2022年イスラエル・トルコ旅行記 11月15日その1 ティアティラ&サルディス
1.ティアティラ
2.サルディス
3.フィラデルフィア(聖ヨハネ教会)
15日の旅が始まります。私たちの旅は、基本、トルコもイスラエルも午前7時半出発にしました。日が出ているうちに訪問したいという思いからです。11月ですので、日没の時間がかなり早まっています。閉門時間も多くが1時間早まります。みなさんには、早寝早起きをお願いしていました。けれども、日本から来ると、時差ボケで自然に早起きになるから、とも話しました。みなさん、ものすごく協力的でした。おかげで、私たちの旅は、他の旅行者たちのいないところで、気持ちよく朝日を浴びながら一番目の訪問地を楽しむことができました。
今日の旅程は、南東に進んでいく感じです(グーグル地図)。少し内陸に入って行きます。ペルガモンからティアティラ、次にサルディス、それからラオディキアに近い、ヒエラポリス(パムッカレ)へと進みます。黙示録の順番どおりです。そして、朝日が出始めた時、ホテルを出発しました。そして、三人の牧師さんの参加者に、毎朝順繰りで、バスの中でデボーションの時を10分程度、お願いしました。驚きました、しっかりと用意してくださり、小メッセージになっていました。感動モノで、たくさん語られました。今朝は、松田牧人さんからです。
1.ティアティラ
(2018年の旅、2019年の旅、内灘聖書教会の聖書遺跡の旅)
ベルガマのBerksoy Hotelからティアティラ遺跡まで(グーグル地図)
私にとって、ティアティラの町、今のアヒクサルは、とても心落ち着くところです。その町が田舎でもなく、でも大都市でもなく、人々がとてものどかに感じます。そして見えている遺跡がとても小さく、その周りが普通の街に囲まれていて、観光客もほとんど来ないような雰囲気に満ちているからです。こちらの写真から、遺跡が何でもない街の真ん中にあることが、うかがえるでしょう。
バスが町の中に入りますと、イズミールなどではあまり見なかった、スカーフ姿の若い女性が歩いているのが見えます。イスラム教の国ですから、当たり前で、イズミールがむしろ、トルコの中では開放的な雰囲気がある特徴的なところといってよいでしょう。「けれども、(アヒクサルは)発展している町で、煙草や品質の高いオリーブとオリーブ油を生産しているようです。イエス様の時代も似たような感じでした、エペソやペルガモン、またスミルナのような大都市には劣りますが、それでも中堅都市として栄えていたそうです。トルコは山が多いのですが、編み目のように渓谷と平野があり、エペソ、スミルナ、ペルガモンとティアティラはつながっています。これで交通の要所となっています。」(2018年の旅から)
こちらの動画はドローン映像です。どれだけ小さいかが分かるでしょう。次の次に訪問するフィラデルフィアもそうですが、今の町の下にほとんどが埋もれているので、掘り起こせないでいます。内灘聖書教会の動画にありますが、病院の丘がありまして、そこはアクロポリスの跡があります。最近、病院の建物がなくなっており、発掘が始まっているようです。
テペ・メザルリギ(丘の墓地)のローマ列柱
遺跡内にある標識の説明の一部を訳します。「古代都市ティアテイラの範囲にある「テペ・メザルリギ(丘の墓地)」と呼ばれる地域の東側で行われた発掘調査では、紀元2世紀から4世紀の間に作られた、南北に列柱が並ぶ、典型的なローマ街が発掘されました。掘削の結果、この通りは「テペ・メザルリギ(丘の墓地)」から北上し、「病院の塚」に向かっていることが判明しました。この通りの幅は9.83メートルで、東側が現在の道路の下に残っているため、正確な幅は不明です。列柱は、砂と石灰を混ぜた礫石で作られた土台の上に置かれています。テペ・メザルリギ(丘の墓地)の柱廊と柱のある通りで現存する基壇は紀元2世紀とされていますが、火層から出土した硬貨の多くは紀元4世紀、一部はアルカディウス(紀元395~408年)時代のものとされています。」
左:ペルガモンのアスクレピオス 右:ティアティラのアポロ・トュリムノス |
ヒッタイト時代も、リュディア時代にも都市があったようですが、ギリシアのセレウコス一世が、紀元前3世紀、自分の娘の名にちなんでティアティラと名付けました。ペルガモン王国がここを征服してから、東方からの侵略に対して、ペルガモンに進出するのを遅らせる、軍事的前哨地になりました。兵士たちは、トュリムノスという守護神(守り本尊)をもっていましたが、それがアポロの中に吸収されて、アポロがティアティラの守護神となります。この町に次第に、経済も生まれて来て、王がペルガモンをローマに明け渡すと、ローマの支配下で貿易で発達しました。
職人技が発達しました。紫布が第一に挙げられます。ピリピでパウロが会ったリディアが、ティアティラからの紫布の商人でした。紫布の染色は、ムレックスと呼ばれるアクキガイから採れる、最高級のものがあります。(参照:貝紫、地中海性のもの)天幕の幕や、大祭司の祭服にも使われていたものです。あるいは、西洋茜の根から染料を取っています。
そして、銅細工人、革製品の職人も多かったです。そのため、商取引のための組合(ギルド)がティアティラの町での大きな特徴でした。
そして、それぞれの商業組合には、守り本尊的な守護神がいたのです。例えば、銅細工人の組合では、ギリシアのヘファイストス(炎と鍛冶の神)が守り本尊です。布製品の織工であれば、女神アテナが保護します。彼女は戦うことでも有名でしたが、同時に、工芸においても長けていたからです。このような背景を知っていれば、ティアティラに対するイエス様の言葉がよく分ります。神の子として現れましたが、アポロが「神の子」と呼ばれていました。そして燃える炎のような目を持ち、光り輝く真鍮の足をもって現われましたが、これが銅細工人にとっては、自分たちが毎日目にしている、炎と真鍮をもって現れておられるので、かなり強烈だったことでしょう。(2019年の旅から参照)
アプス(後陣)の建物
ローマ列柱の他には、「アプスの建物」と呼ばれる、バシリカ式の建物が残っています。遺跡の中にある説明文の一部を訳してみます。「古代都市ティアテイラの顕著な遺跡は、アクヒサル郡にある「テペ・メザルリギ(丘陵墓地)」にある。この地域の考古学的発掘は、1962年にユスフ・ボーサル教授が、1968年と1969年にはリュステム・デュユランが行いました。2011年には、エンギン・アクデニズ教授の指導のもと、発掘が再開されました。発掘調査の結果、南北に伸びる主屋と、それを囲むように連なる建造物が発見されました。建築的な特徴や、紀元2世紀から6世紀にかけてのローマ時代の膨大な遺物から、この時期に使用されていたことが推測されます。」これは、典型的なローマのバシリカ式の建物に見え、ビザンチン時代には教会堂として使われていたことでしょう。
2018年の旅で詳しく説明しましたが、ビザンチン建築は基本、ローマ建築様式の「バシリカ」を使用しています。列柱によって部屋を作る身廊というものがあり、その側面にさらに側廊で取り囲みます。ベツレヘムの生誕教会に行くと良く分かります。そして、東奥に半円形あるいは多角形に窪んだところを、教会堂の内陣に対してアプス(後陣)というそうで、そこを至聖所(nave)と呼び、祭儀が行われます。そして中央部分から横に伸びているのが袖廊といいます。上から見ると十字になっています。以下は、「キリスト教会堂建築について」というサイトから取って来たものです。
そして、今の正教会ですが、2019年の旅でイスタンブールにある、コンスタンティノープル総主教庁である、聖ゲオルギオス大聖堂の写真をご覧ください。奥にあるのがアプス(後陣)です。それを遮っている壁が、内陣と後陣を遮るイコノスタシス(聖障)です。イコン(聖画)が掲げられています。
それから、ローマ柱廊の復元が、コロナ禍に行われたのを私が動画の中でちょっと驚いていますね?修繕前のを見せれば、私が驚いた理由が分かるでしょう!こちらの写真です。地面に、ばらばら転がっていただけでした。この、復元されたローマ柱廊を背景に、アプス式建物の手前の袖廊の跡の上に座り、みなさんを見下げる形で(見さげるのではり、見くだしてはいませんよ!笑)、ティアティラの教会に対するイエス様の言葉を見てみました。
(訂正:紫布の商人の女性の名は、リディアです)
「神の子」についての補足:イエスご自身が「神の子」として現れているのが、アポロも「神の子」と呼ばれていたと説明しましたが、その他にも同じように呼ばれていたのが、ローマ皇帝です。イスラエルへの旅で、ピリポ・カイサリアでカイサルの宮のあるところで、ペテロがイエス様を「生ける神の子キリスト」と告白したのは、かなり挑戦的な言葉だったのです。そしてユダヤ人、聖書を信じている者としては、詩篇2篇では、神が油注がれた方(キリスト)に、「あなたはわたしの子、わたしが今日、あなたを生んだ」と言われました。そしてこの方が、鉄の杖で国々を牧し、陶器師が器を砕くように粉々にするとありますが(9節)、これが、黙示録2章27節に出てくるのです。異邦陣人の背景を持っていても、ユダヤ人の背景を持っていても、キリスト者には強いインパクトがある言葉で、ご自身を宣言されました。
メッセージが終わったら、私たちはバスの停まっているところまで、果物やパンが売られているお店通りを通って行きました。とってものどかな風景です。
2.サルディス
(2018年の旅、2019年の旅、 )
ティアティラからサルディス遺跡まで(グーグル地図)