2016年イスラエル・ヨルダン旅行記 2月23日
1.アルベル山
2.タブハ
3.ミグダル(マグダラ)
4.湖上遊覧
5.コラジン
6.山上の垂訓教会
7.カペナウム
前の晩、ホテル(Golan Hotel)で夕食を取った時は、私たちの団体しか食べていなかったので、ヨルダンでも感じましたが、やはり中東全体が政情不安との報道があるからかな?と思いました。けれども、その後の食事では少しずつ他の人々もいました。そして早朝は、私たち夫婦のホテル・ルームで、みながベットに座るなど、ぎゅうぎゅうになりながら、いつものように妻がギターで賛美リード、そして星野さんがデボーションを導いてくれました。
ガリラヤ湖について(ウィキペディア)
私たちはこれから、ガリラヤ湖畔の旅を一日半をかけて行います。本日は、ガリラヤ湖の東の部分を中心に回り、最終日になる明日、東半分を見てまわりながら南端に行き、南下します。ガリラヤ湖については、日本語のウィキペディアの情報は充実しています。地形としては、これまでも何度も出てきた、「シリア・アフリカ大地溝帯」の中にある「ヨルダン渓谷」の一部です。ガリラヤ地方は、イズレエル平原をのぞいては山地になっているし、また北東のシリアに接するゴラン高原(聖書のバシャン)も、その呼び名のとおり高原です。それゆえ、ガリラヤ湖は山地と高原に挟まれた低い所にあり、海抜がマイナスになっている、死海に次ぐ低い所となっていて、淡水湖としては世界で最も低い所にあります。そのために、福音書の中で、弟子たちののっている舟が、大嵐で翻弄している様子があるように、強風が吹くことがあります。1999年のイスラエル旅行で、北東にあるガムラという所に行った時、なんと鷹が羽ばたきもせずに、上空に止まったようにして飛んでいました。なぜならガリラヤ湖からの風が吹きつけているので、陸からは前進しているように見えなくても、風に乗っているからでした。そして、イスラエルに行くと驚くのは、意外な小ささです。ガリラヤ湖も、そんなに大きくありません、南北に21㎞、東西に13㎞しかありません。水源は、ヘルモン山の雪解けや泉によって始まるヨルダン川で、湖の北端から流入します。そして、南端にて再びヨルダン川になり、死海にまでヨルダン川が流れます。
今のイスラエルのヘブライ語名は「ヤム・キネレト」と言いますが、これは旧約聖書の呼び名の「キネレト湖」から来ています。聖書にも数多く、特にモーセとヨシュアによる、相続地の割り当てにおいて出てきます。そして、キネレトは「竪琴」を意味していて、ダビデも立琴を奏でていましたが、そう言った形をしているからです。上空から見ると、確かにそうですね。
そして、私たちはメギドを訪問した時に学びましたが、イスラエルという地域そのものが、エジプト文明とユーフラテス川のメソポタミア文明に挟まれたような場所にあるため、通商が盛んであったし、また軍事的衝突が多い歴史を辿ってきました。国際幹線道路の一つで、エジプトからユーフラテス川上流にまでつながっている「ヴィア・マリス(海沿いの道)」は、メギドからイズレエル平野を通り、そしてここガリラヤ湖の北西部分、後で行くアルベル山の下を通ります。そして湖の北にあるカペナウムから北にダマスコに向けて北上します。したがって、ガリラヤ湖畔の地域自体はいわゆる田舎ではあっても、それでも周辺に大きな町々が築かれていきました。カペナウムには、取税人であるマタイがいたし、ローマ軍が駐屯していたのので、百人隊長が僕の癒しを懇願しました。ユダヤ人の町々であるけれども、異邦人との接触もあり、また各地域から多くの人がここを通過するため、ガリラヤ湖の北西部分から北東部分にかけて、イエス様が最も盛んに宣教活動を行われたのは、そうした背景があります。預言者イザヤが、「後には海沿いの道、ヨルダン川の向こう、異邦の民ガリラヤは栄誉を受ける。(9:1)」と預言した通りなのです。
1世紀の歴史家ヨセフスがいた当時から、自然の造形のすばらしさを感嘆するほど、ガリラヤ湖畔はきれいです。ビザンチン時代には、数多くのキリスト教の巡礼者でにぎわったそうです。今ととても似ていますね。そしてこの地域が、紀元後20世紀初頭から、ユダヤ人による初めての開拓、入植が行われたところであり、最も古いキブツもここにあります。そのために、ガリラヤ湖周辺は農耕地が広がっており、それゆえ景観がなおのこときれいになっています。また、ペテロやヨハネがかつて漁師であり、ミグダル(マグダラ)も漁業の町として有名でしたが、今も、漁業のキブツも存在し、観光客には「聖ペテロの魚」が有名です。
1.アルベル山
(2013年の旅、たけさんのイスラエル紀行、ウィキペディア)
Golan Hotelからアルベル山まで(グーグル地図)
ゴラン・ホテルは、ティベリアのホテル街より北にあり、しかも湖岸にはありません。けれども、ホームページの表紙で分かるように高いところにあるため、かえってガリラヤ湖を上から眺めることができる地点にあります。(旅行仲間が撮った早朝の様子)そこからアルベル山に行くのは、とても簡単です。車で10数分といったところです。先ほど言ったように、湖の東側は高原、西側のガリラヤの山地になっていますので、上り坂を上がっていく感じで、しばらくすると平らになります。けれども、そこは「山」です。回って来たら、既に湖との高低は約400㍍になっているのです。
この二つの山に挟まれたところの渓谷に道があり、ここからガリラヤ湖畔への入口です。(Biblewalk.comの写真)これは海沿いの道の一部でもあり、またナザレなどから、イエス様がカペナウムい来られる時にも、ここを通られたのです。「そして(イエスは)ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリ地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。(マタイ4:13)」
ここも国立公園になっていて、その入口には、アルベル山の絶壁の部分にある穴の写真と、鎖がついているかごが展示されています。ここで恭仁子さんが、ハスモン朝の残党が、ローマに反乱を起こして、ヘロデ大王がそれを攻め取った時に使われたものだと説明されました。そしてずっと後、第一次ユダヤ反乱(66‐73年)においても、ローマ軍に対してユダヤ人がこれら洞穴に隠れて抵抗しました。
ユダヤ反乱の時に鎮圧した人物が、総督ウェスパシアヌスであり、その子ティトスが引き継ぎ、彼も総督の時に70年にエルサレムを陥落せしめます。後にどちらも皇帝になる人です。すぐに鎮圧できるかと思ったら、このガリラヤ地方でものすごい抵抗があり、戦禍が一気にユダヤ全域に広がって生きました。ガリラヤ湖畔では、後で訪問するマグダラでは、数多くのユダヤ人が死に、湖が真っ赤になったそうで、そしてその向こう、北東にあるガムラでもものすごい抵抗が起こりました。そしてガリラヤでローマが戦っている時に、降伏したユダヤ軍の一人がヨセフスであり、彼が「ユダヤ戦記」を記したのです。
そして、しばらく平らな道を歩きます。恭仁子さんは2013年の旅で、山上の垂訓の場所について私が話していた時に、アルベル山もその候補にあがっていることを言及していました。確かに、ここは大きく平らなので、大勢の群衆が聞いているのには好都合だったことでしょう。
そして到着すると、そこが断崖絶壁です。
ここで、少し私も解説しました。
見えないですね、ここは本当に絶景なんです。手前にゲネサレ平野があります。その向こうにタブハがあり、さらに向こうにカペナウムがあります。北、すなわち左側にコラジンがあり、またタブハの左に山上の垂訓の教会がある丘があります。あまりに見えないので、ぜひ2013年のたけさんのイスラエル紀行にある写真をぜひご参照ください(クリックして拡大)。グーグルの検索でも、数多く出てきました。
そう言えば、もしかしたらイエス様の大宣教命令はこの山からだったのではないか?とも言われています。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。(マタイ28:16)」そして興味深いことに、主と弟子たちがエルサレムに戻られて、今度はオリーブ山から宣教命令を守るのに必要な、聖霊の力の約束(使徒1:8)を与えられて、そこから昇天されたということです。
ついでに、私が好きな、ヒルソングのTouch the Skyですが、彼らが死海付近とこのアルベル山でのプロモを決行したんですね。ここからの映像を少し見ることができます。
行きそびれたハッティン
(2010年旅行)
(アルベルからハッティン経由でタブハへ グーグル地図)
ところで、私たちの旅程は、アルベルから「ハッティンの角」に行く予定でした。その後はタブハに行く予定です。左の地図で確認できますね、アルベルはマグダラ(ミグダル)とゲネサレの間のところに、そびえ立っています。次の目的地のタブハは⑦の辺りです。そして、ゲネサレ平野にある船着き場から、湖上遊覧、そしてコラジン、山上の垂訓の山、そしてカペナウムに行きます。
ハッティンの角については、2010年の旅行に行った時にとても良かったので、また行きたいと思っていました。ここもアルベル山と同じく、山上の垂訓の場所ではないかと考えられる候補地だからです。プロテスタントの一派である「チャーチ・オブ・クライスト」がここに記念碑を立てています。そして、ここからの眺めは、また違ったガリラヤを見ることができます。南にはヤブネエルの谷が見えます(ヨシュア19:33)。南西にはタボル山が見えます。そして東には、アルベル山の崖の端を見ることができます。(ユーチューブ映像)北には、ガリラヤの北部が見えます。写真は、こちらBiblewalks.comでお楽しみください。
そして何よりも、ここでは、「ヒッティーンの戦い」で有名なところです。先ほどの動画で恭仁子さんが言及しておられましたが、私たちはヨルダンの旅2月17日に、モアブの首都であったカラクにて、十字軍とイスラム勢力との戦いのことを学びました。そして、ここヒッティーンにおいて、十字軍とイスラム勢力の云わば「関ケ原の戦い」が起こり、十字軍が決定的な敗北に帰します。その敗因が、イスラエルの気候に合わないヨーロッパ式の重装備で、脱水症状を起こしていたのではないか?ということです。右のユーチューブ動画は、「キングダム・オブ・ヘブン」からのヒッティーンの戦いの一場面です。
ところが、先のグーグル地図で見るように、わざわざ大きく遠回りをしてハッティンの角のところに行こうとしたところ、そこに大型バスが入れそうな道ではなかったということで、断念したのです。それがこのビデオ。
ここがどういった意義があるのか、ほとんど説明することができていなかったので、ほとんど誰も写真を撮ることがなく、唯一、一人の姉妹が撮っていてくれた写真がこちらです。なぜ「角」と呼ばれるのか、少しお分かりになると思います。手前に見える小高い丘が南の部分にあるのですが、もうちょっと北には同じように小高い丘がもう一つあります。それで、家畜の二つの角のように見えるということです。
2.タブハ
(2013年の旅、2008年の旅、たけさんのイスラエル紀行)
私たちは、アルベル山の麓にある、イエス様がナザレからガリラヤ湖畔に入られる同じ谷を通って、湖に沿った道を走り、ゲネサレとカペナウムの間にある「タブハ(Tabgha)」に到着しました。この意味は、ヘブル語の「エイン・シェバ」のほうが分かり易いでしょう、「七つの泉」という意味です。ギリシア語の「ヘブタペゴン(Heptapegon)」と言いますが、現地のアラブ人たちが発音することによって、タブハに変わりました。ここは、カペナウムの郊外にある最良の漁獲の場になっています。なぜなら、その七つの泉のいくつかは、やや温泉になっており、特に冬はここに魚が群がるからです。今でも、すぐそばにエイン・ヌル(Ein
Nur)や、エイン・アユブ(Ein Ayub)があります。
それゆえ、この場所でおそらくは、数多くの福音書に書き記されている出来事が起こったのではないかと、言い伝えられてきました。まずは、ここの山腹で、山上の垂訓をイエス様が教えられたのではないかということで、「山上の垂訓教会」が建てられています。そして湖畔の敷地内には、「パンと魚の奇跡の教会」が建てられています。これは、イエス様が初めのパンと魚の給食の奇跡を行われたほうです(マタイ14:13‐21、マルコ6:30‐44、ヨハネ6:1‐15)。男だけで五千人が満腹しましたね。こちらは、ガリラヤにいるユダヤ人が主な群衆でした。二回目に、イエス様が給食の奇跡を行われたのは、男だけで四千人でしたが、こちらはガリラヤ湖の東側、異邦人の多いデカポリス地方で行われました。それは翌日、「テル・ハダル」に訪問します。そして、魚と奇跡の教会からさらに岸辺に行くと、「聖ペテロの首位権教会」があります。これは、イエス様の復活後、ペテロたちが漁をしていたところ、イエス様が岸辺で朝食を整えておられて、ペテロに改めて羊を飼いなさいという召命を行われたとする教会です(ヨハネ21章)。
けれども、カペナウム付近の最適な漁獲地域であるならば、イエス様が漁をしているペテロやアンデレ、ヤコブやヨハネの召命も行われた場所かもしれませんし(マルコ1:16‐20)、イエス様がペテロに、「深みに漕ぎ出しなさい」と言われて網を降ろさせて大漁になった召命の場所かもしれないし(ルカ5:1‐11)、ここから舟を出して強風が吹いて、イエス様が水の上を歩かれた奇跡を行われたかもしれません。
パンと魚の奇跡の教会へ
先に説明しましたように、キリスト教がローマで公認されて以後のビザンチン時代には、ガリラヤ湖畔は今と同じようにキリスト者の人気の巡礼地になっていました。それで教会が古くから建てられていました。次に、「パンと魚の奇跡の教会」に入るにあたってこの教会の説明を受けます。
初めに、入口の手前の広場にある、当時の、ろばの碾き臼の紹介。イエス様が、「この小さき者をつまずかせるなら、碾き臼をゆわえられて、湖に沈み来れたほうがよい」と言われた、その碾き臼と同種のものです。それから、この教会の紹介ですが、初めに、イエス様が五つのパンと二匹の魚を置いたと言われる石②があり、それから350年にその石を祭壇にして、教会を初めに立てたということです。興味深いのは、ヴィア・マリスに並行して建てていること。それから同じくビザンチン時代の480年に建てたのが、有名なパンと魚のモザイク床のある教会。614年のペルシアの侵略の後、1300年後に発掘され、480年の教会に沿って1982年に再現したのがこの教会だそうです。
そして日本語のウィキペディアに詳しく載っていますが、ユダヤ教徒過激派による放火事件が2015年6月17日に起こりました。「偽物の偶像は破壊されるだろう」との落書きのスプレーが書かれていました。イスラエルにおいて、このようなユダヤ教徒による不寛容は珍しいことで、政府もイスラエル人社会にとっても大きな衝撃を受けました。恭仁子さんが重要な指摘をしていました。「いつのまにか、自分が神の右腕だと思ってしまう。そして神の右腕ならまだいいが、神が自分の右腕だと思ってしまう。」そうです、偶像を破壊しているつもりで、自分が神ご自身を自分の欲望のために操る偶像としてしまっているのです。下が、その放火の跡の様子です。
そして中のモザイクの様子は、次の通りです。まずは教会全体。
祭壇の下にある有名な、イエスがパンと魚を置いたとされる岩とモザイク。
エジプトからの職工人が手かげたと証明する「ナイル・メーター」のモザイク。
聖ペテロ首位権教会へ
ペテロの首位権教会は、本当に岸辺にあります。その手前でイチジクの生絞りのジュースを売っているところがあり、多くの人が買って喉を潤し、教会に歩きます(写真)。その途中で、泉から出ている水も見ることができました(動画)。
この教会は、岩があって、そこでイエス様が朝食の用意を整えておられたとされています。4世紀に建てられていたであろう教会の上に、1933年に建てたのだそうです。Mensa
Christiとは、「キリストの食卓」という意味です(写真)。
建設当時は、この教会のすぐそばまで湖水が来ていたそうで、階段を作っていますが、水位が下がり、ずっと向こうになってしまっています。
意外に、ガリラヤ湖畔にいながら、水に触れることができる場所は少ないです。ここはその少ないところの一つです。私は、ペテロ首位権教会を背景にして、「ペテロの召命」について話しました。①初めに呼ばれて、イエスをラビとする(ヨハネ1:40‐42)、②大漁の奇跡を見て、イエスを主として全てを捨てて従う(ルカ5:1‐11)、③復活後、再召命を受けます。(ヨハネ21章)
3.ミグダル(マグダラ)
ダブハからミグダルまで(グーグル地図)
ミグダルの説明(ミグダル考古学公園のサイト、高原剛一郎氏のブログ、天理大学の考古学チームの記事)
私たちは再び、アルベル山の麓のほうに戻ります。アルベル山の麓にある谷、すなわちヴィア・マリスが、ナザレなど、ガリラヤ湖畔に通じる入口に近づきました。その湖畔に、ミグダルという町があります。そうです、新約聖書ではマグダラであります。あの「マグダラのマリア」の出身地です。ここは、つい最近、発掘された現場であり、以前の旅行では訪れたことがなく、私にとっても初めてのところでした。
旧約の時代からこの町の名は出てきます、ナフタリ族の割り当て地の一つです(ヨシュア19:38)。紀元前19年に、ここよりもっと南にあるティベリアができるまで、ここがガリラヤ湖畔の西側で、最も栄えていたユダヤ人の町でした。当時四万人が住んでいたと言われています。ミグダルは、ミグダル・ヌイアという名から来ていて、「魚の塔」という意味です。近くに泉があり、豊かな地に恵まれ、また湖中には魚が多くいました。ティベリアが出来てから、徐々に廃れはじめ、ユダヤ反乱(66年)がガリラヤ地方でも勃発したとき、67年、ここは血の海になったと言われます。
ここで発掘される遺跡の最も優れたことは、イエス様が地上を歩まれていた頃、すなわち紀元一世紀の時の遺跡が、如実に出てきたことです。他の遺跡はテル(遺丘)になっていたことを思い出してください。いくつもの時代の遺物が折り重なるようにして積み上がって、丘になっています。ここは違います、一世紀の頃の遺跡のみが出て来て、しかも2009年に発見されたという、考古学発掘では真新しい所です。そしてこのミグダルの前の湖で、水不足で水位が下がった時に、一世紀の舟が発見されたのです。「イエスの舟」と呼ばれています。後で、その舟が展示されている所を見に行きます。
そして驚くべきことは、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)が発掘されたことです。イエス様が、福音宣教を行なわれた時に、ガリラヤ地方の会堂で教えられたことを思い出してください。「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒された。(マタイ9:35)」当時、ティベリアの次にこの地域で大きかった町の会堂に、イエス様が教えられなかったということは、考えられません。すなわち、ここでイエス様が教え、福音を伝えられた、その現場にいることができるということです!後で、カペナウムにも行きますが、そこにも会堂の跡はありますが、後世に建てられたものです。(土台は、当時のものと言われています。)ですから、そのままイエス様が教えられたに違いない会堂の跡を見るのは、まさにここミグダルの遺跡です。
聖書的には、マグダラのマリアの出身地であるということの他に、「マガダン」とか「ダルマルタ」と呼ばれているところもマグダラと同じではないか?と言われています。イエス様が、向こう岸(東岸)で、四千人の給食をされた後に、舟でこちらに戻って来て、パリサイ人に天からの徴を求められたところです(マルコ8:11、マタイ15:39-16:4)。
巡礼記念館を建てようと思っていたところが・・
初めに発見した発掘しているのは、メキシコのカトリックの人でした。マグダラのマリアを記念するものを建て、巡礼者が来ることができるためにとこの土地を購入しました。イスラエルでは建築物について、その建築の前に考古学の調査が法律で義務づけられています。その調査で、次に見る「マグダラの石」と呼ばれるようになる、シナゴーグの律法の巻き物を置く台を発見、それからシナゴーグ自体を発見しました。それから浸礼漕も見つけ、ここがユダヤ人の町であることが立証されました。それから市場、街路、波止場も見つかっています。今も、中南米のカトリックの若者たちが発掘現場にいて掘り続けています。案内をしてくださるかたは、コロンビアからの方です。まずは、マグダラの石から。装飾には、第二神殿時代の礼拝の様子が象徴的に刻まれています。
正面には、神殿の二つの柱、その間に犠牲の祭壇、そしてその上にメノラ(燭台)、左右は灯のための油の壺と清めのための水の壺があります。左右には、それぞれ三つのアーチがあります。前のところに油の灯を示していて、神殿を灯していました。上部が、ロゼッタで12の花弁がありますが、イスラエル十二部族を示しています(内側の六つ、外側のそれを丸く囲むように六つ)。その横にヤシの木があります。この花弁は至聖所への垂れ幕を表し、その両端にこのヤシの木があります。そしてハート型のしるしがありますが、当時、シナゴーグの柱はハート型をしていました。(コラジンやカペナウムで、そのハート型の柱を見ることができます。)そして、供えのパンの机も刻まれています。背後が、最も大事なものがあります。これは、戦車の二つの車輪になっており、それぞれの下に火花がありますが、これは炎を示しています。エリヤが天に昇った時の火の戦車がありますが、これはエゼキエル1章の主の御座のところに仕えるケルビムを表しています。
そして次に、シナゴーグそのものを見ます。
映像では、右側から左に会堂の中に入っています。初めに、「ベート・ミドラーシュ」があります。学びの家を意味します。ここでトーラを置いたり、書いたりします。正面にある台は、トーラを置く台です。両端がくぼんでいて、左右に開かれた巻き物を置けるようになっています。その周りの石は座る台だったのでしょう。そして、シナゴーグの中央部分「ベート・ハ・クネセット」(集まる家)に入ります。当時のシナゴーグは、礼拝ではなく(神殿が礼拝の場でした)、議論するような場でした。そして中央のところに、先のマグダラの石の複製が置いてあります。その周りの石に、人々が座っていました。
ですから、イエス様がこの映像ですと、右から入って来られて、先ほどの台に置いてあった巻き物を受け取り、そして中央部分の中に入り、その中央のマグダラの石の台で巻き物を開き、律法を読まれたということが想像できるのです。マグダラではなくナザレですが、会堂でイエス様が朗読された場面を読んでみましょう。「イエスは・・いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。・・・イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。イエスは人々に向って話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」(ルカ4:16-21)想像ができますね。イエス様の動作に下線を引きましたが、まさに今、見ているシナゴーグの内部の構造から、その動作が容易に想像できます。
そして、カペナウムの会堂の場面においては、悪霊が会堂に主がおられた時にに騒ぎ出しました。「そして安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。そこの会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいた。彼は大声で叫んだ。「ああ、ナザレ人の人イエス。私たちと何の関係があるのですか。・・・」イエスは彼を叱って、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。すると悪霊は、その人を人々の真ん中に投げ倒し、何の害も与えることなくその人から出て行った。人々はみな驚いて、互いに言った。「このことばは何なのだろうか。権威と力をもって命じられると、汚れた霊が出て行くとは。」(ルカ4:31‐36)マグダラで起こったことではありませんが、おそらくこういうことがあったのは、容易に想像できます。
なぜなら、マグダラのマリアは、このような経験を持っていたからです。「彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。」(マルコ16:9)この町で彼女は悪霊を追い出してもらったのでしょう、彼女はイエスを心から愛し、十字架刑も遠くから眺め、そして復活の第一目撃者となったのです。
話をシナゴーグの映像に戻しますと、柱がその中央部分に両端に三つずつ、合計六本あったはずです。けれども、三本しかありません。それは、次に見る、市場の入口のところに、後に移動されたからです。また、シナゴーグの壁には美しいフレスコ画があり、奥にはモザイクがあります。
ここで、英語ですが、じっくりとシナゴーグとマグダラの石を詳しく説明している映像があるので、こちらに参照としてご紹介します。どこに何があるかをきちんと説明してくれています。
こちらの映像は、巻物の台(マグダラの石)の後ろからの映像です。木製の天上は、当時のシナゴーグと同じ高さに建てているようです。
そして回って、シナゴーグの入口からみて右側に来ています。フレスコのある巻物の保管所があり、また手を洗い清める洗盤もあります。
以上、シナゴーグの様子を英文ですが、上方からの写真と、側面からの写真で説明している画像があります。こちらをどうぞ。
そして市場の様子です。漁業が発達した大切な町なのですが、小さな浴槽のようなものがあり、魚を生きたまま入れて新鮮のまま売っていました。ところで、先にマグダラというのは「塔」を意味すると言いましたが、それは見張り塔ではなく、商業用の塔であったと言われています。塔で魚を干して、干し魚にして気軽に持ち歩いて食べることができるようにしていたそうです。そこで、思い出すのが五千人の給食です。先ほど見たタブハで、伝統的にその奇蹟が起こったとされていますが(マルコ6:32‐44)、少年が持っていた二匹の魚は、いわゆる「干し魚」であることが分かっています。ここで買った干し魚だったかもしれません。何か目に取るように、当時、生きていた人々の姿が見えてきます!
話を戻しますと、市場の入口ですが、別の石で門が塞がれています。ユダヤ人反乱の時、ローマと67年に戦い破れましたが、ローマが侵略する時、入口を防いだと考えられます。ヨセフスが、ミグダルの者たちが壁を築いたことを述べていますが、ユダヤ人たちが「柱」を使って塞いでいます。
そして、市場の周りを歩きます(写真)。地滑りがあった跡があるそうです。
次に、ミクベ(浸礼漕)があります(写真)。撮りそこなったので、こちらの映像をご覧ください。
右側の階段からから降りて、全身浸かり、左側から上がります。他の浸礼漕にも水が流れるようにしています。(ちなみに、この映像で説明している神父は、このマグダラの施設の専属の方で、かなり詳しくマグダラの石やシナゴーグ、市場など、当時の神殿の構造の鍵があることを説明しています。映像1、映像2)
ここが漁業の町であるということは、漁師であったペテロとアンデレ、ヨハネとヤコブなどと強くつながっていたことは、確かでしょう。こちらの写真は、家屋や倉庫として使われていたところです。そして、そして次の映像は、加工工場として使われていたことでしょう。
そして、たった今、発掘している現場で、土器のかけらなど見せてくださいました!
(続きはこちら)
ここら辺には、魚の倉庫の跡も見つかっていますが、この発掘現場も、倉庫だったのかもしれません。
そしてこの後に、元々、カトリックの人たちが作りたかった巡礼者用の記念館を案内しました。こちらは、カトリックの建造物なので、興味のある方はこちらの映像を見てください。(映像1、映像2、映像3)
こちらのほうが、ゆっくりとマグダラの霊的意味、御言葉による養いを受けられると思います。アミール・ツァルファティさんの映像。
レストラン"Tamar"で聖ペテロの魚
ここミグダルで昼食を取りました。おそらく湖畔にあるレストランだと思います。ガリラヤ湖に来れば、必ず食べたいのが聖ペテロの魚!
硬貨も口から見つかりました!(これほんと!どこかの魚にコインを入れてくれていたのです。)
4.湖上遊覧
ミグダルからNof Ginosarの船着き場へ(グーグル地図)
ガリラヤ湖 礼拝ボートのサイト
ミグダルから再び、タブハ方面に走りますが、そこまで行かずに、Nof Ginosar(ゲネサレ)に行きます。そこには、イエスの舟が展示されている所がありますが、それはあとで見ます。まずは、岸辺まで行って、そこから湖上遊覧の舟に乗って楽しみます。
湖上遊覧には、いろいろな船着き場から出発できるのですが、ここゲネサレから出発し、東の方面に動き、またゲネサレに戻って来るというコースは、まさにイエス様が弟子たちと舟に乗られた時、水の上を歩かれた時と、同じようなところです。
西から東へ「アルベル山」「キネレト(旧約の町の遺跡)」「タブハ」「八福の教会」その他、ベツサイダ、クルシ、背後のゴラン高原と続きます。映像では、こんな感じです。
そして、ここでメッセージをしました。マルコ4章35‐41節からです。
ところで、この湖上遊覧の会社ですが、敢えて「ユダヤ人信者」の方が運営されているところを選びました。乗船する時の上の写真を見ていただくと分かりますが、FAITH(信仰)と書いてあります。ダニエル・カルメルさんです。
舟の会社のウェブサイト"Sea of Galilee Worrship Boats"
彼の証しがウェブサイトに書かれていますが、養子として世俗的ユダヤ人家庭に引き取られ、舟の船長になることが夢でその仕事を始めました。実の母親を調べて会ったら、ガリラヤに住んでいるとのこと。それでここガリラヤ湖の湖上遊覧の仕事を始めたそうです。そして、お客は何て言っても、クリスチャン!ほとんど毎日、舟の上で牧師さんが御言葉を語るのを聞いていました。そして彼らの祈りや賛美の歌に感動したそうです。そしてイェシュアのことを教えてくださり、祈ってもくれたとのこと。五年間、求道していて、ある朝、イエス様が好きになっていたとのことでした。その啓示のような出来事から、すべてが変わったそうです。この湖上遊覧が仕事ではなく、宣教の働きにしようと決めたそうです。それで、イェシュアを賛美する働きにも携わり、自ら歌い、CDも作りました。当時は、雇われていたのですが、また信仰を持っても上司はクリスチャン向けの商売なのでこれは良いと思っていたのですが、人気が出てから脅威に感じて、独立の道をダニエルさんは歩みました。そして、このFAITHという舟が与えられたのだそうです。では、彼の歌も旅行仲間が撮影したので、聞いてみてください。
ちなみに、ヒルソングも、このダニエルさんの舟の上で、以下の有名な歌を撮影しました。 Oceans(大海)
イエスの舟展示館
(2013年の旅、2008年の旅)
(公式サイト、イガル・アロン・センター、発見された経緯、Biblewalks.com)
先ほどの船着き場に戻りまして、そこにあるイガル・アロン・センター内の「イエスの舟」の展示館に入りました。ミグダルの時に言及しましたが、水不足で湖面が低下している時、その沖で見つけたもので、ミグダルの遺跡と同じように一世紀のものだったということです。2008年の旅のところで、感動しながら書いた文章があるので、そちらをぜひ読んでみてください。そして恭仁子さんが、説明してくださいました。
写真(舟)、写真(釘と壺)、舟を発見後の作業の映像
ここには、おみやげのお買い物ができるところが少しあり、アイスクリームを食べたり、少し休んでから次のコラジンへ行きました。
イエスの舟展示館からコラジンへ(グーグル地図)
5.コラジン
(2010年の旅、Biblewalks.com、The Holyoaks in the Holy Land)
これまでは湖畔にいたのですが、丘陵を上がっていくとコラジンがあります。2010年の旅にのみ、行ったところだったので、ぜひ再び行ってみたいところでした。他の旅行者も少なく、静かで、ゆっくりと遺跡を楽しめます。
コラジンは、イエス様が呪われたガリラヤの三つの町のうちの一つです。マタイ11章21節と、ルカ10章13節で、イエス様が最も伝道活動を行われていたであろう、三角地帯において、なお御言葉を受け入れないことに対して、裁きの言葉を宣言されました。「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。お前たちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。お前たちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。」(マタイ11:21‐24)
今、コラジンとカペナウム、それから明日、ヨルダン川のを超えた湖畔北東に面するベツサイダに行きますが、ここにはこれらシナゴーグなどの遺跡がありますが、人々が住んでいないところとなっています。カペナウムにはカトリックの教会(ペテロの家の上)がありますが、確かに主が呪われたという跡を見ることができます。
イエス様が地上におられた頃、一世紀にこの町はもちろん存在していましたが、私たちの見る遺跡は、二世紀から四世紀のもので、シナゴーグはビザンチン時代のものです。このシナゴーグを始め、家々や町の跡も残っています。遺跡は、かなり黒い玄武岩のもの、この地域には火山から生じる玄武岩のものが多く存在します。そしてコラジンは、湖畔よりも高い所になっていますが、「コラジン・ブロック」と呼ばれています。というのは、ヨルダン渓谷がガリラヤ湖のほうにつながっているはずのところ、それを遮るように盛り上がっているからです。こちらの写真を見てください。2,3の部分で遮っていますね。これによって北部に、フーラー湖が生じたのではないか?と言われているそうです。
右上の地図から説明します。Entranceから入ると、①のところにミクバ(浸礼漕)があります。それに隣接してアーチのある家の跡があります。進んでいくと、②のところです家々が所狭しと並んでいた跡があり、その真ん中を南北に道が走っています。(下の写真をクリックすると拡大します。)やや左の手前にある少し開いた小道が、その道路です。すごく小さいですね。
そして右には④のシナゴーグの跡が既に見えます。この地図を上空写真で見るととても分かり易いです、右下がEntranceになっています。私たちは③と④に歩いて行きました。
シナゴーグの前にある広場の写真です。
手前にある三角形のものは、門の上にあったものです、その装飾はこちらの写真になります。門は三つあったのですが、復元されたのは、左のと中央のしかありません。復元図はこちらの写真になります。そしてそこから入ると、左奥に五本の柱があって、それは長方形のシナゴーグ中央部分の柱24本のうちの5本になります。この中に入って、恭仁子さんが詳しく説明してくださいました。
そして最後に出てきた「モーセの座」でありますが、これは権威を表す座です。入口の中央の門のすぐ横にあったのですが、その門は南に面しており、エルサレムに向いています。シナゴーグの典型的な作りですが、そこでモーセの座があることで、その権威の座に人ががいることによって、かえって神の栄光を遮ってしまうことさえあるのです。イエス様は、このことを「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。(マタイ23:1)」と呼ばれているのです。う~ん、気をつけないと自分が神の栄光を遮ってしまうことがあるということですね。ここに、旅行仲間が座っている中で、メッセージしました。
このモーセの座の復元図もあります(6の部分)。う~ん、確かに栄光を遮りそうですね。
そしてシナゴーグの左側(西側)から、そして先ほどの③の広場に行き、そこから②の居住区を眺めます。
そしてEntranceのほうに戻ります。居住区の真ん中にシナゴーグがあると、確実にユダヤ人の町だとのこと。油絞りの場所が出てくるとさらにその確証があるとのこと。
そこで先ほどのミクベとアーチの跡を眺めます。これもユダヤ人の町の確証の一つです。
最後に、Entranceを出た所に、聖書にも出て来る「岩だぬき」君がひょこっと座っていました。(写真)
コラジンから八福の教会へ(グーグル地図)
6.山上の垂訓教会
(2013年の旅、2008年の旅、ウィキペディア、Biblewalks.com)
ここは、伝統的にカトリックが山上の垂訓が起こったとして、教会を建てたところです。ゲネサレ平野とカペナウムの中間にあり、その山腹にあります。タビハから近く、というか、ここをタビハの一部と考える見方もあります。しかし、「山腹」と言っても海抜ではマイナス58㍍であり、湖面からは155㍍という丘であります。他に可能性として、アルベル山やハッティンの角があります。
ここは日本語では「山上の垂訓教会」と呼びますが、本当は「八福教会(Church of hte Beatitudes)」と呼びます。教会内部に入ると、八角形の教会堂になっていて、それぞれにイエス様の「幸いです」の言葉があります。けれども、その教会を見るために来たのではなく、この山(丘陵)の部分からその周辺を見て、またイエス様の山上の垂訓の言葉を思い起こすためであります。私は、1999年や2008年でデービッド・ホーキング氏が話してくださったことが、深く心に入ってずっと残っています。
初めに、カペナウムを見てみました。イエス様の宣教の拠点です。そしてカメラを右(西)に動かすと、ゲネサレ平野があります。
そしてゲネサレ平野とアルベル山です。二つの岬の間がゲネサレの船着き場です、岬の先がマグダラです。
恭仁子さんは、山上の説教は何度もイエスは語られたと言われていますが、ルカにもありますし、類似した教えがありますから、その通りでしょう。そして山から降りた(ヨハネ)、山へ登った(マタイとルカ)と違うが、山へ登ったをとってこちらにしたと言われています。そして、これが四千人のパンのところである場が有力だと言っています。ちなみに五千人は、明日訪れる「テル・ハダル」がその可能性のある場所です。ここでメッセージをしました。
山上の垂訓については、何度も学んでみたいです。教会でも山上の垂訓シリーズを行なっています。(2018年4月に行ったトルコ・ギリシア旅行の団長ジェイ・マカール牧師が、この場所で山上の垂訓の話をしてくださっているビデオを見つけました。イエス様の隣人愛への激しさをよく説明してくださっています。そして、ぶつぶつの格言ではなく、話がつながっていることが良く分かります。
(同じメッセージをこちらでもしています。)
そしてこちらはアミールさんのガイドと説教。イエス様の声が何千人もの人に響く地形だから、という説明。いろいろな人の説明を聞くと、とてもいいですね。
そして、今まで入ったことがなかったのですが、初めて教会堂の中を眺めました。
この後、バスに乗ろうとすると、恭仁子さんが何かを持っています・・、やばい、いつものことをしてしまいました。やたらに、「イスラエルのコーヒーは最高だ」「トルコ・コーヒーがうまい」と言い続けたので、私にトルコ・コーヒーを買ってもってきてくださったのです・・。(恥)でも、おいしかったです!
山上の垂訓教会からカペナウムへ(グーグル地図)
7.カペナウム
(2013年の旅、2010年の旅、2008年の旅、フランシスコ会のサイト)
今日の最後の訪問地、カペナウムです。そして、こここそが、イエス様の宣教の本拠地であります(マタイ4:12‐13、9:1、ルカ4:23)。だから、本当にたくさんの事が起こりました。カペナウムは、新共同訳ではヘブル語に近い「カファルナウム」を使っていますが、「ナホムの村」という意味で、ナホムはあの預言者の名前と同じで、「慰め」の意味です。紀元前二世紀に町が建設されました。ヘロデ・アンティパスがローマ兵の駐屯地を作っていますが、そのため会堂を建てた百人隊長の姿があります(ルカ7:1‐10)。そこはヴィア・マリス(海沿いの道)沿いにあったので、収税所もありイエスが取税人マタイを弟子に呼ばれました。
イエス様が、カナの婚礼の後にすぐにここに来られました(ヨハネ2:12)。ペテロとアンデレの家があり(マルコ1:29)、イエス様はペテロの姑を癒されました(マルコ1:30‐31)。会堂に入られ、悪霊追い出しもしておられます(マタイ8:14‐15)。屋根から降ろされた中風の人の癒しも行われました(マルコ2:1‐12)。カナの王室の役人は、カペナウムから来ています(ヨハネ4:46)。タブハ辺りの五千人の給食の奇蹟の後に、カペナウムでいのちのパンについての説教を行なわれました(ヨハネ6:16以降)。そして、あの魚の口に硬貨があったという奇蹟もここで起こっています。そして、イエス様が十字架の道を歩まれることを知らせた後、弟子たちは誰が偉大かと論争していましたが、それもカペナウムです(マルコ9:33‐37)。そして、コラジンで見たように、ベツサイダと並んでイエス様が裁きを宣言されました。
カペナウムがどのようにして、イエス様の宣教の本拠地になったのか?その背景については、2013年の旅、2010年の旅、2008年の旅でそれぞれ話しているので、参照してみてください。それから、アミールさんのカペナウムについての説明を聞くと、面白いと思います。
ここに遺っている遺跡は、主に四つです。①イエス様の当時の会堂の上に建てられている五世紀の会堂。②住居の跡。③ペテロの家の跡。④会堂の装飾物。2013年の旅は、何か改装工事をしている感じでしたが、中庭がずいぶんときれいになっていました。
初めに、会堂の中に入ります。(会堂の説明と復元図)
シナゴーグの中です。ここに、先ほど話していたハートマークの柱があります。石灰石はミグダルから出ないと無かったので、そちらから運んできたとのこと。裕福なシナゴーグであることが分かります。(全体の写真、もう一つの部屋の写真)
ここがイエス様のシナゴーグだと思ったところが、五世紀のものであることが分かりましたが、土台の玄武岩のものが当時の、イエス様の頃のシナゴーグである可能性が大きいです。
ところで、このシナゴーグの復元図はいろいろ試みられています。ネットで探してみると、エルサレムの神殿についての考古学で有名な人が、カペナウムの会堂でも復元しているのが良かったです。イエス様の時代の当時のものと、五世紀のものと、どちらも復元しています。
そして五世紀のもの、つまり今、見てきたものですが、次の通りです。
今の上空からの遺跡の写真をみると分かり易いでしょう。
そして、今まで気づかなかったのは、ずっと向こうにある玄武岩の壁はあとで、フランシスコ会の敷地と正教会の敷地を仕切るものであり、もっと先にも遺跡が続いているとのこと、つまりカペナウムはもっと大きい港町であることが分かります。(正教会との仕切りの壁方面の住居跡、会堂からペテロの家の間にある住居跡、)
シナゴーグから出ると、シナゴーグにあった装飾の跡が展示されています。メノラ、角笛、神の箱など、神殿が破壊されてもそれでも神殿を求めていたことが良く分かります。(メノラ、神の箱、ぶどうやざくろ、ダビデの星)
ペテロの家です。(写真、教会の上からの写真)
フランシスコ会のサイトには、復元図があります。
そして最後に、知らなかったのですが、岸辺のところまで行けるところがありました。(全体の写真、湖岸から遠くにアルベル山)そこから、メッセージをしました。
最後は、東へ旋回
カペナウムから、キブツ・キネレットへ(グーグル地図)
カペナウムから、ホテルは西側、時計反対周りがずっと近いのですが、南にあるキブツ経営のドライフルーツのお店でのお買い物もあるということで、東側からの旋回で帰りました。その途中、ガムラ(1999年旅行)の方面を眺めています。
ガリラヤ湖の南に行きますと、いくつかのキブツが出てきます。まず、2010年の旅で宿泊したホテルのある、キブツ・マーガン(2010年の旅で訪問)、そしてイスラエルの最初のキブツ、1910年に始まったデガニアが出てきます(キブツのウェブサイト)。
そしてガリラヤ湖から再びヨルダン川が始まるところを通り(2010年の旅)、そして、ヨルダン川でのバプテスマ場のあるヤルデニットがあります(2008年の旅)。実は、ヤーデニットはここは牧者チャック・スミスによってはじめられたところで、イスラエルを祝福したいという思いから始めたそうです。でも名前も、わずかに庭に植木があるのみです。私は、2013年の計画を立てた時に、既に死海のすぐ北に、イエス様がバプテスマを受けられた所にもっと近いカスル・エル・ヤフドが、一般公開されたのを知って、ヤルデニットは行かなくてよいと思いました。
そして、そのヤルデニットの少し先に、キブツ・キネレットがあり、そのキブツ経営のデーツを中心にした自然食品店があります。Tamar Kinneretと言います、2013年の旅にも多くの人が行きましたが、私はホテルで休んでいました。でも、すごく良質なドライ・フルーツや香辛料を買って来たので、今回は全員で買い物をしようと決めました。(お店の様子のユーチューブ動画)
Tamar Kinneretからティベリア、そしてホテル(グーグル地図)
そして次は、(記憶が定かではありませんが)ティベリアにあるGalilee Experienceで買い物をしました。ここは、メシアニックの方々が経営するお店です。もう夜も遅かったので、私たちしかいない感じで、ちょっと客の入りがないのかな?と心配しました。私は、死海クリームを購入しましたが、AHAVAは高かった、それでEdomというブランドのものを買いました。そしてその街角にある小さなスーパーのお買い物の選択肢も与えて、それでホテルに戻ったのだと思います。
ホテルで、分かち合いの時
明日は、ついに最後の日です。ガリラヤ湖の東側を見てから、南下、下ガリラヤの各地を訪問し、ヨルダンに越境します。ここで、現地集合でいらしたご夫妻は翌朝でお別れ、一人の兄弟とはヨルダン越境直前でお別れです。そこで、ホテルの一室を借りて、最後の分かち合いの時を持ちました。印象に残っているのは、その旅行中にある方の日本の実家のほうで、大変な大きな事故が起こっていたニュースを聞いたことです。ああ、旅行においても、こうやって信仰や心が試されることがあるのだ、神はそれを許されているのだと思いました。そして皆さんに、イスラエル観光省からの巡礼旅行者への賞状をお渡ししました。