2019年トルコ研修旅行記 4月10日 その① ティアティラ&ペルガモン&トロイ

1.ティアティラ
2.ペルガモン
3.トロイ


 私たちの旅は、ついに今日で、アジアの七つの教会を終え、長い旅に出ます。ティアティラとペルガモンを観たら、一気に北上してイスタンブールに戻ることになります。

1.ティアティラ
2018年の旅ウィキペディア

ホテルからティアティラへ(グーグル地図

 イズミールから北東に約90㌔のところに、ティアティラの遺跡のあるアクヒサルという町があります。イズミールはトルコで第三の都市ですから、見劣りはしますが、けれども、結構、産業が発達しているんではないか?と思いました。ウィキペディアを見ると、いろいろな工場があるようで、自動車、オリーブ油、煉瓦、煙草の構造があるとのことです。産業地区も発展中のようですが、それは、イスタンブールとイズミールを結ぶ国道沿いにあるかららしいです。

 古代も、大都市ではありませんでしたが、リュコス川の沿う平原地帯という地形から、交通の要衝として発達していたようです。ヒッタイト時代も、リュディア時代にも都市があったようですが、ギリシアのセレウコス一世が、紀元前3世紀、自分の娘の名にちなんでティアティラと名付けました。ペルガモン王国がここを征服してから、東方からの侵略に対して、ペルガモンに進出するのを遅らせる、軍事的前哨地になりました。兵士たちは、ティリモスという守護神(守り本尊)をもっていましたが、それがアポロの中に吸収されて、アポロがティアティラの守護神となります。この町に次第に、経済も生まれて来て、王がペルガモンをローマに明け渡すと、ローマの支配下で貿易で発達しました。



 職人技が発達しました。紫布が第一に挙げられます。ピリピでパウロが会ったリディアが、ティアティラからの紫布の商人でした。そして、銅細工人、革製品の職人も多かったです。そのため、商取引のための組合(ギルド)がティアティラの町での大きな特徴でした。そして、それぞれの商業組合には、守り本尊的な守護神がいたのです。例えば、銅細工人の組合では、ギリシアのヘファイストス(炎と鍛冶の神)が守り本尊です。布製品の織工であれば、女神アテナが保護します。彼女は戦うことでも有名でしたが、同時に、工芸においても長けていたからです。

 遺跡が、今のアヒクサルの町の下に埋まっていて、わずかしか発掘されていません。列柱廊やローマ時代の遺跡が少しあり、ビザンチン時代の教会跡(6世紀)が残っています。

 このような背景を知っていれば、ティアティラに対するイエス様の言葉がよく分ります。神の子として現れましたが、アポロが「神の子」と呼ばれていました。そして燃える炎のような目を持ち、光り輝く真鍮の足をもって現われましたが、これが銅細工人にとっては、自分たちが毎日目にしている、炎と真鍮をもって現れておられるので、かなり強烈だったことでしょう。

 上の動画の4:10辺りから遺跡の映像が映っていますが、2018年と違って、ビザンチンの教会堂跡の他は、ローマ時代の列柱廊の跡は、ほとんど見ることができませんでした。復元作業が始まっているからです。復元した後の姿が、横断幕に掲げられていました。





 雨が降る中、ティアティラに対するイエス様のことばを、ジェイさんが語ります。


 ジェイさんは、前哨地としてのティアティラについての説明をしていて、ペルガモンに来る前に侵攻を遅くさせるためでしたが、米国史でアラモの戦いについて例を挙げて説明しています。そして、貿易商人の町として有名であり、組合(ギルド)があります。組合には、主または長がいます。エペソのアルテミス神殿の銀細工人のデメテリオがそんな人です。そしてその主の上に、守護神、守り本尊がいました。それで、偶像礼拝が濃厚だったのです。

 こういったところにキリスト者がいました。ヨハネは世を去り、ポリュカルポスもいなくなった時、異邦人が教会の主体となり、ユダヤ人が排除されていきました。反ユダヤ主義が少しずつ流入し、後に大きく現れます。自分たちがどこから来ているか、聖書がどこから来たのか、メシアが何人だったのかを忘れていきました。異邦人をもっとひきつけたかったのです。異邦人は女神に引き付けられました。エペソで、マリアがあがめられていたのを覚えていますか?この地域が女神崇拝が強いので、マリアが神の母として、あがめられるようになっていたのです。おそらくは、ここにいる人々の気を引くために、そのようなことをキリスト者がしていったのではないか?と思われます。そしてギリシアの神ゼウスがいますが、イエシュアが、ゼウスのように見せていくようなことをして行ったのではないか?

 そして、これらの神々に献げ物をしなければ、これらがあなたが怒り、商売が悪くなるとして、何か悪くなったらキリスト者のせいだ、ということになったのです。

 そして本文を読んでいますが、「忍耐」とあるように、彼らにも迫害があり、また初めの行いよりもまさっているとほめられているところから、漸進していることもわかります。けれども同時に、違うことも起こっていました。「なすがままにさせている」とあります。これは、牧者たちへの警告であり、我々がなすがままにさせたら、信者たちは受け入れてもよいものなのだと思います。

 そして、「淫らなことを行わせ、偶像に献げた物を食べさせている」とありますが、使徒の働き15章には、「偶像に供えて汚れたものと、淫らな行い」を避けるようにとありましたが、それは異教徒がまさに行っていたことでした。その他については何ら制約はないとのことで、異邦人は異邦人のままでいられます。けれども異教徒のようにふるまってはいけない、ということです。

 ところで、この時のユダヤ人は、特にギリシア系(ヘレニズム化した)ユダヤ人は、迷信が好きでした。ヘブライ的なユダヤ人もそうでした。イエス様が、山上の垂訓で、「マタ6:22-23からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。」と言われましたが、これは迷信で、小作人でヘブライ的なユダヤ人たちでありましたが、それを信じていました。イエス様はこれを信じているということではなく、彼らのことわざから、7章12節まで、自分を無にすることについて語られたのです。

 その時のユダヤ人は星占いが好きでした。ビザンチン時代の、ヘレニズム化したユダヤ人となっては、当時のシナゴーグの中に占星術に関わることが、モザイクの床に描かれていたりします。自分の将来について占いに頼ったのです。そして、女預言者イゼベルの話に戻りますが、この地域の偽典によると、ユダヤ人による神託が、ちょうどデルフィの神託のようなものが、ユダヤ人の間にあったようです。星占いでした。イゼベルはこのような女で占星術を使っていたような女です。

 私たち牧者は、そのような者がいれば直ちに追放しますが、イエスはそうではありませんでした。「悔い改める機会を与えた」とあります。愛し、忍耐しておられました。そして「床」ですが、これはかけことばで、淫らな行いをする床でしたが、それを病の床にされたのです。「サタンの深み」とイエスは言われていますが、女は「神の深み」と言っていたのです。イエスは、「いや、神ではなく、サタンの深み」だと言われています。そして、彼女の言うことを聞かないでいなさい、ちょうど使徒15章で定めたようにです。

 そして「明けの明星を与える」と言われましたが、これはとても簡単に考えればよいです。黙示録の他の箇所で、ご自身が明けの明星だとしていますが、要は、星占いにはまっている者たちがいる中で、「わたしこそが星である」と言われたのです。

 以上ですが、いや~、これはかなり強烈なメッセージです。マリア崇敬が起こったのがここにある女神崇拝の背景があったということ、そしてその人々に自分たちが魅力的であることをアピールしたかったため、という説明。それから、女が占星術に関わっているだろうことです。なすがままにさせることの惑わしについて、目が覚めたような思いでした。


2.ペルガモン
2018年の旅世界遺産データベースターキッシュエア&トラベルTurkish Culture Club羊皮紙工房

ティアティラからペルガモンへ(グーグル地図

 ティアティラの遺跡から約70分かかったでしょう、平原の部分を北西に走り、ペルガモンのアクロポリスに向かっています。時間を節約するためにも、ディレクさんはバスの中から、ペルガモンについての説明を始めました。詳しい説明は、ぜひ2018年の旅のほう読んでいただけるといいです。こちらでは、主にディレクさんやジェイさんの説明を書き残したいと思います。



 ペルガモンは、ギリシア・ローマ都市でありますが、特徴は、ギリシア時代の遺跡が数多く残っていることです。第一に、ゼウス神殿の跡が特徴的です。今は基台のところだけが残っていて、ドイツが神殿の部分を持っていき、ベルリンに「ペルガモン博物館」で復元したものを展示しています。そこに刻まれているのは、ギリシアの神々が巨人群と戦っているものであり、蛇のかたちをした巨人も刻まれています。(参照記事

 第二に、生きた蛇を聖なる動物としてみなしていた、アスクレペイオンがあります。蛇のかたちをした医療の神であり、病の治療を祈願する人々が集まりました。ローマ時代には、グラディエーター(剣闘士)の訓練校がありましたが、体の負傷に対して医療が発達していたから、ここにあったのです。ペルガモンでは、人体の解剖学をよく知っていました。

 第三に、20万冊を所蔵する、ローマ第二の図書館がありました。(羊皮紙は、ペルガモンから始まっています

 それから、彫刻の学校もありました。負傷したガラテヤ人の像は有名で、人体の解剖学をよく知っていたことを表しています。その像は、ペルガモン王国がガラテヤ人の襲撃に戦い、勝利しています。

 そして、ケーブルカーに乗り、アクロポリスに上がります。そこからのベルガマの町の遠景は圧巻です。(クリックすると元の写真を見れます)


 ペルガモンの復元を徹底的に行っているドイツのウェブサイトがあります。遺跡と合わせて、そちらを覗くとよいでしょう。そこを見ますと、ちょうど、急勾配に作られているギリシアの円形劇場の上にある、ペルガモン図書館やアテナ神殿の敷地のところに私たちはいます。



  これほどの規模の図書館があるということは、この町の知的水準をうかがい知れます。L字型の列柱廊があり、その北の部分に付設されているのが図書館です。ここはアテナ神殿の聖域で、図書館はその一部になっています。下の見取り図のBiblio-thekとなっているところが図書が所蔵されている部分です。(Bibleplacesのブログ記事

(図書館の入口は一階ではなく、二階からということです。見取り図もあります。)

 今、立っているところは中庭で、彫刻が立像していた基台の跡も残っています。負傷したガラティア人(瀕死のガリア人)があるが、今はローマのカピトリーノ美術館に展示されています。(日経新聞の写真入り記事)ガラテヤ人に対する戦いで勝利したことによって、ペルガモンの王はゼウス大祭壇を建てました。祭壇の彫刻は紀元前3世紀のもので、ギリシアの神々が、下半身が蛇になっている巨人に対して戦っています。ギリシア人がガラテヤ人たちに戦って、勝利した時も象徴となったことでしょう。

※アテナ神殿については、いろいろなサイトに復元図や遺跡の写真があり、とても助かります。
図書館の見取り図の詳細版
CGによる復元図(アテナ神殿はこちらの右下。右が北の方角です)
アテナ神殿跡の写真と復元図
アテナ神殿へのプロピュライア(聖域への入口)(北東部に位置します。復元図はこちら
アテナ神殿に賑わいを見せている絵画

 ここからジェイさんが語ります。2018年の時のメッセージととても似ていますが、私の方が、気づいていないことが新たに気づかされて、理解が深まりました。


 ペルガモンに対するイエス様の言葉(黙示2章12-17節)を読んで行っています。「鋭い両刃の剣」とありますが、これは裁きの剣です。そして、「サタンの王座」とありますが、これは、スミルナの教会に対するイエス様の言葉にあるように、中傷する背後にサタンがいるということで、中傷者としてサタンがここに王座を占めています。アンティパスという人は無名の聖徒ですが、言い伝えによれば、彼は仲が空洞の鋳物の雄牛の像の中で火に焙られたと言われています。彼は、皇帝を拝みませんでした。

 この「サタンの王座」とは何か?一つは、ゼウス大祭壇かもしれません。誰かがトリクリニウムに似ていると指摘していましたが、その通りで、参拝者は階段を上り、神々が取り囲み、しもべたちである参拝者を見ているという状態です。その刻まれている像に、下半身が蛇の巨人がいます。それがサタンを象徴しているかもしれません。

 あるいは、アスクレペイオンかもしれません。病人がやって来ると祭司は、トンネルに案内します。そこんは有毒ではないけれども蛇が放たれていて、まとわりついてきたら癒やされるというしるしでした。そして医療機関に蛇の標がありますが、それはモーセの青銅の蛇ではなく、こちらアスクレペイオンの象徴です。

 あるいは、サタンの王座は皇帝礼拝かもしれません。ヨハネの時代の後になりますが、トラヤヌス神殿の跡が向こう側にあります。そして、仲間が座っている像の基台には、アウグストゥスの像が立っていました。焼香を焚いて、「カイサルが主」と告白します。「イエスが主」と告白するキリスト者には、できないことです。後世、ハギア・ソフィアでは、イエスこそが主であり、皇帝が献品するけれども、この皇帝礼拝を正反対にしたものです。

 そして「バラムの教え」でありますが、「偶像に献げたいけにえを食べて、淫らなことを行うように、つまずきを犯せた」とあります。当時、ローマ時代、市場で売られた肉は、ほとんどが偶像に献げたものです。祭司と、イスラエル人が献げた肉の一部を、祭壇で焼いた後で食べましたが、それの異教版です。バラムが、イスラエルを呪うことができず、祝福するだけでしたが、ミディアン人の娘たちを、淫らな行いをし、彼女たちの神々を持ち込ませました。つまり、バラムの教えとは、「焼香を焚いてもいい」という教えです。

 ニコライ派は、ティアティラのイゼベルと同じように、占星術の霊的知識を得たというような教えでしょう。また、霊的階級を付けている考えかもしれません。そして「剣をもって戦う」は、主が、偽りの皇帝礼拝や神々への礼拝に導いている者たちや、剣で裁かれることです。そして、「隠れたマナ」は、いのちのパンであるイエス様のことで、マナは契約の箱に隠されいました。

 そして最後、「白い石」と「新しい名」でありますが、新しい名は、ヤコブの名をイスラエルに変えるように、人格を変え、新たにすることを意味しています。白い石とは、しばしば、投票などで「はい」「いいえ」を示すようなものとして、ちょうどウリムとトンミムのように使っていたという可能性もあります。あるいは、もっと可能性があるのは、平らな四角形の基台に、重要人物の像が立てられていました。今も、その基台の石に、足の跡があります。その基台が「白い石」と呼ばれていました

 こういうことですが、最後の解釈がそうであれば、聞いていた人々にとって、これらの言葉は、非常に身近で分かりやすく明らかなものだったでしょう。自分たちがしばしば目にする、名が記された像の土台と同じように、自分も新しい名が記されるということなのですから。

アクロポリス遺跡見学

 これから遺跡をざっと見ていきます。


 
 初めに出てくるのは、ゼウス大祭壇の基台の跡です。

 そこからトラヤヌス神殿跡の方角に向かいますが、0:50辺りから、アスクレペイオンの遺跡を遠巻きに眺めています。当時の三大医療施設の一つです。最大のは、ギリシャのコス島でヒポクラテスで、第二がここです。ガレノスが出てきました。彼は後に、ローマに移り、皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの典医となります。そして第三は、ギリシャ本土のエピダウロスです。

 そして3:20辺りから、トラヤヌス神殿跡に入ります。他の多くの神殿はギリシアの神々を祭ったものですが、ここは皇帝です。こういった神殿がキリスト者にとって大きな圧迫となっていました。

 4:55辺りから、円形劇場を上から見ます。ここは、ラオディキアやエペソのローマ式のとは違い、ギリシア式です。半円式ではなく馬蹄形になっています。05:20辺りに、下に人が見えますが、そこは舞台で取り外し可能でした。四角形の穴がありますが、そこに木製の棒を入れていました。装飾されたファサードなどの建造物はありませんでした。ローマ式であれば、2-3階の壁がありました。(ウィキペディア)。取り外したら、麓の町の姿が見えていたわけです。(こちらの記事では、北の端にあるディオニューソス神殿の眺めを邪魔しないようにするため、とありますね。)1万5千の収容人数なので、20万人ぐらいの全人口だった、あるいはそれ以下です。(ネットでは15万人となっていました)私が、ギリシア時代の劇場なんですね?と確認すると、ギリシア時代に建てられて、ローマ時代になっても改変されなかったものだということです。その大きな特徴が、半円形にも満たない劇場の形状だということ。ローマは半円形で、舞台には建物があるということです。

アクロポリスから降りた跡に見えたもの

 アクロポリスから降りて、バスに乗りました。ペルガモン町全体において中心部にかつてあったのは、次のセラピス神殿でありました。


 セラピスというエジプトの神々が祭られていたところです。ローマ時代、ハドリアヌス帝の時に、今の建物を建てたのですが、当時は大理石で覆われていました。今はそれが剥がれ落ちているのですが、赤い煉瓦でできており「赤い館」と呼ばれているそうです。そしてビザンチン時代は、教会として使われていましたが、今はわずかに壁が残るのみです。

 そして、ペルガモンで注目すべき遺跡には、水利施設があります。この町には2つの川がありましたが、約50㌔北にある標高約1,200mのマドラ山から貯水槽やペルガモン水道橋、陶器あるいは鉛製のパイプラインを駆使して飲用の水を引き込みました。特にアクロポリスは周辺から150mほども駆け上がっていたが、3kmほど北にあるアクロポリスより25mほど高い山腹に最後の貯水槽を築き、その高低差で圧力をかけて水を引き上げたそうです。(参照記事



 ペルガモンを発った後の旅は、その2で書いていきたいと思います。