人が会いたいと言ってきた時に、アンドレと共にイエス様に話しました(12:22)。アンドレもそうですが、他の人とイエス様をつなげる時に出てくる弟子ですね。けれども、イエスご自身が父なる神とどうつながっているかは、まだ分かっていませんでした。「ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。(14:8-9)」
プルトニウム
ワゴン車に乗り、次に行ったのは、アポロの神殿跡です。ヒエラポリスも、他のローマの都市と同じく、異教の宮が多くありました。アポロが祭られているところに隣接して、プルトニウムと呼ばれるローマ神の聖所があります。プルトニウムは、原子炉や原爆で使われている物質ではなく、この神「プルト」につけられたものです。ギリシャの神では、ハデスです。そう、新約聖書の陰府のギリシア語が、以前の新改訳の訳のとおりハデスが使われています。
2018年の旅で、その遺跡のところまで行きましたが、かなりリアルでした。右はその時に撮ったものです。この穴に首を突っ込むと、わずかなのですが音が聞こえるのです。そう、つまり、まだ二酸化硫黄が出るということであります。
そこでジェイさんが説明したことを、ここに改めて引用します。「古代の地中海世界では、プルトニウムというものが知られていました。地の奥深くに、プルトンという神がいるというものです。イスラエルには、ピリポ・カイサリアに、崖の洞窟の底から突如として水が湧き出ていて、それがヨルダン川の源流の一つになっているのですが、当時の人々はそこに神秘を見い出し、古代の人たちは「そこに地獄(冥界)」がある、と理解しました。ここの、別のそういった場所なのです。
以前は、ここは有毒が出るから危険という標識があったそうです。石灰棚が出来ているのは温泉があるからで、ここに療養のために多くの人が来て、でもやはり死んでしまって墓が多くあるのでしょう。ここには、アポロン神殿が横にありますがそこで神託があります。処女たち(ウィキペディアですと去勢をした祭司たち)がずっと地下にまで降りて行きますが、熱湯が出ているところは、炭酸カルシウムだけではなく二酸化硫黄が出てきます。これを吸引すると、脳を破壊します。そして吸引して完全にハイになり、死にかけます。けれども出てきて、幻覚を語ってそれが神託となるのです。(映画「300」で、スパルタの神官が、神託のために少女を酔わせて、その幻覚を語らせる場面があったのを思い出しました)。」
そして、これがなんと、黙示録9章の、「底知れぬ穴から出てくる、いなごのような悪霊の大群」の幻の背景なのだそうです。このことを、改めて今回も聞くことになります。今回は、去年行けたその場所が、改修のため入ることができませんでした。柵の外からジェイさんが語り始めます。
0:45辺りに出てくる、白い彫像はプルトの複製です。ヒエラポリスは黙示録に出ていませんが、ライディキアからはとても近く、七つの教会のあるアジアでは、この聖所のことは良く知られていました。
黙示録は、良く分からない書物ではありません。使徒ヨハネは、漁師でした。流刑にされる前はエペソにいました。このヘレニズムの世界でも、彼はヘブル的ユダヤ人として物事を考えていました。つまり、彼は、啓示を啓示、現れるものとして捉えていて、隠されたものと考えていませんでした。神は知ってほしいと思われて、現わしておられるのです。ヘレニズム的な人は過度に分析するのですが、ヘブル的な人は物事を簡素に考えます。ですから、黙示録を受け取った人々も、その意味が分かるように書かれているのです。また、かなりの割合で、旧約聖書からの引用あるいは影響になっています。この地域は、多くのユダヤ人がいますから、このことも分かり易いと言えます。子供でも言えるのです。
地下から温水が出てくるので、ここから神託を受けようと人々がやってきました。アポロの祭司たちが、(先の写真の)穴の中に入ります。二酸化硫黄を吸って、見た幻覚を神託として伝えます。このように地下にあるものを信じていて、死の世界、冥界を信じていました。ユダヤ人も、地の下にある陰府を信じていました。ピリポ・カイサリアでも、泉からまた、ここは「底知れぬ所」とも呼ばれました。黙示録9章です。9章は、聞いている人々にとっては、良く分かって、恐れおののくものだったのです。地下が、一気に開かれるのだから。
石灰棚へ
そして私たちは、パムッカレと呼ばれる所以になっている、石灰棚に行きます。その途中で、初なりのいちじくの木を見ました。イエス様が、実がないので呪われたという、その時期のいちじくの木が途中にありました(動画)。次、いったところには、遺跡が底にそのままある温泉、アンティーク・プールがありました(動画)。
こんな感じで、温泉の足湯も楽しめています。そんなに熱くないですね。そして歩くと、石灰なので裸足だと少し痛いです。でも、十分歩けます。滑りやすいので要注意です。
2.ラオディキア
(2018年の旅、日本語の旅行記1、日本語の旅行記2、
聖書の遺跡を巡る 第26回 ヨハネの黙示録7 ラオディキア)
ヒエラポリスからライディキアまで(Google地図)
ヒエラポリスとの時と同じように、2018年の旅で詳しく説明していますので、あまり繰り返して書かないようにします。上のグーグル地図で見るように、ヒエラポリスからラオディキアまでは15㌔弱で、車で20分ぐらいのところです。ディレクさんが、この間にラオディキアの概要について教えてくださいました。下の動画は、パムッカレの石灰棚が初めに出て来ています。
ヒエラポリスからラオディキアに行くのに大事なことは、前者の温水がラオディキアに水道橋によって流れていくことです。これが、イエス様の、ラオディキアの教会に対して言われた、「熱くもなく、冷たくもなく」の背景です。熱い水は、ヒエラポリスから来るのです。そして、ラオディキアは、肥沃な三角形の地帯としてご紹介しましたが、メンデレス川という川が東から西に、曲がりくねりながら流れているのですが、それで肥沃な地帯になっています。ラオディキアは、その支流のリュコス川の流域にあります。2018年の旅で、この地域からエペソに向かいましたが、メンデレス川の流域に道路が走っているので、ずっと平らな肥沃なところをバスが走っていったのを覚えています。
ギリシアの、セレウコス朝のアンティオコス二世によって(ダニエル書11章に預言されています)始められ、その町の名も、その妻ラオディケの名にちなんでいます。三世、すなわちアンティオコス大王(彼もダニエル11章に出てきます)の治世の中で栄えます。貿易が盛んになります。エペソに並んで非常に裕福になります。金融も盛んになります。それから黒い羊毛でも有名です。それから、医療の学校もあり、目薬も開発しました。これらも、イエス様の教会に叱責された言葉の背景になっています。ローマ時代にも、非常に盛んになります。紀元60年に大地震が起こり、町は大損害を受け、皇帝ネロが支援を申し出たのに、「十分です」と断ったというほど、自分で出来ますという自負がありました。このことも、イエス様が「創造の源」として彼らに現れた理由の一つでしょう。
キリスト教の発展の前に与えられていたイエス様の警告
今回の旅で、次の本を買いましたが、驚きました。"Church of Laodikaia: Christianity in the Lykos Valley"(ラオディキア教会:リュコスの谷のキリスト教)。これによると、使徒パウロの宣教の働きで、いかにこの地域に福音が届いて、そしてエペソと並んでいかに教会が栄えたかが分かります。後で、この教会の遺跡をじっくり見ますが、この教会だけでなく、数々の教会の跡があり、313年のミラノ勅令(信教の自由を認める)前の家の教会も発掘されています!そして公認後の教会も、かなり初期のもの、四世紀のものだということです。実に、このラオディキア教会で、「ラオディキア教会会議」が執り行われた現場です。これによって、ますます、イエス様が、後の事も考えて、彼らが、豊かさにかまけて、霊的に生ぬるくなっているところを、熱心に悔い改めよと言われた野だということが分かりました。彼らは悔い改めて、神の恵みを受けたようです。
急速に進む発掘と復元
そして、ラオディキアについてすごいところは、今現在、盛んに発掘されている遺丘だということです。これから見ていく七つの教会の遺跡で、また、他の聖書的な地名のあるところで、ほとんど見るところのない遺跡と、そうでない膨大な遺跡が発掘されているところが、真っ二つに分かれますが、その違いは、その古代の都市の上に今の都市を建てているかどうかにかかっています。例えば、シリアのアンティオキアはほとんど、当時のものは今のアンタキアの下に埋まっています。けれども、ピシディアのアンティオキアはしっかり発掘されていますね。ここラオディキアも同じで、近くにデニズリという大きな町がありますが、ここの上には何の町も建てられておらず、単なる荒れ果てた丘であったために、発掘ができるのです。(参照:日本の牧師さんによる説明動画))行く度に、発掘と復元が拡がっています。2018年と比べても、今回は、先の「ラオディキア教会」の中を見ることができた、ということでかなりの感動なのです。
英語ですが、今の遺跡の町の図を見ながら、追って行ってみてください。次の動画は、21番、シリアの通りです。
いかがでしょうか、かなり復元されていることがわかるでしょう。ところどころに屋根がありますが、教会の遺跡で、床のモザイクなどが傷まないようにするためです。商店街なので、ゲームを楽しむ遺跡までが見つかっています。ちょうど、イスタンブールのグランド・バザールのようだとディレクさんは、形容しています。
ニンファエウムに見つかった、「メノラ―の上の十字架」
そして、図の32番、ニンファエウム(噴水)の跡に来ました。
この復元図が、次になります。
ここの手前の、噴水の水を貯める壁がありますね。そこにある円柱の一部に、後で見る、メノラ(燭台)と十字架が彫られている物が見つかりました。
下にあるのがメノラで、ユダヤ人の象徴ですね。右側が角笛で、左がなつめやしの葉です。仮庵の祭りに使われるもので、勝利の凱旋、歓喜を表していますが、イエス様がろばの子に乗られた時も群衆が、この枝を振っていました。その上に、ビザンチン時代の十字架です。十字架が象徴となったのは、ビザンチン時代になってからです。当時は、あまりにも恐ろしい意味合いを持っていたので、「十字架」という言葉を発することさえ憚れました。その真ん中にある円形は、「世界」ではないかと思われます。キリストがユダヤ人から出てきたという良い意味であったかもしれないし、ユダヤ人をキリスト教が征服したという悪い意味なのかもしれません。後者が考えられるのは、ビザンチン時代の時期、反ユダヤの神学がかなり強烈にあったからです。ニケア公会議において、ユダヤ人は一人いたそうですが、完全にヘレニズム化した人だったようで、信仰が徹底的にヘレニズム化されていました。そこで決められたことの大半は良かったのですが、反ユダヤの要素があったのです。
そして、その後の教会史において、「~主義(ism)」という、神を分析、把握しようとする試みが続けられていってしまったということです。神は、ご自身を啓示される方であり、私たちは理解するのではなく、礼拝する対象です。
そして少し手前に戻りますと、図の12、"Temple A"とあるところに入ります。皇帝礼拝の宮です。2-3世紀の皇帝です。
皇帝の宮の復元図
右にラオディキア教会がありますが、まるで皇帝の宮に対して、「あなたがたは神ではない。キリストが主である。」と宣言しているようなものです。そして、下の遺跡が分かるようにガラス張りの床になっていますが、当時は、ここが銀行のようになっていました。
そして、ジェイさんのメッセージです。
初めに周囲を説明していますが、この神殿の跡は展望台のように周りの景色を眺めることができます。正面にある、白いテントのところが、家の教会です。その教会こそが、イエス様が語られていた時の姿と時代的に近いはずです。そこにラオディキアは、このように裕福なところで、自分たちは満たされていると思っていました。教会としての体裁はしっかりしていたでしょう、アメリカの教会のようであると、ジェイさんは言います。
それから、ヘレニズムとヘブライズムの違いを説明します。「生ける水」とイエスが言われる時、聞いている人々のことをしっかりプロファイリングをしないといけないといけません。もっと具体的に考えています、「動いている水」と捉えますが、ヘレニズム化されている人たちは抽象化します。イエスが、サマリアの女に語られた時も、仮庵の祭りの最後の日にも、「生ける水が流れ出る」というのは、聞いていた人たちはもっと具体的に受け止めていました。
そこで、「熱い水」「冷たい水」そして「生ぬるい水」です。向こう側に見える白い処、石灰棚のあるヒエラポリがあります。ただ、すぐ近くにも温泉が出たそうです。さらに別の方向に、山のところの方向からコロサイの町があります。当時は、衰退した町でしたが、ライコス川の水源があります、雪解け水です。ラオディキアはその間にあり、水道橋を造りました。ライディキア来るまでは生ぬるくなると言われますが、実は、そうとも限らず、土器の水道管が一度冷たくなると、保冷効果があるそうです。また温泉からの水も、管を熱するそうです。けれども、その熱い水が生ぬるくなると、ミネラルが多く入っているのは、体を癒やすのではなく毒になると信じられたのです。不純物があることが、生ぬるいということなのですが、清さというものが犬猿されるのが、今の時代です。
そして、「足りないおのはなにもない」というのが、まさに今の状態で、次に出てくるのは精錬された金、つまり清めであります。そして、裸という「恥」でありますが、この地域の人々は罪というより恥の文化です。イエス様も十字架で恥を忍ばれました。そして、イエス様が戸を叩かれますが、2018年の旅に説明してあるように、次の通りです。「当時、結婚はお見合いだったのですが、恋愛の時、一つの儀式がありました。それが、お嫁さんになってほしい人の家に行き、戸を叩くのです。叩いている時、彼は彼女への愛の歌をうたわないといけません。周りの人たちがいる中で、とても恥ずかしい状況になっていますが、彼女は二階から降りて来て、彼が戸を叩いている間に、食事の席を整えます。そして彼を入れます。それから、彼が彼女と食事を取るのです。彼女は彼に、「あなたの妻となります」と言って、彼は彼女に、「あなたを愛している」と言うのです。」
そして、彼らは悔い改めたのです。ラオディキアの教会の遺跡が見つかっていることがそれを証明しています。
ライディキア教会の跡
2018年には入れなかったこの遺跡、入ることが出来ました!ものすごいモザイク、精巧な作りです。
当時の復元図です。
家の教会
北に、劇場(8番)に向かっています。その手前に、2019年の今回においても、ここに入ることができませんでした。次に行く時には入れることを期待して!ペリスタイルの家に、教会の跡があるそうです。裕福な人が家です。
そして、北劇場です。
ここですが、なんと2023年にトルコ共和国百周年の数々のイベントのために、大体的な復元工事が行われているとのこと。下の記事をクリックしたら写真を見られます。
Archaeologists Completed the Restoration Of Ancient Laodiceia's Theatre
このような劇場の規模によって、町の人口を推し量れるそうです。ここは1万2万ぐらいの収容です。20-30万人と考えられるそうです。中心部にここに住んでいたわけではなく、郊外にも住んでいました。そしてこれはローマ式ですが、ギリシア式だと半円形ではなく、もっと馬蹄形のようなものです。そして、ギリシア式は、観客は向かい側の風景は自然を見るようになっているそうです。そして、こういうところは神々を敬うと同時に、人々がエンタテのために来ており、大きな収入源になっているとのこと。
ラオディキアの三分の一ぐらいしか観なかったと思います。もっと西側に行けば、アゴラなどいろいろありますが、全体を見まわしたら3時間はかかってしまうのではないでしょうか?私たちは、あと二つ、今日は見ないといけません。バスに戻りました。
デニズリにあるマスのレストラン
ラオディキアからレストランまで(Google地図)
そして、ラオディキア遺跡のそばにある町はデニズリですが、そこにあるマスのレストランに来ました。去年と同じところですね。おいしかったですよ!
(4月8日 その②へ)