2022年イスラエル・トルコ旅行記 11月14日その2 ペルガモン

1.トルコの国と歴史
2.スミルナのアゴラ遺跡
3.ペルガモンのアクロポリス



お薦めの書籍

 ちょっと話を、旅の準備に戻したいと思います。19年の旅に、旅に役に立った書籍を列挙しました。「地球の歩き方」はもちろんのこと、使徒の働きを辿る写真集や、「キリスト教のはじまり」という古代教会についての本もあります。けれども、すべてが訪問する町と遺跡を詳しく説明するものではなく、一般の背景を説明しているものです。

 そのような中で、ぴったりの本をご紹介します。トルコ現地に行くと、遺跡の売店にどこにも売っているものがあり、そのまま"Biblical Turkey"(聖書の中のトルコ)というものがあります。トルコにある遺跡や歴史と聖書との関わりを調べている人と言ったら、マーク・ウィルソン博士に並ぶ人はいないのではないか?と思います。(日本語訳もあります)

 そして、"Jesus Speaks to Seven of His Churches"(イエスは七つの教会に語る)という本にも出会いました。保守的な聖書信仰を持つ考古学者である、デービッド・グレイブズ博士によるものです。680頁という分厚いペーパーバックが米国のアマゾンから、数日前に届きました。読んでみたら、ものすごい情報量です。


ベルガマ市内のケバブ店で昼食

スミルナのアゴラ遺跡からレストラン"BABADAN LEZZETLER USTA İŞLERİ"まで(グーグル地図

 スミルナのアゴラを出発して、イズミール市内からも出て、北上しました。現地旅行社Topazのタンさんから、サリーさんに電話がありました。私もそこでお話しして、ようやく旅が出発して満足していることを伝えました。

 ところで、私にとって、以前の旅と大きく変わったのは、自分でスマホを手にしていることです。今回の旅で、いろんなことがスマホ一つでできました。カメラとビデオはもちろんのこと、聖書は紙のは持って来ましたが、旅の時は「聴くドラマ聖書」を開ければ事足りました。そして、何よりも聖書メッセージの時のノートも、スマホの中に入れておくことができます。それで、これまで、ビデオカメラと聖書と印刷した紙を持ち歩いていた私は、これでかなり軽量化でき、両手も空けて動くことができました。

 旅におけるもう一つのスマホの強力な機能は、GPSによる現在位置の把握です。バスが今、どの道を通っているかを、トルコでもイスラエルでもマップで細かく把握できました。グーグル・マップで前もって最短距離を調べていても、必ずしもそう走っていないことも、何度かありました。今回もそうでした。グーグル地図を見ていただくと分かりますように、海岸沿いではなく一度、内陸に入り、それから再び西に向かって北上していることが分かります。おそらく混雑を避けたのだと思います。

 サリーさんが、今のトルコについて、いろんなことを説明してくださいましたが、それでもたっぷり時間があります。そこで私は、みなさんにこの時間を使って、自己紹介と、この旅に参加することになったことを分かち合っていただきました。一人一人マイクを取って、話してくださいました。驚きの連続でした。一般的なことを言いますと、聖地旅行に行きたいと願うキリスト者は数多くいますが、実際に行くのとは別物です。時間がないというのが、もっとも大きな、断念しなければいけない理由です。旅費もかなり大きな金額ですから、気軽に行けるものではありません。しかし、このようにして今、参加できているのは、神の奇跡、恵みとしか言いようがない証しでありました。

 ちなみに、私の教会からは5人だけで、その他は、よく知っている人は数人、その他は知り合いになったばかりの人や、初めての人たちもいました。お話を聞けて、心の中の距離感が一気に縮まりました。

 ちょうど、最後の人が話している時に、昼食のレストランに到着です。ベルガマ市内にあります。ベルガマはペルガモンのトルコ語です。(ちなみに先ほどのイズミールも、スミルナのトルコ語です。)名前が"BABADAN LEZZETLER USTA İŞLERİ"、トルコ語で読めませんが、店主は2018年と2019年の旅でベルガマに来た方と、同じ方でした!確か、トルコ東部ヴァン出身だったと思います。彼の作るケバブは、その地方から来たものだということを聞いています。18年の時は、とても小さな庶民的なお店でした。経営も結構大変なことを聞きました。けれども、2019年にはとても大きなSağlam Restaurantというところの店主になっており、こちらにその時の動画も残っています。そして、今は、ここベルガマ市内にこんな大きなお店を構えています。

 欧米からの観光客団体も後からどっと来ました。繁盛しているようで、よかった~と思いました。挨拶した時に、前のガイドのディレクさんの名前を出したら、つながりが分かったようで、大きくうなずきました。日本人の団体を迎え入れたのは初めてのようですが、さすが商売魂ですね、一言、日本語を使って挨拶してくださったのを覚えています。

 食事は、独特な香料とケバブ風のお肉の入ったピザが前菜で、次にケバブが出てきました。覚えていた味と同じでした。(焼く前)そして、とっても甘いデザートでフィニッシュです。


 ところで、仲間の多くがトルココーヒーや紅茶を追加注文していましたが、トルコの旅で飲み物といったら、代表的なのはこの二つです。紅茶は、チャイと呼びます。インドのチャイではなく、トルコのチャイです。トルコ人は、トルココーヒーも飲みますが、日常的にはチャイを何杯も飲むそうです。紅茶の味とほとんど同じなのですが、作り方は特別なようです。そしてグラスも、必ずリンク先の写真のような形です。


3.ペルガモンのアクロポリス
2018年の旅2019年の旅Turkish Air&Travel世界遺産データベース
レストランからペルガモンのアクロポリスへ(グーグル地図

 ベルガモンの遺跡と言えば、何といってもアクロポリスです。けれども、スミルナと同じように、発掘されているところだけが当時の町ではなく、麓にもかなり広範囲に広がっています。その他に、医療の神アスクレピオスを祭った治療院である「アスクレピオン」の遺跡もあり、そこにも行こうと思いましたが、時間的にせわしくなり、また体力的にも難しいかな?と判断して、アクロポリスのみの訪問に決めました。

 下の、地球の歩き方から取って来た、現在のベルガマ市の地図をご覧ください。

(「地球の歩き方 E03」から)

 アクロポリスが右上にありますが、左下にはアスクレピオンがありますね。そして中央部分に「クズル・アウル」と書かれていますが、これは、「赤いバシリカ」とも呼ばれるセラピス神殿です。後で説明します。そして、こちらの地図を見るとわかりますが、アクロポリスとアスクレピオンの間に、円形競技場(10 Roman Amphitheatre)と、劇場(8 Roman Theatre)、そして競馬場(11 Stadium)ありますね。これらはわずかに遺構があるだけです。(アクロポリスから見た、競馬場、劇場、円形競技場の復元画)一般の人たちは、この麓にある下町に住んでいて、上町であるアクロポリスには貴族のような人たちが住んでいました。一般庶民は、参拝をしたり、敵の襲撃があった時にアクロポリスに上がって行ったのでしょう。

 アクロポリスが見えてきました。写真をとりたいと思いましたが、なかなか難しく、こちらのBibleplaces.comの写真をご紹介します、こんな感じで見えました。


 おそらく、共に旅行に行った仲間は、この写真を見てこんなに緑があるのか?と驚いたと思います。イスラエルもそうですが、地中海性の気候の地域は、乾季と雨季に分れていて、乾季にはこれらの緑が少なくなります。11月は雨季が始まったばかりで、ずっと乾いていた時にやって来たので、緑がなくなっていました。

 写真で一番目立つのは右下にある、劇場跡ですね。急斜面に馬蹄形のかたちをした観客席が並んでいます。そして次に目立つのが左上の白い建物の跡ですが、それがトラヤヌス神殿です。劇場跡の真上に中庭があり、アテナ(アテーナ)神殿の跡があります。その中庭の奥にペルガモン図書館の跡があります。劇場の下には、左右に列柱廊が走っていて、左端にディオニュソス(ディオニューソス)神殿の跡があります。

 上の写真と復元したCG動画を重ねると、よく分るでしょう、ご覧ください。




ペルガモンの歴史

1)ギリシアから出てきた王国

 歴史については、2018年の旅での説明も参考にされるとよいでしょう。スミルナと似ています。ダニエル書に預言されているように、異邦人の支配はバビロンからペルシア、ペルシアからギリシア、そしてローマへと移りました。ギリシアについては、人の像の青銅の下腹と太腿、そして、四つの頭をもった豹として現れ、また雄山羊として現れます。雄山羊は、大きな一本の角が折れて、四本の角に分れました。その一本の角とは、アレクサンドロス大王の世界征服のことを示していて、彼が若年で夭折した後に残された総督の間の争いを経て、四つの国に分割された形で成就しました。11章には、終わりの日の大きな戦の幻に、その四つのうちの北の王(シリアのセレウコス朝)と南の王(エジプトのプトレマイオス朝)の戦いの預言があります。

 ペルガモンは、その中の、セレウコス朝の始まりの時に生まれた王国です。トラキアの支配を得た総督リュシマコスの部下として、フィレタイロスが働いていましたが、総督セレウコス一世が攻めてきた時に、主人を裏切り、セレウコス朝の主権の下でペルガモンを統治しました。これがアッタロス朝ペルガモンの始まりです。ペルガモンにはリュシマコスの財宝があり、それをフィレタイロスが受け継ぎ、ペルガモンの繁栄のきっかけになりました。さらに、彼の甥エウメネス一世が王位を継承し、プトレマイオス朝と友好関係を結び、その力を梃子にしてセレウコス朝からの独立を果たしました。

 そして、アッタロス一世がその後を引き継ぎますが、「ガラテヤ人への手紙」のガラテヤ地方から、ガラティア人がたびたびペルガモン王国に侵入していたのを、ついに撃退し、それでゼウスの大祭壇を築き、ペルガモン博物館を設立しました。そしてエウメネス二世が王位を受け継ぐと、父のガラテヤ人撃退を記念して、アテナ(アテーナ)神殿を建てます。その門は、ゼウス大祭壇と共に、ベルリンのペルガモン博物館で見ることができます。また、この時に丘の急斜面にギリシア式の劇場を作っています。この時がペルガモン王国の最盛期だったでしょう。

 この時にはすでにローマが強くなっていました。つまり、ダニエルの幻の、人の像の青銅から鉄への移行、獣の豹から鉄の牙をもった獣への移行です。エウメネス二世との間では何かと対立が多かったのですが、息子アッタロス二世がローマに事が起こると報告するようになり、そのアッタロス三世は紀元前133年にローマに王国を委ねる遺書を残しました。この時からローマのアジア属州に編入されます。

2)ローマ統治下

 そして、ペルガモンはアジア属州の首府となります。しかし、アウグストュスが前30年に属州を再編成をし、エフェソス(エペソ)に首府を移しました。それ以来、行政の首都的機能は残っていたそうですが、首府はエフェソスになります。それから、ペルガモンはアウグストュスに敬意を表した神殿を建てていますが、その遺跡は残っていません(アクロポリスの麓にあったと言われています)。

 そして、紀元後17年、つまり私たちの主がイスラエルにおられた時、ティベリウス帝の治世に大地震が起こって、アジア州の町々が崩壊しました。その後の再建において皇帝礼拝への傾向を強めます。ついに、第二の皇帝の宮を建てることが許されました。それが、トラヤヌス帝(98-117年)を祭る神殿です。スミルナ訪問の時にも説明しましたが、エフェソスやスミルナなどと競争して、何とかしてネオコロス(皇帝の神殿に仕える栄誉)の資格を得るため粘り強く運動して、神殿建設の許可を皇帝からいただいたのでした。信仰というよりも、町の威信をかけて、という感じでしょうね。神殿の完成を待たずしてトラヤヌス帝は逝去しましたが、後継のハドリアヌス帝が建設に理解を示し、完成しました。この時のペルガモンの人口は、20万人とも言われています。

 その他、ペルガモン王国時代から建てられていた、アスクレピオン、ディオニュソス神殿なども、1-2世紀の間に改築、拡張がされています。マルクス・アウレリウス帝(161-180年)の時には、疫病がペルガモンを打ち、それで「偉大なるゼウスさま、アスクレピウスの町を破壊する伝染病を追い出してください。」と書かれた碑文があります。また、ゼウスアテナディオニュソスアスクレピオスを守り本尊として、疫病から我々を守ってくれることを求める神託も、見つかっています。

 このような形で、ローマの娯楽や繁栄と共に、無病息災からの守りのために必死になって神々の宮を建てていき、熱心に仕えました。それでアクロポリスは偶像の神々だらけになりました。また、町の威光、誇りのために皇帝礼拝も盛んだったのです。その中で、福音がこの町にまで届き、神々を拝まず、また皇帝をも拝まない新種の人々が現れたということで、この異物は何とかしないといけないと思ったことでしょう。こんな者たちがいては、神々が怒って罰が当たる。皇帝への不敬だ、ということで。しかし、キリスト者としては、キリストこそが救い主、主、神の子であられ、病も災いもこの方の支配の中にあると信じていたわけですから、この方の愛に支えられていきていました。全く異なる世界が衝突が、キリスト者に対する迫害という形で現れたのでしょう。

アクロポリスを巡回

 私たちはまず、ロープウェイに乗ります。かなりの急勾配のところで、風も吹いて結構ケーブルカーが揺れました。先に話したように、春に来ますと緑一面になりますが、そのことを同乗した仲間に話すと驚いていました。はげ山のように薄茶色になっているからです。そして奥の方に、ケステル・ダムも見えました。2018年の旅では背後まで歩いて、近くから見下ろすことができましたが、とてもきれいな光景です。ロープウェイを降りると、どんどんベルガマ市内全域を眺めることのできる、すばらしい遠景が見えます。

 ここからの道筋は、上の地図を見てくださってもいいですし、こちらのGoogle Earthからの3D画像をご覧になってもよいでしょう。


 私たちはこれからAkropolisと表示されているところから左上(北西)へまっすぐに歩いて行き、赤い屋根と木々の見えるところに動きます。そこの先がトラヤヌス神殿跡です。それから、さらに奥まで行ってから、戻って来てトラヤヌス神殿の前方にある、四角い穴が並んでいるところ(アーチ状の地下道)を通り抜け、そして、劇場の上(西)にある大きな中庭に来ます。そこにアテーナ神殿と図書館の跡があります。そこでメッセージをして、元に戻ります。そして、行きたい人だけで、坂を下りてから進行方向に右折し、緑の木々が見えるところにあるゼウス大神殿の基台の跡(Buyuk Sunak Yukari Agora)のところを見ました。こちらの復元図と比べて見ると良いでしょう。



 入口を少し上がっていくと、アクロポリスの模型があります。そこでサリーさんが説明していますね。手前の白い建物はゼウス大祭壇ですが、その右横の坂道を上って、突っ切ったところに私たちが今います。そこからさらに上って、コの字型になっている列柱廊の後ろの道を通っていくことになります。左下にあるのが劇場跡で、その麓にある建物がディオニュソス神殿です。

 それから木道の坂を上がって行っていますね。それから当時からの石道になっています。後ろに広がる遠景はすばらしいです。そして、06:50辺りで、小さい川から持ってきた貯水槽跡がありますね。サリーさんは、奴隷が水を運んでいたと言っていましたが、パイプラインもありました。2019年の旅で説明しましたが、この高い丘にまで水を引いてきた技術はすごいもので、サイフォンの原理を使って、遠くにある山から水道橋でこちらに持って来ています。

ペルガモン図書館と羊皮紙

 そして、7:30辺りで、羊皮紙の説明をしています。こちらの羊皮紙のサイトの歴史の記事をぜひ読んでみてください。ローマ第一のアレクサンドリア図書館との間で、第二のペルガモン図書館が熾烈な競争をしていて、葦で作るパピルス紙の輸出をやめたことが事の発端です。それで従来からある動物の皮に筆写する手法を発展させて羊皮紙が造られました。それで英語で羊皮紙をparchiment(パーチメント)と言いますが、これはペルガモンから派生した言葉です。パウロが、ローマの牢にいて死刑を待っている時に、テモテに第二の手紙を書きましたが、4章13節に羊皮紙の書物を持って来てください、と言及しています。発見された紀元前1-2世紀の死海文書も、死海文書のものです。(今の羊皮紙の作品の写真)パピルスよりも、両面に書くことができ、保存もしやすいのだそうです。

 そして07:55辺りが、アテナ神殿の中庭の裏手(写真)ですが、そこの辺りが図書館です。2019年の旅で、詳しく復元図や地図も交えて説明していますので、読んでみてください。またこちらの記事に写真や図面が多く載っています。遺跡としては、本棚の木の板を入れるための穴の跡も残っているそうです。

トラヤヌス神殿跡

 そして09:20辺りで、トラヤヌス神殿に近づいてきたので案内の看板がありました。そしてここで私が過去二回の旅でも気づかなかったことですが、山の頂上にあるのに、その敷地が平らだということです。山の斜面のところはアーチを入れて平らにしています。これが、エルサレムのヘロデ神殿の敷地が、モリヤ山にありながら平らになっているのと同じです。神殿の丘の敷地の南東部分に「ソロモンの飼い葉おけ」というところがあります。イスラム教徒が敷地の南東部分の地下をモスクにしたのですが、その時にヘロデ神殿の敷地の時に建てられたアーチがどんどん見つかっています。

 そしてトラヤヌス神殿の敷地に入って行きました(10:40辺り)。右手の奥に見えるのが、トラヤヌス帝の像です。(2018年に撮った写真)複製ですが、元のものも頭がありません。これは地震が起こると、元々、首の部分は脆いので取れてしまうのだそうです。そして柱頭が並んでいます(12:00辺り)、遠くから大理石を持ってきて作っています。

 そして13:45からトラヤヌス神殿跡の姿が見えていますね。(復元図復元動画


 そして13:50辺りで、敷地からギリシア式の劇場を眺めています。(復元図、写真とは反対方向から見た様子)

 ギリシアの時代に造られていますが、ローマ時代に拡張されています。ギリシア式の特徴は馬蹄形であること、そして舞台の背景になっているところが取り外しになっていることです。(ローマ式は半円形で、舞台背後に壁があります。)劇が終わると背景の壁は外します。そして、ここはその後ろにあるデュオニュソス神殿が見えるようにするためでもあります。

 そして敷地を離れる時に、いかにそこが人工的に平らになっているかが見えました(17:30)。そして19:30辺りから、さらに奥に入って端まで来ました。サリーさん、「劇場」と言っていますが、たぶん「城壁」のことだと思います。この貴族のような人々を、いかに守るかという話をしているのだと思います。そして、エーゲ海が遠くに見えていて、みなさん感動していますね!そしてUターンをしていますが、実はその裏もずっと道があります。2018年の旅で撮った動画がそれです。ケステル湖の景色も撮影することができました。

 そして、23:30辺りから、トラヤヌス神殿の地下の部分、すなわちアーチの中のほうに向かいます。ここは、私にとっても新しく行くところで、個人的にうれしかったです。まず、ディオニュソス神殿を上から眺めます。


口にするのも恥ずかしい暗闇のわざ(エペソ5:12)

 こちらのページに、ディオニュソス神殿を間近で撮った写真や復元図など詳しく見ることができます。この建物まで列柱通りがまっすぐ走っています。他のギリシアの神々の宮においてもそうですが、特に酩酊の神ディオニュソスに対しては、単なる酩酊ではなく、狂気そのものでした。

「ギリシヤ神殿で最も人気があったものと言えば、ディオニュソスのカルト的礼拝でしょう。時には強いドラッグを混ぜたブドウ酒によって参加者たちは恍惚状態になり、性的乱交や狂乱状態の中で神と交流できると信じていました。・・その儀式において、参加者は酩酊(めいてい)、錯乱し、派手に感情を爆発させることで悪名を馳せていました。古代文書には、時には一日5回も行われていたいけにえの儀式が詳細に記されています。人間が捧げられることもあったいけにえの儀式は、叫び声とシンバルの音と女性参加者の泣きわめく声を伴って執り行われました。」
https://www.bfpj.org/know/teachingletter/?id=203

 その他に、こちらにある文献を集めたページもご覧ください。病的なまでの狂乱ですです。「秘儀として夜中に執り行われた。信者の多くは女性が占め、彼女たちは酒を飲んで歌い踊り、陶酔の表情で狂喜乱舞し、ときには獣を八つ裂きにしたり、生肉を食べたともいわれる。」など、まさに狂気の沙汰です。そもそも、ギリシア神話にあるディオニュソスの物語こそが、異常極まりないものですから。

 パウロの手紙などで、どうして異邦人の空しい歩みから離れなさいと強く勧められているかが、こうした背景があります。他のギリシアの神々への礼拝も、多かれ少なかれ似たような狂気があります。そしてペルガモンの信者たちに、バラムの教えをする者をそのままにさせていることにイエス様が警告をされている、その理由も分るでしょう。

アーチのてっぺんにある要石

 そして2:20から、トラヤヌス神殿の地下を通ります。実に見事なアーチが並んでいます。そしてアーチの一番上の石が目立っていますが、それが要石です。アーチは別に接着しているわけではありません。しっかり床を支えるほど堅固です。しかし要石を外せば、すべて外れてしまいます。サリーさんは、「鍵石」と名付けていましたね。隅石とも親石とも訳されるものです。イエス様が、詩篇にある次の言葉を引用されて、ご自身、メシアのことであるとされましたね。「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。(マタイ21:42)



アテナ神殿へ

 07:00辺りに、アテナ神殿の中庭に入りました。コの字の列柱廊の跡がありますね。奥にはペルガモン図書館があったはずです。こちらの復元画は、人々も描かれ、いけにえも献げられており、活き活きしていますね。アテナ神殿の跡をじっくり見たのは初めてです。いけにえ献げる時に必要な水洗いの跡も紹介してくださいましたね。

ゼウス大祭壇

 そしてついに、11:25辺りからゼウス神殿の跡です。上から眺めています。見ての通り、基台の跡しか残っていません。オスマン帝国末期、ドイツが助けてくれたのはいいものの、国に持っていってしまいました。こちらのサイトに、詳しくペルガモン博物館にあるゼウス大祭壇を紹介しているので、見てみてください。ギリシアのパルテノン神殿を思い起こさせる、フリーズに浮き彫りにある、オリンポスの神々の戦いが特徴的ですね。相手は巨人族や冥途の一族だそうです。「東側には主神ゼウス、ペルガモンの守護女神アテナ、そして日の出と関連してアポロンとアルテミス、そしてこの双子の母レトなどが描かれているとのこと。北側に美と愛の女神アフロディテ、星の神オリオン、運命の女神モイライ、夜の女神ニュクスなども見えます。」(Turkish Air&Travel)こちらの復元画が、いけにえを献げている血なまぐさい姿を見せていて、いいです。

 以下の動画、今の基台だけ残っている跡から、ゼウス大祭壇がどのように建てられていたのか、よく分かるようになっています。


アスクレピオン

 そして12:50辺りで、アスクレピオンが遠くに見えることを教えてくれています。ここはぜひ、内灘聖書教会の酒井信也牧師による動画をご覧になると良いと思います。私は行ったことがないので、行った方の直接の説明が一番いいように思います。治療院という言葉はとても良いと思いました。入浴、精神療養、リハビリ、そして劇場もあるのでリラクゼーションもできたのでしょう。けれども、アスクレピオスという蛇の形をした医学の神を拝むので、宗教的、偶像礼拝の儀式も混ざっている感じです。そして、ここからガレノスという医学者が出てきました。(詳しいアスクレピオンについての論文

 それから中庭を歩いて、16:15辺りで、円形の土台が出て来ていますが、2018、2019年の旅で詳しく説明されているように、彫像などが置かれたところです。そこに、瀕死のガラティア人の有名な像もあったでしょうし、ジェイ牧師によればアウグストュスの像もあったとのこと。そして、この中庭でメッセージをしました。

メッセージ:妥協した教会


(さらに詳しくメッセージを聞きたい方はこちら → 原稿 ・ 音声 ・ 動画

 先の紹介した本"Jesus Speaks"を見ますと、「鋭い両刃の剣」(2:12)は、地方総督などが持っていると、それが権力の象徴になっているのだそうです。つまり、どんな権威や権力があっても、イエスご自身が権威を持っておられるということです。

 そして「サタンの王座」についてでありますが、それがどこなのか?という議論がありますが、私にとっては、あまり意味がないと思いました。ここにいれば、ゼウスの大祭壇、アテナ神殿、ディオニューソス神殿、皇帝礼拝の宮、アスクレピオンなど、ギリシアの神々とローマの皇帝礼拝満載のところであり、サタンがここに中心的に動いていたと言えます。

 それからバラムの教えとニコライ派の教えが並んでいるので、基本的に同じグループではないかというのが、今の学者たちの大半の意見なのだそうです。なるほど、と思いました。信仰について、そんな頑なにならなくてよい、我々はより多くの知識を持っているのだとして、異教のいけにえを献げることは構わないと教えていたのでしょう。

 17節の「白い石」については、上記の本ではなんと8つの解釈を紹介していました!しかし、私の話した、ゼカリヤ書にある大祭司ヨシュアに対するメシア預言は言及されていませんでした。「3:9 見よ、わたしがヨシュアの前に置いた石を。一つの石の上には、七つの目がある。見よ、わたしはそれに文字を彫る。」う~ん、ここと「その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が記されている。」は、かなり合致していると思うんだけれどもな~。その上で、当時、柱や基台に名前が記されていることが、しばしばあったので、それを掛け合わせたのではないか?と思っています。

~ 黙示録の読み方について ~

 ところで、黙示録の読み方として、だんだん二つの大きな要素があることが分かってきました。一つは、旧約聖書の預言書、そこにある主の日とメシア到来の預言が骨格としてあることです。黙示録ほど旧約聖書の引用が多い書物は、新約聖書にないと思います。けれども、同時に、聴いている人の背景を充分に考慮した表現になっていることです。主イエスは、ご自身が預言の成就であり、預言の霊はイエスの証しであると御使いが19章で語っていますし、しかし朗読してそれを聞いているのは、ローマのアジア属州に生きている人々であり、彼らが聞いてすぐに理解することができるようなことを、主は語ってくださっています。

 黙示録の注解書を読むと、過去派とか未来派とか書いていますが、当時の人々がそのまま信じて受け入れるに値する状況についても語り、終わりの日に成就する事柄についても語っているわけで、過去も未来もどちらも含んだ言葉をイエス様は語られているのではないか?と思います。

スケールの大きさ

 この遺跡を巡って、仲間の何人かと話していましたが、あまりもスケールの大きい異教の宮が立ち並んでいて、囲まれていて、こんなところでアンティパスが全てに抗っていたというは、とんでもない覚悟であり、ここで少し妥協しても全くおかしくないと思いました。だからこそ、イエス様はどんな権力よりもさらに権力があるということで、鋭い両刃の剣を持つ方として現れたのだと思いました。

 この後に降りて行って、右に曲がって、ゼウス大祭壇の前まで行き、何人かの人たちが記念写真撮影をしていました。

 そして、ロープウェイに乗る前に、ざくろジュースを飲みました。(写真)イスラエルのと比べると、何が違うかというと、種もつぶすので、苦みが残っていることです。そしてロープウェイに乗りましたが、男たちだけになり、いろいろと交わって話すことが出来ました。(写真

クズル・アウル(セラピス神殿、赤いバシリカ):像が語る!

 アクロポリスから降りると、とても大きな赤い煉瓦の建物が見えます。これがローマ時代の赤レンガで建てられた、最大の現存の建物だそうです。ハドリアヌス帝の時に建てられて、エジプトの神々もローマは好んで取り入れていました。そして、ビザンチン時代に聖ヨハネ教会として使われ、その後、モスクとして使われますが、世界遺産に指定されてから、逆にセラピス神殿の時と教会の時のものを修復作業を行ったとのこと。

 次の動画で確認できますが、その偶像が立っている台の下に祭司が中に入れ穴があり、そこから声を出して、「その像が語れる」ようにできるとのこと!そうです、つまり黙示録13章15節の、獣の像が語るようになるというのは、当時の人々にとっては、あり得る話として聴くことができたとのことです。



 最後にペルガモン全体のまとめの動画を紹介します。きれいなドローン映像、復元図、そしてみことばの解説を混ぜた、良質の動画です。



ホテルで休息

アクロポリスからホテルBerksoy Hotelへ(グーグル地図

 今回の旅でいろいろ泊まったホテルで、このベルクソイ・ホテルは唯一の三ツ星です。ベルガマの町では、これ以上のランクの上のホテルがないようです。それでも、ここを選んだ理由は、「イズミールには戻りたくない」でした。イズミールから次の日、ティアティラまでは同じような距離ですが、ベルガマから再びイズミールに戻ったら、2時間かけなければいけません。でも、羽田空港からずっと、機内では多少睡眠はできたかもしれませんが、ノンストップでここまで来たのです。多少、ランクは落ちても体の休ませないといけないと思ったのです。ホテル自体は、旅行社トパーズが選びました。

 そして、これが大正解でした。サリーさんも、「ベルガマで泊まるのは初めてだが、これからイズミールに行くよりも、絶対にいい」と言ってくれました。部屋は、多少質素ですが、清潔感はあります。食事は、夕食・朝食とも私たちのグループしかいませんでした。夕食はビュッフェではなく、それが逆によかったです。豆スープが疲れた体に沁みたのを覚えています。ここで、私がうっかり忘れて伝えていませんでした、トルコでは基本、水は有料です。みんなここで、ちょっとだけびっくりしていました。予想はしていましたが、何人かが夕食をお休みしていました。疲れていたし、具合悪くなっていた人もいました。けれども、次の日には元気な姿で来てくださったので、本当に良かったと思います。