イスラエル旅行記 2月25日 - シェフェラ

1.ビジター・センター
2.ベエル・シェバ
3.ラキシュ
4.エラの谷
5.ヤド・ハシュモナ
6.エルサレム

 イスラエル旅行も後半に入ります。イスラエルの地をピリポ・カイザリアやテル・ダンまで北上して、死海経由でネゲブまで南下しました。これから北上しますが、ユダ山地の西の「シェフェラ地方」を北上してエルサレムに入ります。シェフェラについては、2010年の5月31日の旅に詳しく書きましたのでぜひご一読ください。

 イスラエルのホテルは、本当に新鮮な食事を用意してくれますが、ここIsrotel Ramon Innでは朝食に、何と蜂の巣を丸ごと持ってきて、蜂蜜を用意しています。約束の地の豊かさを「乳と蜜の流れる地」と聖書は表現しているのですが、ここではそれを体感することができました。そして朝のデボーションを見城さんがギターと聖書で導いてくださり、私たちは初めに昨日訪れた、マクテシュ・ラモンのビジターセンターに向かいます。

1.ビジター・センター
 ホテルからビジターセンターまで(Google)
 マクテシュ・ラモンの説明(2010年の旅
 冊子の抜粋

  • マクテシム(隕石孔の意)
    • あばたのような穴が、死海の南端から一直線に南西に向かって三つ並んでいる。
    • ソドムとゴモラを主が滅ぼされた時のものかもしれない。(創世19:24-26)
    • マクテシュ・ラモン(長さ40キロ、幅10キロ、深さ500メートル)
    • マクテシュ・カタン(小さなクレーター)、マクテシュ・ガドル(大きなクレーター) 

 ビジターセンターに入ると、イラン・ラモンを初めとするコロンビア号空中分解事故の乗組員の写真が掲げられていました。イラン・ラモン飛行士は、1981年のバビロン作戦(イラク原子炉爆撃)の最年少の空軍飛行士でも有名な人です。なぜ彼とこのNASAのチームの写真がここに掲げられているのか分かりませんでしたが、イラン・ラモン氏がベエル・シェバで生まれ育った、ということに関連するのでしょうか。そして、その宇宙の科学的探索と、マクテシュ地形の不思議の科学的探索を重ねていたのかもしれません。ちなみに、このコロンビア号空中分解事故の機長リック・ハズバンド氏は、熱心なクリスチャンでした。

 そして屋上に上がりますと、マクテシュ・ラモンを一望できます。(パノラマ写真


 恭仁子さんは、イスラエル国立公園の発行するパンフレットの図解を見せながら、これが億年単位で隆起、侵食によって形成されたものであることを説明されました。けれども聖書の創世記一章の記述をそのまま信じる人たちにとっては、納得のゆかない説明ではあります。ソドムとゴモラの時に、主が火と硫黄を降らせて生じたものであるかもしれないという説明もあるし、こちらの創造科学のサイトではノアの洪水時の大異変によって生じたものであるという説明もあります。

 説明は続きます。「ネゲブにはイスラエル軍の基地が多いが、ここには自然保護地区になっているので絶対に使わない。ナバテア人はここを通過した。ペトラから来て、アブダッドも中継地点であり、最後は地中海のガザ地区に至り、そこからヨーロッパの商人に香辛料を売っていた。非常に高価であり、莫大な収益を得ていたが、いつしか砂漠の中に消えていった謎の民族である。他の民族に混じってなくなったのであるが、順応性のあった人々とも言える。」ナバテア人については、2010年の旅6月9日のところに詳しく書きましたので、ぜひご参照ください。

2.ベエル・シェバ
 ビジターセンターからベエル・シェバまでの行程(Google)
 ベエル・シェバの説明(Bibleplaces.com, パンフレット
 冊子からの抜粋

  • 全イスラエルを表す「ダンからベエル・シェバまで」(士師20:1,1サムエル3:20,2サムエル3:10,1列王4:24-25,2歴代30:5等)
    • ヨシュアの時代の割り当てはもっと南に延びるが、ネゲブが広がるので実質的な町の最南端。
  • 発展した理由
    • ベエル・シェバ川、ヘブロン川、ベソル川、ゲラル川の四つの涸れ川が集まっている。
    • 西は海沿いの道、東は王の道、アラデ、エツヨン・ゲベル、ボツラまで続く。
  • 信仰の父祖の町(族長の墓があるヘブロンに次ぐ)
    • アブラハムが交わした誓いの井戸と柳の木(創世21:27-34)
    • おそらくイサクがここで誕生(21:1-4)
    • イシュマエルとハガルの追放(21:14)
    • イサクが、井戸で争った所(26:23-25)
    • ヤコブの故郷(28:10)
      • エジプトに下るとき、祭壇構築(46:1)
  • 士師時代:サムエルの息子(1サムエル8:2)
  • 王国時代(現在の遺跡はこの時代のもの)
    • ダビデの人口調査(2サムエル24:7)
    • エリヤがここからシナイに逃げる(1列王19:3-8)
    • 宗教改革の場
      • 祭壇の遺跡
      • ヨシャパテ(2歴代19:4)
      • アモスの預言(アモス8:14)
      • ヒゼキヤ(2列王18:1-4) 


 ここから約一時間、ネゲブ沙漠を北上します。40号線を走っていきますが、初めは裸岩だったところで、涸れ川の跡が見え、それがシンの荒野のワディであり、そしてアブダット、そしてイスラエル建国の父ベン・グリオンの住んでいた家の残るスデ・ボケルを通過し、沙漠は緑で覆われていきます。ベエル・シェバはネゲブの北端にある町です。2010年6月10日の旅に詳しく行程の説明をしています。

 ところで、ベエル・シェバ、私にとっても初めてのところです。ずっと行きたいところでした。上の冊子の説明にあるように、族長がこの辺りで動いていたこと、当時のイスラエルの南端であったことなど、霊的に非常に重要な地点であります。

 入口には、右にある「祭壇」の復元があります。ヨシュアさんが演じているのは「いけにえ」の姿です。恭仁子さんの説明が始まります。「四隅に角がある祭壇である。本物はエルサレムの博物館にある。当時は町々が建てられると、エルサレムに神殿があるのにミニ神殿を作ってしまった。アラドと同じくベエル・シェバにもあったのは知られていたが、確証を与えたのはこの祭壇だ。きちんと回りを削り取った石が遺跡から出てきて、それを集めて積み上げたらちょうどこの形になった。紀元前八世紀のヒゼキヤ、七世紀のヨシヤによって取り払われ、取り払われた後に家屋にその石が使われていた。」

 そして中に入りますと、城壁の囲いの入口に「井戸」があります。「青銅器中期に掘られたと思われる。50メートル程掘れば、水が出てくる。リベカがらくだに水を与えた時、その水槽はちょうどこのようなものであった。そしてここから見ると、ごく一部残っている川がベエル・シェバ川である。ヘブロン川とベエル・シェバ川の合流地点の水をこの辺りまで持ってくる水道の装置があった。地下水道がここにもあり、ハツォルでは地下水、メギドは泉の水、ここは雨水を場内に引いてきた。包囲された時に人々に水を供給する術である。」

 そしてここで私が創世記21章27−32節から御言葉を語りました(音声)。風が強く、非常に聞きにくいので、ここにメッセージのノートも貼り付けます。

1. 確かな平和
 アブラハムとアビメレクの間には確執があった。サラを彼に妻として与えてしまったのだ。けれども、災いがアビメレクに下った。そして子イサクが生まれた。この子が約束の子孫であることをアビメレクも認め、自分に祝福が来るよう願い出た。そこでアブラハムは井戸のことで訴えた。アラビアのロレンスにあるように、井戸は生きることそのものであり、井戸をめぐる争いは絶えなかった。
1)誓い
 「誓う」というのも、「七」というのも、「シェバ」の由来であり、「誓いの井戸」がベエル・シェバである。アビメレクとの平和を確立すべく、誓いを交わしたのだ。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ5:1)」キリストが成し遂げられたことによって、神は永遠の誓いを立てられた。これが平和である。私たちが、ここから離れて動くと、神の平安を楽しむことができない。イサクも同じだ。アビメレクの牧者によって井戸が埋められた。このことがあって、ベエル・シェバに来たら主から祝福が語られた。そしてベエル・シェバに住み始めた。平和の誓いに戻ったのである。
2)柳の木
 木が生えていることは、水があることだ。そして木の下にいることは、平和を意味している(ゼカリヤ3:10)。アブラハムは永遠の平和を祈った。

2.命の境
1)パランの荒野
 ベエル・シェバは、命の国境といってもいいかもしれない。ハガルとイシュマエルはベエル・シェバから追放された。それで水が枯渇して死ぬと思った。 → 私たちがいつも、命の泉から離れないで生きる必要がある。いろいろな自由がキリスト者には与えられている。けれども、この命から離れるところまで遠ざかることがあってはならない。
2)エジプトとの境
 また、イサクはペリシテ人のアビメレクのゲラルにいたときに、エジプトに下ってはならないと言われた。ヤコブも、ヨセフからの呼びかけがあったが、このベエル・シェバで主に祈った。ここから離れるというのは、世の象徴であるエジプトに下ることだ。 → 確かにエジプトにはナイルの潤いがある。しかし、それは世の思い煩いだ。

3.まだ手にしていない約束
 そしてアブラハム、イサク、ヤコブとも、なぜネゲブを住まいに選んだかといえば、そこにカナン人エモリ人が住んでいたからだ。だから人の住まない沙漠を選んだ。(現代でも、建国の父ベングリオンは、アラブ人との衝突がないネゲブに入植することを夢に抱き、事実、それが現実化している。)約束の地でありながら、自分たちのものとなっていなかった。 → ヘブル11章13-16節 約束のものをまだ手に入れずに信仰によって死んだ。天の故郷にあこがれていた。私たちも同じように、今与えられていないものがあるかもしれない。けれども、その欠けた部分がかえって、天へのあこがれの思いを与えてくれた。


 そして私たちは外門を通りました。ここからの遺跡は主にユダ王国時代ものです。行政機能を果たす都市でした。上が日干し煉瓦で下が石積みなのは、水が流れてきたら日干し煉瓦だと流れてしまうからです。


 そして主門を通り、町の広場があります。ここは三百人ほどが、70家族が住んでいたとのこと。各部門の代表者、すなわち税務署の代表者、軍隊の代表、水道局の代表、ありとあらゆる代表者が家族を連れてここに住み、南の守りを固めました。初めから企画された町であり、周囲を部屋をつなげて二重城壁(casemate)にしています。二重城壁にすると武器も置けるし、兵隊も駐屯でき、より堅固な守りを固めることができました。


 下は知事の宮殿で、ここの総責任者の大きな住まいでした。


 土台の石を見ると自然の石になっているけれども、人工的に切り出された石が使われているのに気づいて、それを集め組み立てたら先ほどの祭壇が出てきた、ということです。そして下は、当時の典型的な四つ部屋のある家です。真ん中が台所で外で煮炊きしていました。


 真ん中の展望台に上がりました。

 そこから、今のベエル・シェバはもちろん見えるのですが、緑の少ない集落もあり、それはベドウィンの人たちが住む「テル・シェバ」と言うそうです。ベエル・シェバ川も見えますが、水が流れる時もあるので鉄橋が架かっています。雨水の向きを変えて場内に入るようにする水道をこれから見ます。普段は先ほどの井戸で水を汲みましたが、包囲された時に備えたものです。族長の家というのはないのか、という質問がありましたが、ここは紀元前十二世紀以前は集落がなかったので、ここの遺跡からアブラハム、イサク、ヤコブを思い出すのではなく、むしろここに来るまでに見たベドウィンの天幕を思い浮かべたほうが彼らの生活を想像することがでいます。

 降りて貯蔵庫の前を通りました。真ん中が牛や馬が入ることができ、その両側に荷物を下ろすことができるようになっていた合理的な作りになっています。


 そして地下水道の中を通ります。これから歩いて出たところ、先ほどの入口の近くですが、そこから雨水がどっと入ってくるようになっていました。中には五つの槽があります。





3.ラキシュ
ベエルシェバからラキシュまでの行程(Google
ラキシュの説明(2013年の旅
冊子からの抜粋

  • ヨシュアがラキシュの王から取る。
    • エジプトの外交文書「アマルナ文書」
  • ユダ王国の第二の町
    • レハブアムによる要塞(2歴代11:9)
    • アマルヤ暗殺の場所(2列王14:17-19)
  • 紀元前701年、アッシリヤの王セナケリブ、ラキシュを攻め取り、ヒゼキヤ王のエルサレムを包囲(2列王18:13-17)
    • セナケリブ角柱(ニネベで発掘)
    • ニネベの壁画(皮剥ぎ、人間串刺し)

 ついにシェフェラに入っていきます。行程としては、聖書時代のイスラエルの南の入口ベエル・シェバから北上してエルサレムに向かうには、直線的に北上してヘブロンとベツレヘムを通過する、ユダの山地を上るのが最短です。けれども、現在、パレスチナ人の西岸地区内にあり、ヘブロンが特に安全上危険だということで、団体旅行としては迂回せざるを得ません。けれども聖書時代であっても、確かにそこには幹線道路(Trunk Road)はあったものの、山地を通るのはやや困難でした。そしてユダ山地の東側は荒野であるため、海沿いの道(ヴィア・マリス)が主要幹線道路となっていました。シェフェラ地方は、その海沿いの道とユダ山地の間にある低地です。ユダの民はその山地に住むようになりましたが、低地から海沿いはペリシテ人が住んでおり、ペリシテ人はそこから北北東に走る内陸への道を通って、それからユダ山地の谷間を使って、ベツレヘムに攻めたり、レファイムの谷を使ってエルサレムを攻めたり、その他、ゲゼルなどさらに北にある内陸に入って、イスラエルを攻撃しました。

 2010年の旅行にあるシェフェラ地方の地図をご覧ください。ユダの山地から川が地中海側に流れ落ちているのが分かるでしょう。そこに谷が形成されています。そして、その谷からペリシテ人等の外敵が攻めてくるので、イスラエル人が要塞の町としてそれぞれの谷に町々を建てたのです。(括弧内が谷にある町)

1)アヤロンの谷(ゲゼル、アヤロン、ベテ・ホロン)
2)ソレクの谷(ティムナ、ツォルア)
3)エラの谷(ソコ、アゼカ)
4)ツェファテの谷(マレシャ、モレシェテ・ガテ)
5)ラキシュの谷(ラキシュ)

 したがって、ここは私たちに霊的教訓を与える場所となります。ここは「戦いの谷だ」ということです。

1)アヤロンの谷 = 主による徹底的な打撃(ヨシュアの「日よ、とどまれ。月よ、とどまれ。」)
2)ソレクの谷 = 霊的力を失った戦い(サムソンのペリシテ人との戦い。女のくどきで弱くなる。)
  ※ベテ・シェメシュ(主が戦っておられるのに、イスラエル自身が神の箱を開けて、打たれ死んだ)
3)エラの谷 = 主の御名の、人の力に対する戦い(ダビデとゴリヤテ)
4)ツァファテの谷 = 圧倒的力による敗北(アッシリヤの南進 ミカ1:10‐16)
5)ラキシュの谷 = 中傷という悪魔の武器(アッシリヤの王が、エルサレムに向け脅迫)

 ラキシュの遺跡は、国立公園の看板こそあるものの、入口で入場料を取られるわけでもない、ほとんど誰も来ないところです。イスラエル人の一組の家族がピクニックを木陰で楽しんでいた程度です。けれども、この人工遺跡の盛り上がり方を見ての通り、ここには数多くの町々の蓄積が残っています。頂上まで上がり、そこで恭仁子さんがラキシュの説明をします。「732年、イスラエルがアッシリヤの前に陥落し、アッシリヤ風の町に作り変えられた。その後、その勢いに乗じて南ユダも自分のものにしてしまおうと攻めてきた。ここからエルサレムまで間近だ。ソロモンの時代、またその後、レハブアムなど、その危険があるので非常に熱心に要塞化を進めていた。ここラキシュで、二十一のオストラコン(陶器に字を書いたもの)がある。ここに通信将校がおり、しょっちゅうエルサレムと連絡を取り合っていた。エルサレムの通信将校からここに送信したものの中に、エラの谷のすぐ北のアゼカからの明かりが、昨日も今日も見えない、と書いてある。だからそこも陥落した後で、アッシリヤ軍もそこを攻め取ったということだ。(注:調べますと、該当のラキシュ文書にはアッシリヤではなくバビロンによる南進の時の様子が記されています。エレミヤ34章7節。)ついに、ここが落とされ、残るはエルサレムだけになる。

 そこで、切羽詰まった状態がヒゼキヤ王について描かれている。イランの大統領やハマスの代表者たちのことを思い出す。そこで私は言う、『神様聞きましたか?イスラエルについてあんなこと言っているんですよ。』」恭仁子さんは、現在のイスラエルに当時の状況を当てはめました。私は、さらに個々人に当時の状況を当てはめて話しました。(下の映像の音が悪いので、音声ファイルはこちらです。)

 聖書箇所は歴代誌第二32章ですが、「中傷する」がテーマ。第一に、ヒゼキヤが宗教改革を行った直後にアッシリヤがやってきたこと。主に仕えてきたいと決めた時に、むしろ強大な敵が襲ってくる。第二に、献身していくことをあたかも悪いことのように語る。第三に、霊的なものではなく、物理的なものに頼りなさいという。最後に、他の神々とイスラエルの神を同列に並べた。そこから、中傷の時の常套手段を説明し、ヒゼキヤのように、その手紙、その言葉を神に差し出した。


 そして、この丘の上にある諸々の遺跡(ユダ時代のものが多い)をざっと見ました。上の写真は、ラキシュの谷とその向こうのユダ山地を見せています。それから降り口を探しました。けれども、ありません!しかたがなく、私たちはまっすぐ、急な傾斜している坂を皆で助け合いながら降りていきました。


4.エラの谷
ラキシュからエラの谷までの行程(Google
エラの谷の説明(2010年旅行2008年旅行
冊子からの抜粋

  • 参考:マレシャ
    • ユダの町(ヨシュア15:44)
    • 鐘洞窟 ? 五人の王が投げ入れられた穴
    • ツァファテの谷
  • エラの谷
    • ダビデとゴリヤテの対決(1サムエル17章)

 ラキシュを出て35号線に入りますと、そこはツァファテの谷になります。ここには、イスラエルでは有名な鍾乳洞のあるベト・グブリン国立公園のあるところで、普通、観光をするならここに立ち寄ります。けれども、私たちは聖書を辿る旅をしているので、時間の関係上ここはスルーしました。けれども2010年の旅の時にじっくり見学しています、リンク先にいってみてください。35号線をまっすぐ行きますとヘブロンですが、その手前で国道一号線につながる、北東に走る38号線に左折します。そして、旅行仲間の楽しみにしていたエラの谷に到着です。

 ここは何の標識もなし、ただ38号線の路肩にバスが停車して、私たちはただ歩いてその涸れた谷に向かうだけの所です。旅行仲間も意外だったという感想を漏らしていました。非常に不思議なことに、ダビデとゴリヤテと言えば旧約聖書の中心的出来事の一つなのに、イスラエル人たちはここを訪れません。クリスチャンだけが来るのだそうです。けれども、観光地化されていないこの地形こそが、聖書の記述と照らし合わせながら思いを馳せる格好の場所です。上空からの写真など、2010年の旅の記事には詳しく位置関係など説明していますので、そちらに行って確かめてください。


 皆さんが石を拾い終わってから、私がエラの谷の出来事からメッセージしました。


 この戦いは、信仰者が臨むあらゆる戦いの原型となっています。ダビデの象徴するキリストと、人間の力との戦いで終わりの日には人間の目を持って大きな口で語る反キリストとの戦いを表しています。私たちの生活の中で、霊的営み(祈りや御言葉の学び)は、地味で、小さな事のように見えるけれども、これこそが要塞を打ち破るキリストの力です。


駐車できなかったベテ・シェメシュ!
エラの谷から、ベテ・シェメシュまで(Google)
ベテ・シェメシュの説明(2010年旅行2008年旅行
冊子からの抜粋

  • ダン族の相続地だったが、ペリシテ人が谷を支配(士師1:34)。
  • ダンが北に移動したのち、ユダ族のものとなる。レビ人の町(2歴代6:59)
  • ペリシテ人が奪った神の箱が戻ってきた所(2サムエル6:9-21)
    • 次に運ばれたキルヤテ・エアリムまでの道をディアゴナル道と呼ばれる。
      • ヨシュアが五人の王の残党を掃討した道
    • ソレクの谷とディアゴナル道の交差するところにベテ・シェメシュがある。
    • サムソンがソレクの谷のエシュタオルと故郷ツォアルの間で活動(士師13:25)
  • サムソンが愛したペリシテ人の女はティムナにおり、ベテ・シェメシュから目と鼻の先。

 私たちは続けて38号線を北上し、そこに見えてきたのはベテ・シェメシュです。ユダヤ人の現在の町が右手(38号線の東隣)にありますが、その左にテルがあります。私は三回すべて、ここを訪れたことがあるのですが、なんと、バスの運転手タイシールさんも恭仁子さんも、一度も訪れたことがないとのことです。それで私しかその場所を知らないということで凝視していたのですが、出てきた!と思ったのは束の間、なんとその丘に上がるには反対車線にいなければなりません。確かに過去の旅では北から南下していたのでその問題がなかったのですが、これは不意打ちを食らった気分でした。タイシールさんがかろうじて路肩に停車しましたが、そんな長い時間停まっていることはできません。私は急ぎ足でバス車内で説明しました。ここがソレクの谷にあり、サムソンがペリシテ人と戦ったところである。また、ペリシテ人の手から戻ってきた神の箱がベテ・シェメシュに戻ってきたところだ、ということ。けれども、贖いの蓋をあけてしまったので大人数が殺され、それで次の目的地のキルヤテ・エアリムに運ばれたのだ、という話をしました。

 上の写真は、私が必死に説明している時に旅行仲間で撮ってくださっていたものの貴重な数枚の中の一つです。左側がティムナなどがあるペリシテ人の平野につながり、手前左側にある白い屋根のところは、サムソンの故郷ソレクの町です。


アブ・ゴシュ(キルヤテ・エアリム)にて昼食
ベテ・シェメシュからレストランまで(Google)
キルヤテ・エアリムの説明(2010年旅行

 ついに私たちは、38号線から1号線に乗りました。1号線は、テルアビブとエルサレム、そしてエリコまでを結ぶイスラエル最も太い国道です。ここは、アヤロンの谷に重なる部分もあり、これでシェフェラは終わり、ユダ山地の北部に入ります。そして2010年の旅行で、ワゴン車を道路の路肩につけて眺め見たのがアブ・ゴシュと呼ばれる、現代はイスラエル系アラブ人の住む町であり、そこがキルヤテ・エアリムでした。ヨシュアが盟約を結んだギブオン人の町の一つであり、そして神の箱が20年、ダビデがエルサレムに運ぶまで安置されていたところです。今回私たちは、その町の中にあるレストラン「ナウラ」に行きました。

 イスラエルでは、フムスを食べるならこの地域で、と言われるそうです。エルサレムから比較的近く、味がかなり高質であるのに値段が結構安いとのこと。私も2010年の旅行では、近くのエルビス・プレスリーのレストランでイスラエル料理を満喫した時、確かにフムスが美味しかったのを思い出します。ただ、ここのお店はアラブ料理ということなのですが、ユダヤ人の作るイスラエル料理とどのように違うのか?という疑問を仲間は話していました。メニューが確かに似ています。私も勉強不足でその違いがよく分からないのですが、何となく、アラブの人たちが作るほうがもっと、こってり系と言いますか、中東の味がしているよなーという感じです。

 最後は、僕の大好きなイスラエル系(アラブ系?)コーヒーが出てきました。コーヒー大好きなことを知っている人が何人かご自分の紙コップも私も回してくださいました。


5.ヤド・ハシュモナ
レストランからヤド・バシュモナまで(Google)
ヤド・ハシュモナのウェブサイト
Bibleplaces.comにおける紹介
冊子からの抜粋

  • ユダ山地にあるモシャブ(家族労働共同体)
    • フィンランドのクリスチャンによって始められ、今はイエスを信じるイスラエル人による経営になっている。
  • アヤロンの谷を見下ろす
  • 隣にはキルヤテ・エアリム
  • 敷地内に、聖書時代の生活の教材がある。

 そして、25日の最後の訪問地、ヤド・ハシュモナに行きます。キルヤテ・エアリムから車でほんの数分のところにあります。冊子の抜粋の説明に、「モシャブ」という言葉が出ていますが、まずはその説明をウェキペディアから抜粋します。「モシャブ(ヘブライ語: ?????, Moshav)はイスラエル内のユダヤ人入植村の一種である。それまでのユダヤ人入植村の主な形態であった共有財産方式のキブツや個人資本色のかなり強いモシャバとは異なり、家族労働力のみで構成された家族経営の農場を、村落単位の協同組合が緩やかにまとめる形式を取っている。」

 25日は、他の観光客が普通は行くことはない所をたくさん訪問しましたが、私個人はこれまでのシェフェラ地方、そしてヤド・ハシュモナにはぜひ連れていきたいと思っていました。シェフェラについては説明済みですが、ヤド・ハシュモナはイスラエルの中でとてもユニークな存在です。それは「イエスを信じるイスラエル人」による経営であること、また、「聖書当時に出てくる物を庭園の中に教材として復元している」ということです。ここを選んでやはり正解でした、旅行者の中に、「ここで宿泊してみたい。」「一度、ここで奉仕してみたい。」「同じユダヤ人でもこんなに(信仰を持った人は)違うのだ」など、かなり気に入ってくださいました。園内のガイドを務めてくださったのは、リナさんという方です。ここからは、恭仁子さんにはお休みしていただいて(リナさんはもちろんヘブル語が母語なのだけれども)、英語で話していただき、私の妻が通訳しました。

 音声をぜひお聞きください。ヤド・ハシュモナの歴史を説明してくださっています(14:44まで)。フィンランド人クリスチャンが始めた、その神の軌跡を聞くことができます。そして、衣を裂いている銅像を見てから、次のシナゴーグに場所を移しました。



 続けて音声を聞いてください(15:50辺りから)。この聖書の園にある遺物は本物ですが、他の所から持ってきたものです。まず、ここからだと、この丘から見える遠景が見えますので、その説明をしてくださいました。西方には、アヤロンの谷が遠くに見えます(左下の写真)。そして、北側がベニヤミン領で、東側に先ほどいたキルヤテ・エアリム(アブ・ゴシュ)があります(右下の写真)。
 
 昔のシナゴーグは、ちょうど上の写真の二人の女性のように横に座っていて、実は教師は逆方向にいました。エルサレムの方角にいたようです。そこには神殿がありました。それで神の臨在があり、それを感じようとします。そして、上の写真のキルヤテ・エアリムに神の箱が安置されていました。その20年間は祝福はありませんでしたが、オベデ・エドムの家に3か月たくさんの祝福がありました。彼はそれが聖なるもの、神の臨在があることを理解していたからです。神は今、私たちの内に、私たちの間にご臨在したい、祝福したいと願われています。


 次も音声を聞いてください(31:05辺りから)。ここは打ち場です。床岩(bedrock)でなければならず、円形でないといけませんでした。色付いた小麦を広げて、この木の板(裏には鋭い石が)の上に子どもが乗り、動物がこれを引きます。そして動物が回ります。そして風が吹く必要があるので、山の上にあります。そして鋤で空中に持ち上げて、網を通して種だけが落ちるようにします。ちょうど種がもみ殻から分けられなければいけないように、私たちの人生から不必要なものを取り除く必要があります。そしてこの板の下には、確かに鋭い石がはめ込まれていました。



 次も音声です(37:35辺り、最初の45秒は上の動画と同じ)。ぶどう搾り機です。子どもたちが足で踏みます。裸足でなければいけないのですが、それは種を潰さないようにするためです(種を潰すと、苦い)。その汁が穴から出て、二重のフィルターをかけます。イエス様は、古いぶどう酒を新しいのと混ぜ合わせてはいけないと言われましたが、発酵の段階が違うので入れ物が壊れてしまうからです。皮袋が爆発しないように、私たちも主の新しい御霊が自分に働かれるために、自分を空にする、苦味や怒りを取って空にしなければいけません。


 そして次です(音声 45:30辺り)。オリーブ搾り機です。ゲッセマネの意味はヘブル語の二つの言葉「搾り機」「油」から成っています。オリーブ山の上にたくさんのオリーブの木がありました。オリーブの実を取る時は、木を揺り動かします。地面に毛布を敷いておいているので、それをこちらも持ってきます。碾き臼に動物にひいてもらう。初めに出てくる油が、バージン・オイル(処女油)と呼ばれ、ビタミンなど栄養分があります。この一番搾りを宮に持っていきます。燭台を灯すためです。

 
 そして残ったものは、上の写真のように網かごに入れます。それをいくつも重ねます。そして石の重しによって、かなり強く押し、一番搾りで収集できなかったものを絞り出します。料理、化粧、薬用に使用したりします。これはイエス様と関連が深いものとなります。イエス様は、このようにご自分がされることを無言のメッセージとして伝えられたのだと思います。オリーブの木から実を取る時は、木を打って取りますが主も打たれました。そして十字架の木に押されて、ちょうどオリーブの袋がおされるように押されて、命が注がれました。形が変わらなければいけないように、主の御姿も変えられました。もし、オリーブの木に実があれば、ただ枯れるだけです。復活されるために、命を与えるために、形が変えられる必要がありました。一番搾りは神殿に使われましたが、私たち自身が神殿であり、聖霊にある光が私たちにあります。私たちは終わりの時に住んでいますから、聖霊の油を持っている必要があります。「用意をしていなさい。」と主の来臨にさいして命じられました。

 そして最後に、私がヤド・ハシュモナの方々のためにどうやって祈ればよいか尋ねました。私が懸念していたこと、祈っていたことを、やはり祈りの課題として挙げておられました。こちらの記事をご覧ください、「ヤッド・ハシュモナが同性の結婚式を拒否し罰金」。同性愛のカップルが告訴して、勝訴しました。そのため、信者のみの結婚式だけを挙げることしかできなくなり、大きな収入源になったとのことです。(後で、リナさんに聞きましたら、相手側についている弁護士が、法的には訴えられたが、道義的には正しいと認めていたそうです。極端に世俗的な人の嫌がらせでした。)

 そしてこの終わりに、私たちは実は身近に知り合いがいることを伝えました。恭仁子さんを紹介してくださった兄弟が、以前、ここで奉仕したことがあります。そして他に日本人の姉妹が奉仕したことがあり、その方も仲間の何人かは良く知っています。以外に、日本人のクリスチャンがイスラエルに関わっている人は多いですね、すばらしいことです。

 この後で、少しヤド・ハシュモナ内にある売店でおみやげを買い、バスに戻りました。

6.エルサレム
ヤド・ハシュモナからエルサレムのホテルまで(Google

 私たちは一号線に戻りました。もうラッシュ・アワーに入っており、道が混んでいました。私はいつも、エルサレムに入る時、都上りの思いが募り、高揚します。次第に、エルサレム郊外の丘々に建てられている住宅街が見えます。そして、エルサレムは山々に囲まれている町です。「山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。(詩篇125:2)」そして、エルサレムは眩しく輝いています。なぜなら、白い石灰石のみによる家を建てることを義務付けているからです。(写真は、ちょうどエルサレムに入るところ)

 そしてホテルはエルサレム・ラマダ・ホテルです、エルサレム新市街の西にあります。これから三泊お世話になります。

 私たちは早速ロビーで、打ち合わせを行いました。いつもの復習会は、夕食前にロビーで済ませました。そして明日は、ものすごい長い日になります。朝、バスでオリーブ山に連れていってもらってからは延々と、エルサレム旧市街を巡り、午後6時から西壁トンネル見学を終えるまで、バスに乗らずすべて徒歩です。

 そして私は、この日しかエルサレムの一般の生活を見ることができないので、夜にベン・ヤフーダ通りに行きたいなら今だけだ、と教えました。私は、ヨシュア君ともう一人の兄弟を連れて、マナヘ市場とベン・ヤフーダに行きましたが、どちらも多くの店が閉まっていました。そしてエルサレムだけは、プリム祭が一日多く祝われていて、最後の日はどんなにお酒を飲んでも聖なるものと考えられているそうで、泥酔している若者があちらこちらにいました。(兄弟の一人が、「(イスラエル人のこんな姿をみて)世の末を見ました。」と私に言いました。汗)。一方、見城さんは教会の人の娘さんがエルサレムに在住しているので、その方のお宅とイスラエル人の旦那様のご両親のお宅に歓迎されました。一般のユダヤ人の家庭をご見学し、とても楽しい時を過ごされたようです。


 ついに明日は、イスラエル旅行の最高峰、エルサレム探索です!