2022年イスラエル・トルコ旅行記 11月14日その1 スミルナ

1.トルコの国と歴史
2.スミルナのアゴラ遺跡
3.ペルガモンのアクロポリス


 羽田空港から現地に着くまで、計17時間ぐらいの旅でしたが、心は晴れやかでした。3年半ぶりに、トルコのエーゲ海沿いの空気を吸うことができました。しかも、良い天気に恵まれ、実に旅の終わりまでほとんど雨に降られることはありませんでした。サリーさんによると、これは非常に珍しいことで、大抵、11月は雨天なのだそうです。天気予報では、トルコを旅発つ11月18日に、ちょうど雨天になるということで、まるで、主が私たちが行くすべてのところを、紅海が分かれるごとく、晴天にしてくださったような気がしました。

 心が晴れやかなのは、良い天候だけではありません。前回、二回の旅で与えらえていた強い思いと願いが、かなえらえる瞬間でした。日本人の兄弟姉妹に、思う存分、七つの教会のあった町々の遺跡を満喫していただきたい。そこで、日本という地で信仰する励ましとなってほしい。ここにかつておられた、信仰の先輩たちとつながってほしい。そしてパウロやヨハネなど、使徒たちの宣教に触れてほしい、などなど。この情熱が自分の原動力となっていたので、それが始動する瞬間でした。

1.トルコの国と歴史
 (2018年の旅

イズミール空港からスミルナ遺跡まで(グーグル地図

 上のグーグル地図を見ていただければお分かりのように、アドナン・メンデレス空港から、スミルナのアゴラ遺跡までは、車で北上し、大体40分かかります。今のイズミール市内の中心部に、アゴラ遺跡があります。アジアの七つの教会はエペソから始まりますから、エペソから始めるのが無難だと思われるかもしれませんが、そうではありません。

 スミルナが今のイズミール(トルコ語)であり、イズミールはトルコで第三の大きさを持つ都市で、西トルコ(かつてのアジア)を巡るには、ここが玄関口だからです。そして順番に巡ろうとすれば、まずスミルナから始めて、そしてペルガモン→ティアティラ・・と巡ったほうが効率がいいです。地図を見ての通り、黙示録が回覧されたのも、おそらくこの、時計回りの順番だったのでしょう。次に、エペソは何といっても、アジア最大の都市で、遺跡も世界遺産級のものであり、すべての訪問地のクライマックス的存在です。そして、使徒の働きや手紙にも出てくる、黙示録以外の要素も多分に含まれます。最後に一番良いものを取っておいたほうが、いいですね。
 そこで早速、スミルナの訪問を記録したいところですが、まず、大前提となる、トルコ(アナトリア半島)の歴史を、大まかなものを把握する必要があります。トルコも、次のイスラエルも、二つの文明に挟まれた地域にあります。

 イスラエルの場合は、南はエジプト、北はメソポタミアであり、サンドウィッチの二つのパンにはさまれているようなイメージで、そのために周辺の諸国から攻められたりして、全く異なる人々がその地を征服、支配していたという歴史があります。その中で、主がアブラハムの子ら、イスラエルにご自分のみに拠り頼むことを教えられました。

 左の写真は、2010年にカイサリアを訪問した時に撮ったものですが、イスラエルの地を象徴しています。埠頭に寿司レストランがありますが、下から上へ、ローマ・ビザンチン時代→イスラム→十字軍となって、そして一番上に現代イスラエルの建物があるわけです。昔のものから今のものが、下から上に積み重なっているイメージです。

 トルコの場合は、東西文明の交差点と呼ばれています。アナトリア半島と呼ばれますが、その意味は「日出る」という意味で、ローマから見ての東方であり、アジアです。そして西方はヨーロッパであります。イスタンブールに行けば、ボスポラス海峡を挟んで、ヨーロッパとアジアがあり、日常の会話の中で「今日はアジアに行ってきた」「ヨーロッパに行ってきた」という言葉が出てくるほどです。イスタンブールの国際空港が世界最大級のハブになっていることも、いかに交差点になっているかを物語っています。

 古来から東方オリエントの王国が台頭し、それから紀元前4世紀ごろから西方の勢力が台頭し、しばらく長い間、西方の勢力が留まっていたけれども、中世になって再び東方の勢いが強くなり、最終的に、東方のトルコ系の人々がここに留まった、という感じです。このように、東から西、西から東へと、片方が引っ込んでもう片方が横滑りに入り込んで、とっかえひっかえ立ち替わっていくというイメージです。

 10分間で、古代から現代のトルコ共和国までの解説をしている動画があります。


 初めに、紀元前20世紀にオリエントのヒッタイト帝国が台頭しました。そうです、イスラエルのカナン人が住んでいた時にすでにいた、ヒッタイト(ヘテ)人です。ここアナトリアに、ヒッタイト帝国があり、その延長でカナンの地にもいました。それから、はるか東から前6世紀にペルシア帝国が台頭し、この全域を支配しました。ペルシアも、聖書に出てくる国ですね。キュロス王とか、クセルクセス王とか。

 けれども、西方にはギリシア人がいます。彼らは古代から、エーゲ海沿いに小さな植民都市を作っていました。イオニア人です。ペルシア帝国は、さらに西方に遠征し、ギリシアの諸々の都市国家と戦いを挑みます。このことは、エステル記の1章と2章の間、クセルクセス王が遠征に来ました。そしてダニエル書8章には、雄羊と雄牛ががちんこしますが、それがペルシアとギリシアのアレクサンドロス王の戦いであり、一気にギリシアが東方世界や、南はエジプトまで勢力を広げます。ギリシア帝国、ヘレニズム(ギリシアの世界化)の始まりです。アナトリアは、ギリシアの「北の王」(ダニエル11章)である、セレウコス朝の中に入ります。

 それからギリシアより西方のローマが台頭します。そして、新約聖書時代に入るのです。ローマのアジア属州として編入されるので、それで「アジア」と聖書では呼ばれているのです。そこから、長い長い、ローマ帝国の支配が始まります。コンスタンティヌス帝が今のイスタンブール、当時はビザンティウムに遷都、そこをコンスタンティノープルと名付け、キリスト教化したローマ、ビザンチン帝国の始まりです。イスラエルに行けば、これらの時代の遺跡があるのですが、トルコのほうに中心があって、イスラエルがいかにそこが辺境の地であったかを知ることになります。

 ローマは五世紀には東西分裂、ここは東ローマ帝国の領域になります。「ローマ」といっても、イタリアのローマから切り離されたため、ギリシア語が主要な言語となり、ギリシア色が強くなりました。これが一千年紀以上、1453年のオスマン軍による首都陥落まで、続いていたのです。


 そして東方の勢力が台頭します。今のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在していたイスラム王朝である、セルジューク朝がここに紀元後11世紀頃に進出してきます。民族的にはテュルク系です。中央アジアの人々です。東には、ウイグル人がそれであり、西はトルコ人です。そして、同じくイスラム教で、中央アジアから出たオスマン家が勢力を伸ばし、ビザンチン帝国の首都を陥落せしめ、1453年から1922年まで続いた「オスマン帝国」を確立します。これが、今のトルコ人の国の先駆けです。日本で言うならば、今の日本国が江戸の徳川幕府がその基を築き、明治維新で近代化されたという感じで受け止めると分かりやすいでしょう。

 近代に入って、帝国は衰退し、西方の欧米列強が台頭し、第一次世界大戦で独側に付いて敗北し、解体されました。しかし、ここでムスタファ・ケマル・アタテュルクが独立戦争を展開し、1923年に共和制を宣言しました。今のトルコ共和国の誕生です。アタテュルクは、

 スミルナ遺跡を案内するサリーさんも話していますが、「我々トルコ人がここにいるのは、つい最近の話。いろいろな人たちがやって来たし、宗教もいろいろ」ということなのです。トルコというと、トルコ人でイスラム教の国というイメージが強いため、キリスト者たちには魅力的に見えないのですが、実はそれは表面だけの姿なのです。トルコについての書籍には、「イスラム教のトルコは、いわば、たまねぎの茶色い皮で、その下の何重層もの白い皮は、「ローマ」」とあります!そこで今の遺跡の大半は、ギリシア・ローマ時代のものが遺ったものです。その次に目立っているのが、ビザンチン時代のもので、教会堂が遺っています。

 遺跡がローマ時代のものが多いというのは、私たち聖書信仰を持っている者たちには、これ幸いなのです。新約聖書の時代の背景を遺跡で確認できる、ということです。福音宣教がこれだけトルコの地で進んだもう一つの背景は、「離散ユダヤ人」の存在です。アッシリア捕囚、バビロン捕囚によって離散したユダヤ人は、エルサレムに帰還した人々は一部のみで、そのまま居留まった人々が多く、ギリシア時代に数多くこの地域に移住して、社会的な地位も築いていたということが大事です。今、アメリカにユダヤ人が多いですが、それでも2.4%。当時のトルコには10%以上いたのですから驚きです。パウロも、福音はまずユダヤ人に宣べ伝えられると信じ、新しいところに行けばユダヤ教会堂で伝道していました。それが、「イスラエルは教会の誕生地だが、トルコがその揺り籠だ」と言われる所以です。
 
 これが大体の背景です。2018年の旅行記には、詳しく、具体的にトルコの歴史を辿っています。聖書とのつながりも説明しています。旅行参加者のみなさんには、準備勉強会で、ここの部分をしっかりと学びました。

1.トルコの国と歴史


ギリシア・ローマ遺跡に出てくる「二つの言葉」

 それからもう一つ、スミルナ訪問の前に、訪問の遺跡全般に出てくる、二つの重要な言葉があります。一つは「アゴラ」です。「広場」という意味ですが、ギリシア時代からの公共空間のことです。人々が集まることから、市場がそこに発達しましたが、商取引だけでなく、政治や文化的なことも、行われていた空間です。エペソに行くと、文化的なアゴラと、商業アゴラのどちらもがあります。そしてアゴラには隣接して、ビーマ(裁判官の座)もありました。ピリピでパウロとシラスが鞭うたれましたが、それは、ビーマの前であるだけでなく、目の前に大きなアゴラが広がっていました。

 そしてもう一つ、「アクロポリス」があります。「高い所にある城市」であります。丘や山の上に城や神殿を造ります。平時は、人々がここに神殿に参拝に来て、有事の際は、麓にいる人々が避難しにきます。宗教的、軍事的な中角を成していました。スミルナに行けば、すぐにこの二つの言葉が出てきます。私たちが向かっているのは「アゴラ」の遺跡でありますが、その遺跡から眺めると、背後にパゴス山というのが見えますが、そこがスミルナの「アクロポリス」でした。


2.スミルナのアゴラ遺跡
2018年の旅2019年の旅Smyrna Agorashi

 スミルナの町については、2018年の旅にある「町の歴史とイエス様の言葉」を、ぜひ読んでください。その町の特徴を知ることは、主の教会に対する言葉の理解の助けになります。

 ここがアジア有数の、エーゲ海の,自然の港を有する町であること。旧スミルナの町があったけれども、リュディア王国によって滅ぼされたこと。今もその遺跡があり、アテナ神殿跡を見られます。そして、ギリシアのアレクサンドロス大王が、今のスミルナに町を移したこと。カディフェカレ城塞跡のあるところがパゴス山であり、そこにアクロポリスを建てました。そしてローマ時代に非常に栄えます。アクロポリスの手前(西側)に、劇場と競技場がありました。そして、商業アゴラではなく、主に、行政的、文化的な目的としてのアゴラが中心部にあります。178年の大地震の後に、マルクス・アウレリウス帝の再建したものが、今、見ることのできる遺跡です。

 この位置関係を知ることはとても大切でしょう。今、見える遺跡が当時のスミルナではなく、あくまでもアゴラでしかありません。まずは次の地図を見てください。


 真ん中にあるAgoraがアゴラのことです。西にMount Pagos(パゴス山)がありますね。パゴス山から港(Ancient Port)に向かって、半円形劇場(Theater)、アゴラがあります。アゴラの南には競技場(Stadium)がありますね。劇場の遺跡は最近、発掘が盛んですが、競技場はほとんどすべてのものが地中に埋まっています。競技場では国の行事や宗教行事が執り行われていました。剣闘士の戦いも盛んでした。それら宗教行事の中で、155年に、スミルナの教会の主教であった聖ポルカリュポスが連れ出され、イエスへの信仰を棄て、皇帝を拝むように言い渡されましたが拒み、火あぶりの刑になりました。また、この地図にはありませんが、現代もアゴラか港の間に、シナゴーグがあります。彼らが、キリスト者たち中傷して、それでキリスト者が迫害を受け、貧しくなり、牢に入れられました。

 アクロポリスであったパゴス山から、手前に競技場、そしてアゴラ、港まで眺めた時の復元図が次です。港の手前に正方形の広場がありますね、そこがアゴラです。


現在の写真

 写真中央部分から、少し右にビルがありますが、その手前に緑の部分が見えると思います。そこがアゴラ遺跡です。(拡大写真)比べてみると、古代のスミルナの湾曲になっている港の部分は、今は埋め立てられていますね。

 スミルナにはこれで三回目の訪問になりますが、実はアゴラの遺跡に入るのは初めてです。2018年の旅では、「聖ポリュカルポス教会」への訪問で、2019年の旅では、もう閉門時間になっていて、外から眺めるだけだったのです。今回、初めて中に入り、やはり、スケールの大きさに圧倒されました。どんなに映像や写真で眺めても、現場に自分がいることによって得られる肌感覚や、均衡、空気感に取って替えられるものではないと思います。そこにいることによって、主が語ってくださるのです。

 

バシリカから入る

 入口は、北側からになります。バシリカがあります。パゴス山から港に向かう下り斜面になっているので、北側のほうが勾配が低く、地下から入るようになっています。見事な、アーチによる地下道ですね。サリーさんが、「教会」と言っていますが、スミルナ遺跡の公式サイトでは、元々の意味の「バシリカ」、つまり、古代ローマで法廷や商取引など公的集会に用いられた公共建築です。その建築様式を教会が後に採用したので、バシリカ式の教会堂をそのままバシリカと呼んでいます。けれども、ここはビザンチン時代のものではなく、その前のローマ時代の建築物です。(こちらに復元図が、また復元動画もあります。地下のアーチがあり、その上が二階建ての列柱廊の建物になっているのが分かるでしょう。

 しょっぱなから、デタ―!という感じです。旅行記を書く時の醍醐味というか、チャレンジはここにあります。つまり、ガイドさんや専門の人たちの間でさえ、言っていることがまるで違うことが、しばしばあるんです。初めは混乱しますが、探求を続けられるので面白いと感じています。

 スミルナのアゴラ遺跡のもう一つの特徴は、地下に流れている水路です。パゴラ山などから町の中に導入しているものです。今も昔と変わりなく流れているんですね。(旅行仲間の写真)そしてバシリカの地下には、が立っていたいました。両側に72の小さな区画が見つかっており、骨、ガラス、陶片などの問屋街になっていたようです。(写真

 そこの一部に、私たちは見ることは今回できませんでしたが、グラフィティ(落書き)が数多く残っている部分があります。(動画)その落書きは、競技や謎かけ、目の解剖図など多岐に渡り、当時の平均的なスミルナの人々の生活を眺める非常に貴重なものになっています。その中で、私たちにとってかけがえのない落書きは、一部はキリスト者によるものだということです。(記事)例えば、「御霊をくださった方」というギリシア語の文字が見つかっています。イエス様のことです。また、クロスワードパズルなのだそうですが、そこに「ロゴス」の文字が見えるとのこと。(記事)このようにして、迫害下にあるので、暗号のようにして、分からないようにして意思伝達していたと考えられます。わずかですが、迫害下のキリスト者の残したものを見ることができる、ということです。


 Graffiti from the Basilica in the Agora of Smyrnaという本にその説明があるそうですが、くやしい、確か入口にあった売店で、この本売っていたでしょうね、アマゾンで買うものなら1万円はしますね。当地ではもっと安かったでしょう。

地上の広場へ

 バシリカの地下から上がると(04:15~)、大きな広場に出てきます。大きな列柱が並んでいますが、こちらは西側のストア(列柱廊の建物、ポーチコとも呼ばれる)です。(説明の看板)その地下は、先ほどと同じくアーチが並んでいる地下になっています。(写真

 広場(アゴラ)は、エペソには文化社会的な、公共アゴラと商業アゴラの二つがありますが、スミルナは一つしかないとの説明です。けれども、商業アゴラがまだ見つかっていないだけで、もう一つあっただろうという情報も見つけました。エペソとスミルナは、今の発掘された遺跡では圧倒的にエペソが大きいですが、スミルナは多くが現代の町に埋まっているので、当時は、競合していたぐらいスミルナも大きかったのではないか?と思われます。

 サリーさんは、この列柱について詳しく説明してくださっています。よく地震が起こるので、倒れていたのを修復していて、大理石の土台は大理石、柱自体は花崗岩。そして柱頭がコリント式といっていますね。(仲間が撮ったコリント式の柱頭)ギリシア・ローマの建築様式として、アカンサスの葉の飾りがあるのがコリント式で、渦巻の飾りがついているのがイオニア式、そして最も簡素なのがドーリア式ですね。(三つの様式の図解

 そして地上に上がってきたので、アクロポリスのあったパゴス山も見えました(08:20)!トルコ国旗のあるところです。そして港のほうまで指していますね。アゴラは中心部ということだけで、この一帯ずべてが当時のスミルナです。アゴラの説明ですが、朝起きてここに人々が出てきましたが、いわばSNSの世界ですね、人々が情報交換をここでするのです。

 そして南側のほうに来ましたら、11:40ぐらいから右上のところに門があることを指摘していますね。これは、ファウスティナ門と言いまして、港からアゴラへのファウスティナ通りの門になります。アーチ門の中央にはアントニヌス・ピウス帝の長女ファウスティナの顔が刻まれています。アゴラ全体の説明の看板があったので、説明してくださっています。こちらの看板は、ギリシア時代のアゴラの説明です。こちらの看板は、アゴラから発掘された備品の説明と、アゴラ全体の図もあります(クリックすると拡大することができます)。

 私たちは北側のバシリカの地下道を通って来まして、それから上の四角いアゴラの左上(北西)の角の部分から地上に上がりました。そして、西のストアに沿って歩き、今、アゴラの左下(南西)の部分にいます。当時はここは、今、話したように下のファウスティナ通りの一部になっていて、ファウスティナ門がFAUSTINA KAPISIとトルコで書かれています。その向かいにあるのが、これらの看板です。

 ところで西のストアのさらに西に隣接している建物の跡も発掘されていますが、ここは市議会だったそうです。モザイク画が床にあります。今は、屋根で覆われているのですが、モザイクを守るためですね。動画では、私は市議会をチャペルと呼びましたが、間違いでした。(汗)そしてその市議会の左上(北西)にあるのはローマ風呂です。つまりは、初代教会のキリスト者たちの生きていた時代で、黙示録2章のスミルナの教会の人たちが観ていた光景であります。

 つまり、迫害されている彼らと同じような風景を見て、私たちは、これからみことばを聞きます。左右の獅子の彫刻に囲まれたところで話しましたが、サリーさんによると、ここで外部から守られなければいけない大事な部分だからなのだそうです。


 これから七つの教会を見ていく時に、以下の点は多かれ少なかれ共通しています。そして、これら一つ一つが、日本に生きているキリスト者に直接、慰めになる状況です。

1.多くが、ローマの中で繁栄した町 (日本の多くの都市も繁栄)
2.偶像礼拝が多い (儀式に参加しないと、仲間外れにされた)
3.国民統合のための皇帝礼拝(年に一度、「カイサルは主」という儀式)
  「イエスは主」とするキリスト者は、疎外され、迫害された。
4.同じ一神教のユダヤ人が、ローマからの迫害を恐れて除外
  村八分など
→ その中で、イエスの名を否まず、主の到来による約束があった。 

 それから、もう一つ、黙示録におけるイエス様の言葉で、知っていくべき大きな原則は、「聞いている人々にとっては、とても分かりやすく、身近」だったということです。今、読むと、何か暗示的で、比喩的で、奥に秘めた意味があるように聞こえるのですが、そこにいる人々が身近に思っていること、知っていることに合わせて、イエス様がお語りになっています。私たちが思っている以上に端的に語っておられるということです。スミルナであれば、リュディアによって滅びされたけれども、アレクサンドロスによってよみがえった町です。イエス様は、ご自身を死んだのによみがえった方として現れました。死にまで忠実になりなさいということですが、スミルナは死者の埋葬に使う「没薬」という意味です。

 「いのちの冠」とありますが、競技の勝利者に皇帝や総督が、月桂樹の冠を授ける姿は、ローマ社会ではありふれた光景でした。(冠を受けた勝者の銅像)特にスミルナでは、町の美しさを冠と喩えている作者たちがいますし、異教の神々にも献げる人たちも冠をかむっていました。また、スミルナで最も使用された硬貨にも、キュベレー(テュケー)の神と共に月桂樹の冠が登場します。

 ですから、そのまま受け取っていくことのできる、諸々の御言葉だったのです。ゆえに、「聞いている人々の背景を徹底的に知る」ことが必要になり、このような現地に赴く旅は、非常に有益なのです。

 カルバリーチャペル・ロゴス東京で、黙示録をじっくりと学んでいますが、スミルナについてはこちらをご覧ください。→ 原稿 ・ 音声 ・ 動画

 ところで、メッセージでお話ししましたように、ギリシアの神々の宮が多くありました。ゼウスの神に献げる祭壇がアゴラの中心にありました。そして、皇帝礼拝の色濃い町でありました。紀元後26年にティベリウス帝が、アジアの11の町から申し出があったなかで、スミルナを、アジア第二の皇帝礼拝の宮の管理者として選びました。皇帝の宮は、ペルガモンにもあるし、エペソにもあるのですが、スミルナでは発掘されていません。けれども、「スミルナ碑文」というものがあります。


 ギリシア語で、下の二行は「ネオコロス・セバストン(Neokoros Sebaston)」と書いてあります。これは称号であり、「ローマ皇帝の神殿の床を掃く人」という意味です。けれども、印象とは異なり、かなり栄誉な称号です。謙遜してそう呼んでいるのであって、皇帝の宮に資金的に多大な支援をしている人、あるいは町という意味合いがあります。エペソとペルガモンは競って、この地位を得ようとしていましたが、スミルナもその一つだったのです。イエスが主であると告白するキリスト者にとって、とてつもない圧力がかかっていたことを物語っています。

 そして殉教の歴史として、スミルナに関するものとして覚えておくべきは、「聖ポリュカルポスの殉教」です。同名の本があります。「私は86年間、主に仕えましたが、決して私に害を与えられませんでした。ならば、如何様にして私の王、私の救い主を冒瀆できますでしょうか。」そして、スミルナの他のクリスチャンでは、エウセビオスは「教会史」で、ゲルマニクスという青年が、異教の神々へ祭典で野獣に喰い殺されたと記録しています。

 そして、ピオニウスという人も殉教しています。「ピオニウスの殉教」という記録に、先ほど話した、アゴラ中央にあるゼウス祭壇のことが言及されています。他のキリスト者と共に、神殿でいけにえを献げることを拒んだために、このアゴラに引きずられて来られたことが記されています。そして皇帝礼拝も強要されていました。皇帝礼拝の祭司が、「神々に献げることができなければ、せめて皇帝にいけにえを献げなさい。」と言っています。彼らの頭の中では、いけにを献げなければ神々から来る罰(天災)があるが、生きた皇帝であればそのような災いは下すことはないから、という理屈です。

 それから、ポリュカリポスにしてもピオニウスにしても、その死刑執行にユダヤ人が積極的に加担していたことが記録されています。動画で説明しましたように、相当な数のユダヤ人がいて、彼らは皇帝礼拝を免じられていたのですが、キリスト者たちがだんだんユダヤ教の一部ではないことが分かって来て、ユダヤ教がイエスを信じる者と袂を別ったので、守りがなくなってしまったからです。これが、「サタンの会衆」とイエス様が言われた背景です。

 そして忘れてはいけないのは、この二人以外にも、長いこと初代教会の指導者が関わって行ったところでした。クレメンス一世イグナティオスが、スミルナの教会に手紙を書いています。エイレナイオスはスミルナで生まれました。そして驚くことに、オスマン帝国時代にも、イスラム教によって殉教した人々が大勢いるそうです。そして七つの教会の中で、唯一、今も礼拝を献げる教会(聖ポリュカルポス教会)が残っている町であります。

 この後、アゴラから出ますが、もちろん他にも、いろいろ見るものはあります。例えば、仲間が多く写真を撮っていたのは、オスマン時代の貯水槽のようです。それからキリスト教徒とイスラム教徒の墓石も多く見つかっていて、それゆえ、ここのアゴラに現代の町が立つことがなく、遺跡の発掘ができたとも言えるでしょう。

アゴラ以外の遺跡

 今回、訪問しませんでしたが、最近まで家屋の中に埋もれていた劇場が発掘されているとのことです。そしてすごいのが、アゴラ付近にエペソからつながるローマ街道の一部が、主要道路の横に残っているところがあるとのことです!ストリートビューを見ると、今現在、地元の人にも使われているような雰囲気ですね。でもものすごく貴重な遺跡ですね、黙示録の写しは、確実にこの街道を使ってスミルナに運ばれてきたはずだからです。


参考動画

 この記事を書くのに、非常に参考になった動画を三つご紹介します。

 イズミールの公式サイトであろう動画です


 スミルナ・アゴラのドキュメンタリーです。現地の専門家たちによる説明とCGによる復元アニメーションが出てきます


 そして日本語の動画があります。現地に赴いている牧師さんによる聖書遺跡のシリーズです。