2016年イスラエル・ヨルダン旅行記 2月22日
1.カイサリア
2.カルメル山
3.メギド
4.ナザレ
私たちは朝に、中村さんが導くデボーションを終え、ついにエルサレムを出ます。
この日は、小雨が止んだり、降ったりの日でありました。(エルサレムのホテルからの写真)。イスラエルは、11月頃に冬の雨、あるいは初めの雨が降り、雨季に入ります。そして3月に春の雨、終わりの雨が降ってそれから長い乾季に入ります。ですので、2月後半にイスラエルに旅行に行くというのは雨季ということであり、雨に降られることは仕方がありません。けれども、イスラエルにとってはこれが「良い天気」でしょう。恒常的な水不足問題がある中で、雨は恵みそのものであります。
いつもそうですが、エルサレムからガリラヤに向かう時に少しほっとします。エルサレムはとても霊的に濃い場所ではありますが、その圧倒的な歴史と宗教的重みの中で、云わば海のスキューバーダイビングをしているような気分になります。しかし、エルサレムを離れ、素朴な弟子たちが主と共に動いたガリラヤ地方に行く時に、その重みが一挙に取れます。爽やかな、云わば「宣教の空気」が流れて行きます。
私たちはこれから、ガリラヤに行く前に私たちは地中海側から北上します。カイサリア、カルメル山、そしてメギドを通ります。カイサリアは「宣教」が主題ですが、カルメル山では「霊的対決」が、そしてメギドは「最終の戦い」というテーマが流れます。そしてガリラヤ地方に入り、イエス様が育たれたナザレを訪問し、ガリラヤ湖畔のホテルへと向かいます。
エルサレムのホテルからカイサリアまで(グーグル地図)
グーグルの地図を辿っていただくと、エルサレムから国道一号線に乗っかります。この一号線は、テルアビブから死海の北、エリコ方面にまでつながる、イスラエルで最も交通量が多いであろう、東西を結ぶ路線です。エルサレムからテルアビブに向かう部分は、2010年の旅と2013年の旅をした時に紹介をしましたが、「アヤロンの谷」に重なる部分です。つまり、ヨシュア率いるイスラエル軍が、五人のカナンの王と戦い、彼らが逃げている時に追っていった道です。「日よ留まれ、月よ留まれ」とヨシュアが祈って、それが聞かれたところです。
そしてこの道には、戦跡が、中央分離帯や道路の側面に残されています。1948年の独立戦争の主要な戦場になったところだからです。アラブ人の勢力はエルサレムを絞め殺す戦略に出て、初代首相ベングリオンが指揮を取り、エルサレムを死守しなければいけないとして、テルアビブなど海岸の町々とエルサレムへの補給路を確保できるかどうか、その熾烈な戦いがユダヤとアラブの間で繰り広げられました。(2010年の旅)
1.カイサリア
(2013年の旅、2010年の旅、2008年の旅、カイサリア国立公園、Bibilewalks.com)
そして国道六号線に入ります。国道六号線はベエル・シェバからカルメル山の麓辺りまでの南北に走る道路です。私が初めてイスラエル旅行に行った時はこの道路は無かったのですが、この道路のおかげでずっと早くカイサリアなどに行くことができるようになっています。ユダヤ・サマリヤ地方である今のヨルダン西岸地区のすれすれのところを通り(右側)、途中で左に曲がって海岸にある遺跡都市、カイサリアに行きました。カイサリアは、今、国立公園となっており、遺跡群だけでなく、周囲にゴルフ場など現代のレクリエーションを楽しむことができるようになっています。
遺跡がどのようになっているかを知るには、こちらの航空写真をご覧になると良いでしょう。地中海、つまり西側から撮っていますが、中心は、右側にある港湾の跡です。そこから船が出航していました。海で濃くなっている部分がお分かりになると思いますが、そこにかつての防波堤が存在していました。そして船出するところが緑の芝の色が見えるかと思いますが、その芝の部分はかつてはそこまでが海で埠頭となっていました。そこに、大きなアウグスト皇帝を祭る宮がありました。そして中央には、競馬場の跡が横に長く広がっています。そして右に突き出している岬みたいになっているのが、ヘロデの宮殿の跡であり、その後ろにあるのは、半円形劇場です。私たちは、半円形劇場のほうから入って、それからヘロデ宮殿、競馬場を見てから再びバスに乗り、次に埠頭の跡のほうに移動します。
当時がどうなっていいたかの想像図が次です(クリックすると拡大します)。
「イエス時代の日常生活」から
イスラエルで地中海の港として使われていたのは、聖書にも出て来る「ヨッパ(今のヤッフォ)」です。自然に出てきた岬を利用します。旧約聖書では、ヨナがヨッパからタルシシュ行きの船に乗ったことが書かれています。しかし、建築の天才であったヘロデ大王は、紀元前25年かつて「ストラトンの塔」と呼ばれる小さな要塞を大増築して、人工港湾を造りました。そして非常に大きな都市を造りました。防波堤のため海中にコンクリートを押し流す技術も、この時に使いました。日本では弥生時代の時のことですから、信じられないほど先端的です。
この都市の機能と良港に魅せられて、数多くの人たちが、異邦人、ユダヤ人問わず住み始めました。ローマ帝国は、海上交通の利便さに目を付けて、ここをユダヤ属州の首都として、総督と軍隊の駐屯地としました。ゆえに、新約聖書、特に福音宣教において大きな舞台の一つとなっていきます。総督ピラトがここ駐屯していたことになりますし、それを証明する遺跡が発掘されています。そして、パウロがエルサレムで捕らえられて、カイサリアに連れていかれ、ここで幽閉され、ペリクス、フェスト、そしてフェストの願いでヘロデ・アグリッパ二世の前で弁明します。また、ヘロデ・アグリッパ一世が、演説をしているうちに、神に栄光を帰さなかったので天使によって打たれて死んだのも、カイサリアです。伝道者ピリポは、ここに滞在していました(使徒8:40,21:8)。使徒ペテロが、異邦人に初めて伝道したのは、カイサリアにいる百人隊長コルネリオに対してでした。
それから、エルサレムが70年にローマによって破壊されますが、その発端となったのが66年にカイサリアで起こった暴力事件であり、それが全国におけるユダヤ人のローマからの独立戦争へとつながりました。そして、2008年の旅でデービッド・ホーキング氏が説明してくださいましたが、新約聖書の時代以後も、初代教会の拠点となりました。ユダヤ人の第二のバル・コクバの反乱の後、初代教会は拠点をエルサレムからここカイサリアに移しました。そして、教父たちがここに滞在し、数多くの古典を残しました。歴史家エウセビオスやオリゲネスがいます。
そしてペルシヤやイスラム教によって破壊されたけれども、存続はして、12世紀に十字軍によって植民都市となります。ですので、ローマ時代の遺跡だけでなく、ビザンチン朝の遺跡と十字軍の遺跡も色濃く残っています。
円形闘技場
私たちは初めに、円形闘技場を見ました。舞台のほうから解説を聞きます。
地中海東部では、ここが最古のローマの劇場だとのことです。直径100㍍、四千人の収容できます。500年も使用されました。初めは、ギリシヤとローマの演劇を行ない、パントマイムも行なわれましたが、その腰振りなどはユダヤ人には刺激的で、つまずきを与えるものだったそうです。異文化、倫理観の違い、その摩擦が絶えずあったことでしょう、後のユダヤ反乱の原因の一つになっています。劇場は数多くの改修や改装を経ています。一時期は、ここの床が巨大なプールとして改造し、水上の競技も行なわれたようです。(恭仁子さんの説明によると、かなり残虐なエンタテもあったようで、ローマのコロセウムで行なっていたのと実に似ています。)そして、現代もここで数多くのコンサートが開催されています。ネットでは、ヒルソングのコンサートを見つけました。
しかし、だからこそ、ここは宣教の分岐点になったのでしょう!罪人を救うために来られたキリスト、そして異邦人とユダヤ人を一つにするキリストの福音が光ったことでしょう。
そして劇場の背後、海側のほうに階段の跡があります。ここは、皇帝ティベリウスに捧げる宮の跡です。
映像には、三つの階段のみが映っていますが、この横に柱の跡があります(写真)。その柱の上のほうのに使われていたであろう、ポンテオ・ピラトの名の記された石碑が見つかりました。次にその複製を見に行きますが、発見された経緯をここで説明しておられるわけです。そして、皇帝に対する宮は、埠頭のほうにヘロデ大王によるものがあったのですが、こちらでは総督ピラトによっても宮がこちらにあったことが分かります。
この劇場を3Dによって復元した動画がこちらにあります。
円形闘技場の裏、地中海の海岸のほうに行くと、岬のようになっているところに遺跡が広がっています。ここがヘロデ宮殿です。
ピラトの石碑(Wikipedia)
その遺跡に行く途中で、ポンテオ・ピラトの名が記されている石碑の複製があります。この発見は、ピラトが歴史上の人物であったことが聖書以外に見つかったということです。使徒信条の中にも出て来るほど、彼の存在は聖書の中とキリスト者の中で大きいのですが、ヨセフスとまた他の文献を除いては、その名が出てきませんでした。それで彼が存在しなかったという批評まであったほどです。ところが、この石碑が見つかって、明らかにピラトの史実が証明されたのです。なぜ彼が文献の中で少ないか?を考えますと、それだけ政治的に能力がなかった人物と言えるのかもしれません。
ピラトは、在任が26‐36年というたった10年でした。十字架刑に処する時のピラトが有名ですが、ルカ伝には彼が、ガリラヤ人の捧げ物に、ガリラヤ人の血を混ぜたという残虐なことをしたことが書かれているように、ユダヤ人に対して強圧的、挑発的な態度で臨んでいたことが、ヨセフスの文献も出分かります。彼のせいでユダヤ人の対ローマ感情を悪化させたであろうと言われています。そして彼はサマリヤ人を不当に殺害させたという告発で罷免させれています。そういったピラトですが、イエス様に関しては、ユダヤ人に対して強圧的な態度を見せられなかったというところから、あの出来事の異常性、いや、イエス様がこの世の基準から全く外れた、神のご介在が直接あった特別な時であったことが、想像できます。
ヘロデ岬宮殿
ヘロデ宮殿の跡に話を戻しますと、ローマがヘロデ大王の死後、ユダヤ地方はその息子アルケラオが治めたものの、その失政のため罷免し、直接、ローマが治めるユダヤ属州になりました。それ以降は、総督の居住する所となったので、ピラトやその他の総督がここで住んでいたということになります。ですから、パウロが幽閉されていたのも、この宮殿の一部あるいは隣接していたところであると考えられるのです。
元の宮殿がどのようになっていたか、その絵図はこちらの写真でご覧ください。岬のように海に出っ張っています。そして海に出っ張っているところに、真水のプールを作っていたのです。そこに、ビデオでありましたように、プールの手前のダイニング・ルームに、ユダヤ教式のモザイクも残っているとのこと。マサダのローマ式の風呂と同じように、全く人気のない空間で時間を過ごすように工夫して作ったと言えます。そして、そのプールの復元図について、こちらの考古学の記事に掲載されています。そして、旅行のメンバーが実際の遺跡の写真と、想像図の写真のとちらも撮っていました。
これを発掘した考古学チームのウェイブサイトがあります。→ ヘロデ岬宮殿サイト
競馬場
岬の宮殿の手前には、パウロも幽閉されていたであろう場所の跡があります。そこから目の前が競馬場の跡です。説明を聞きました。
雨天のためよく見えないと思いますので、2013年のたけさんの旅行記の写真と、Biblewalks.comによる上空からの写真をご覧ください。恭仁子さんの説明のように、左半分(海側)の観客席がちょうど波を打っている部分にあったことが分かりますね。ヘロデ大王が競馬場を造り、その後でアンフォテアルトム(楕円形の劇場)に改築したそうです。あの「ベン・ハー」の有名な競馬の競技の場面(ユーチューブ映像)は、イスラエル人の考古学者もその正確性に驚いたそうです。
ヘロデ・アグリッパ一世の死
そして、動画の中で、ヘロデの死についての説明がありますね。使徒12章における出来事です。新約聖書に出て来る「ヘロデ」は主に四人います。イエス様が生まれた時に、ベツレヘムの男の子二歳以下を殺したのが、ヘロデ大王です。そして、バプテスマのヨハネを斬首し、イエス様がガリラヤにて言及し、また過越祭の時のエルサレムで、十字架に付けられる前に主が連れて行かれたのは、ヘロデ・アンティパスです。そして、使徒12章、ヨハネの兄ヤコブを殺し、ペテロも殺そうと思ったが御使いの手助によって脱獄し、自身はカイサリアにおいて演説中に御使いに打たれて死んだのが、「ヘロデ・アグリッパ一世」です。そして同じくカイサリアにおいて、パウロが弁明した相手が「ヘロデ・アグリッパ二世」です。この四人がいますが、今、話しているのは、使徒12章に出て来るアグリッパ二世のことであります。
「定められた日に、ヘロデは王服をまとって王座に着き、彼らに向かって演説した。集まった会衆は、『神の声だ。人間の声ではない』と叫び続けた。すると、即座に主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫に食われて、息絶えた。(21‐23節)」
この出来事が、ヨセフス著の「ユダヤ古代誌」には、次のように書いてあります(XIX.8.2)。
「さて、見世物の二日目のことである。アグリッパスは銀糸だけで織られたすばらしい布地で裁った衣装をつけて、暁の劇場へ入場した。太陽の最初の光が銀糸に映えてまぐしく照り輝くその光景は、彼を見つめる人たちに畏怖の念を与えずにはおかなかった。すると、突然、各方面から、佞人(ねいじん こびへつらう人)どもが ―本当にそう思ってではないが― 「ああ神なるお方よ」という呼びかけの声を上げ、そして言った。「陛下がわたしたちにとって吉兆でありますように。たとえこれまでは陛下を人間として恐れてきたとしても、これからは不死のお方であります。わたしたちはこのことを認めます。」と。
王はこれらの者たちを叱りつけることもなければ、その世辞を神にたいする冒涜として斥けることもしなかった。ところがしばらくして王が視線を上方へ転ずると、頭上の綱の上に一羽のふくろうが留まっているのを認めた。
明らかにそれはかつての日の喜びのおとずれであり、これからの災いの前兆であった。それを悟った瞬間、彼は心臓に刺すような痛みを覚えた、しかも、その激しい痛みは全身に広がり、ついで締め付けるような痛みが胃を襲った。(中略)
しかし、五日間にわたる腹部の痛みに消耗しきった王は、ついに54年間におよぶ生涯と七年間の治世を終えた。」
曲がりなりにも、ヘロデはユダヤ教の改宗者です。神に栄光を帰さないということが、どれだけ恐ろしいことかを如実に物語っています。また、彼がヤコブを殺し、ペテロを殺そうともした迫害者としての裁きもあったことでしょう。
さて、その御使いに打たれた場所でありますが、「王座」と聖書にはあり、ヨセフスの記録では「暁の劇場」とあります。劇場は、先に見たローマの半円形劇場もあるのですが、もしそこで演説をしたとしたら、朝の光線は入って来ないのです。劇場が西向きだからです。けれども、こちらの楕円形劇場であれば、12段の座席しかないので、朝の光線は十分に入ってきます。私はずっとローマの半円形劇場だと思っていましたが、2013年の旅で恭仁子さんから、ここの楕円形劇場だと指摘され、調べると以上のような説明がありました(Not in the Theater: Challenging Josephus’s Location for the Place of Herod
Agrippa’s Death)。
そして、この場で、パウロが幽閉され、しかし大胆に弁明しながら福音を宣べ伝えたパウロのことについて話しました。
強風で、自分の髪の毛がトランプ大統領のようになってしまって、ちょっと恥ずかしいです。(笑)この辺りの遺跡を写真で確かめます。→ 図面、写真
では、これまで見てきたところを、Biblewalks.comにある上空からの動画で確認してみましょうか。
(こちらには、高精度のドローン撮影の動画があります。ヘロデ宮殿の跡など、くっきり見えますね。)
あいにく、雨によって競馬場の観客席のところを歩くことは断念しました。その北側の部分にもたくさん、遺跡があります。ローマ時代のヘロデによる、巨大な港湾倉庫の跡です。→ Biblewalks.com
北に移動
そして次に行くのは、北側からの入口、カイサリアの中心部、正面玄関の埠頭の遺跡がある部分から入ります。まず、こちらの部分も上空からの動画で確認しょう。
十字軍の入口
走っていくと、そこには十字軍時代の掘があります。(写真)中に入れば、外にローマ時代、ビザンチン時代のもたくさん発掘されていますが、上の動画にあるように入口は、十字軍のものです。建て方によってすぐにその特徴があるので分かります。(入口の写真)ところで、一つの所に、いくつもの時代のものがあるので、混乱されるかもしれません。けれども日本だって、なぜ「皇居」に「堀」があるのかを考えていただければ簡単です。「堀」があるのは、そこがかつて江戸城だったからですね。江戸城を明治維新になって天皇家の居住の場所に使ったからです。同じところを次の時代の人が使い続けるというのは、世界中の遺跡に共通してあります。
こちらの写真に地図があります。①が入口ですが、左に曲がって、真ん中の芝生になっているところの手前、㉗の部分を歩いています。芝生のところは当時はそこも海で、芝生と㉗の境目に埠頭がありました。
アウグストを祭る宮
そして、㉗の遺跡の多くの部分が、立ち入り禁止になっていました。2010年の旅に中に立ち入ることができたのですが、後でようやくわかりました。ここには、埠頭を見下げるような形で、ヘロデ大王が皇帝アウグストに奉献する宮の土台の部分の遺跡があります(想像図)。また、ビザンチン時代の教会の跡もあります(想像図)。ローマ時代のその建物を復元するプロジェクトを始めていたのです。
Caesarea Harbor Vaults Project
上は芝生のほうから撮った写真です。上の復元図の真ん中にある、一番上の建物が、アウグストの宮です。こちらのロイターの記事やイスラエル考古学庁にはビデオがあります。
とりあえず、周りを歩いて見えた、旅行のメンバーが撮った写真を紹介しましょう。㉗の遺跡群の後ろからぐるりと回って、手前の芝生の前にある埠頭へと移動します。
裏手にある遺跡、十字軍時代のアーチ、アウグストの宮の土台、中心部分を横目で見ながら芝生の埠頭部分へ、中心部分を南側から撮った写真、中心部分、アウグストの宮の土台から埠頭を眺めた写真(Bibleplaces.com)
パウロが利用した船着き場
埠頭のところまで来ました。
(動画はこちらから)
ちょうど、小さな階段があって(アップ写真)、そこが船着き場であることが分かります。パウロが、第三次宣教旅行からエルサレムに向かう時に、カイサリアを利用しました。
「翌日そこ(プトレマイオス)を出発して、カイサリアにつくと、あの七人の一人である伝道者ピリポの家に行き、そこに滞在した。(使徒21:8)」
そしてエルサレムで捕まり、カイサリアに幽閉され、今度は囚人としてカイサリアを出航します(使徒27:1)。
ここまで見て、私たちは先ほどの十字軍の遺跡の入口に戻りますが、この埠頭の後ろにもこの写真のように遺跡がたくさんあります。そして、階段を上がるとすぐに、カイサリアのニンファエウムがあります。ヨルダンのペトラの遺跡にもあった、町の中心部に向かう角に造られた、噴水のある場所です。この角を曲がれば、アウグストの宮があります。待ち合わせの場所としても、水汲みの場所としても用いられていたようです。
カイサリアは、海の中にも遺跡が埋まっています。沈んだ貨物船から、銅像や貨幣が発見されています(記事、動画)、金貨も見つけたようです(動画)。そして驚くことに、水中ダイビングをして、海中に眠る遺跡を見るツアーもあるようです!ヘロデの造った防波堤などを見るようです。
Old Caesarea Diving Center
(動画1、動画2)
導水橋へ
バスに乗り込み、少し北上します。上空写真ではわずかに見えていた導水橋に行きました。これだけの巨大な都市ですから、水の確保が必要です。北にある泉から運んできた水をこの橋によって町の中に流していきました。(時間の関係上、バスから降りず、近くまで行き、車中からの写真です)。
カルメル山の南、カイサリアから10㌔ほど北にあるShunnmiというところから水を運んできています。ハロデがこれを初めに造り、アウグストに捧げました。そして、ハドリアヌス皇帝がさらに向こうにあるTanninim川から持ってきているそうです。Biblewalks.comに数多くの詳しい写真が載っていますので、是非ご覧ください。→ Aqueduct of Caesarea
そして、私たちはカルメル山に向けて北上します。車中からカイサリアの導水橋の水源になっているところを説明してくださいました。
そしてカルメル山の麓まで来ますと、そこには比較的裕福な、アラブ人(ドルーズ人)の居住地域が出てきました(写真)。そして山をぐんと登って行きます。
2.カルメル山
(2013年の旅、2010年の旅、2008年の旅、Biblewalks.com)
カイサリアからカルメル山修道院まで(グーグル地図)
カルメル山の概要
「カルメル」とは、「果樹園やぶどう園」を意味している言葉で、聖書にも肥沃で美しい所として出てきます。堅い石灰岩によって山が形成されているために、海岸に沿って剃り立っていますが、浸食していません。この山脈は、北西から南東へ斜めに、24㌔続き、5㌔から13㌔の幅があります。その高さは平均470㍍で、最も高いところは566㍍だそうです。これから向かうカルメル修道院のあるムフラカは482㍍なのだそうです。こちらのグーグルの立体地図を見てみてください、左側のCarmel Mountain National Parkとなっているのがカルメル山です。そして右上にあるのがガリラヤ湖です、その間に広がっているのが、イズレエル平原です。
カルメル山は聖書では、その美しさと豊かさが描かれています。「頭はカルメル山のようにそびえ・・(雅歌7:5)」「カルメルやシャロンの威光が授けられるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。(イザヤ35:2)」「わたしはイスラエルをその牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで満ち足りる。(エレミヤ50:19)」ゆえに、神の裁きが与えられる時は、その美しさが無くなる形で与えられます。「シャロンは荒れ野のようになり、バシャンもカルメルも葉を振り落とす。(イザヤ33:9)」(シャロンは、カイサリア辺りの海岸沿いの平野です。)「主はシオンからほえ、エルサレムから声をあげられる。羊飼いの牧場は乾き、カルメルの頂は枯れる。(アモス1:2)」そして、イズレエル平原のタボル山と並んで、そこにそびえる威厳ある、不動の存在としても出てきます。「タボルが山々の間にあるように、カルメルが海のそばにあるように、彼は必ず来る。(エレミヤ46:18)」
そして、カルメル山からイズレエル平原に入るには、三つの峠があります。一つは、ヨクネアム(Yokneam)峠、メギド(Megiddo)峠、そしてタナク(Taanach)峠です。
上の地図は、ムフラカから見るイズレエル平原の全光景を見る時に役に立つでしょう。イズレエル平原に入る他の峠としては、山脈沿いにハイファに流れ出るキション川の道、ジェニンの下り坂(サマリヤ地方)、ガリラヤ湖に向かうタボル山(Mount Tabor)沿いの道、そしてイズレエル道(ベテ・シャン Beth-shean)があります。これらの峠を通って、南北にサマリヤ山地、ユダヤ山地など、山地の多いイスラエルを東西に横断し、旅をするのです。
そしてムフラカからは、イズレエル平野の代表的な山を見ることができます。ナザレ(Nazareth)の町の東にタボル(Tabor)山、モレ(Moreh)山、そしてギルボア(Gilboa)山です。これも後で、屋上からの眺めで確認することができます。
ムフラカの屋上から眺める
「ムフラカ」はアラビア語で「火」の意味ですが、エリヤがバアルの預言者と対決したことを記念しています。そこに、この対決のことを記念している教会があります。カトリックのカルメル派修道院です。
その建物の屋上に行くと、そこから見事に、イズレエル平原を始めとする全景を眺めることができます。屋上にはこの写真のように、どの方向に何が見えるかの印があります。
上のビデオの補足としてこちらの全景写真があります。そして、Biblewalks.comにある高精度のパノラマ写真をご覧になりながら見るとよいでしょう。 ⇒ Keren Carmel (Mukhraka)
初めに恭仁子さんは、ナザレの少し向こうにあるタボル(Tabor)山から説明されます。そこが伝統的にタボル山が、イエス様が変貌されたところとされていまして、私が「説ですね」と突っ込むと、ピリポ・カイザリヤにイエス様が行かれて、そのすぐ後に高い山に登っておられるので、ヘルモン山が変貌されたところではないか?というのが私がこれまで理解していた事ですが、確かに伝統的にはタボル山でそこには教会がいくつかあります。そしてはっきりしている聖書の記述は、デボラとバラクが、カナン人の将軍のシセラと戦った山として出てきます。
そして、さらに右を見ると小高い山があり、それが「モレ(Moreh)山」です。それは士師記、ハロデの泉でギデオンの勇士たちが三百人に減らされ、そこから北上して、モレ山の向こう(北)にいるミデヤン人に打って出たところです。そしてさらに、モレ山の右隣にギルボア(Gilboa)山です。タボル山をナザレに行くと目の前に見えますし、明後日にギルボア山を上り、そしてイズレエル(Jezreel)の町とハロデの泉(En
Harod)に行ってモレ山を近くで眺めます。そして、ギルボア山の右がサマリヤの山地です。イズレエル平原の説明もしてくださり、「エル」は神で、「神は植えたもう」という意味で肥沃な土地です。
そしてここが、戦いが繰り広げられていることを説明しておられますね。その後に、次に訪問するメギドの説明をしています。これが「ハルマゲドン」です。そして手前、右の方に「ヨクネアム(Yokneam)」の遺丘があります。ヨシュア記12章22節など、ゼブルン族の相続地でレビ人の町でした。そして後ろ、西に振り返ると、たまたま地中海も見えました。そこから、「海沿いの道(イザヤ9:1)」ヴィア・マリスがありました。そしてメギドの道を通るか、あるいは手前のヨクネアムの道を通るかして、この平原をとおり、それからガリラヤ、そしてダマスコに向かいました。
それから、緑が線上になっていますが、そこにキション川があります。士師記でデボラが、歌った時に出てきた川の名前です。「キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キション川が。わがたましいよ、力強く進め。(士師5:21)」(恭仁子さんは、タボル川ではなかったのではと仰っています)そして、エリヤがバアルの預言者を処刑したのも、このキション川です(1列王18:40)。
そしてここから、エリヤとバアルの預言者との対決について話しました。
明後日、再びイズレエル平原に戻り、今は西側にいるのですが、明後日は東側に行きます。ですので、前回以上に今回の旅は、じっくりとこの平原について、また、下ガリラヤと呼ばれているこの地域を巡ることができます。
3.メギド
(2013年の旅、2010年の旅、2008年の旅、Biblewalks.com)
カルメル山からメギドへ(グーグル地図)
メギド国立公園は、カルメル山脈の最も南西端のところにある大きな遺丘です。上のグーグル地図を開いて見てください、3Dにしているので分かり易いと思います。ムフラカから近そうで実は25㌔ぐらいの車での走行ですね、30分もかかります。そしてこの地図を右にざ~っと動かすと、緑色でReserve(保護区)が表示されます。右上がTavor
Mountainとあり、これが「タボル山」です。そして真ん中に、Giv'at HaMo'reとあります、これがモレ山のことです。それから少し下にさげると、HaGilbo'aと出てきます。これがギルボア山です。後で、メギドから見えるこれらの山々の動画を紹介します。
中東全図でみるメギド
メギドについて、まず知らないといけないのは、その戦略的な位置です。グーグルの地図を、い~っきにズームアウトしていただければ、下の恭仁子さんが説明している中東地図が出てきます。南はエジプト、北はシリアで北部にユーフラテス川上流も見えてきます。(こちら)
これをウィキペディア「ウィア・マリス」にある地図を見れば、海沿いの道と、東には私たちが2月17日に南下した「王の道」があるのが分るでしょう。これでいかに、イスラエルが二つの古代文明に挟まれた地域であることがお分かりになると思います。南がエジプト文明、北がアッシリアなどのメソポタミア文明があり、ここは古代から通商、交易の中継地であり、隊商がイスラエルを通過して交易をしていたことが分かります。ヨセフが兄たちに売られた時に、彼らがエジプトに行く隊商であったことを思い出してください。そして、この中継地点を掌握すれば、自分の勢力圏を伸ばすことができるということで、戦いが古の時代から聖書時代、そしてそれ以後の近代に至るまで続いてきたことが分かるのです。それゆえに、神がイスラエルを選ばれ、彼らを通して平和を世界にもたらすという幻は、次のようにして実現します。
「その日、エジプトからアッシリアへの大路ができ、アッシリア人はエジプトに、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人はアッシリア人とともに主に仕える。その日、イスラエルはエジプトとアッシリアと並ぶ第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。(イザヤ19:23‐24)」
興味深いことに、かつてのヴィア・マリスは、かつてと変わらないように戦争の絶えない地域になっています。エジプトとイスラエルは平和条約を持っているものの、カザ地区という両国にとって厄介なハマスが実効支配しています。そしてガリラヤ以北はシリアですが、イスラエルを認めていないだけでなく、今や内戦地、そしてイランやロシアが軍事拠点を築きつつあり、かつてのシリアにあった古代遺跡も、最近まで支配していたイスラム国などによって、破壊されまくっています。悲しい、悲しい現状ですが、それでも主はイザヤが預言したような平和の御国の幻を持っておられるということです。
そして、イスラエルの地形は、日本の東北地方のように、地中海とヨルダン渓谷の間に山地が走っています。北からガリラヤ、次にサマリヤ山地、そしてユダ山地です。ですから、エジプトから北上するのであれば、どこかで海沿いの道から内陸に入り、シリアのダマスコに向かわないといけません。それでその南北の山地を途中でちょんぎったように、東西に平原が広がっているのがイズレエル平原であり、その平原の入口がメギドであったり、先ほどカルメル山から見たヨクネアムだったりします(ただ、ヨクネアムは、ツロなどに行くためさらに海岸沿いを北上するために使われることのほうが多かったような気がします)。そのため、メギドは極めて戦略的な要所であり、ここにカナン時代以前からアッシリアの占領の時まで、実に25もの層があり、それだけ戦いが繰り広げられ、一つの町が次の勢力の町によって壊され、平らにされ、それで新たな町を作り、その繰り返しを行なっていったということが言えます。
メギドの多層、そこにある戦い
そして次に、メギドの遺丘の模型になっています。かつてはもちろん、平坦な丘でありましたが、度重なる発掘によって、削り取られた部分があります。それはもちろん、もっと古い時代の層を掘り起こしたいからです。今の表面の部分は基本的に、ソロモンそして、アハブやヤロブアム二世の王国時代のものですが、上に上昇した部分は、カナン時代のものを見ることができます。映像の初めの部分は、北から見たもの、入口も北からです。後半部分は、南からのもの、そこに泉にたどり着くための地下道の説明があります。ここのメギドが町として選ばれ続けた大きな理由の一つが、水源です。ダビデの町と同じように、城壁の外にある泉から水を確保するのが危険なため、地下から水を確保します。
そういえば、聖書に出て来る「メギド」についてまだ書いていませんでした。聖書の前で有名なのが、「メギドの戦い」というもので、エジプトのファラオ、トトメス三世とカナン人の王たちが戦ったものがあります(トトメス三世は、モーセ率いるイスラエルを追って紅海に沈んだあのファラオです)。そして、ヨシュアたちがカナンの地に入って来て、メギドの王を倒しています(ヨシュア12:2)。しかし士師記を見ると、カナン人は力を保っていて、倒れていないことが分かります(士師1:27)。シセラとの戦いにもその一部が出てきます(5:19)。
そしてダビデがイスラエルを統一し、王国が確立し、この都市を征服しています。ソロモンが受け継いだ時にメギドを要塞の町としました。「ソロモン王は役務者を徴用して次のような事業をした。彼は主の宮と自分の宮殿、ミロとエルサレムの城壁、ハツォルとメギドとゲゼルを築き直した。(1列王9:15)」そして、この要塞の町を、アハブやヤロブアム二世がよく使用していた遺跡が残っています。
この王国時代に、アハズヤ王がエフーに追われてメギドで倒れたことが書かれています(2列王9:27)。エフーについては、イズレエルの遺丘に明後日に行く時、説明します。そして有名なのが、ヨシヤの死です。この時にはすでに、紀元前732年、アッシリアの王ティグラテ・ピレセルが北イスラエル王国の大半をを滅ぼし、それ以後、アッシリアのガリラヤ州の首府になりました。
しかし有名な戦いが、第二のメギドの戦いが始まります。南ユダ王国の王ヨシヤが、エジプトから北上し、カルケミシュにおいてバビロンと対峙するために出てきた、エジプトのファラオ、ネコと戦いました。(2列王23:29‐30、2歴代35:20‐27)。この後に、ユダはエジプトの支配下に入り、しかしエジプトがカルケミシュの戦いでバビロンに敗れたので、一気にバビロンの勢力圏の中に入るようになります。この戦い、ヨシヤの死についてはゼカリヤ書12:11に書いてあります。
これが聖書時代であり、それ以後、オスマン・トルコに対して英軍将軍アレンビーが決定打、「メギドの主」という称号が与えられます。これを第三のメギドの戦いと言ってもよいでしょか。そして聖書に書かれているけれども、まだ将来をを待つのが「ハルマゲドンの戦い」です。ハルマゲドンはメギドの丘という意味で、東からの王たち、全世界の王たちがこの辺りに集結することが分かっています。(黙示16:12‐16)。
遺跡見学
遺跡を見て行きますが、二つ、依拠していくとよい図があります。
1) 公園内にある図
2) Biblewalks.com
2)のBiblewalks.comの二枚目の写真は、北側からの入口から説明がありますね。それぞれの黄色の点をクリックすると、そこにある遺跡の説明が出てきます。
ところでメギドは、他の遺丘の中でも層が多く、発掘自体の歴史も長い世界遺産に登録されているものです。これまでも覚えておくとよいのが、考古学的時代を示す言葉ですね、石器時代、青銅器時代、鉄器時代などがそれですが、こちらにまとめられた図があります。聖書時代と照合していくときに便利でしょう。
「バイブルワールド」から
入り口手前に、鉄器時代の水を流し出す跡がありました。後で見る、ソロモン時代の門と宮廷とつながっている部分です。そして、北側にあるカナン時代の門(Canaanite Gate)に歩いて行きます。ちょっと離れた所からの写真が、こちら。そして門のところで説明が始まります。
後期青銅器時代のものです。当時カナン人の王はエジプトの属国だったそうです。かなり頑丈に作られていたことがわかりますね(図の写真)。両側に二つの内部屋がありますが、兵士が門衛をしていました。そして内部屋の戸は巨大な、頑丈なものだったそうです。
そして、門を通って、中に入ると右側に、カナン時代の宮殿(Canaanite Palace)があります。2㍍幅の分厚い壁があり、玄武岩による通りも発掘されて、それが宮殿の広場につながっています。宮殿(写真)は、30㍍から50㍍、部屋や小さな庭に囲まれた中央広場があったことを伺わせます。そして恭仁子さんの説明のように、ここには見事な貝の細工がしてあるそうです。ですから、当時の文明がいかにすぐれていたかを物語っており、元エジプトの奴隷であったイスラエル人たちが、この世のものに魅かれてしまったという士師の時代の理由と背景を伺わせます。
そして最後にカメラをぐるりと後ろに回しましたが、ソロモン時代の門(Israelite Gate)の跡が少し高いところにありました。そうです、さらに上の層にその門があるからです。
当時の様子を描いた写真はこちらです。外門があり、L字型の中庭があり、そして内門があるようです。私たちが見ているものは、外門のほうでしょう。合計6つの部屋のあり、それぞれ両側に三つずつあったのですが、今見ているのは東側の部分だけで、しかも真ん中の部屋は石が詰まったままです。反対の西側の三つは、発掘のために取り除いたということです。そして、想像図の下のところ、外門の外に、水が出て行く水路がありますが、それが先ほど、カナン時代の門に行く手前で見たものです。
そして門の脇から中に入っていくと、北側の馬小屋と宮殿の跡(Nothern Stables and Palace)です。ソロモンとそれ以後の時代、紀元前8‐9世紀のものです。
写真で確かめますと、馬小屋とその図。ソロモンは、数多くの馬と戦車を持っていたことが記録されています(1列王4:26)。そして宮殿の写真と図。想像図としては、こんなものだったようです。
そして、東側に回ります。再びカナン時代の遺跡に戻ります。犠牲のいけにえを捧げた区画(Sacrificed Area)です。(写真をクリック)
復元図はこちらです。二千年以上、ここは礼拝の中心地になっていたそうで、青銅器時代から鉄器時代まで続いていたとのこと。宮が、折り重なるようにして発掘されたそうです。最も顕著なのが、写真の右にある丸い祭壇です。これが聖書では、「高き所」と呼ばれました。そして向こう側の、発掘したことによってできたがけですが、ここには三十もの居住区の跡があるそうで、新石器時代から、実にペルシア時代までのものがあるとのこと。
そして、ここの柵のところからカルメル山よりも、はるかに接近した、ナザレ、タボル山、モレ山、ギルボア山の風景を見ることができます。
さらに右を見ますと、サマリヤ地方(今は、西岸地区)です。
写真ですとこうなります(クリックして拡大)。
ほぼ真ん中に見える山が、モレ山です。右になだらかな山があり、それがギルボア山、さらに右にサマリヤ山地があります。
そして目の間に広がっている、犠牲のいけにえの祭壇です。
イスラエル人が影響を受け、幼子をいけにえとして捧げたこと、ヒノムの谷でも捧げたことを言及しておられます。
そしておそらく通りかかったのでしょうけれども、注目して見なかったものに、埋葬の部屋(Burial Chamber)があり後期青銅器時代からから鉄器時代にかけてのもの、南に行くと、イスラエル王国時代の公共の施設跡(Public Structure)があるとのこと。そしてこちらにも、展望所があり、こちらの写真では、晴天時のモレ山が見えます。そして、こちらの写真では、私たちが曇っていて見えなかった、ナザレ(一番左)と、タボル山(その右隣り)も見えていますね。
そして、穀物の貯蔵庫(Silo)の跡を見ることができます。
こちらの写真でも見られますが、ヤロブアム二世のころのものではないかと言われています。直径11㍍、深さが7㍍です。450㎥も入るとのことですが、ヤロブアムの時代は裕福であったことが、ホセア書から伺いすることができます。(同時に、豊かさのゆえの、偶像礼拝が盛んでした。)
そして、南の宮殿の跡(Southern Palace)もわずかに残っているみたいですが、ほとんどないです。そしてその横にある、南の馬小屋(Southern Stables)が、しっかりと残っています。北の馬小屋で話したように、ソロモンはここで失敗しました、モーセによって、多くの馬を持ってはならないと警告されていたのに、持ってしまって、その大国は他の異邦人の国とあまりかわらなくなってしまいました。
こちらの写真のように、わざわざ馬がどうやって飼い葉おけから食べていたかを分からせる工夫もしています。全体の遺跡がわかるのはこちらの写真、そしてこちらに想像図があります。
ここの場所から、ハルマゲドンの戦いについてのお話しをさせていただきました。
遺跡はこの他に、もう少し北の方にアッシリア人の町(Assyrian city)もあるようです。732年に、アッシリアの王ティグラテ・ピレセルが攻め入って、ここをアッシリア帝国に併合しました。ですから、ヤロブアム二世の二世の時、繁栄した国にホセアがアッシリアのによる侵略を警告しましたが、穀物の貯蔵庫の横にアッシリアの町があることは、その預言の言葉の真実を証しています。
そして最後、南の馬小屋の東隣にある地下水道(Water works)へと向かいます。
中はこんな感じで、最後に泉の水を見ることができます。そしてそこに急な階段があり、上るとバスが待っていてくれました!
アフラ(Afula)で昼食
メギドからレストラン「サハラ(Sahara)」まで(グーグル地図)
確かこの時、既に午後時ぐらいになっていたと思います。お腹がかなり空いていたのを覚えています。レストランは、イズレエル平原を東に突っ切って、この平原の中心都市「アフラ」にあります。グーグルの上空写真を見ると分かりますが、町が円状になっていて、円線を辿るようにして道路が走っています。65号線から左折し60号線で北上すればナザレですが、レストランはさらに65号線を東に走り、ちょうどモレ山の北、イエス様がやもめの息子をよみがえらせた「ナイン(Nin)」の町の北のところにあります!2010年の旅でこの町にあるレストランで昼食を取った覚えがあります、教会が多い町だったと記憶しています。
サハラの入口の写真はこちら、店内はこんな感じです。
4.ナザレ
ナザレ村へ
ナザレ村のウェブサイト
レストラン「サハラ」から、ナザレ村まで(グーグル地図)
私たちは2013年の旅において、ナザレの受胎告知教会を訪れました。そこは、ナザレの村があった遺跡(洞窟)が残っているところとして、訪ねるのにとてもよいところだと思います。けれども、イスラエルには少なくとも、当時の日常の生活、聖書時代の生活を再現してくれているところがあります。2013年の旅では、ヤド・ハシュモナに行きました。そして今回は、ナザレ村に来ています。云わば、江戸村のような存在ではあるものの、案内をしてくださった方が、これから説明してくださるように、受胎告知教会のすぐそばにあり、実際の農耕の場所であったであろう遺跡を基にして再現しています。ですから、他の遺跡と同じように、「遺跡を復元した所」と言い換えてもいいかもしれません。
ここで働いているのは、アラブ人クリスチャンであり、考古学的にもプロ意識が強く、また霊的にもとても良かったと感じました。まずはイントロから。
ビジターセンター入ります。ぶどう園の跡が見つかったそうです。
当時のナザレの起源、ベツレヘムからの集団からから始まりました。そして、今のナザレの経緯について説明します。
当時の苛酷なローマ帝国下の状況を説明します。処刑方法は、崖落としの後の石打ちと、十字架です。
屋外に出ます。初々しい男女です、当時の服を着ています。そしてオリーブの木の強さを説明、ネツェル(若枝)を見せてくださいました。
羊と山羊を紹介、山羊は問題児だとのこと!羊は、羊飼いの声を聴くことを説明。
当時の墓の再現です、イエス様が埋葬された墓もこんな感じでした。
ぶどうの酒ぶねの遺跡を説明します。
引用しているマルコ12章1節ですが、「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちのところにしもべを遣わした。」イザヤ5章にも書いてあります。
ここからは、一世紀の時の材料と同じものを使って、建物を再現しています。次は、オリーブ圧搾機です。
暗くて見えずらいので、こちらとこちら、またこちらの写真でご確認ください。次は、ろばについての説明です。
当時の大工の再現です。
撚り糸の紡ぎを再現しています。
当時のシナゴーグの再現です。
暗いので、写真を紹介します(写真1、写真2)。ルカ伝にある、ナザレのシナゴーグでのイエス様の教えから話してくれました。
すばらしいですね、イエス様が異邦人を救われることを語られたということを語ってくださいました。とても福音的な勧めで終わってくださって感謝!
そして最後に、ナザレ村でお買い物の時間を作りました。イスラエル旅行では、いろんなところがお店があって、いちいちそこに行っていては時間が取られてしまいますが、いくつかに絞ってそこで買ってくださいとお願いしました。ナザレ村は初めてだったのでどういうところか分からなかったのですが、ここは良い品がたくさんそろっているようだったので、少し時間を取りました。
私が気に入ったのは、英語、アラビア語、ヘブル語の三言語でで「わたしについてきなさい(Follow Me)」と書いてあるTシャツです。23,24日の旅の写真や動画に出てきます。:)
突き落としの崖
(2013年の旅、Biblewalks.com)
ナザレ村から突き落としの崖まで(グーグル地図)
かなり日が落ちてきました、私たちの訪問地はナザレ村で終わりではなく、「突き落としの崖」です。2013年にも来ましたが、ここからはイズレエル平原の全景を眺めることができ、タボル山が最もはっきり見える場所でもあります。ぎりぎり間に合いました、しかも、日没直前、タボル山、モレ山、ギルボア山だけでなく、なんとカルメル山が、夕日の陰で、その山脈の輪郭が見えるきれいな景色になりました。
写真でも紹介しましょう。下をクリックすると拡大しますが、左がタボル山、そして右がモレ山です。
こちらは夕日の右側に、カルメルの山脈の輪郭が見える風景です。
そして、後ろを振り返ると、今さっきまでいたナザレの町です。下のビデオ、360度回転して、ある方が撮っておられました。
恭仁子さんから、受胎告知教会を中心に説明をいただきました。映像はぶれていますが、アップしてなるべくわかるように撮影しましたが、いかがでしょうか?(教会の写真)
グーグル地図でも記してみました。受胎告知教会(Basilica of the Annunciation)は、ナザレ村(Nazareth Village)のちょうど右にあります。そして突き落としの崖(Mount
Precipice)は、下、南にあります。
そして、最後の最後の小メッセージをしました。先の案内の方と同じ箇所、イエス様のナザレでのシナゴーグの話をしました。
ホテルへ
突き落としの崖からGolan Hotelまで(グーグル地図)
私たちの旅は、ついに最終にさしかかってきました。最後の宿泊場所、ガリラヤ湖畔、ティベリアスにある、Golan Hotelに向います。ここで二泊する予定です。