2016年イスラエル・ヨルダン旅行記 2月21日 その2

1.神殿の丘
2.嘆きの壁
3.西壁トンネル
4.南壁考古学公園
5.ダビデの町
6.神殿再建財団
7.BFPエルサレムのホテル訪問

(1.から3.は、その1へ)

4.南壁考古学公園
西壁トンネルから南壁考古学公園(グーグル地図
2013年の旅2010年の旅2008年の旅

 西壁トンネルは、ちょうどヴィア・ドロローサの第一留の小学校の入口の下が出口になっています。ヴィア・ドロローサの道と同じように出たら左、突き当りを左折、そうしたらひたすらまっすぐ歩きます。再び西壁広場です。そして西壁広場をまっすぐ歩いて糞門側のセキュリティーを出たらすぐに右側に入口があります。(写真)そして、入口の中には、こちらの動画のように、エルサレムの年表があります。カナン人の支配、古代イスラエル人 、バビロン捕囚 、ペルシヤ、ギリシヤ、ローマ、ビザンチン、イスラム、十字軍、マムルーク、オスマン、英国、そして現代イスラエルです。

 私たちは、神殿の丘に上がり、それから西壁の一部である嘆きの壁を見て、それから北に伸びている西壁トンネルを見ました。そして今、同じ西壁ですが嘆きの壁の南側を見ます。さらに西壁と南壁の角を見て、南壁のほうに行きます。この考古学公園は、ヘロデ神殿の境内の平面を支える擁壁の、南西部分を囲んでいる公園です。今の遺跡と、当時の姿を見るのに、2010年の旅で考古学者の方の右の写真を見れば一目で分かります。私たちはまず、西壁の最南端の部分を見に行きます。

 旅行仲間が撮ったこの写真を開いて見てください。右の壁が西壁で、手前に壁から少し突き出ている部分があるのが、かつて階段があってその階段を支えていた、アーチの跡です。考古学者の名前にちなんで「ロビンソンのアーチ」と呼びます。そして発掘現場が続いていますが、その前方に木製の通路があるでしょう、これが今朝初めに行った、神殿の丘への通路です。その向こう側に嘆きの壁があります。さらに、写真真ん中に塔がありますが、その地下に、先ほど通った西壁トンネルの「秘密の通路」また「ウィルソンのアーチ」があるところです。

 では、Bibleplaces.comからの上空写真も見てみたいと思います。南西から撮ったものです。西壁の南端部分が上のリンク先の写真ですが、その北に嘆きの壁があるのが見えるでしょう。その嘆きの壁と、西壁の南端部分の発掘現場に、大きな高低があるのが分かるかと思います。南端部分が当時のローマ時代の高さなのです。かなり掘り起こしたのです。

 そして後で南壁のほうにも行きますが、遺跡が広がっているのがお分かりになると思います。南にある小さな灰色のドームが「アル・アクサ寺院」であり、その真ん中から壁が南北に出て、直角に西に向かっていますが、これは後世に造られたもので、ローマ時代は、神殿の東壁から一気に南に、ケデロンの谷沿いに城壁が走っていました。南壁からある遺跡が、聖書では「オフェル」と呼ばれる所で、そして南に走る道路を超えて下には「ダビデの町」元祖エルサレムの遺跡があります。これも、後で訪問します。

 ついでに、2010年2013年で訪れた、イスラエル博物館のエルサレムの50分の1模型を見てみましょう。

 いかがでしょうか、これでよく分かりますね、南西の角のところにロビンソンのアーチ、その北に(男性は嘆きの壁から入って見て、女性は西壁トンネルの中で見た)ウィルソンのアーチがあり、モリヤ山の床岩が北に向かって上昇しており、西壁トンネルの最後は、西壁が床岩を削って彫刻したものになりましたね。そしてその一番向こう、北西の角には大きな、四つ角に塔のある建物がありますが、それがイエス様が十字架刑の判決を受けたアントニオ要塞です。このように、高配があるのは、モリヤの山が神殿の丘のところにあり、そして手前のヘロデ通りのところから西は、チロペオンの谷が走っているからです。

 そして神殿の境内の南壁に戻りますと、壁の下に出入り口がありますね。左側を「二つ門」と呼び、右側を「三つ門」と呼びます。ここが礼拝者が出入りするところです。そして下、南に、南北に細長く建物が並んでいますね、それがダビデの町です。

ロビンソン・アーチ

 ということで、西壁の南端部分を散策します。南から南西の角に向かって歩きましたが(動画)、恭仁子さんが石の奥行きが如何にあるかを言及しておられます。西壁トンネルで見たマスター・コースが最も大きいものですが、こちらもかなり大きいです。


 今、ロビンソン・アーチの真下にいます。アーチの石が崩れ落ちたばかりのように石が積み上がっていますが、アーチの石は接着しているのではなく、石を上手に重ねてアーチ状を作っているのですが、その一番上の部分の石を「かなめ石」と呼び(そう、イエス様が詩篇の預言で、ご自身がかなめ石と呼ばれました)、そこを外せば、すべてががらがらと落ちます。

 そして次は、ロビンソンのアーチの跡を、北側から眺めています。


 アーチの付け根の部分しか残っていません、そしてこの映像の後半でアングルを右の方に動かしましたが、右側に立っている石が、アーチの下を支え、かつ、お店(屋台?)となっていた階段の下の部分になります。当時の様子の絵はこちらです。ロビンソンのことも話しておられますが、1838年に英国の聖書学者エドワード・ロビンソンが見つけました。こちらの写真にあるように、当時はその出っ張りが、2,3メートルぐらいの高さしかありませんでした。1867‐70年にチャールズ・ウォレンが、当時のオスマン朝の許可が下りず、遠くから縦穴を掘り、そこから横にトンネルを掘っていって(今も西壁トンネルで似たようなことやっていますね・・)、地面の下に埋まっているアーチの一部を見つけました。それからずっと後、六日戦争でここをイスラエルが奪還した後に、1968年から1977年にかけて発掘したら、今のような形のものが完全に見つかりました。

 そして次は、階段を支える屋台になっていたところを見ます。こちらの写真を見ながら、実際の遺跡と当時の姿を想像してみるとよいでしょう。


 ここは、市場のような賑わいがありました。両替品もあったでしょうし、それから認証されたいけにえの家畜もあったことでしょう。そう、イエス様が「祈りの家なのに、強盗の巣にしている」と宮清めで言われた、あの商売が行なわれていたことを示しているのです(イエス様が実際に宮清めをされたのは、このアーチの門をくぐった、神殿の敷地内の「王家の柱廊(Royal Stoa)」においてではなかったのか、と言われています。そこに、サンヘドリンもあったのではないかとも言われています。そして、振り返るとこちらの写真にあるように、石が落ちてきたので、通りが破壊され、窪みができたところです。

 そして見学しませんでしたが、ロビンソン・アーチの向かいに、ミクベ(浸礼漕)の遺跡があります。南壁には、もっとたくさんのミクベの遺跡を見ます。ここから神殿に入るのですから、身の清めが必要なのです。そしてイエス様が、この神殿におられる時に、夜にニコデモに対して「水と御霊によらなければ、神の国を見ることはできない」と言われたことを思い出します。

 また、石がわざと積み上げられて、かつ黒ずんでいるのもあるのですが、こうやってローマが城壁の石を落としていき、火を付けたことを生々しく、敢えて残しています。ヨセフスのユダヤ戦記にこの悲惨な情景が記録されていますし、何よりもイエス様が嘆き悲しまれたことが実現したことを物語っています。「石がくずされずに、積まれたままで残ることは決してありません。(マルコ13:2)」

 そして、南西の角のところに、これら落ちていた石の中から、文字が書かれた石が見つかりました(複製で、本物はイスラエル博物館にあります)。


 「角笛を吹くところで」と書いてあります。つまり、この壁の角の最も上部で安息日や祭り毎に、吹き鳴らしていた所だったと考えられます。ちなみに、この角の一番下にある石も「かなめ石」と呼ばれます。そして城壁の一番の上、また反対側の南東の角の上を「神殿の頂」と呼び、イエス様が、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。(マタイ4:5‐6)」と悪魔から誘惑を受けられたところだと言えます。

南壁へ

 そして南壁へと移動します。


 城壁の石を見れば、すでにヘロデの切り石の形がしていないのが分かります。この他、この辺りには、イスラム教のウマイヤ朝の宮廷の跡があり、その一部は、その前にビザンチン朝のネア教会に使われていたものがあり、しかもヘロデ時代の石を使っている遺跡があります。ユダヤ人、キリスト教、そしてイスラム教と、折り重なって出て来るところが、イスラエルらしい遺跡です。(2010年の旅を参照)そして、とても興味深いのは、ここから、ユダヤ反乱を鎮圧しに皇帝に命じられた総督ウェスパシアヌスと、その息子ティトスの名が刻まれているマイルストーン(道しるべ)が発掘されたそうです。

 南壁を仕切ってしまった壁の下にある小さな穴を通ると、次のように遺跡が広がります。右側(南)には、第一神殿時代の遺跡があり、ここは「オフェル」です。その向こう、道路の向こうにダビデの町があります。そして左前方にミクベの遺跡、それから南壁の礼拝者の出入り口である「フルダ門(二つ門と三つ門)があります。



フルダ門へ

 そして、フルダ門の説明をしてくださいます。



 この二セットの間にあるミクベの遺跡ですが、旅行仲間の撮った写真がこちらです。中に水が残っています。こちらにも、他のミクベの写真があります。階段があって水の中に入っていけるようになっています。そして、南壁からオフェルの方角を見たパノラマ写真もあります。ここからよく分かるのは、使徒ペテロが、五旬節の時に聖霊が降った後で、集まってきているユダヤ人たちに説教をしましたが、その時にダビデの墓について言及しましたね。先のビデオにあったように、ダビデが葬られているはずのダビデの町は、ここから目と鼻の先で、ここで弟子たちが三千人がバプテスマを受けました。これら南壁周辺にあるたくさんのミクベを使えば、できたでしょうね、比較的容易に。

 そして、ここで新たにじっくりと調べたことを分かち合います。二つ門と三つ門について。まず、当時の神殿の3Dアニメを埋め込みます。


  ここで、2:30辺りから南壁の入口の映像が始まります。恭仁子さんの説明通りに「三つ門」から入っています。そして、東側にある「ソロモンの厩(Solomon's Stables)」と呼ばれる、地下のアーチ状の境内の平面を支える地下倉庫のような空間(今は、モスクがそこにありアーチ状の建築の一部を見ることができます)があり、改めて三つ門に戻っていますが、地下の通りと階段を歩いて、それで境内の平面のところに上がってきます。ここで、今朝、神殿の丘に上がった時に、どこら辺から上がってきたのか、恭仁子さんに尋ねていたのですが、私の言葉足らずで通じませんでした。けれども資料を探して見つけました、次の写真です(Bibleplaces.comeから)

 三つ門(Triple Gate)の北(上方)を辿ると、水色の長方形の箱のようなものがありますね、それが三つ門から神殿敷地内に上がって来る出口"passage to Triple Gate"です。神殿の丘に入って、私たちはアル・アクサ寺院と岩のドームの間ぐらいで立ち止り、恭仁子さんの説明を聞いていたのすが、その東方にその出口がありました。ここは、イスラム教の当局の管轄下にあり、中に入れないようにされているそうです。けれども、多分に三つ門(また二つ門)についてですが、こちらのページに、いかにヘロデ式の切り石が使われているか、アップした石を見せながら紹介しています。こちらの写真を見ても、外縁のあるヘロデ式の石が三つ門に使われていることが分かります。

 そして二つ門(Double Gate)です。まずは、こちらの3D動画を紹介します。


 3:20辺りから、二つ門から入る映像が流れます(普通、こちらは出口ですから逆方向ですが)。南壁からは、二つ門はその一つ、しかも半分しか見えません(写真)。そしてアップすると、次のようになっています。


 先ほどと同じページによれば、アーチ状になっている装飾はウマイヤ朝のもので、オリジナルのヘロデ式のものはその上にあるそうです(写真)。そして、ここの格子窓のことも覚えていてください。

 イスラム教のウェブサイトを見れば、アル・アクサ寺院のページがたくさん出てきます。そこを見ると、モスクの中がかなり広いことが分かります。そして、Old Al Aqsa(古いアル・アクサ)と呼ばれている大きく、広い地下道があります。→ Basement of Masjid al-Aqsa

 この地下道・地下室への入口は、私たちが神殿の丘に入った時、アル・アクサ寺院の前を通った時に見かけたものです!


 広い地下道があり、地下室があり、図書館もあり、そしてこちらの動画の最後を見ると、下の穴が見え、外の光が入っています。そう、先ほどの格子から入ってきている光でしょう。こちらのサイトの説明にも、アル・アクサ寺院の地下の最後のところにある門はローマ時代のものだと書いてあります。こちらのサイトに、二つ門の当時の想像した絵と、二つ門の前世紀初頭に撮った写真が掲載されています。


 

イエス様が確実に上り下りされた階段

 そしてこのフルダの門のところにある階段は、修復したところではないところは、すべて当時のものです。イエス様が神殿の境内に上り下りされた時に、確実にお使いになった階段です(写真)。主は、何度となく神殿の境内で御言葉を教えられましたから。もちろん使徒たちも宮に入って祈りをささげた時など、使っていますね。そこに皆さんに座っていただいて、私がオフェルを背にしながら御言葉を取り次がせていただきました。


 メッセージの原稿はこちらから。

ファラフェルの昼食へ
南壁考古学公園から、Paranomic Golden Viewまで(グーグル地図

 本来なら、そのまま糞の門を出て、ダビデの町に行けばよいのですが、また、ユダヤ地区にある近くのレストランに行けばよかったのですが、昼食の時間がやってきました。遠く、キリスト教地区にある、聖墳墓教会を眺めることのできるParanomic Golden Viewというレストランに行きました。ユダヤ地区に上がって(階段を上って)行き、そのまま真っ直ぐに歩くと、小さな広場が出てきます。フルバ(Hurva)シナゴーグを左手に眺めながら、右斜めに折れます。Tiferet Israel st.を入って歩くと、右手に「広い門」が出てきます。ヒゼキヤが、エルサレムの町を拡張するために作った城壁の一部と言われています。

広い壁
2008年の旅2013年の旅

 ユダヤ地区は、1967年の六日戦争の後、イスラエルがエルサレム旧市街を奪還したので、独立戦争後ヨルダンによって破壊されていたものを復興させていきました。例えば、フルバ・シナゴーグも焼き討ちにあっていましたが、今は立派な建物になっています。その中で、地面を掘り、考古学遺跡の発見も多くなされています。その中の一つが、第一神殿時代のヒゼキヤの時代の「広い壁」です。ヒゼキヤが、アッシリヤの侵略に備えて建てたものですが、次に行くダビデの町でも、ギホンの泉を城内に引き込むためにヒゼキヤが地下水道を、シロアムの池まで流しましたが、ここも事前の防備になります。非常に高い壁です。



 そして、パノラマ・ゴールデン・ヴューのレストランに付きました。ここはキリスト教地区の真ん中の広場、噴水があるところにあります。(グーグル)二階は屋内のレストランなのですが、屋上は、聖墳墓教会の灰色のドームを目の前で見ながら、ファラフェルを食べるその味は最高でした。

 食べ終わって、二階に下がるとそこに、コーヒーが飲めるので10シェケルだったでしょうか、飲んだら、最高においしかったです!イスラエルのコーヒー(アラビカ系)は、本当にうまい。:)

5.ダビデの町
Paranomic Golden Viewからダビデの町(グーグル地図
2013年の旅2010年の旅2008年の旅ウェブサイト

 帰り道、フルバ・シナゴーグの前の広場には、学校が終わったであろう正統派の小さな子たちがたくさんいました(写真)。そして、先の考古学公園の前を通り過ぎ、糞の門から出て、左折すると右側に、写真のような考古学発掘の現場があります。チロペオンの谷のところに当たります。すでにダビデの町の入口が見えますが、角を右折したところが入口です(写真)、正面にダビデが立琴を持っていたので、立琴の彫刻があります(写真)。入口を入って、ダビデの町の説明をしました。


 私たちはこの日の初めに、神殿の丘に行きました。そこがモリヤ山です、それから南壁考古学公園に行き浸礼漕(ミクベ)などがある、南壁の階段下のオフェルを見ました。そしてその下の道路越しがここダビデの町ですが、ここが元祖エルサレムであり、それからソロモンの時代に神殿の丘まで町が拡張され、ヒゼキヤとマナセの時代に西側に防備固めのために拡張され(広い壁がその一部です)、新約時代には今のシオン山もすっぽり囲み、上町も加えられました。東京でいうなら、江戸城が初めにありその周辺が都心であり、また下町となり、それから西へ拡がり新宿などの副都心が広がった、というような感じです。

 ここは、神殿の丘やそこに隣接区域がムスリムの管理であるのに対して、実質、東エルサレムの住民はいても、実質イスラエルが管轄しているため、妨げられることなく膨大な考古学発掘が行われています。そして驚くことは、カナン時代と第一神殿時代(ダビデ、ソロモンからバビロンによるエルサレム破壊まで)以来の聖書の記述を、一文字一文字確認するかのように遺物が発掘されており、現在進行形で新しい発見が出ていることです。これで七回目の訪問ですが、来るごとに見る姿が変わっている、すなわち発掘が進んでいるのです。おまけに、旅行者にも大体的に開放されており、情熱が入っています。宗教的なユダヤ人の人たちも、自分たちの先祖のルーツですから強い関心を示しています。

聖書の歴史と考古学の歴史

 歴史的には、どうなっているでしょうか?思い出してみましょう、初めにアブラハムのところにメルキゼデクがやって来ますが、それが「シャベの谷」(創世14:17)であり、メルキゼデクはシャレム(エルサレム 詩篇76篇2節)の王です。ギホンの泉のところにアブラハムに現れたのではないかと言われています。そして、アブラハムは主に命じられて、モリヤ山でイサクを捧げようとしました(創世22章)。そして、ヨシュアらが約束の地に入るも、ベニヤミン族は、ここに住むカナン系のエブス人を追い払うことをせず、共に住むことになりました(士師1:21)。

 しかしダビデが、上の動画で話しましたようにエブス人からこの町を奪還しました(2サム5:6-10)。そしてソロモンがエルサレムに神殿を建て(2歴代3:1)、ヒゼキヤまたマナセがアッシリヤ王セナケリブの侵攻の備えるため城壁を建てます(2歴代33:14)。しかしバビロンによって紀元前586年に滅ぼされ、70年後に帰還、ゼルバベル率いる神殿再建が516年に完成しました。そしてネヘミヤが445年に町の城壁を再建します。先ほど話したように、新約時代はここ下町だけでなく、上町にまで町を拡大させています。

ダビデ時代のエルサレム


 前日の旅で説明しましたように、かつてビザンチン時代の人々は西側にある今のシオンの山がこのエルサレムだと思っていましたが、1800年代になって、オスマン・トルコ時代の後期、英国から探検家や考古学者が入って来て、聖書考古学と後に称される発掘を開始します。エドワード・ロビンソンが、ヒゼキヤの水道を発掘した最初の人です(1838)。次に、西壁トンネルの至聖所に最も近い「ウォレンの門」を発見した、チャールズ・ウォレン、また祭司たちの通る陸橋のアーチ、ウィルソンのアーチのチャールズ・ウィルソンが、1860年代に、パレスチナ探掘基金の下、ヒゼキヤの水道を調べ、「ウォレンの縦坑」を発見します。ヒゼキヤの水道とはまた違う、カナン時代に使っていたシロアム水路を、他の人が1886年に探掘します。そして、オフェルとシロアムの池の上にあるビザンチンの教会を1894-97年に発掘、1909‐11年にまた別の人がここにある地下水路の地図を出版します。そして英国が委任統治領として正式にパレスチナを支配するのが1923年ですが、その後、シロと呼ばれる、ミロ(エブス人の城壁)などのG地区を1923‐25年に発掘、ケデロンの谷を27‐28年にに発掘しました。

現在と当時の比較:

 そしてイスラエルが建国された後に、エリコの発掘で一躍有名になった、キャサリン・ケニョンが1961‐67年に、この町をかなり発掘し、G地区の東側の斜面を発掘し、ダビデの町の要塞の状況を把握しました。六日戦争後、イスラエルの支配に入った後、イガル・シロ教授がさらに78‐85年に発掘、ロニー・レイ氏とエリ・シュクロン氏が1995年から今に至るまで、ギホンの泉、シロアム水路、ケデロンの谷、シロアムの池を発掘しています。そして、エリアット・マザー氏が、2005年から2008年にかけて、シロのG地区を発掘、「ダビデの宮殿」を見つけたのです。

「ダビデの町」のYoutubeチャンネルから:

 あまりにもたくさんの遺跡があるので、主なもの、四つつに焦点を絞ります。①ダビデの宮殿、②地下水路、③シロアムの池、④都上りの階段です。

①ダビデの宮殿

 入口は、ダビデの町の最も上部にあり、すぐそこにはG地区という発掘現場があります。そこにエブス人の町の城壁ミロと、それを使ってダビデの町の要塞を築いた跡が残っています。(その他、バビロンによって破壊されたイスラエル人の家屋の焼けた跡やネヘミヤの再建した城壁も発掘されています。動画)。

 階段状になっているのがミロ(エブス人の城壁)で、その右上、四角い屋根の床下での発掘現場がダビデの宮殿です。


Did Eilat Mazar Find David’s Palace?から
(青色がエブス人のミロを使用したダビデ時代のもの、オレンジがその後、バビロン捕囚までの間のイスラエル人の家屋、黄色がネヘミヤ時代の城壁。)

 やはり、すごいのは現在進行形で発掘されている、エリアット・マザー氏の発掘によるダビデの宮殿です。ビジター・センターの真下にあります。


 「ツロの王ヒラムは、ダビデのもとに使者を送り、杉材、大工、石工を送った。彼らはダビデのために王宮を建てた。(2サムエル5:11)」この御言葉にあるように、ここの遺跡はフェニキア式の建築になっているそうです。また、フェニキア式の土器も見つかっています。以下は、エリアット・マザーご自身が説明している動画です。



 また、ここの遺跡から、次のような細かい発見もされています。「ゼデキヤ王は、シェレムヤの子エフカルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤを預言者エレミヤのもとに遣わしていった。(エレミヤ37:3)」このエフカルの名が刻まれている印が発掘されました(写真)。

②地下水路

 そして私たちは、急斜面を階段で下ります。すると、真正面がシルワン(アラビア語読みのシロアム)という町が見えるところまで来ました。ここはオリーブ山のすぐ南、「つまずきの山」とも呼ばれているところです(1列王11:7‐8)。ケデロンの谷の底に近づいています。ここからギホンの泉を遠くに眺めます。


 恭仁子さんが仰っているように、シルワンの町のでの建物の建て方が、当時の建築物の建て方を思い出すことができるそうです。つまり斜面を削って、その切り取った岩石を用いて家屋を建てていきます。

 こちらは、ギホンの泉をシルワンの北東側から撮った写真です。(中心部、小窓が二つある資格の建物の下の部分)


 古代の町は、自然の要害として、ここのシオンの山のように丘や山の上に住みました。敵から守られるためです。けれども、泉がこのように谷の底から湧き出ています。水を汲むには、その底にまで行かなければいけなくなり、城壁の外になってしまいます。危険ですから、地下に水路また水道を掘って、外出せずとも水を汲むことができるようにしました。これからウォレンの縦穴と呼ばれる地下水路の跡に入って行きますが、その前に説明してくださいます。

 中に入りますと、先ほど貼り付けた、当時と今のエルサレムの写真があるので、それを使って説明してくださっています。


 恭仁子さんが、再び、私の思っていた定説を壊すようなことを言ってくださいました。これからウォレンの「縦穴」を見るのですが、確かに彼がここを這い上がって、数々の遺跡を発見したのですが、そこはヨアブが這い上がってエブス人の町に突入したところと思われていたのが、違うだろうとのことです!

 模型でこれから行くところを見るとこうなります。

 右上の赤い部分がウォレンの縦穴で、その下に水平に走っている青色の水道の右端の最後、玉になっている部分がギホンの泉です。そして、大きく山腹に流れている水道がヒゼキヤの水道であり、左手前のシロアムの池につながっています。そして動画で説明があったように、これらは主に、紀元前18世紀に造られたものです、つまりカナン時代、エブス人が作ったものと言えます。水路は、①降下する道、②水平の道、③縦坑の三つの種類があります。

 急な下りになっている水路を降りていきました(動画)。そして、まさに「縦穴」と呼ばれる部分に着きます。(写真


 「だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を通り抜けて、ダビデが憎む足なえとめしいを打て。」(2サム5:8)そしてヨアブがよじ登ることが歴代誌第一11章6節に書かれています。ここの「地下道」がツィノールというヘブル語です。「縦穴」という意味もありますが、新改訳のように「地下道」の意味もあり、水路の意味もあります。水の縦穴と訳すのが普通なのですが、当時、またこの縦穴が今のようにつながっていたかったそうなのです。

 一つ目が、古い説で、Warren's shaftが今のようにつながっています。かつては、この縦穴から水汲みをしていたのではないかと思われていました。


 けれども、次が新しい説で、当時はこの縦穴が下のようにつながっていなかったというのです。そして水汲みは、大きな貯水池の塔から直接、桶を降ろして組んでいったのではないか?と言われています。

Light at the End of the Tunnelから

 それで、ヨアブがこの縦穴をよじ登ったのではなく、この貯水地地下道を経て町の中に侵入したのではないか?ということなのです。

 そして、さらに下に降りて行きました(写真)が、水の音が聞こえてきます。そして、下にまで降りてきました(写真)。ここがギホンの泉を要塞のようにして守る、泉を取り囲む塔ですです。Pool Tower(貯水塔)と呼んでいます。紀元前19世紀にカナン人が建て、エブス人に引き渡されました。


 ここで、ソロモンが王に即位し、またメルキゼデクがもしかしたらここでアブラハムを祝福したかもしれません。

 なんとここで、当時のカナン時代からソロモンの時代に至るまでの3D映像を、実際の遺跡に重ね合わせながら流します。上の遺跡を正面にして当時の姿を復元して行きます!


③シロアムの池

 貯水塔を離れて、私たちはヒゼキヤの水道の方に向かいます。


 真っ直ぐに行けばギホンの泉です(写真)。今も、シロアムの池までギホンの泉からの水が流れています。「ヒゼキヤのその他の業績、彼のすべての功績、彼が貯水池とと水道を造り、町に水を引いたこと(列王20:20)」。ここに書いている水道が、そのまま残っているのです。私は過去五回、この中を通りました。533㍍で、歩くと30分ぐらいかかります。途中で、驚くべき碑文が残っていて、当時の水道を造った人々が残した物です(実際のものは、トルコのイスタンブール博物館にあるとのこと)。前回と今回は、どちらも二月の旅行で、水がとても冷たく、水量が多いので、ここは、行かないことにしました。その代わり、シロアムの池に着いてから、都上りの道を上る体力を温存です!ヒゼキヤ水道については、動画を下に貼り付けます。



 ヒゼキヤの水道の入口のところに、左折して、こちらは乾いた水路が残っています。ここは、「シロアムの水路」とも、単純に「カナン人の地下道」とも言われるのですが、カナン人の時代にギホンの泉を中に取り組むために使われていたものと思われます。



 この水路を使って、ヨアブがエブス人の町の中に入った、という可能性もあるとのこと。先ほど話したように、ツィノールを縦坑と訳すのか、地下道と訳すのかで、後者であればヨアブがここを通ったという可能性も出て来るわけです。

 そして、ここを出るとすぐに、E区画が見えます。ここは、ダビデの町の東側の城壁ではないかと言われていますが、ここであるハプニングが・・・。



 パレスチナ人の子たちがサッカーをしていますね、実はこんなことをしてはいけません、ダビデの町の敷地内です。20代ぐらいの青年が、何か喚き散らしながら中に無理やり入って来て、それでその子たちがその後に続いて入ってきたのです。その時の瞬間を目撃したのですが、職員の対応がすごかった。冷静に眺めているだけです、そう、挑発して何か喧嘩になるように仕向けていたのですが、全く手を出さずに、そのまま警察に連絡したようです。私たちは、ワゴン車に乗ってシロアムの池まで行きましょうと言われて、ワゴン車に乗りました(写真)。ここは、ダビデの町の敷地の外になるのですが、2013年は歩いて移動したのですが、おそらく危険を察知したのではないでしょうか?先ほどの、パレスチナ人の青年と少年が、イスラエル警察から怒られている場面を撮影しました。


 それでシロアムの池です。ここは、ダビデの町の南端にあります。かつて、ゼデキヤ王がバビロンに包囲されていた時、ここから逃げました(2列王25:4)。帰還後のネヘミヤも、ここを通過しています(ネヘ2:14,3:15)。そして、第二神殿時代、新約時代には、ここから礼拝者がやって来て、清めの儀式を行なってから、都上りをしました。イエス様が、仮庵の祭りの時にわたしを信じれば、生ける水が湧き出ると言われた時(ヨハネ7:37)、祭司たちが壺にここから水を入れて、行進しながら都上りをし、神殿の敷地に流し出すという儀式を行った、水汲みの池でした。そして、ヨハネ9章に、生まれつきの盲人がここに来て、イエス様が付けた泥を洗い流し、目が開けた所であります(ヨハネ9章)。

 ここからメッセージをしました。南から眺めている感じです。階段は、長方形になっているシロアムの池の右側の階段です。(左側は発掘しようと持ったけれども、教会の敷地内にあり許可を出してくれなかったそうです。)



 ここの発掘は実は、とても最近のもので、それまではここの右奥にある、ヒゼキヤ水道の出口にもなっている、ビザンチン朝の時のシロアムの池を見学します。ここはビザンチンの教会が建っていて、池の中にある柱の跡は、その教会の一部だそうです。(写真

 今は、この上にモスクが建っています。

④都上りの階段

 そして戻って、先ほどの最近発掘のシロアムの池の北の部分から、都上りの道が始まります。下の動画に出て来る地図がよいでしょう、シロアムの池から礼拝者が上って行く道を示しています。ちょうど、南壁のところに到着します。



 ここの道は、もちろん当時は青天井でした。けれども、この道の発掘を進めているうちに、思いがけないことが起こりました。神殿の敷地内からシロアムの池にまでつながる、水路(下水路?)が発掘されたことです。そのため、この道は途中で、都上りの道から、その第二神殿時代の地下水路の跡に移ります。入口に入ります(写真)。


 入口には右側に、シロアムの池の当時の想像図が掲げられています(写真)。そして足元を見ますと、当時の階段が見えます。階段の幅が不一致になっているのですが、それは礼拝者が一歩ずつ確かめながら上がり、主を想うことができるようにするためです。


 階段を上がっていきます(写真)。そして、途中から次は地下水路に移ります。



 そして2013年の旅では、ダビデの町の敷地内への出口から出て行きましたが、今回はさらに発掘が進み、南壁考古学公園のロビンソン・アーチの下のところにある出口まで進んでいくことにしました。


 本当に、ここはつい数年前に発掘されたばかりの、ほやほやの場所です!今のイスラエル政府の閣僚がいかに感極まってここを通ったか、恭仁子さんが説明しています。

 そして出口に近づいています。




 そして、ロビンソン・アーチの真下に到着です!


南壁考古学公園から神殿再建財団まで(Google地図

6.神殿再建財団(The Temple Institute)
神殿再建財団について(2013年2010年 2008年ウェブサイトウィペディア

 南壁考古学公園から、ユダヤ地区に向かって階段を上がります。その中間のところに、神殿再建財団によるメノラ(燭台)があります。


 幕屋と神殿について、私たちが2月19日にティムナ国立公園の実物大の幕屋を見ましたが、こちらは、この正統派ユダヤ教の団体の人たちが、本当に神殿の丘に第三神殿を建てるために、その準備をしている人々です。これがどんな意味を持つか、容易に想像がつくと思います。2017年にトランプ米大統領が、エルサレムがイスラエルの首都であると言っただけで、アラブ社会、イスラム教の世界、そして西側諸国も大きく騒ぎましたが、その背景に、神殿の丘にユダヤ教が第三神殿を建てるのではないかとイスラム教が非常に恐れて、それで騒動になるからです。その神殿の丘の上に、実際に建てるために政治的に働きかけ、資金も集めています。

 それで、神殿の丘に行った時に、至聖所の位置が岩のドームだったのか、霊のドームなのか議論をしましたが、それは理論上の話ではなく、実際にその方向に推進させていることは間違いありません。私が初めの二回、イスラエル旅行に行った時は、ユダヤ地区のカルドにこの燭台が掲げられていました。けれども今、嘆きの壁、いやその向こうの神殿の丘を眺めるように、メノラが移ってきました。そしてついに、これまで階段を上がって右側の方に、申し訳なさそうに小さな空間に神殿再建財団があったところ、今回は階段を上がって左側に、以前にも増してバージョンアップした展示物になっていました。終わりの日、黙示録11章のことを強く思わされます。次の、神殿再建財団によるビデオを見てください。これが、彼らが夢見る神殿建設工事です。



 ユダヤ教は、聖書が示すように神殿中心の礼拝でした。しかしバビロンによって神殿が破壊されてから、律法の朗読を強調する、会堂(シナゴーグ)中心の礼拝が始まりました。これが、ローマによる神殿破壊後、決定的なものとなりました。聖書を読めば、けれども神殿がなければいけません。私たちは、聖霊の宿られる教会が神の宮であるという啓示を受けています。しかし、彼らにとって物理的に神殿がなければならず、それはメシヤによってもたらされると信じていました。

 しかし、どうしてそのように消極的になっているのか?という問いかけを、彼らはしている訳です。イスラエルの地に帰還した時も、人間の努力があった。しかしユダヤ教の神髄は神殿であり、これが回復することによって贖いが完成するのだ、そこに私たちも関わるのだとするのが、彼らの考えです。ユダヤ教正統派は、神殿再建はメシヤによるものであり、神殿の丘はどこに聖所があったか分からないので、そこに入ってはいけないとしているため、ムスリムとの衝突は避けられていたのですが、この人々は以上の理由から、祈りによって神殿の備えをしたいということで、かえって積極的に中に入ろうとします。そのため、酷い時は殺傷事件が起こる程の騒動が起こるかもしれない、そして周囲のアラブ諸国やイスラム教の国々が騒ぎ立ち、事実、建てられてしまったら、世界のイスラム教徒が立ち上がり、宗教の世界戦争が起こるのではないかと多くの人が心配しています。ところが、それを平和裏にまとめる人物が来て、神殿についてユダヤ人の多くと契約を結ぶとダニエル書9章27節に書いてあります。それが、終わりの時、最後の七年期、患難時代の始まりです。

 私はこれまでの聖地旅行で、一回も漏らさずにこの場を訪れていますが、用具やその他のものがこれほど整えられているのを見たのは初めてでした。着実に、神殿再建への道筋はが整えられているのを感じました。

 ビジター・センターに入ると、カナダ系ユダヤ人のアヴィさんがガイドをしてくださいました。→ 音声

 この音声はぜひ聞いてください。なぜなら、写真・映像撮影は展示物に対してしてはいけないことになっているからです。そこで、ユーチューブでこのビジター・センターを説明しているものはないか捜しました。次のが見つかりました、これでほぼ全部の展示物を網羅しています。



 アヴィさんも、以下の流れで話を進めています。

幕屋からソロモン神殿、第二神殿(そして第三神殿へ)概観
①ヘロデ神殿の模型
②外庭にある祭壇
 祭司と大祭司
 洗盤
③聖所の中にあるもの
 ソロモン神殿とヘロデ神殿の絵
 香壇
 メノラ(模型)
 供えの机
 至聖所(模型)

 メノラは、外にある先ほど見たものが本物です。そして、至聖所の契約のは事贖いの蓋も、本物ではもちろんありません。今も人々が契約の箱を探しています。そして、ここに出てきたいろいろな用具は、ウェブサイト等にも掲載されているので確かめられるとよいでしょう。

 ところで、なぜこれらの用具がそのような物であることが分かるのか?聖書の他に、タルムード等のいわば解説書、それから歴史的資料や考古学による遺物から推測しています。

 最後に、将来の第三神殿の姿を描く映像を見せられました。ユーチューブにも掲載されていました。


7.BFPエルサレムのホテル訪問
Bridges For Peaceのウェブサイト
日本支部のウェブサイト

 私たちは、おそらく糞門に戻り、バスに乗ってホテルに戻りました。そして夕食を取りましたが、そこに現地旅行社のAmiel Toursの今回の担当者がおり、それからブリッジズ・フォー・ピースのスタッフのシャーリー・バーディックさんと、フードバンクでお世話になってきたモシェさんと、その子供たちがいました。ご飯を一緒に食べて、そしてホテルの一室を借りて、私たちは、お二人から思う存分、リアルな、躍動している主のお働きを聞くことができました。

 今回の聖地旅行では、遺跡だけでなく、生きた石である現地の人々との出会いを大事にしました。エルサレム初日には、イエメン系ユダヤ人の、ツィオンさんハンナさん御宅のシャバット・ディナー、次の日のクライスト・チャーチではガイドがイスラエル人の信者の方、そして今日は、中華系アメリカ人のクリスチャンであるシャーリーさんと、アメリカ系ユダヤ人で最近アリヤー(帰還した)モシェさんです。イスラエルに関わる人たちは、いろいろな系統があり、それぞれどのような背景と立場で来ているかによって、大きく話が変わって来て、鮮やかな多様性があります。

 ブリッジズ・フォー・ピースは、私が1999年初めにイスラエル旅行をした時から、耳にしていて意識していた団体でした。その特徴は、聖書預言に強い関心を示しつつ、それが今のイスラエルに実現していることを信じつつ、その働きの中に関わろうとすることです。そして、キリスト教の長年にわたるユダヤ人迫害をしてきた傷が深く残っている中で、イザヤ書40章の「慰めよ」のメッセージをもって、キリストの愛でユダヤ人に慰めを与える、人道支援を大体的に行なっています。そして驚くことは、日本支部があり、かなり数百もの日本の教会がその祈りに関わっている程、ネットワークが広がっていることです。日本では、かつてのホーリネス運動にあったイスラエルのための祈りの流れが、一部、受け継がれているような気がします。

 初めはシャーリーからです。以下に日本支部のウェブサイトからの紹介があります。
 【ご案内】現地レポート第二弾 シャーリー・バーディック初来日!
 ハイメール通信 2018.1.27 東京オープンハイナイトのお知らせ
 そしてモシェさんが、どのように助けをクリスチャンから受けたかを分かち合ってくださいます。

 では、長いですがぜひビデオを楽しんでください。


 この旅の後、2016年9月に再来日し、私たちの教会にも来てくださいました!
 シャーリー・バーディックさんを迎えて(9月17日)