イスラエル旅行記 2月21日 - ゴラン高原
1.ベンタル山
2.バニアス(ピリポ・カイザリヤ)
3.テル・ダン
4.ハツォル
5.イエスの舟展示館
6.Sさん&Iさんご夫婦の証し
昨日はヨシュアさん、今朝は見城さんがデボーションで御言葉を分かち合いました。ガリラヤ湖上を歩かれるイエス様の話から、主に委ねることの必要性を聞きました。そして、急いでバスに乗り込みます。今日は、ゴラン高原とガリラヤ北部の旅となります。聖書に全イスラエルは「ダンからベエルシェバまで」という表現がありますが、そのダンも今回立ち寄ります。
ここから最初の目的地のベンタル山までの行程はこちら(Google)です。ところで、バスでは右の最前列に恭仁子さんとご主人のヤコブさんが座り、左の最前列に私が座っています。ホテルを出て少し上り坂になったので、「ここからゴラン高原です」とマイクを使って説明したところ、カペナウムの標識が出てきました!すかさず、「すみません、間違いました」と訂正しましたが、もう四回目なのに、ボケているなと恥ずかしくなりました。カペナウムを過ぎてヨルダン川に差し掛かった時に、恭仁子さんはヨルダン川の説明と、当時がここがヘロデ・アンティパスの領地とヘロデ・ピリポの領地の境になっている話をされました。ここは別に戦いなどなかったけれども、分割領の境なので取税人がいたり、ローマ百人隊長が駐屯していたりと、福音書の背景が浮き彫りになってきます。
そして左折して888号線に入り、ベツサイダを通り過ぎて北上します。ここからがようやくゴラン高原です。世界地図ではここはシリア領になっていますが、パスポートも何も要りません、実効支配はイスラエルであり、イスラエルが併合して自国領になっています。ゴラン高原は聖書名は「バシャン」です。冊子から抜粋してみます。
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そして2008年の旅行記に、詳しいゴラン高原の説明がありますのでご一読ください。
以前、ゴラン高原の行政区の首都カツリンで、ここの美しい自然の映像を鑑賞しました。それは春のことだということで、少し期待していました。はたして、ゴラン高原は緑と花が咲き乱れるきれいな場所に変わっていました。さらに、以前にもまして放牧の姿も数多く見えます。すばらしかったのは、雪の積もっているヘルモン山でした。(聖書にはヘルモン山は数多く出てきて、「それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。(詩篇133:3)」とあります。)そして塹壕や戦車など六日戦争とヨム・キプール戦争の戦跡も見えます。
1.ベンタル山
そしてベンタル山に到着しました。旅行者は私たちだけです。青空が広がっていたので、シリア領やヘルモン山を一望できました。ベンタル山またシリアの説明は次の通りです。
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そしてベンタル山ではありませんが、シリアとの国境にこれまでに来たことのある旅行記は、こちらにあります(1999年、2008年)。
この頂上から、聖書のアラムとヨム・キプール戦争についての説明をしました。恭仁子さんに前日、中東戦争についての本を読んだ話をしました。そうしたら、「だったら、次の日のベンタル山ではご解説お願いします。」と言われまして、準備をしていなかった私はとまどいましたが、勢いあまって解説してしまいました。聖書アラムとダマスコの説明も加えて説明しました。
そして恭仁子さんもヨム・キプール戦争についてフォローしてくださってくださいました(音声)。ところで、中東戦争については、聖地旅行と関係がないではないかと思われるかもしれませんが、決してそうではありません。中東戦争を知ると、昔と今が密接に結びついていることを発見します。第一に、地形は変わっていないのです。ですから聖書時代に戦った場所は現代でも戦場になります。第二に、イスラエルが敵と戦った旧約時代に主が与えてくださった奇蹟を、今のイスラエル人にも与えておられることを知ります。大変かもしれませんが、今のイスラエルを知るには次の戦争史を知る必要があるでしょう。推薦図書を紹介したブログ記事です。
独立戦争:「おおエルサレム!」 / 六日戦争:「第三次中東戦争全史」 / ヨム・キプール戦争「ヨム・キプール戦争全史」
最後に塹壕に入りたい人が入っていき、私たちは次の目的地、バニアス(ピリポ・カイザリヤ)に行きます。
2.バニアス(ピリポ・カイザリヤ)
ベンタル山からバニアスは意外に時間がかかりました、約30分です。イスラエル北端の道は細く曲がりくねり、バス運転手のタイシルさんの腕が試されました。アメリカから来た姉妹二人はこれで三回目のイスラエル旅行ですが、今回の旅行にはまだ行ったことのない箇所が多くあったようで、ここも初めてだとのことです。
ベンタル山からバニアスまでの行路(Google)
バニアスについての説明(2008年旅行、2010年旅行)
冊子の説明
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まずお手洗い休憩を取りましたが、その時に私は恭仁子さんに相談しました。ハツォルに行けないものか、と。すると時間的にできない、との回答でした。けれども少し思いなおしてくださり、「次のお昼はテル・ダンのそばのレストランの予定だが、昼食はテル・ダン見学の前に予定していたが、それを後に持ってくれば閉門の一時間前にハツォルに到着することができる。」と機転を利かしてくださいました。それでハツォル行きも可能となりました!
私はここは四度目の訪問ですが、初めの二度は最初に出てくるパン神の祭壇のところだけを見ました。三回目の2010年、自主的に仲間数人で行った時は実は奥にもっと多くの遺跡があるのを知りました。恭仁子さんは、パン神の祭壇があるところは手短に説明して、その奥にある遺跡をじっくりと歩き回ることを元々予定されていたようです。これ幸いなるかな、です。
「ここは、セレウコス朝のダマスコの支配下になるが、紀元前189年頃から歴史に登場する。ギリシヤの牧神パンを祭る神殿がパニアスだが、神々があがめられるところに泉のあるのだが、この洞穴がそれで当時はもっと水が湧き出ていた。マタイ伝16章のイエスと弟子との会話は、このような華やかな場所ではなく町外れのどこかであったろう。」そうか、この場所ではなかったのか!と初めて知るに至りました。そして恭仁子さんは私にメッセージを、もっと違うところでするように指定されたのです。実に気の利いた計らいです。
奥に入っていくと、桜のようにピンク色の花を咲かせるアーモンドの木々の中にある中に、小さな石の遺跡に恭仁子さんは目を向けさせました。網目状の模様のある石です。
「ラテン語で、オプス・レティカルトゥムという模様だがヘロデ家の使っていたもので、周りの遺物からヘロデ大王の宮殿の後である」という説明でした。「ピリポ・カイザリヤ」という地名なので、私はヘロデ大王のことは思い浮かばなかったのですが、確かにヘロデ大王がアウグストのための宮を建てたのが始まりで、ヘロデ・ピリポはティベリウスに寄贈したという歴史でした。
そして小川の流れる小道を歩きながら、どこか説教のできる場所を探していました。なかなか見つからず、ローマの橋を通りすぎたところで話しました。けれども、その裏ではドルーズ人のお店があり、そして小道ですから他の旅行者も来ます。そのガイドの人に、「小鳥のさえずりをかき消している」という嫌味を言われたのですが、めげずに(?)に以下のメッセージをしました。ここピリポ・カイザリヤが、私たちの教会の土台の始まりだ、という内容です。
(メッセージの続きの動画はこちら)
次に大王の曾孫のヘロデ・アグリッパ二世の宮殿の遺跡を見ました。「ローマもユダヤ人も彼が好きで、大王のかつての領土を彼にすべてローマは返した。入口に、イスラエルでは貴重な、自然の泉を引き込んでそれを宮殿に取り入れた。紀元後50-92年の最後の王である。70年に都の神殿は陥落したが、アグリッパ二世はうまく生き延び、ここに来て骨休みをしたとのこと。」そして私は皆さんにアグリッパ二世が聖書に出てくるか聞きましたが、パウロがカイザリヤで最後の弁明をした相手でした。恭仁子さんは、「妻はベロニケで、ティトスの側室でもあり私生活が乱れた人だった。」とのコメントと付け加えました。
私はその水路の跡のところを通りました、まだ水が流れています。そして、パニアスの全景の地図を見ながら、宮殿の説明をさらに受けました。ここからニムロデの城砦がきれいに見えました。「十字軍の城砦に見えるがそうではなく、十字軍に立ち向かっていたイスラムのマムルーク朝が十字軍を追い出した後に、舞い戻ってくることを恐れて十字軍の居場所を壊し、堅固な要塞を作った。戦うにしろ、共存するにしろ、相手の影響を受けた。」戦っている相手に影響を受けるというのは今も同じで、例えばイスラム教徒の数珠は、カトリックのロザリオから来たという話しをされました。
そして宮殿の敷地に残っているシナゴーグの跡があります。そこでシナゴーグの説明をしてくださいました。「シナゴーグは、神殿破壊後に祈りの中心地になったが、キリスト教のような礼拝の場所ではなく、聖書、注解書ミシュナ、そしてミシュナの解説タルムードを勉強するところであった。シナゴーグに入ると、皆が勝手にいろいろな方向を向いていて、こちらが祭壇というものはない。モーセ五書を入れた立派な戸棚があり、それが祭壇ということではない。戸棚にも車が下についていて、あちこちに動く。偶像崇拝化がこのようにして避けられている。先輩が後輩に教えていく、という場所だ。今も世界中でユダヤ教徒が学ぶ聖書箇所は決まっている。最後にモーセ五書を読み終わるのが仮庵の祭りであり、その日にモーセ五書を人格化して、巻き物をもって踊って歩き回る。」とのことです。
そしてローマ時代のカルド(南北に連なる中央通)の跡を見て、ローマから近代シリアまでに至る、同じ建物を積み上げて建てていった建物を見ました(写真)。石は近代に向けてだんだん小さくなっています。イスラエルの典型的な遺物を表しています。つまり、どこにいっても時代から時代へと同じもの、または同じところが使われ、積みあがっています。
小川の流れる生い茂った緑の中に生き生きと残るローマの遺跡は、心を和ませました。
3.テル・ダン
バニアスからテル・ダンの経路(Google)
テル・ダンの説明(2010年)
冊子からの抜粋
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ダン自然国立公園は、バニアスから目と鼻の先です。ここもヨルダン川の水源の一つになっていますが、勢いよく水が流れている川を通って遺跡に向かいました。
カナン時代のダンの遺跡に行こうとしたら、工事中で立ち入り禁止になっていました。そこで恭仁子さんは、「もともとはダンという名前ではなく、ライシュであった。そこに何不自由なく静かに暮らしていた人々のところにダン族が来襲して、ダンという名になった。」と仰っています。当時フェニキア人が弱体化していたので、比較的簡単に奪い取ることができた、とのこと(士師18:27-28)。そしてオフレコ的な話として、「もし明石先生が反イスラエルの立場を取っていたら、この出来事はイスラエルを非難する格好の出来事でしょう。」と仰り、「けれども、反イスラエルの人はそこまで深く調べることもないでしょうけれども。」と仰っていました。私は旅行仲間には、「神の命令によるのではない来襲は、非難されるべき出来事だった。」と付け加えました。
私たちはイスラエル王国時代の遺跡に戻り、その門を通ります。他のグループがいたので少し通り過ぎて、そこで続けて恭仁子さんが解説をなさいます。「士師がさばいていた時代から、少しずつ要塞化され、統一王国の期間の後、分裂して北イスラエルの中心の一つとなった。ここは統一王国時代のもの」と言われました。そして先ほどから恭仁子さんが強調されていた、不正な侵略のこと、また聖書に出てくる「門」と言えば、このことを指す説明をしました。
そして、住居の後を右に見ながら、しばらくまっすぐ歩きます。そして到着しました、ヤロブアムの祭壇の跡です。「ソロモンが民に重税を課したり、不満が積もっており、ヤロブアムがソロモンに追われてエジプトにいたけれども、不満を持っていた人々がヤロブアムを王として祭りあげ、928年にソロモン王が亡くなったその直後に王国を立てた。南ユダと同等の地位を得ようと、昔のことを思い起こさないように、エルサレムに行かなくてもよいと説得し、南ユダとの境にあったベテル、そしてダンに祭壇を築き、金の子牛を造りました。イスラエルの神がもっとも嫌う政策を取った。」そして祭壇についての説明をされます。「祭壇は、四隅に角のあるもので、これがエルサレムに替わる神殿にした。」そしてもっと奥の少し高台になっているところに金の子牛を置いていたのか聞いたところ、そうだ、とのことでした。私は御言葉をどこで分かち合えばいいか、と思って、思い切ってその祭壇のど真ん中から語らせてもらいました。
ここのメッセージの中で、金の子牛の存在意義について、最近の見解として、「金の子牛を拝んでいたのではなく、ヤハウェをあがめるための手助けにしたにすぎない。」という説があるそうです。私は「いやあ、言い訳ですね!」と言ったら、恭仁子さんはうなずいておられました。カトリックの人もイエス像やマリヤ像についてそんなことを言いますし、私は、元創価学会の人からも「仏像を拝んでいるわけではない」と言うのを聞きました。
そして、金の子牛の安置されていたところに立ち、そこからレバノンの町を眺めることができます。そして祭壇の左横にある、祭司が儀式を準備する部屋の中に入りました。そこで私は、「これこそ代替物、コンビニ礼拝ということでしょうか。」と、今回の旅行では、教会生活に替わる自分勝手な礼拝だと思っていることはコンビニ礼拝と呼び続けました。
そして戻りますが、先ほど門のところで人々がいたのでじっくり見られなかったところを、もう一度立ち止まって、そこの表示にある御言葉を読みました。
そして王のさばきの座がこれです。
そして私たちは、戻りました。自然路にはきれいな泉があったりと、バニアスよりももっと水が豊富という印象を持ちました。
そして昼食です。今回の旅行で気づいたのは、日本人の味に合わせたレストランであったこと。これから食べるのは鱒です!アメリカ人たちといっしょにいたら、こんなレストランには決して連れて行かれませんから、私は大満足。:)ここは、ダンのきれいな水によって養殖している鱒を育てるキブツにあります。同じ大韓に乗った、他の教会のグループの方々もここで食べていました。
うれしかったのは、昼食だけでなく、表の緑と小川が流れるところで、トルコ式コーヒー(コーヒーの滓を沈ませて飲む)と、実際のミントのお茶、そしてイスラエルのお菓子でデザート・タイムがあったことです。
私の友人で牧師の、見城和人さん。もう15年ぐらいの付き合いです。
こちらは、比嘉ヨシュアさんと談笑する明石夫婦
99号線少し走ると、下り坂になります。ゴラン高原から降りるわけです。そして上ガリラヤのキリヤト・シュモナの町で、用事のため一時停車です。(Googleルート)そしてテル・ダンからハツォルまでの行路はこちら(Google)です。キリヤト・シュモナとハツォルの一帯はフラー渓谷です。2008年の旅行記に少し説明を載せています。こちらに掲載しましょう。
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フラの谷
私たちはゴラン高原から降りて来ると、そこは再び、南北に伸びるシリア・アフリカ地溝の地帯に戻ります。西はナフタリの山々、東はゴラン高原に挟まれた長細いフラの谷が出てきます。ここから「上ガリラヤ」と呼ばれます。
ここも豊かな農地です。いや、豊かな農地にすべく大掛かりな灌漑事業を行なったので有名なのがこの地域です。沼地だらけだったところに帰還民の開拓民が入り、多くの人がマラリヤで死にました。1950年代に大掛かりな排水を行ない、農地に仕立て上げました。けれども大きな問題が出てきました。世界の他の所でも起こっている生態系の破壊です。たかが沼地ですがされど沼地です。土壌がかえって貧弱になってしまったそうです。そこでイスラエル政府は途中で方針を変え、水が半分氾濫させるがままにさせ、非常に浅いフラ湖が広がっています。そのため、ここがイスラエルで鳥の格好の生息地になり、バードウォッチャーの集まるところとなっています。
そして聖書的には、ここは「メロム」と呼ばれています。
これらの王たちはみな、相集まり、進んで来て、イスラエルと戦うために、メロムの水のあたりに一つになって陣を敷いた。(ヨシュア11:5)
ここのヨシュア記の箇所は、エルサレム、ヘブロンなど南の地方で勝利を収めるイスラエルに脅威を抱いて、北の王たちが集まってきた文脈の中であります。そのまとめ役がハツォルの王です。
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4.ハツォル
ハツォルの説明(Biblewalks.com, Bibleplaces.com, NET)
冊子の説明
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ここは、私にとって初めての訪問地です。2010年の旅においても、時間がなくて通り過ぎました。上の説明にあるように、メギドと同じようなところであろうというぐらいでしたが、来てみて大間違いでした。とにかくテルの大きさが桁外れです。しかも、それはイスラエル王国時代よりも、カナン時代のほうがはるかに大きな都を形成しています。
「ハツォルは以前、これらすべての王国の首都だったからである。(ヨシュア11:10)」
このたった一節が、どれほど内容の濃い言葉であったかを実感しました。恭仁子さんが説明を始めます。「聖書の中で、もっとも重要なカナン人の町である。カナン人の町々の名主のような役割をしていた。前方の青々とした草の向こうの木々(写真の右上の緑の部分)までが、カナン人の町であった。
つまり、この下のほうが下の市で、今立っているところが上の市である。カナン時代の中期の頃、両方に広がっていた町であった。下市のほうは国立公園の外になっているが、ところどころはげているところが一部発掘しているところである。イスラエルの時代になると、上の町のみ − これだけでも広いが − を使用していた。ヨシュアがわざわざ、引き返してハツォルを焼き払った。」そして私はその箇所を読みました。「そのとき、ヨシュアは引き返して、ハツォルを攻め取り、その王を剣で殺した。ハツォルは以前、これらすべての王国の首都だったからである。彼らは、その中のすべての者を剣の刃で打ち、彼らを聖絶した。息のあるものは、何も残さなかった。彼はハツォルを火で焼いた。(ヨシュア11:10-11)」そして興味深い説明を次にされています。「聖書考古学では、簡単に『聖書のここに書いてあった』と持っていかないように非常に慎重に研究しているが、けれども確かに遺跡の中に火で焼いた跡が残っている。」
そして文書でもハツォルは盛んに出てきます。「カナン人についての記録は呪詛文書にハツォルの名前が出てくるし、マリ文書(メソポタミアで栄えた国)、紀元前14世紀のアマルナ文書も盛んに出てくる、カナン時代後期には交易の範囲がさらに広がり、ギリシヤ方面、イタリヤにまだ至った。とにかく栄えに栄えたカナン人の町である。それが、素朴なイスラエルの民がどうしてもなびいていってしまった原因の一つになった。」
今回の旅で、いろいろな方から恵みの証しを受け取りましたが、高村さんからは、これまで教えていた聖書でのいくつかの場所で自分の描いていたイメージとかなり異なっていたため、衝撃とともに感動した喜びのお便りをいただきました。伊澤さんは、証しの中で「私が明石さんに、『イエス様についてのイメージが壊れるのが恐い』と言ったら、明石さんが、『今回の旅は、それが壊れるためのものである。』とおっしゃった。」と言われていました。そして私自身、一つぶっ壊されたイメージが「カナン人」の存在です。これまでイスラエルの民が洗練されていた人々であり、カナン人はさほど文明化されていなかった素朴な人々というイメージを少なからず持っていました。ところが、その反対が真理でした。カナン人がとてつもなく先進的な文明を持っており、そこにさほど何も持っていない、言わば“田舎っぺ”のイスラエル人が入ってきた、ということなのです。
これから上の町に入ります。初めは、ソロモン王朝時の門です。「彼(ソロモン)は主の宮と、自分の宮殿、ミロと、エルサレムの城壁、ハツォルとメギドとゲゼルを建設した。(1列王9:15)」
その左には、もっと深いところにカナン人時代の神殿の遺跡があります。
そして私たちは、カナン人の宮殿に行きました。
「遺跡を見ていると、当時の部屋の間取りは非常に小さかった。その理由の一つは、人々が小柄であったこと。当時の屈強なローマ兵でさえ、身長が1メートル半しかなかった。もう一つの理由は屋根が広く作れなかったことがある。だから、この宮殿は相当広いことになる。そして、壁の下の部分は玄武岩だがその上が日干し煉瓦だ。藁と泥を混ぜて、型に入れて固めて、日干しにしただけの単純な作りだが、下は水に流れないように玄武岩を使っている。後で、アハブ王かソロモン王の倉庫とオリーブ搾りの場所を見るが、すっかり、この層の上に見つかって、この層をもっと掘りたかったので、その部分だけそっくりそのまま動かした。」私も気づいていましたが、とにかく家屋の作りが小さいのです。今の私たちから見ると、小人のような存在だったような気がします。だから、この宮殿を見てその広さにびっくりしてしまいました。
そして場所を移して持ってきた、アハブ王かソロモン王のオリーブ搾りの場所です。
隣には倉庫の跡があります。
「オリーブ油というのは、「ろばのひき臼」でごろごろ荒挽きして、網のバスケットに荒挽きのオリーブを入れる。それをいくつか積み上げて、石で押して、そして石の重しをだんだん重くして、そうすると、ゆっくりたらりとオリーブ油が出てくる。最初の一滴が出てくるまでが大変な作業だ。今でも機械でも、同じ過程を経る。」
そして次に私たちは、巨大な水道に行きました。
「ハルォルが町として選ばれたのは、他の所より高かったということがあるが、何よりも大事なのは水があるかないか、ということ。メギドの場合は泉の水を城壁の中に入れるようにした。ベエル・シェバは雨水を溜めるもので、ハツォルはたまたま城壁の中に地下水を発見した。そこまで降りていくために石の階段を使った。幅が広いので、ろばの両側に壷を付けても汲みに行けるものだ。これを作ったのはアハブ王だと言われている。」
ここは、降りていった分だけ、昇って来なければいけません。あまりにもの深さに驚いてしまいました。
恭仁子さんの説明を聞いていて、「ソロモンか、アハブ」という言葉が続いていたので、「なぜアハブだと特定できるのか?」と尋ねたところ、北イスラエルで国を大きくされた第一の王がアハブであったということでした。ですから最近の見解では、アハブ王は極悪と言われているが実は国をよく治めていた王であった、ということだそうです。私は「別によく国を治めていて、極悪な人というのはありえるし、それがイスラエルにとってかえって落とし穴だった。」と思いました。
降りていった者たちは、ひ〜ふう、は〜ふうして水道から上がって来ました。そして何のきっかけだったのでしょうか、恭仁子さんが新約聖書と旧約聖書の一貫性を説明しておられました。私はそのお話しを聞いてとっても嬉しかったです、僕と聖書の読み方が全く同じでした(音声 参加者との楽しい会話も含まれています)。そしてブログで、恭仁子さんの見解を紹介しました → 「時代遅れの教会」。
5.イエスの舟展示館
ハツォルからイエスの舟までの行路(Google)
説明(2008年旅行、Jesus Boat)
「2000年間土の中にあったので、ただ引き上げればぼろぼろに崩れてしまうので、樹脂に入れて、そして予め用意していたプールにいれて解体した。しばらくプールに入れていた後、湿度の高い部屋に入れておいて、湿度を徐々に下げて、徐々に常温に慣らしていった。」「何に使われたかは分からないけれども、炭素14、またいっしょに出てきた釘等を調べた結果、イエス様の時代のものであることは確かである。」「もう一つの当時の舟であったといえる理由は、ゲネサレとミグダルの中間で見つかっていること。ゲネサレからカペナウムはイエス様の伝道の本拠地で、マグダラ(ミグダル)がユダヤ人反乱の激戦地で、最後の一人まで屈服せずに戦い、文字通り血の海になった。だからこの戦争のために使われた舟かもしれないし、イエス様の使われた舟かもしれない。」「1980年代、雨の少ない年に水面が下がってきて、ここの人が手で掻き出したら舟のようなものが見つかった。ヘブライ大学の人が発掘した。イスラエルの人たちはお祭り騒ぎになり、発掘を手伝った。そうするとサンドウィッチを売る人が出てきたりと・・・。」「舟のモザイクがマグダラで見つかっている。破片の木が見つかっており、その釘の打ち方と、見つかった釘とが合致したので、二千年前のものだと確証されている。」「木がイスラエルでは貴重なので、ありとあらゆる木で作った。」
オフレコ的な話で、「バチカンから購入の話しが出てきたが、断った。ガリラヤ湖のそばにあるのがふさわしいから。」とのことです。
ここの見学は30分もかかりませんでした。ここから出ると、同じ館内におみやげ屋さんとアイスクリーム屋さんがあります。そこで時間を過ごして、終わった人はそのまま歩いてホテルに戻ります(同じ敷地内にあります)。私たちは疲れて、少ししてからホテルに戻り仮眠を取りました。
6.Sさん&Iさんご夫婦の証し
6時にロビーで、現地で奉仕をなさっているご夫婦がすでにいらっしゃっていました。30分そこでお話した後、私たち旅行仲間と同じ席で夕食を共にしました。そして、昨晩と同じ防空壕で証しをしていただきます。
Sさんとは、これでイスラエルでは三度目の出会いです。アメリカでは同じ教会の出身なので、何度か顔を合わせています。1999年にアメリカからイスラエルに移住してきたばかりのSさんに、カルバリーチャペル・エルサレムで会っています。その時は独身でした。驚いたのは、結婚したとの知らせを後で聞いたことです。2010年に、土曜の集まりで私が御言葉を分かち合いました。そんなに深い知り合いではありませんが、けれども長い期間に渡って会っているので、なんか不思議な気分がします。
イスラエルではとても貴重なイエス様を信じる人との出会いなので、ぜひ旅行参加者の方々に、同じイエス様を信じるユダヤ人兄弟姉妹に会ってほしいと願っていました。最初にSさんの興味深いイスラエルへ導かれた話があり、次にIさんの体験談と救いの証しはすばらしかったです。彼女の親が通ったナチス下における苦難、そして彼女がユダヤ人としてよりも無神論のソ連で育ったため、信仰も、ユダヤ人としての葛藤よりも無神論との間のそれが強かったこと、イスラエルに帰還して家族が全員信仰を持ったこと、超正統派の母の夢に現れた主の使者による回心など、いろいろ濃厚な話しが出てきます。(通訳つきの音声がありますが、働きの性質のためここに掲載は出来ません。けれども希望者には個人的にリンク先をお知らせいたしますので、実名と共にメールでご連絡ください。)