イスラエル旅行記 2月22日 - ガリラヤ湖畔

1.アルベル山
2.山上の垂訓教会
3.カペナウム
4.ベツサイダ
5.クルシ
6.湖上遊覧
7.タブカ
8.救いの証し

 この朝は、高村さんがデボーションを導いてくださいました。そして早速、アルベル山に向かいます。ホテルからアルベル山までの行程はこちらです。ホテルからも見る事が出来たように距離的にとても近いのですが、ここはガリラヤ湖からは断崖絶壁になっており、ティベリアまで南下、それから上り坂をあがっていかなければいけません。

 今回のガリラヤ湖は、水が潤沢にありました。近年、ガリラヤ湖の水位は下がりに下がり、レッドラインに近づきイスラエルは非常に心配していました。ここは淡水湖なのでイスラエルの水源になっているからです。けれども、去年末から大雨が降り、最近は大雪にさえなり、驚くほど上昇しました。写真をご覧になると、草木が湖水に沈んでいる姿が見えますね、そこはつい最近まで湖水の上にあったことを物語っています。

 そして、ティベリアに行きますと、数多くの人が“仮装”している姿に出くわしました。プリム祭です。エステル記に書かれている祭りですが、ペルシヤ時代、ハマンがユダヤ人を抹殺する企てをしていたところ、王妃エステルの執り成しによって難を免れたこと祝う祭りです。こちらに詳しい説明があります。左の写真に見える子の一人はチャイナ・ドレスを着ていますが、聖書の登場人物以外の仮装もたくさんしています。そして、「「ハマンは呪われよ」と「モルデカイに祝福を」が聞き分けられなくなるまでお酒を飲まなければいけないと言われているため、 超正統派の人々は「律法の行い」として、完全に酔いつぶれています。」とのこと(情報元)。どうりで、後日エルサレムのベン・ヤフーダ通りで、お祭り騒ぎをし、酔い潰れている人々の姿に出くわしたわけです。

 ティベリアで上り坂を上りきってしまうと、美しい畑と緑の道を走ります。アーモンドの花が咲き乱れていますが、これはまさにイスラエル版の桜です。ピンク色をしています。そしてハッティン(ヒィッティーン)の角が出てきました(地図)。これは2010年の旅で訪れたところで、十字軍がイスラーム軍の戦いで敗れ、エルサレムが陥落した有名な戦いの場所です。そして、こちらのサイトをご覧になると分かりますが、プロテスタントのチャーチ・オブ・クライストが、ここを山上の垂訓の八福の山としています。

 このことについて何度が言及したことに対して恭仁子さんは、少し驚いたご様子でした。現地ガイドにもあまり知られていない事項で、後で「むしろ、アルベル山の西側麓に広がる所が八福の山だという人のほうがずっと多い。」と仰っていました。そしてアルベル山が見えてきました。

1.アルベル山


 ナザレやカナから、ガリラヤ湖へ入る道が、一年中ほとんど乾いているアルベル川による渓谷にあります。つまりアルベル山の下、ミグダル(マグダラ)がガリラヤ湖の入口です。イエス様はカナからカペナウムに行かれた時、この道を通られて入りました。

アルベルの説明(Biblewalks.com, NET, 日本語1日本語2)
冊子の説明

  • ホセア書10:14の「ベテ・アルベル」はここかも。「シャレマン」はアッシリヤ王「シャルマヌエセルの可能性あり(2列王18:9)。
  • ガリラヤ湖の入口。
  • ゲネサレ平野一帯を一望できる。
  • マカバイ家の反乱軍の避難所
  • ヘロデが、ユダヤ人の反乱軍を掃討。
  • ローマがユダヤ人反乱軍を掃討。 

 私は、この訪問を楽しみにしていました。2010年の旅では閉門時間に間に合わず入れなかったからです。
 入口には次の絵がありました。「断崖絶壁には数限りない穴がある。そこに66年以降反乱を起こしたユダヤ人とその家族が、これら穴に隠れ住み着いた。兵隊を吊り下げて、兵隊が矢を射る、火を付けた矢を射って倒した。」

 そして次の下の写真をご覧ください。アルベルの崖に行くまでの道を反対向きに撮ったものです。背景にハッティンの角が見えますが、ご覧のように非常になだらかな上り坂になっているだけです。ガリラヤ湖畔からは断崖絶壁なのですが、それはガリラヤ湖のほうがシリア-アフリカ地溝帯にあって低くなっているからであり、実際は大した高さではありません。恭仁子さんは、ここで「八福の山」の可能性を言っている人がいることを僕に話してくださいました。



 そして、ゲネサレ平野を見下ろすところまで行きました。(写真をクリックすれば拡大できます。)

 「もう一つ向こうの崖があり、その間にワジ(涸れ川)がある。1187年の六月、十字軍はこの谷を通ってハッティンに行った。本当に蒸し暑いのだが、(武具はヨーロッパ式のため)脱水症状を起こしたのが敗因と言われている。ここゲネサレ平原は開墾されて、オリーブ、柑橘類、バナナ等が収穫される。海沿いにあるキブツで、黒っぽい建物があるのが、昨日、イエスの舟が展示してあったところだ。かつてのマグダラは、アルベル山のふもとにある。ミグダルという新しい町がある。当時、ユダヤ人が数多く住んでいた集落で、反乱時に指揮を取る。最後の一人まで戦い、舟を湖に漕ぎ出して戦ったために、湖が血で真っ赤に染まったとヨセフスは記している。」

 このアルベル山に上る利点は、もちろんガリラヤ湖が一望できることです。「ティベリアは、ヘロデ・アンティパスが作ったもの。イエス様の伝道の本拠地は、このゲネサレから二キロほど海に沿ったところであり、二つ目の出っ張ったところがカペナウムである。今でも、このひなびたところである。異邦人の町というよりも、異邦人とユダヤ人が入り混じって住んでいたところで、なお一層難しいことが起こる。ちょうど今のサマリヤ地方のように、アラブ・パレスチナ人の住んでいるすぐそばに、あえて過激なユダヤ人たちが入植地を作っていくと、日々の生活に非常に悪い影響をもたらす。そこをあえて選んで伝道の本拠地にイエスはされた。イザヤ書9章の御言葉の成就である。」そして何と、旅行ガイドの研修で、この絶壁を杭を使って降りることになっていたそうです。ご自身はしたくないのでバスに戻ったらバスは出て行ってしまったので、仕方がなく死に物狂いで降りたことがある、こと。(マジですか!)

2.山上の垂訓教会

 そしてアルベル山から降りて、山上の垂訓教会へ向かいます(Google)。同じようにティベリア経由で、再びアルベル山を仰ぎ見て、さらに進みます。昨日降りてきた90号線上を走り北上してから、8117号線に入り教会に着きます。そのまま北上し8277号線に右折するとコラジンの遺跡がありますが、そこは2010年に行きました。

山上垂訓の丘の説明(2008年旅行
冊子の説明

  • カトリック伝承での位置(マタイ5-7章)
  • プロテスタント一派はハッティン峰がそれであるとしている。
  • 東にカペナウム、西にゲネサレ平野(マタイ14:34等)が拡がる。
  • 何千人もの人が座っても十分な広さがあり、また丘。 

 教会はたいそうきれいな所でした。教会堂だけでなく、庭もきちんと整理されています。けれども観光客が多く、落ち着いてお話できるところがあまりありませんでした。何とか教会をぐるりと回って、ゲネサレ平野の見えるところから話しました。その前に恭仁子さんの説明です。「裏にコラジンがあり、漁業と農業が盛んで、相当豊かなユダヤ人村落があったのではないかと思われる。同じところに、建国以前に入国してきた人々がキブツを作っていたというのも興味深い。コラジン、北端のベツサイダ、カペナウム、ゲネサレにありとあらゆるユダヤ人の集落があったのが、イエス様の時代である。」そして私はあえて、コラジン、ベツサイダ、カペナウムに人が住んでいるか尋ねました。確かに観光地にはなっているが、地震が起こって以来、人が住んでいません。イエス様がこの三つの町を呪われたとおりになっている、と私は説明しました。


 ガリラヤが、圧制の苦しみの中にあったとき、メシヤ待望があったイザヤ9章の預言があることを話し、そこからの解放を願っていた人々に主が語られたのは、「自分という敵からの解放」というものだった。御国の到来は、徹底的な自己否定、自己破壊であったことを話しました。

 そしてこの後に、ある方から、「ギリシヤ語では、「心の貧しい者は(マタイ5:3」というのはどうなっているんでしょうか?」という質問を見城さんから受けました。英語ですと、「霊の貧しい者は」となっています。私も日本語訳で戸惑うことがよくあって、例えば、「思い」と訳さねばいけないところを「心」と訳されていることがあると説明しました(写真)。

 その宿題の答えをここに書きます。やはり、英訳のほうが一貫しています。ギリシヤ語は「ニューマ(pneuma)」で「霊、息、風」という意味です。ヘブル語の「ルアク(ruach)」に相当します。神がご自分の息でアダムを造られた、その息の部分が完全に枯渇しているのを知っている者が「幸い」と呼ばれているのです。単なる心ではありません。一度、翻訳者の方々に会ってみたいですね、どうして霊にしても、思いにしても、「心」という言葉を選んだのか?ということを聞いてみたいです。

3.カペナウム

 山上の垂訓教会からカペナウムまで(Google)
 カペナウムの説明(2008年2010年
 冊子の説明

  • ヘブル語で「ナホムの村」という意味。
  • イエスの宣教活動の本拠地(マタイ4:12-13、9:1、ルカ4:23)カナの婚礼の後すぐここに来られている(ヨハネ2:12)
  • 紀元前二世紀に町建設。ヘロデ・アンティパスがローマ兵の駐屯地を作る(ユダヤ人の会堂を建てた百人隊長(ルカ7:1-10)
  • ペテロとアンデレの家(マルコ1:29)
    • ペテロの姑を癒される(マルコ1:30-31)
  • 会堂で教えられる、悪霊追い出し(マタイ8:14-15)
  • 中風の人の癒し(同9:1-8、マルコ2:1-12)
  • 取税人マタイを呼ばれる(マタイ9:9)
  • カナに来た王室の役人はカペナウムから来た(ヨハネ4:46)。
  • 五千人の給食後、いのちのパンについての説教を行われた(ヨハネ6:16-59)。
  • 「ペテロの魚」(マタイ17:24-27)
  • 誰が偉大かの論争(マルコ9:33-37)
  • コラジン、ベツサイダと並んでイエスが呪われた(マタイ11:23-24、ルカ10:15-16)。
  • 遺跡
    • イエス当時の会堂跡とその上に建てられた後世の会堂。
    • ペテロの家と隣接する家々
    • ダビデの星と契約の箱を彫ったもの 

 私は、改めてなぜ主がこの地を選ばれたのかを思い巡らしていました。「ティベリア、ミグダルから離れ、中心から離れていた、異邦人もユダヤ人とともに入り乱れていた、けれども、海沿いの道が走り交通の要所であった、ヘロデ・アンティパスの領地とヘロデ・ピリポの境であった・・・」。いずれにしても、主は大きな事をあえて行なわれず、むしろ小さなところで思う存分にメシヤの活動をされていたのではいか、という気がしてきました。「大きな方が小さな働きの中で大きなことを行なわれる。」という原則です。そんな思いを持ちながら、カペナウムの遺跡の中に入りました。

 敷地に入ってまっすぐに歩くと右手に教会が(その下にペテロの家)、その左に集落の遺跡が残っています。さらにその左に会堂(シナゴーグ)があります。私たちは集落の手前の道路のところで、恭仁子さんの説明を聞きました。写真を見てのとおり、その奥にある庭は工事中でした。「垣根は当時のカペナウムではなく、あくまでもフランシスコ会管轄のカペナウムであり、(集落の向こうに)赤いドーム屋根の教会があるが、ロシア正教会のものだ(下の写真)。当時、一番盛んだったのは4-5世紀の頃、海沿いに沿って500メートル、内陸に200メートル入った町でそうとう豊かであった。漁師のペテロの家にイエス様が寝泊りされていた。あちこち足を伸ばしても、必ずここに戻ってこられた。それで別名「イエスの町」と呼ばれる。」



 「このユダヤ人会堂だが、福音書にはあちこちの会堂に入って、教えられた、とある。カペナウムには常駐しておられたから、とりわけここでは多かった。いのちのパンの話もここで行なわれた。その後の研究の結果、今の会堂は五世紀のものであり、多くの人をがっかりさせたが、よく見ると処女地に立っているのではない。町の真ん中の小高い所、誰でも聖なる場所を建てたいと思う。土台に見える玄武岩で作った建物が、確証はないが可能性がとても強い。もしそうなら、イエス様が教えられた会堂である可能性が強い。もちろん当時は黒い玄武岩の上に、白いしっくいが塗られていた。」会堂内に入りました。「五世紀の会堂は白い石で建てられている。当時の家屋は玄武岩で作られていた。ここから二キロ近くあるマグダラに行かないと白い石は見つからない。そこで切り出して運んでくるとなるとかなり予算オーバーになるが、それだけの経済力を有していたユダヤ人が住んでいたと思われる。」「柱はローマ式だ。どんなに異教の影響を受けないと言えども、五世紀にもなるとどうしても受けてしまう。想像図として、建物半分が二階だったものがあるが確証はない。」一番奥の部屋に行き、そこから先に説明のあったロシア正教の教会堂を見ました。そこまで町は広がっていました。そして、「イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた(マルコ1:29)」とあるが、ペテロの家に行ってみましょう、とのことです。

 「当時の家は壁が厚く、柱がしっかりしている。このように間取りが小さいのは、当時の体格もあるし、大きくすると屋根をどうすればよいか分からなかったから。」「ここがペテロの家か、という確証は、二世紀の巡礼の記録で、小さな部屋があったけれども、そこに盛んに信者が集まっていたとのこと。その後、五世紀になって八角形の教会堂が建った。だからユダヤ人の会堂もあったし、初期クリスチャンの教会堂もあった。フランシスコ会はこの場所を記念して、この遺跡を邪魔しないように同じように八角形の教会を建てた。各窓からそれぞれの方向を、絵のように見えるようになっている。真ん中がガラスになっていて、この遺跡が見られる。」

 そして場所を出口に向かって並んでいる、シナゴーグで発掘された遺跡のところに行きました。「契約の箱が描かれているが車がある。車で運んだのが聖書に書かれているとおりだ。そして、ぶどうやざくろなど旧約時代からの七大農産物が描かれている。」そして、ペテロの像を見ました。「最近、寄贈されたものだが、ペテロについての聖書箇所がすべて描かれている。漁師で、鍵を持っていて、羊飼いの杖まである。」(2010年の旅行記に写真が掲載されています。)そして、私のほうから「御言葉はどこで語りましょうか?」と尋ねたところ、「ああ、忘れていました!」ということで会堂に戻りました。ここで、「イエス様の宣教」について話しました。カイザリヤでは「異邦人への宣教」を学んだが、宣教の元祖であるイエス様ご自身がどのように宣教をされたかを分かち合いました(音声)。



4.ベツサイダ

カペナウムからベツサイダへの道(Google)
ベツサイダの説明(2010年旅行University of Nebraska
冊子による説明

  • ヨルダン川の東、ガリラヤ湖の北東、「漁師の家」の音訳が「ベツサイダ」。
  • ゲシェル王の領地の一部(2サムエル3:4)
  • 国主ピリポ・ヘロデが「ユリアス」と改名。
  • ペテロ、ピリポ、アンデレの故郷(ヨハネ1:44:12:21)
  • 盲人を癒される(マルコ8:22-26)
  • 五千人の給食(マルコ6:45、ルカ9:10-17)
  • イエスが退かれる所(ルカ9:10)
  • イエスが呪われた町(マタイ11:21-22)

 カペナウムから再びヨルダン川を越えました。ヨルダン川がたいそう狭いことに、ある兄弟はひどく驚いていました。そしてベツサイダに着きます。


「(カペナウム、コラジンと並んで)ベツサイダも地震の破壊がそのまま残されている様子が伺える。この町も、入手しやすい玄武岩による家造りを行っていった。ピリポ、アンデレ、ペテロの出身地であり、かつてはダビデの子アブシャロムを生んだマアカの父が統治していたゲシュルの地であった。アブシャロムが一時避難したところだ。」

 恭仁子さんは、福音書における五千人の給食の位置を、ヨハネ6章の記述から先ほど訪ねた山上の垂訓の丘の辺りではなかったとお考えになっていましたが、私が2010年の旅でアーノルドに尋ねた時はこちらのベツサイダであると断言していました。意見の分かれるところです。(ちなみに、新改訳の聖書に付属している地図で「ガリラヤ伝道」においては、ここのベツサイダに位置を示し、「7.ベツサイダ付近に退く場所を求めた。そこで更に、大群衆の給食、海上歩行などの奇蹟を行なった。」と記しています。)私にとってここの遺跡の魅力は、ローマ時代のぶどう酒作りの家と漁師の家が詳しく発掘されていること、そしてゲシェルの時代の遺跡も発掘されていて、どちらも見る事ができること。カペナウムは遺跡の上に教会堂があったり、像が立っているけれども、こちらは発掘されたそのままを見る事ができること、です。私が簡単に説明しました。


 私たちを主な遺跡発掘の場所から回って、どこかに連れていかれようとしていましたが、お目当てのものがなかったようです。


 そして戻りましたが、その途中でゲシュルの雄牛の神が発掘されたことろを過ぎました。


 そして私たちは入口に戻りました。

5.クルシ

ベツサイダからクルシまで(Google)
クルシの説明(2010年旅行

 クルシへの訪問は、思わぬご褒美でした。ベツサイダの見学が終わって、わずかに30分ぐらいお昼を食べるところまで行くのに残っていたからです。私がクルシに少し関心を示したら、「まだ行く時間がありますよ」と恭仁子さんがおっしゃってくださいました。ここはもちろん、レギオンとイエス様の対決、そしてレギオンに取り付かれた豚が湖に流れ込んだところであります。

 2010年は、入ってすぐに見えるビザンチン朝の修道院の跡を見ましたが、恭仁子さんは私たちをどんどん山の斜面のほうに連れて行かれました(左写真)。そこにも小さな遺跡らしき跡が残っています。Biblewalks.comによると、「言い伝えで、ここにレギオンに取り付かれた狂人が住んでいた所としてチャペルが建てられた。」とあります。ここからの眺めが最高でした(右下写真)。ガリラヤ湖を東方から大きく眺めることができます。そして、イエス様がこの男と会話されていた時に、このような斜面にいたのではないかと思われる場所です。

 恭仁子さんの説明が始まりました。「ゲラサと呼ばれていたこの場所は、異邦人も住んでいたし、ユダヤ人も住んでいた。それぞれが住む場所を高い壁で囲って、別々に住んでいた。関係は良くなかった。豚を飼っていたのは異邦人である。放蕩息子の話で、豚の餌のイナゴマメを食べたいほど空腹であったというのは、良家の息子が異邦人のところで仕事をさせられていたという侮辱的な意味合いを含んでいる。」ヨシュア君が「ここに墓場ががあったのですか?」と尋ねたところ、「何もなかったでしょう、山の斜面だし。」との答えでした。

 「ここからは良く見えないが、湖に小さな岬のようなものが突き出しているものがほんの少しあるが、そこ以外はそんなたくさんの豚が流れ込む場所はそんなに考えられない。ここだということになった。」「ここから西側の朝に出たアルベル山が見える。真向かいにある。」

 そこで私に御言葉を読みますか、と聞かれたので、レギオンの話をここで読みました。ずっと朗読していますが、最後の部分でコメントを入れています。デカポリスの位置と、イエス様がユダヤ人への伝道と異邦人への伝道の仕方の違いを説明しました。



 そして降りていって、修道院の説明を短くしてくださいました。「イエス様が悪霊を追い出されたことを記念した教会が、教会が公認される四世紀以降に建てられて、これは修道院の跡である。立派な祭壇、司祭の着替えの場、洗礼場など再現してある。そして、ユダヤ人の集落もあった。周囲を壁で囲んで他の人たちから自分たちの生活を守っていた。豚を飼っていた人がいたこということは、異邦人の集落もあったということだ。」

 私はデカポリスというのは完全に異邦人の地域で、豚を飼っていたのは異教化されたユダヤ人だと思っていたのですが、なるほどユダヤ人の集落が壁で囲まれた形で出てきたとは。「滅びたイスラエルの羊のところ以外はいかない」と言われたイエス様ですが、旧約聖書と同じように注意深く読むと異邦人への働きかけが、かなりあったことを伺うことができます。



6.湖上遊覧

クルシからエイン・ゲブまで(Google)

 クルシからお昼を食べるところまで動きました。東側を少し南に行きますと、漁業のキブツであるエイン・ゲブがあります。ここではホテルもありますが、何と言っても聖ペテロの魚が美味しいところです。2008年の旅行で言っています。レストランの紹介はこちらです。私はもちろん魚を食べましたが、何人かの方はスパゲッティにしていました。というのも昨日、鱒を食べたところですし、一回に出てくる食事の量が日本とは桁外れに違いますから、お腹が付いていかないのです。

 私は2010年の時、ティベリアのほうから出ている湖上遊覧を楽しみ、またそこにあるレストランに行きましたが、やはりこっちのほうがおいしかったです。恭仁子さんもガリラヤ湖畔のレストランでは、聖ペテロの魚はここが一番美味しいと、ということでした。

 興味深いことに、途中からかなり多くのアジア系の若者が食べていました。聞いてみたらインドネシアからです。アジアからの旅行客がかなり増えていると以前聞いたことがありますが、なるほど、です。

 ここで一時間ぐらい時間を過ごしてから、舟に乗ります。岸に二隻あったのですが、私たちが乗ったのはわざと古めかしく作ったのかと思われるようなものでしたが、18名という少人数だし、ちょうど良かったです。

 次の目的地はタブカで、元々は、私たちのホテルのあるゲネサレ方面に行く予定でしたが、直前に、「周遊してまた同じところに戻ってくる」と告げられました。それでエイン・ゲブから時計と反対回りで大きく戻って、タブカに行くことになります。(なぜタブカを最後にしたかといいますと、日没になれば安息日に入るので、国立公園等は早く門が閉まります。けれどもキリスト教関連の施設は関係なく通常通りの閉門時間だから、最後に持ってきたのです。)

 舟に乗って、予期せぬことが起こりました。私は湖上からどの方向に何の町があるか説明しようとおもったのですが、皆さん、レストランで取っておいたピタパンをちぎって、湖に投げ出しました。かもめに餌を与えるためです!私は「まあ、こういう遊びもいいか」と、ゆっくりすることに決めました。

 途中で舟のエンジンを切ってもらって、イエス様が水上歩行された箇所を読み、御言葉を分かち合いました。



 ここで、冊子にあるガリラヤ湖の聖書背景をお分かちします。

  • 周囲53キロ、南北21キロ、東西に13キロ、166平方キロメートルの面積。
  • 最大深度43m。海抜マイナス213m
  • 旧約聖書では「キネレテ湖」(民数34:11、ヨシュア11:2,12:3)。由来:竪琴のヘブル語。
  • 新約聖書ではゲネサレ湖(ルカ5:1)、ティベリヤの湖(ヨハネ6:1,21:1)とも呼ばれる。
  • 約束の地の東の境界(民数34:11)
  • イエスの宣教の中心地(マタイ4:18など)
  • 豚がなだれ込む(マルコ5:1-20、その坂はクルシと呼ばれ湖の東)。
  • しばしば舟で渡られた(マタイ8:23,マルコ8:10,ルカ8:22,ヨハネ6:1)
  • 水をしずめられる(マタイ8:23-27,ルカ8:22-25)
  • 水の上を歩かれる(マタイ14:22-23,ヨハネ6:16-21) 

 さらにもう一つ。舟の人が流すイスラエルの音楽がちょっとうるさいという声があったのですが、私は「いいでしょう」と言いました。有名な歌が目白押しで流れていたからです。そしてついに、踊りました、イスラエルダンスを!


7.タブカ

エイン・ゲブからタブカまで(Google)
タブカの説明(2008年旅行Biblewalks.com
冊子からの抜粋

  • 伝統的な五千人給食の場(しかし、ベツサイダが実際の場と思われる)
  • カペナウム郊外の漁村、したがってペテロがイエスから召しを受けたところとして記念される(ルカ5:1-11)。
  • イエスの復活後、パンと魚を食べておられたこと(ヨハネ21:1-4)を記念する教会もあり。

 タブカ、タビハ、あるいはタブハとも言いますか、英語ではTabghaです。七つの泉を意味するヘプタペゴン(Heptapegon)が訛りました。ここで何か聖書的出来事が起こったという地点はありません。けれども、ここの泉から湖水よりも温かい水を出していて、格好な漁場になっています。そこで、イエスが弟子たちを召されたところとして記念されているところです。(カペナウムの郊外の漁場ですから、十分にその可能性はあります。)ベツサイダは遺跡は残っていますが、水が引いてしまったのでしょう、湖からかなり離れていますが、ここですと実際にどのようなところに漁師のペテロたちがいたのかを想像できます。

 私はここに来たのは三回目ですが、実は「パンの奇蹟の教会」に入るのは今回が始めてです。ここに、一回目のパンの奇蹟が起こったところだとして記念している教会です。「有名な魚とパンのモザイクがあるところです。ここの道を隔てたすぐ向こうが山上の垂訓の山だが、おそらくそこで起こったパンと魚の奇蹟を記念した、山のふもとのここに出来ている。ここは、キリスト教公認後に建てられた教会が初めてで、何かの事情で壊れ、480年にはその上にこんな大きな立派な教会が建った。その教会の床の祭壇の前にあったのがモザイクで、つまり千五百年以上前のものが残っている。やがて、614年にペルシヤ軍が襲ってきた時にこの教会も滅びる。しかし、床は全部きれいに残っている。二匹の魚と五つのパンのモザイクの他にも、動植物を描いた床が残っている。エルサレムの教会から聖画が見つかって、研究の結果、350年の教会、480年の教会が分かり、床がこのように残っているので、その上に新しい教会をドイツ系のベニディクト派(カトッリク)である。ここにはないエジプト辺りの動植物が描かれているため、職人がエジプトから来たのかと思ったが、その確証を与えたのが、ナイロメーターというナイル川の水深を測るものが描かれていたことである(写真)。職人がエジプトから来たことを署名代わりに残したのではないかと思われる。」

 そして、これらのモザイクを見ました。この時代のモザイクは素朴で、そしてお茶目で私はとっても好きです。パンと魚の奇蹟のモザイクを全体から撮ったものが次です。祭壇の手前下にあります。


 次に、動植物のモザイクを紹介します。モザイクは石は色は褪せないが、接着剤が取れてしまって石が外れることはあるそうです。ガラスの下にあるのは350年の教会です。


 それから外に出ました。そこに福音書の喩えに出てくる「ろばの碾き臼」があります。イエス様のところに来ようとする最も小さい者をつまずかせるような者は、これを首に付けられて海(ガリラヤ湖)に投げ込まれたほうがましである、と言われたものがそれです。これも玄武岩で作られています。穴のところに棒が入っていて、ろばがそれを一日中ひいて、オリーブの荒挽きにも役に立つそうです。そしてバスケットのような網に入れて、石の重石でつぶしてたらりと流れていく、という作業を行ないます。


 そして、下の写真はヘブロンの辺りで見つかった昔の洗礼所です。こういう形のものが流行りで、十字架の形をしている。使い方は、その中に立って、その人の上に水をかける、ということ。かなり体格が小さかったのか、このような小さなものにも両側に階段が付いています。五世紀のものです。


 そして私たちは「ペテロ首位権の教会」に行きました。左の階段が当時のもので、そこま湖水が来ていたということです。漁から戻ると、その階段に立っていたとのこと。ヨハネ伝の21章に、ペテロと他の弟子のところにイエスが現れたのがここだとして記念しています。


 そして教会の中に入ると、「メンザ・クリスティ」という岩の祭壇があり、「主のテーブル」という意味で、そこで主が食事を用意された、と言っているところです。


 そして最後に、場所を変えて「召命」について教えました(音声)。私の背後には故ヨハネ・パウロ三世のモザイクで、聞いていた皆さんにはちょっと注意散漫(?)になったかもしれませんね。これで終わりなので、私も気が緩んで20分ぐらい話してしまいました。


8.救いの証し

 この後、先ほどの湖畔で時間を少し過ごしましたが、恭仁子さんの薦めで、いちじくの木の実など果物の乾物のお店に行きました。けれども、先にホテルに戻りたい人は戻りました。私たち夫婦もホテルに戻り、疲れを取りました。隣の部屋は、見城さんとヨシュアさんの部屋です。ヨシュアさんがギターでバルコニーで賛美していました。私も出て行って、明日の訪問地の予習をしました。静かに互いに恵みを分かち合い、交わって、とても嬉しかったです。私は改めて、こんな小さな湖に全能者であられるイエスがご自分を現された、ことに思いを巡らせていたことをお話ししました。

 そして夕食のためにロビーを通ると、あるテーブルに大量の果物の乾物や香辛料があります。旅行仲間がいます。恭仁子さんとヤコブさんがいて、ヤコブさんが驚いた顔をしていて「こんなに買ったんだよ」と言いました。私のコーヒー好きを知っているうちの教会の姉妹の機転でしょう、私のためにイスラエルのコーヒーをプレゼントで買ってくださいました(感謝)。


 そして夕食後は、ミーティングの時間です。今晩は、明日、ヨルダン川でバプテスマを受ける野島さんの救いの証しを聞きました。彼は、去年5月にこのイスラエル旅行について問い合わせるために連絡を下さったのですが、信仰をもったばかりでまだ教会に通ったことがなかった兄弟でした。過去の他宗教の経験から、そのような集まりに苦手意識を持っていたけれども、とりあえず一回行ってみるかと思ったところ、このクリスチャンの交わりが良くて、それでこれまで礼拝を一度も休んだことがない、という経緯の証しを語ってくださいました。そして彼は今、礼拝賛美をギターで導いておられます。