イスラエル旅行記 2月24日 - 死海からネゲブへ

1.礼拝と死海遊泳
2.マサダ
3.ベドウィン系レストランで食事
4.アラド(アラデ)
5.ミツペ・ラモンに到着



1.礼拝と死海遊泳

 この日は日曜日です。私たちは朝食の後、前日ミーティングを開いた死海のビーチサイドに椅子を並べて、礼拝の時間を持ちました。見城さんが賛美を導き、私がイザヤ書2章から、神の国とその平和の姿の幻を話しました。


(以下が続きです。その2その3その4

 この後に、目の前にある死海に突入です。皆がわいわいと、遊泳を楽しみました。(左写真の後ろにある白い建物が私たちが泊まったホテルです。)幸い、天候が良く死海の水もそれほど冷たくありませんでした。

 

 そして恭仁子さんとヤコブさんも、アラドのご自宅から戻ってこられました。確か午前10時頃に出発したと思います。

2.マサダ

エン・ボケクからマサダまでの行程(Google
マサダの説明(2008年旅行2010年旅行
冊子の抜粋

  • おそらくダビデの要塞だった(1サムエル22:4-5,23:14,24:22)
  • ヘロデ大王が建てた要塞(36B.C.)
    • 自分の家族をパルティア人の侵略から守るためにここに避難させる。
  • ユダヤ人反乱(66-73年)
    • 熱心党の急進派「シカリ」が篭城
    • エルサレム陥落(70年)後、エルアザル・ベン・ヤイルに率いられ967人の男、女、子供が篭城。
    • ローマ軍一万五千人による包囲
    • 73年、ローマの傾斜路により陥落。直前集団自決、生き残り(女2人と子供5人のみ)。
  • 1838年に位置が発見され、1963年から本格的な発掘。
    • マサダのシナゴーグで、申命記33-34章、エゼキエル35-38章発見(干からびた骨の幻も含むまれている)!

 マサダはこれで私は四回目です。けれども、毎回、新しい発見や視点が与えられ、主からの励ましも受けます。

 ロープウェイに乗り、上に着いたらすぐに下に広がる、ローマの基地の遺跡を眺めました。恭仁子さんの説明が始まります。「大きいのや小さいのがありますが、ローマ軍が、たかだか967人、しかも女子供、老人も含んだ少人数に対して、一万人ぐらいが周囲を囲んで、それでもずいぶん手こずったといわれている。かなり士気が盛んであった。基地の前に石を積んだようなものがずっと続いているが、あれは防御の高い壁が立っていた。それは、要塞から逃げてくる人が逃げないようにするためのものであった。

 そして緑の残っている道のようなものが見えるが、ひとたび雨が降ったときに、死海に向かって水が流れていく涸れ川(ワジ)である。そういうところでは水源が見つけやすく、雨があったところに草木が生えている。中にはアカシヤのような立派なのも生えている。旅人が旅をするときはワジを歩いていた。谷川を慕えあえぐ鹿のごとくという詩篇の言葉は、緑豊かな水の豊富なところで悠長に水を飲んでいる姿を思い浮かべるが、そうではなくあういう涸れきった川のところに来て、それでもそういう跡に水ためがあったり、地下水が湧いているところがあったり、水が比較的見つけやすいところである。ですから、もっと切羽詰っているわけだ。」


 下の写真は、マサダにある建物の石を切り出した石切り場です。


 次に連れて行ってくださったのは、マサダの北の四分の一の部分の模型です(2010年の写真)。これよりもさらに詳しい、マサダ国立公園で受け取ったパンフレットを下にご紹介します。それと恭仁子さんの説明とを交えて、説明します。(クリックすれば拡大できます)


 「マサダは不規則な菱形をしている。南北約600メートル、東西約300メートル、周囲1400メートルだが、ここはヘロデの要塞の中枢部である。2が石切り場で、今、正面入口を通ってきて、私たちは地図で3,4の左下の模型の印ところにいる。3は司令官の住居であり、25は重要な見張りの塔だ。これから4の司令官本部に行くが、そこには紀元前一世紀フレスコ壁画がある。フレスコは"フレッシュ"と語源が同じで、まだ漆喰が乾かないうちに絵を描くものだ。持ちが良いというものの二千年前のものが色鮮やかに残っている。そして5に整然と並んでいる部屋が倉庫だ。日々の生活に必要なもの、といっても、王のレベルで必要なもの全てが保管されていた。食糧(穀類、豆類、ワイン、オリーブ油など)、武器、弾薬などだ。7がローマ式浴場で、沙漠の真ん中の台地の上にローマ式浴場まで作るという、大変な懲り様だ。

 そして北端には自然に出来た三つの階段がある(6a,6b,6c)。その北はエン・ゲディまで誰も通る人もいない。したがって、トップ・シークレットな状態を守れていた。柱だけのオープンなバルコニーを作って、ここを北の宮殿と呼んでいる。一番下の四角い宮殿にはローマ式のお風呂があった。一番下まで降りると、この台地の半分まで降りることになる。東側は断崖絶壁だ。西側は比較的、坂が緩やかなので、ローマ軍が突破して入ってきたのは西からである。

 一番大事な水の問題は、ここの水源は年に一度の雨水だけである。それを一滴も無駄なく溜め、一年中、炊事、洗濯のみならず、お風呂にも十分入れるぐらいの水を確保することが出来た。後で模型を見るが、山の斜面に洞穴があり、それを改造して、内側を漆喰で塗りこめ、そこに上から流れてくる雨が流れ込むように山の斜面に運河を作った。洞穴の手前で、少し向きが変わるように運河をねじり、一気に水が流れ込むようにしていた。反乱軍、多勢無勢でも強気で立て籠もることができたのは、王のレベルで必要なものが揃っていたこと、それよりも水の確保があったことである。ヘロデの設備がバックアップになっていた。」

 そして4の司令官本部に移りました。「マサダの大体的な発掘が行なわれたのは、1963年から65年にかけて三回に渡ってである。陣頭指揮を担ったのがイガエル・ヤディンで、昨日の死海写本を米国で買い戻した人である。60年代というとイスラエルはまだ貧しく、考古学発掘は大変予算の要るものである。彼と奥さんが世界中の人々にボランティアで発掘作業に来てくださるよう呼びかけたところ、数千人のボランティアが集まった。ボランティアということは、飛行機代、保険は自前で、与えられたのは日に三度の慎ましい食事と二十台の寝台の並ぶテントでの宿泊だった。それにも関わらず、二週間ないし、二・三ヶ月長いことする人もおり、発掘が進んだ。それを基礎にして今でも夏になると、少しずつ掘っている。この時期のが世界中にマサダが知られるようになった基本的な発掘である。」

 ここで「日本からのボランティアはいたのか」という質問に対して、「分かりませんが、60年代からキブツがクローズアップされて日本の若者が大勢に見えるようになるまでは、イスラエルの存在は薄かった」とおっしゃっています。「イガエル・ヤディン教授は非常に面白い人物であり、世界に名の馳せた考古学者のみならず、イスラエルにおいて独立戦争後、非常に若い、最初の参謀総長であった。70年代には、外務省の高官の一人としてエジプトとの和平交渉を進めたりと、多方面に渡って活躍した。語学も堪能で、自著を英語やフランス、ドイツ語に訳してしまった。」この発掘に、1999年と2008年の旅行団長、デービッド・ホーキングも参加したのだ、と確認しました。

 「フレスコ画は瓦礫の山の中から発見され嬉しかったのだが、保存方法が難しく世界権威に問い合わせたところ、イタリアの専門家が『薄く削ぎとって、それを新しく作った漆喰に貼り付けると一番持ちがよい。』と言われた。二千年前でもカビも生えず、腐りもせずそっくりそのまま出てきた。」

 そして倉庫の間を通りました。「細長い部屋がつながっている。すべて必要なものが並んでいて、壁は一部漆喰が塗りこんであった(白い部分)。黒い線の下までが発掘したものである。ユダヤ人は大和民族と似ている部分があり、誇り高き人々であった。反乱軍は、食べ物を何も残さないで自決したら、食べ物がなくて諦めて死んだのだと後世に言われないようにするために、食べ物がまだ十分あるうちに最期を決めた。」

 そして私たちは、地図の7「大浴場」に行きました。そしてまず模型を見ました。私たちが立っているのは、ちょうど恭仁子さんが手で触っている部分です。


 
 「規模は大きくないものだが、ローマ式浴場を完璧に兼ね備えたお風呂場である。中庭(写真下左)は屋根なし、白黒のモザイクがある。ローマ式は心臓に負担がかからない心配がよくしてある。ここで準備体操をして、それから冷たい水に入り、ぬるま湯に入り、最後にサウナでゆっくりと時間を過ごす。江戸時代の銭湯は庶民の娯楽だったが、ここは高級士官たちの娯楽であり社交場であった。こういうところでゆっくりとくつろぎながら、いろんなことを決めたり考えたりした。そして、実際の中庭のモザイクがこれです。石がとても小さいですが、生活水準の高さを示している。」


 そして中に入ると、着替え室(アポデテリウムapodyterium)があります。「フレスコ画の装飾があり、床は三角のベージュと黒のタイルの組み合わせで、最新流行の床の作り方である。そしてこのようなきれいな装飾が見えなくなることを度外視して、大変不細工なお風呂が設置されているが(左下)、これを作ったのは反乱軍である。ヘロデ大王が最高の芸術感覚で作ったものとの間に90年ぐらいの差がある。反乱軍はそうしたローマ・ギリシヤ文化には全然興味のなかったので、適当に、ここを身を清めるための部屋にしようと思った。


 そしてここを出ると、右手にぬるま湯のお風呂(テピダリウムtepidarium)があります。同じくフレスコの装飾です。「こちらは、フレスコの種類でセッコという乾燥した漆喰の上の装飾であるが、大抵、乾式は持ちが悪いのだが、この辺りの気候のおかげで、昨日のクムランの巻物と同じようにこの辺りにも保存されている。」


 そして高温浴室(カルダリウムcaldarium)の跡があります。「短い柱がたくさん出ているので、二重の床であることが分かる。右下の黒くこげているところが熱源だ。壁も陶器のパイプを埋めて二重壁になっている。下の熱風が下の床と壁の間を通って、すっかり部屋が熱くなったところに水を蒔くとそれが蒸発してサウナになる。水がつかないようにアーチ型になっていた床に落ちるようになっている。こういうところにゆっくりくつろいで座って、いろいろなことを協議したりする。

 そして出て行ってから、こんな話もされました。「一般民衆は、こんなお風呂があること自体を知らないで死んでいった人もいたが、クレオパトラなどは、朝晩に牛乳風呂だとか、死海の泥を奴隷に運ばせ、ネゲブ、シナイの沙漠を縦断し、アレキサンドリアまで運ばせ、女王様はせっせと泥パックに励んでいた。有力な説によると、当時の人はかさかさした肌だったのが、彼女はなめらかで芳しい匂いがしたという。それでアントニウスもふらふらとしたのでしょう。けれども、ユダヤ人の場合は貧しくても水で全身を清めるという習慣があった。それも神が沙漠にいた人々にそういうことを要求されたのだが、健康にもよいし、努力する甲斐がある。」とのこと。

 そしてローマ式浴場についてですが、2010年旅行でのベテ・シェアンにある写真説明が参考になりますが、日本語でもっと詳しく説明してあるのがウィキペディアで大変参考になりました。さらに、当時のカルダリウムがどう使われていたかの図解が下のようにあります。


 それから移動して、倉庫がよく見えるところが出てきます。長細い部屋が並んでいますね。


 そして宮殿(地図の6a)に向かいました。「自然の階段が出来ていたところに、小さな宮殿を作った。北の端なので一番涼しく、ずっと先に見える山のふもとがエン・ゲディであり、あそこまで通る人もほとんどおらず完全な私的空間を楽しめた。この建造によって犠牲になった人も大勢いると思う。一番下(6c)には小さなローマ式浴場もある。」この説明の風景がこれです。この下に、中テラスの跡(6b)が見えます。

 「そして、カイサリアの海に入った宮殿でもそうだが、このような人目に触れぬところに家族の空間を作るというところは、ユダヤ教的感覚があったとも言える。建築としては後期に出来たものである。」

 さらに、ここから北東方角に別のローマ基地を眺めることが出来ます。「当時、少数民族であるユダヤ人に悩まされているということで、エルサレム陥落後、ローマ軍全体の半分ぐらいがここに来ていたとのこと。力の入れようで、ローマが人肌上げないと笑われる、という感覚もあった。」


 そしてここから左を向くと次の目的地、アラドも見えました。そしてここには、下の模型があります。そして一番上のテラス(私たちがいる所)の柱が一本取れているのが見えるでしょうか?「誰かが取っていきました。落書きもあるが、これは一種の病気だ。マサダはイスラエル人の心も高揚するところで、当時はケーブルカーがないから大変な思いで登ってきて、到着した発掘現場に感動し、何と黒いペンキで自分の名前と住所を書いた。それですぐに捕まった!」こういう裏話的な話がしばしばあり、大変ユーモラスで心温まりました。


 そしてここで私はぜひ、旅行仲間を下のテラスまで連れて行きたかったのですが、恭仁子さんも下まで行けばマサダの三分の二まで降りることになると警告されました。確か二十分という制限時間だったでしょうか、行かない方はここの待合の場で待っていてください、と言って下ったのですが・・・、蓋を開いてみると何と全員が降りたのこと!!2010年の旅の時でさえ、もっと若い年代の女性は降りていかなかったのに、これはすごい仲間だなと感心してしまいました。恭仁子さんも、知人のアメリカ人のガイドに、「えっ、日本人のグループがここまで降りてくるのかい?」と言われたそうです。日本の団体客は、時間の制限もあることから降りることはまずない、とのことです。


 上の写真が6cのローマ式浴場もあった下テラスで、下が6bの中テラスです。


 そして上がってきて、次の石を見ました。「当時、大理石はここでは取れない。それだけの圧力と熱度がなかったが、王様の予算で大理石を輸入するぐらいは何でもなかった。当時、本当に自慢できるインテリアのデザインに、石に漆喰を塗って、それがあたかも大理石であるように仕上げるスタッコである。下テラスに柱が節を並べて積んであったがそれにも漆喰を塗ってあたかも大理石のように模様を付けていた。あれだけ目の肥えていたヨセフス・フラウィウスも騙されて、ユダヤ戦記になんと、『一塊の大理石から作った柱もあるほどに見事な宮殿』と書いていた。それほど見事な技術であった。」


 そして貯水の方法を見ることの出来る模型がありました(地図11)。水道水をここで下の溝のところに流すことができます。「溝の所々に穴があるけれども、そこに向きをかえってさっと流れ入るようになっている。中は漆喰で覆われ水が漏れないようにし、入口も小さくして乾燥を防いだ。ざっと流れ込むので最初は泥水だが、少しずつ沈殿して自然濾過される。」」


 次にシナゴーグの跡(地図12)に行きました。「このシナゴーグはヘロデ大王時代からあった部屋で入口が東を向いているのでシナゴーグであった可能性が大である。仕えている人たちの中にもユダヤ人であった人がいた。ただ確証はない。反乱軍が立て籠もってから、階段を作ったり、柱を増やしたり、そして奥に小さな部屋を作った。ここがシナゴーグであったという確証は、この部屋の床の下からエゼキエル37章も含む巻物が見つかっている。」そしてここで、メッセージをしました(音声)。カイサリヤ、ガリラヤのマグダラ、そして後に行くエルサレムへと続くところにある背景はユダヤ人反乱でした。山上の垂訓の丘でも話したように、反乱軍は自由を求めたがイエスが語られている自由、それからエゼキエル書36−37章にある預言の成就、ユダヤ人を選びの民だとすることの霊的重要性について話しました。


 そしてさらに進み、傾斜路(地図14)に進みました、写真をよく見るとわかるように、ここからも徒歩で降りることが出来ます。(けれども、足の弱い方や時間がかかるということで降りるのはロープウェイにしました。)「ここの西側の傾斜のほうが東側より緩やかである。ローマはお得意の舗装道路を作った。斜めの道、斜道というが、その土台が残っている。ここの高さまで作り、ローマ軍が突破して入った時にはだれもいなかった。その前夜に最後を察知した指導者が、他の神々を無理やり拝まされるよりも、ということで、全員が自殺した訳ではなく、まず十人の男を選び、一家の主が自分の家族を殺し、最後に残るくじで決めた十人がその主人たちを殺して回り、そしてその十人の最後に残る人を決め、その一人が九人を殺し、最後に刃の上に倒れて自殺したのが最後の一人だけである。キリスト教だけでなくユダヤ教でも自殺はいけないことになっているが、それでも神への信仰を曲げさせらるよりはという比較上の問題である。そして、五人の女性と三人の子供が生き残ったが、その人のうちから事情聴取をして、ヨセフスが話を書いた。

 やがてここはローマの普通の駐屯地になってしまい、やがてローマ政府にキリスト教が公認されると教会が建つようになる。北の宮殿は修道僧の住居となった。四世紀は修道僧が荒野に増えた時代であった。その後、イスラム時代になるとすっかり忘れ去られるようになり、それ以来、ずっと知られずにいたが、19世紀になって、物好きなアメリカ人の探検隊がこの下を通りかかって、ヨセフスのユダヤ戦記にマサダの要塞に似ているなとふと頭に思い浮かんだ。それを真に受けて掘ってくれた考古学者がいた、ということだった。学術的な発掘は63‐65年である。」

 南も見るところはありますが、(時間もないので)この次にしましょう、と"含み"を持たせました。これが旅が進みに従ってどんどんあからさまになって、"To be continued"という合い言葉を多用するようになり、ついに「宣伝がお上手ですね」と褒めると(?)、「だって、アミエルの人間ですから」と正直に答えてくださいました(爆笑)。

 そして下をご覧ください。ロープウェイに向かう直前に、先ほど模型で見た、山沿いに水を溜めるための運河の跡を見ることが出来した。途中で曲がっているのがわかりますね。


 ロープウェイでのケーブルカーの中で、私のいる反対方向から大きな声が聞こえてきました。うちの教会のメンバーが、同乗しているアメリカ人たちがカルバリーチャペルの人であることを知ったのでした。そして私の目の前にいた人がエリックさんで、カルバリーチャペル・ロッキーマウンテンの牧者です。みなは何という奇遇と驚いていましたが、私は密かに「カルバリーの人に旅行中、どこかで会うに違いない」と思いましたので、主よありがとうございます!という感じでした。:)



3.ベドウィン系レストランで食事
マサダからズマン・ミドュバ(Zman Midbar)までの行程(Google)
Zman Midbar Eco-Lodgeの正確な地点(Google)

 私たちは、マサダから90号線に戻り、南下、そして31号線へ右折しました。上のマサダからの行程にあるGoogle Earthを使ってご覧になれば、31号線から急な坂道を駆け上がることがわかると思います。死海付近では半袖ですが、アラドからやってきた恭仁子さんとヤコブさんは厚着をしていましたが、それだけ気温の高低も変わります。先にお話ししましたように、恭仁子さんはしばしば死海に降りてこられるそうなのですが、酸素濃度が高いせいか、ストレスが解消されるそうです。多くの人が、死海付近に下ると“霊的”になったように錯覚するのですが、また戻ると“肉的”に戻らされてしまうわけです(笑)。

 急な坂道をぐんぐん上ると、回りは何にもない沙漠になりました。アラドに向かう直前まで、本当に自分はアラドに到着できるのかと不安になるぐらいで、恭仁子さんのお宅に向かう人たちもここで道を迷ってしまったのかと不安になるそうです。途中で、らくだの放し飼いも見ることが出来ました。

 そしてアラドの町です。こじんまりとしていますが、しっかりとしています。静かで、空気のきれいな所に住みたい、ということでここに移り住む人が多いそうです。恭仁子さんは沙漠が好きだそうで、ヤコブさんの退職後、ここに引っ越すのを願ったのは彼女だとの事。ここからモアブ(ヨルダン側)も簡単に見ることが出来るそうです。そして、3199号線という小さな道路に入ります。ここは実は、マサダの反対側に行く道で、先ほどの西側の傾斜路を降りれば、とても近かったというわけです。バスで来ようとすると、このように一回りしなければいけません。

 再び何にもない荒野になりましたが、今年は雨の多い冬季だったので(だってその一ヶ月ぐらい前にイスラエルが豪雪・豪雨になったのですから!)、小さな草がちょびちょびと生えています。ベドウィン(遊牧民)の姿も見えてきました。

 そして、ホーリーランド・ツーリストの石田さんが組み込まれた、アラドでの昼食レストランは、3199号線から右折し外れて、砂利道を走る荒野のテントでありました。そこは、Zaman Midbar Eco-Lodgeというところで地元の人も知らないという、超マニアックさ!バスまでお迎えに来られた方はヨーロッパ系イスラエル人なのに、ベドウィンの格好をしているおじさんでした。

 リンク先のウェブサイトを見ていただくと分かるのですが、ここはレストランではなく、いわゆる自然・癒し系・ニューエイジ系のゲスト・ハウスという感じです。ユダヤ系のベドウィンは中東地域からの帰還民ならまだしも聞いたことがないので、なんか違うな?と思ったのですが、やはりそうでした。

 けれども、ロケーションといい、お食事といい、最高の所でした。テントからのユダの荒野と死海の風景は絶景でした。そして本当に静かです。Zman Midbarとは、こうした静かで平和な沙漠の時間のことを指しているようです。お食事は、そういう人たちの作るもので全てが菜食であり、豆腐カレーなど一切肉類を使わない徹底ぶりで、最後はハーブ茶を出してくださいます。これらがすべて、別にニューエイジをやっていなくても、東洋から来た私たちには、特に、連日の大きな食事で疲れていたお腹には合っていて、深い休息となりました。
 

 この後、瞑想をするハウスに連れて行かれましたが、ちょうど時間も迫ってきたので、申し訳なかったのですが(笑)10分程度の見学でバスに戻ります。

4.アラド(アラデ)
Zman Midbarからテル・アラドまでの行程(Google)
テル・アラドの説明(NET, Bibleplaces.com, Bibleistrue.com, mfa.gov.il)
冊子からの抜粋

聖書歴史と呼応する遺跡の宝庫
  • 地理的に戦略的な位置、貿易の中継地点
    • 南はエジプト、東はヨルダン川、西はヘブロン経由で地中海、北はメソポタミヤへの道
  • カナン人のアラド(下の町)
    • 紀元前四千年代から定住
    • 公的施設、宮、家屋、道具などの発掘
    • 町の中央に大きな貯水槽
    • 高い城壁に囲まれている
    • アラドの王、ホル山でイスラエルを攻撃(民数21:1-4)
    • ヨシュアによって殺される(ヨシュア12:14)
    • ケニ人が定住(士師1:16)
  • イスラエルのアラド(上の町)
    • オフィルの金に関連して、この町が戦略的重要性。
    • ソロモンが城砦を建設。
    • ヨシャパテが再建(2歴代19:4)
    • ヨアシュの水道(2列王12:1-18,2歴代24:13-26)
    • ウジヤによる再建(2歴代26:10)
    • ヨタムによる再建(27:4)
    • アハズの時、エドムによる破壊(28:17)
    • ヒゼキヤによる再建(32:1-3)
    • ヨシヤによる再建(34:6)
    • ネブカデネザルによる最後の破壊
      • エドム占拠、イスラエル呪う(詩篇137)
  • アラド陶器片(紀元前600年頃)
    • ヘブル語が100以上
    • アラム語が90
    • 「ヤハウェの家」という言及
    • 「エドム」と「ユダの王」の記載
  • 代替の神殿(申命12:13-18)
    • 祭壇、中庭、至聖所の発掘(ヤハウェとアシェラの礼拝)
    • ヒゼキヤによる宗教改革(2列王18:4,2歴代31:1)
 

 そして現在のイスラエル建国後のアラドの町を通過して、31号線に戻り西に向かいます。そしてテル・アラドに到着です(80号線で曲がり損ねて、Uターンして戻って来ました。遺跡の丘に上がると、現代のアラドと何も隔てるものが間にないので、互いに眺めることができるようです。恭仁子さんは、自宅から近いということもあり、なるべく旅行客にはここに来て欲しいと思っておられるそうですが、なんせ有名ではないのでほとんどの人が来ません。けれども、冊子の説明のように、イスラエルの聖書歴史が重層的に遺跡として残っているところであり、ちょうど西にあるテル・ベエルシェバに負けず劣らずの所です。なぜ有名でないかといえば、ベエル・シェバはUNESCOで世界遺産に認定されたけれども、アラドはそうでないとのこと。私個人は、もうわくわくでした。その遺跡もそうですが、ここから見えるのは、東西南北の四方であり、ユダの山地も見え、地形的に戦略的な場所であることを用意に説明できるからです。

 私たちはまず、上アラデのユダ王国時代の正方形の要塞の城壁の中央にある、ギリシヤ時代の塔(Hellenistic Tower)に上がり、そこから全体を眺めました。

 上の動画は、まず北北西に連なるユダ山地を映し、それから東にある現代のアラド(30秒あたり)、そして南方のネゲブを撮影しました。

 「紀元前の四千年期(銅石器時代)の終わりの頃に、小さな村のようになっており、その後、青銅器時代初期の紀元前三千年期にカナン人の作った、要塞化された、開発された、立派な、周囲を壁で囲まれた町ができた。カナン時代のアラドの遺跡は下にあるが、3000年頃から2650年後まで栄えた。その後、1500年程捨てられた状態になっており、その時にイスラエルの民が入ってきていた。だからカナン時代はその350年のことである。イスラエルの人たちが住むようになってから、南の守りを固める要塞として重要な町となり、今立っているところは、かつてソロモン王が要塞を作っていた所である。今いる所はギリシヤ時代のだけれけれども、ソロモン時代、その後の南ユダ王国の代々の王の非常に大事な南を固める要塞であった。

 北には、ヘブロンの山々が見える。したがって、ユダの山々に行くところと、南のネゲブの沙漠、そしてシナイ半島の境になる場所である。約束の地にイスラエルの民がいよいよ入ろうとしているときに、民数記とヨシュア記にアラドの非常に強い王が出てきて行く手を妨げた話が出てくる。あるいはアラドの王を征服したと書いてある箇所がある。いずれにしても、ここはそう簡単には通ることが出来ず、イスラエルは迂回して行かざるを得なかった。

 カナン人は非常にすぐれた人たちで、羊や牛を育てる放牧以外に農業にも力を入れて、シナイ半島の南のほうの、当時、紀元前四千年期には銅の精錬がすでに始まっていたが、その人たちと関係と持ち、三千年期には盛んにここで銅が使われるようになってきた。銅を売買して、非常に大きな収入を上げた。そういう境目になる。そしてここは、南のほうから北に向かう場所と、それから東から西に、死海のアラバ地方と地中海の西に抜ける道の交通の要所にもなっていた。いろいろな意味で開けた町だ。

 聖書に出てくるアラドとしては、ネゲブのアラド、大アラドとも呼ばれ、エラフメエル家のアラド(1サムエル27:10参照)とも言われる。エラフメエルはユダの末裔(1歴代2:9)で、その人たちの祭司家(?)がここに住んでいたということで、エラフメエル家のアラドとも呼ばれる。民数記とヨシュア記のアラドは、いろいろな説があるものの12.9キロ南西の、今、テル・マラータ(Tel Malhata 地図)と呼ばれている遺跡の丘である。ここは、「ネゲブのアラド」と呼ばれた場所で士師記1章に、「モーセの義兄弟であるケニ人の子孫は、ユダ族といっしょに、なつめやしの町からアラデの南にあるユダの荒野に上って行って、民とともに住んだ。(16節)」 とある。ここにケニ人の聖所があったと主張する人もいる。それ以降、鉄器時代になった十世紀にソロモン王が要塞として作り、ユダの代々の王が使った。だから、ほとんど同じ場所と言えるのだが、違う遺跡にある。」つまり、現在の考古学見解では、民数記・ヨシュア記のアラデと士師記以降のアラデは位置的に多少異なり、テル・アラドは民数記・ヨシュア記以前のカナン人時代のもの以降の王国時代のものがあり、民数記・ヨシュア記のは12.9キロ南西にある遺跡にある、ということです。

 そして私は、東西南北がどうなっているかを指し示しました。地図ですと、こうなります。中央がアラデ、北にヘブロン、西北西にガザがあり、そして南はネゲブです。


 塔から降りていって要塞の北西部分にある、聖所の遺跡を見ました。

 「エルサレムに聖所があるはずなのに、それをそっくりそのままこの町に持ってきた。祭壇の寸法も出エジプト記にあるのと同じ、そして20章には裸石を使うことが命じられているがそれも忠実に行なっている。」


 そして、至聖所の方向も西向きで間違っていません。香壇もあります。ところが、よく下の写真をご覧ください、香壇が二つ、そしてその後ろに石の柱(マツバー matzeva)が二つあります。左側の香壇と石の柱が、ヤハウェに対するものであり、右側の香壇と石の柱がカナン人の神に対するものです。

 そこで私は、この現象を「コンビニ礼拝」と名づけました。テル・ダンで説明したとおりですし、明日行く、ベエル・シェバでも同じ現象が起こっています。そして、この動きをやめさせたのが、紀元前八世紀のヒゼキヤ王と七世紀のヨシヤ王であります。この三つの遺跡の写真を見せながら、最近、同じ「コンビニ礼拝」という題名で列王記第一12章28-30節から説教をしました(原稿 ・ 音声)。

 それから、ユダ王国時代の門から出て、下の町、青銅時代初期のカナン人のアラドを見ます。(左下が王国時代建設の要塞の門、右下がカナン人の町へ向かうところ)
 

 到着すると、まずカナン神殿の跡がありました。街路を歩きながら恭仁子さんの次の一言で回りの男性たちが、ウォーという声を上げています。「カナン人の町からは知事のような人がいた宮殿のようなもの、住宅地、市場、倉庫が大体的に出てきている。城壁周囲の長さは1976メーメルである、非常に栄えに栄えた。」今パンフレットでで確かめたのですが、著しく見えている発掘された遺跡の部分は城壁の"南端"の部分であり、王国時代の要塞も北東部分としてすっぽり包んで、要塞の十倍ぐらいある巨大な町であることがわかりました。ちょうどハツォルのように、王朝時代の町をすっかり包んで、さらに大きくカナン人の町があったということです。下の写真は、「アラドの家」と呼ばれている青銅器初期の家です。アラドにこの時期の家が最も発掘されているとの事。屋根がかかっているので見えずらいですが、Bibleplace.comで確かめられます。


 そして私たちはほぼ南端にある城壁の小さな破れ口から出て、前方に見える王国時代要塞を眺めながら城壁に沿って歩き、駐車場に戻りました。


5.ミツペ・ラモンに到着
テル・アラドからミツペ・ラモンまでの行程(Google)

 そして私たちは、ずっとネゲブ沙漠を奥深く南下していきます。ここからが、団長としては皆さんにお見せしたい聖書の「荒野」です。ツィンの荒野を通り、その南のパランの荒野は時間の制限上、見せることが出来ませんが、イスラエルの民が約束の地に入る前の姿を少しだけ垣間見ることが出来ます。(2010年の旅で、最後の日にここを一気に北上したときの旅行記がありますので、参考までにご覧ください。)31号線、80号線、25号線、204号線と次々に道路を変えながら、アラバにつながる40号線に入ります。ベンン・グリオンの生前の家の残るスデ・ボケルを通り過ぎ、ナバテア人の町オブダットの遺跡を見て、走っていきます。私が驚いたのは、アラドからもしばらく、緑がかなりあり、沙漠のように見えなかったことです。2010年の6月とは大違いでした。イザヤ書にある、「荒野に花が咲く」という預言は当時の人々には現実味をもって受け止められたのだろうと思われます。「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。(35:1)

 そしてミツペ・ラモンに到着しました。ここの有名なものは、もちろんマクテシュ・ラモンと呼ばれる隕石孔のような窪みです。明日の朝も改めて訪問するのでその時に報告しますが、夕日が沈む前に私たちはここを一望できました。


 そして私たちは、Isrotel Ramonというホテルに泊まりました。ミツペ・ラモンの町自体が、ネゲブのど真ん中にありますから当然なのですが、非常に小さな町で、上の写真の左に見えるランクの高いホテルの他に、Isrotelしかないそうです。上に高い建物ではなく、確か三階ぐらいしかない部屋が横に長く広がっているホテルです。そこで、一階のロビーで右のようにミーティングを行ないました。

 夕食はその奥にあるレストランで食べましたが、一番面白かった話しは見城さんです。テーブルになぜか、ホテルの電話機を持ってきました。みな「?」だったのですが、電話のかけ方が分からないと質問したところ、「電話を持ってきて」と言われたそうです。そしてその電話機を外して、ロビーに持ってきたとの事!ロビーの人はもちろん、携帯電話の話をしていました。

 そして、ホテルの部屋ですが、それぞれが二人部屋ではなく、四人泊まれるような大きなものでした。キッチンとリビング・ルーム付きです。家族が泊まって、数日過ごすようにデザインされているのでしょう。私は、「私たちのところに来て良いですよ」と言ったところ、何人かが来ました。下のように楽しい時間を持つことができました。