イスラエル旅行記 2月27日 - エルサレム旧市街(ユダヤ社会中心)
1.神殿の丘
2.嘆きの壁
3.エルサレム考古学公園
4.ダビデの町
5.ヘロデ地区
6.アルメニア地区通過
1.神殿の丘
ホテルから糞門まで(Google)
神殿の丘について(2008年、2010年)
冊子からの抜粋
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ついに、残り二日となりました。私たちは再びエルサレム旧市街を見ます。初めに行くのは神殿の丘です。上の冊子の抜粋のように、聖書において、神のご計画全体において心臓部分となっているとても重要な場所です。ホテルを出たバスは、Googleの行程を見てのように、城壁の北側を通り、それから東壁を回って、南壁の糞門のところまでを行きます。北側を通った時に下の写真にあるように、北の主要な門、ダマスカス門があります。ここはムスリムの市場に近いところで賑わいを見せ、そしてこのダマスカス門の外はアラブ人のバス乗り場もあり、そして翌日訪問する園の墓があります。そして北東にあるヘロデ門を通りすぎ、左手にオリーブ山、右は東壁を見て、右折してバスから降車です。(ここら辺の城壁周囲は2010年の旅で見ました。)
そして糞門から入ります。ここが最も嘆きの壁と、非イスラム教が入れる神殿の丘の入口に近いところです。糞門は、ネヘミヤ記も出てきて、ヒノムの谷に最も近いことからゴミ捨てに使われたことから、その名称が使われたと言われています。そして中に入りますと、長蛇の列です。嘆きの壁に行く入口は何の列もなく、そのままセキュリティーを通過すればよいのですが、神殿の丘への入口は神殿の西壁のところへ木製の通用橋を作って通るようにしたため、わずかな人数しか通れないために、いつも混雑します。それでホテル出発も確か7時半と早めて行きました。長蛇の列と言っても、以前よりずっとましでした。
右側には下の写真のように、後で行くエルサレム考古学公園の敷地内で、新しい発掘作業が行われています。そして列で並んでいる時に、日本の団体旅行客と一緒になりました。一般の旅行で未信者の方々でした。私が、一人の男性に、これだけ考古学が揃っているから、聖書記述はその通りなのだという話をしたら、「いや違う!」と断固として譲らないのは驚きました。聖霊の働きなしには、目で見ても心が頑固なままなのだと思わされた一瞬でした。
関西で家の教会を導いておられる高村兄。(正面の入口は神殿の丘ではなく、嘆きの壁のほうです。)
ところで、セキュリティーにおいて、あらゆる宗教関連の用具は持ち込めないようになっています。したがって、聖書もご法度。そして通用橋を渡っている時、左手に嘆きの壁で祈っている人々の様子を眺めながら、モロッコ(Mugrabi)門から入ります。
今の神殿の丘(Mugrabi Gateから入場しました)
ヘロデ神殿時の神殿の丘
モリヤ山における擁壁の拡張
英文の訳:Fort Antonia=アントニオ要塞、Bethesda Pools=ベテスダの池、Mt.Moriah=モリヤ山、Top of Mount,
Ark sat here on Bedrock=山の頂上、契約の箱が床岩に安置、Solomon's Original Platform=原初ソロモン神殿の壁、Hasmonian
Platform Expansionハスモン朝の神殿の壁拡張、Herod's Platform Extention=ヘロデによる壁拡張、Triple
Gates=三つ門、Double Gates=二つ門
モロッコ門から敷地に入ってきた見城さん
入場すると、敷地の南側にいますが、その中央にアル・アクサ寺院があります(下写真、正面の建物)。その右左に、イスラエル美術館の一部として、コリント式の柱頭が並んでいます。アル・アクサ寺院の辺りで、恭仁子さんが説明をなさいました。
「神殿の丘には、今は二つのドーム、アル・アクサ寺院と岩のドームがある。両方とも歴史は七世紀後半から八世紀初めの名残です。黄金のドームは八角形で地震に強く当時のものが残っているが、アル・アクサ寺院はヘロデ大王が、あるいは別の人が、前にあった第二神殿よりもっと大きなものにするために、まず敷地を拡げた。特に南のほうは土塁を強引に築いて、その上に建築を進めたので地盤が弱く、当時はしっかりしていたものの時間と共に緩くなってしまい、そのためこちらの寺院は壊れて、何度も建て直している。当初のものは、南壁のごく一部が残っているのみとなっている。
神殿が建っていたのは、ヘロデ大王が紀元前一世紀に神殿を建てたが、昨日、西壁トンネルで見た模型の通りである。慎ましい第二神殿から作り上げた。南を拡張したが、後で考古学公園に行くが、そこは念入りに発掘を行っているが、南の壁から神殿に出入りしていた。その時の階段が一部そのまま残っていて、イエス様が踏まれた可能性は百%ある。その階段のところに入口が三つ開いていて、そこから人々は中に入る。門は高さ30メートルに神殿のところではなく、低いところに作ってそこから入り、細長いトンネルようなところを抜けて階段を上がってくると、結構薄暗いのに慣れた眼に、青空の下にある光り輝く神殿が目の前に浮かび上がる。声も上げらえない程、感動したと言われる。神殿は確証はないが、岩のドーム辺りに立っていたと言われる。その門がフルダ門と呼ばれます。エレミヤの時代に活躍した女預言者の墓があったので、それにちなんで呼ばれています。今、立っているところは異邦人も入ってきて良い異邦人の庭で、神殿にはさらに囲いがあって、入ったところは婦人の庭、さらにその奥はイスラエル人の男子が入れる、さらにその奥は祭司のみが入り、至聖所は大祭司のみが入れた。
至聖所の位置がどこだか分からないのだが、壁を修復するという名目によって、(イスラム当局は)ダンプで掘り起し、ゴミ捨て場のところで捨ててしまうという証拠隠滅のようなことをした(該当記事)。イスラエル政府は何とか食い止めようと必死の努力をしている。そのゴミの山に行って、わずかながらでも助けようとしたら、実に貴重なものがその中から出てきた。六日戦争の時に、イスラエルの空挺部隊がここに入ってきて、神殿の丘は我々の手中にあると言った言葉が有名だが、『実は、我々の手中にはないのだ。』と実に悲しみに満ちたイスラエルの考古学者のコメントがあった。
だいたい新しい時代、十一世紀以降に、十字軍が再利用した時、テンプル騎士団という名称の由来は、この神殿に大本を置いていたからであり、ソロモンの厩という勝手な名前を付けてみたりした。今、地上に見えるのはイスラム教のがある。ここにイスラム教のがある本当の理由は、かつてユダヤ人の一番聖なるものが建っていた場所、そしてキリスト教にとって最も大事な聖墳墓教会からほど遠くない所に自分たちの権威を誇示するものを建てたかった、ということだろう。」日本語で話すと、こういう時は得しますね、相手は分からないでしょうから。:)Jerusalem101のサイトににも同じことが書いてあります。「そして、こじつけのように、ムハンマドの昇天の話にした。メッカにいたムハンマドがある日、夢の中で摩訶不思議なブラーくという動物に乗って一気にここに来て、ドームの中の岩を蹴って天に昇って、モーセからイエス様に至るまでの預言者と対抗し、岩を蹴ってメッカに戻ったところで目が覚めた。そのゆかりの場所にこれを建てた、という(参照:ウィキペディア)。「遠隔のモスク」と呼ばれるが、コーランに出てこない話である。遠隔の、というのがエル・アクサである。イスラム教徒にとっては第三の聖地で、第一がメッカ、第二がメディアである。エルサレムという言葉は、コーランに一度も出てきていない。ところで、ユダヤ教のパリサイ派(超正統派の人たちのこと)は、この場所に入ってこない。もしかしたら、至聖所を踏んでしまうのではないかと懼れるからである。最近はだいぶ入ってくる人が増えた。」
そして、東の擁壁のほうに向かいました。後ろがアル・アクサ寺院ですが、その横の辺りに、おそらくフルダ階段の出入口があったであろうと言われています。そして下の写真では、皆さんが岩のドームを撮影しているのが見えますが、恭仁子さんと私の焦点はもっぱら、東の擁壁とエルサレムの町の城壁が一つになっていることを話しています。(今、築きましたが、私はイスラエルのTシャツを着ていましたね、これもちょっとヤバかったかも。汗)
そして私たちはさらに黄金門のところまで行きました。
「ユダヤ人の人たちは、メシヤが到来される時にこの門が開かれると信じている(エゼキエル44章1‐3節)。封鎖されていて、この門のすぐしたはイスラム教の墓地だ。手前の巨大な建物は部外者以外は誰も入ったことがないので、想像するだけだが、おそらくイスラム教の秘伝を学ぶような学校、図書館のようなところだと言われている。こちらは裏だが、表も裏も立ち入ることができないようになっている。」そして、私がここでエゼキエル書からの説明をしました(次からは私の発言)。「エゼキエルの主題は、神の栄光だ。10章に、神の聖所にあるシェキナーの栄光がケルビムによって徐々に去っていく姿を見る。そして東の門に立ち、それからオリーブ山に立つ。そして栄光が去ったのだ。しかし、ヨハネ1章14節で、「ことばが人となった。私たちは、その方の栄光を見た。」とある。そしてイエス様は、オリーブ山から天に昇られた。そしてイエス様が再臨されるとき、オリーブ山に立ち、そしてエゼキエル43章に東の門から主の栄光が入ってくる姿を見る。メシヤが神殿を建て直され、そこから入られる姿だ。」
そして、次にこの黄金門が実際に開かれる門ではないだろう、ということを話しました。「なぜなら、これは後世にイスラムが建てたものだからで、この下に東の門がある可能性がある。もしそうであれば、本当は岩のドームが聖所のある場所であったのであれば、東門から直線に向かってあるべきなのに、ずれている。直線に向かってあるのは、霊のドームである。」
霊のドームを見たいと思いますが、その前にまずは黄金のドームのほうを見ます。
「岩のドームと言われているのは、この中に大きな岩があるからだ。アブラハムが神に命じられてイサクを燔祭として捧げようとした岩であり、それから天地創造の時に世界の基盤が置かれた岩とも言われている。イスラム教徒にとっては、ムハンマドがそこから天に昇って、また降りてきたゆかりの場所である。このモスクができたのは、ダマスカスを中心とするウマイヤ王朝が建築熱心で、その時に建ったもの。とにかくイスラムの芸術の最高傑作で予算を度外視した。当時も大国だったエジプトのありとあらゆる税金の名のつくものの金額の七年間分だった、ということ。この金は80キロのものを薄く延ばして貼り付けたもので、近年に行ったものである。タイルの飾りにコーランが記されているがこれも近年のもの。下のほうは上下のシンメトリー(左右相称)になっているが、大理石の石版を縦に削ぐとそうなる。これだけ予算をかけたものの、中に入ると、柱の高さも違うし、色も違うし、太さも違う。それは、イスラム教徒が征服したところの柱を持ってきて、こういうところに飾ると言うのが一つの権威の象徴である。」
ということで、岩のドームの内部をユーチューブでどうぞ。そして、岩ドームとアルアクサ寺院の3DのCGもあります(アルアクサ寺院の説明の中に二つ門に至近している婦人の祈りの場が出てきます、貴重です)。
そして私は、このドームに書かれているコーランの一句を説明しました。「征服というのがイスラムの特質だ。聖地に来るとモスクが既存のキリスト教会、例えば生誕教会では教会よりも少し高くしてモスクが建てられている、そしてここが聖墳墓教会よりも目立つ形で建てている。ナザレでも問題が起こり、モスク建設についてローマ法王が介入しなければならないほどだった。キリスト教とユダヤ教を征服することによってアッラーが偉大であることを信じている。そしてこの中に書かれているコーランでは、マリヤのこともイエスのことも書かれている。彼のことを敬っていることは敬っているが、イエスは神の御子ではないことが何度も書いている。三つで一つなどと言うのはあってはならない、と明確に書かれている。第一ヨハネ、「イエスが肉となって来たことを否定する霊は、反キリストの霊である」言っている。霊の戦いの一貫であることを知ってほしい。」岩のドームに書かれている、このコーランと一節とヨハネの第一の手紙の言葉について、ブログ記事に詳しく書いています。→ 「ここが変だよ!池上彰さん (その2)」
そして霊のドームに行きました。
その真正面の先に、写真では見えませんが黄金門があります。「至聖所がどこにあったかについて、大きな議論がある。定説は、岩のドームの中にあったというものだ。モリヤ山の床岩があり、アーノルドは昔そこに入り、確かに至聖所の契約の箱が置かれていた枠があったと証言していた。しかし問題は、東の門の場所だ。だから、ここが至聖所であった可能性もあります。もしここが至聖所だとしたら、岩のドームを壊さずして神殿を再建できる。黙示録11章2節に、「聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。」とある。そうすると、昨日見た、神殿再建財団の人々が努力して神殿を建てようとしている。見た祭具は模型ではなく本物で、神殿礼拝を復活させようとしている。キャンプ・デービッド合意で、バラク首相とアラファト議長が議論し、仲介のクリントン大統領が提案したのが、岩のドームの隣に分離壁を作ったらどうかと提案した。もしそれが可能だったら、できてしまう。しかし黙示11章には、二人の証人が出てくる。火を噴いて預言する。その時のエルサレムは霊的に堕落している。1260日預言して、反キリストが二人を殺して、彼が力を現す。それで彼を世界があがめ、獣の国が13章で始まる。」この話については、黙示録11章の学びをぜひお読みください。
そして霊のドームの目の前に、降りていく階段があります。(階段の上に見えるのが、霊のドームです)
二人の姉妹が立っているその一段下のところに、ソロモン神殿の擁壁の上の一番上の部分ではないかというサイトを見つけました。→ Jerusalem101
もしそうだったら、非常に貴重ですね。イスラム教の聖地になってしまったので何もできないのですが、わんさか中から考古学的発見があるのだと思います。
2.嘆きの壁
神殿の丘から西壁広場へ(Google)
嘆きの壁について(2008年、2010年、ウィキペディア)
冊子からの抜粋
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そして私たちは、「鉄の門」と呼ばれる所から出て、ムスリム地区の商店通りに入り、左折して西壁広場に入りました(セキュリティーはありましたが、とても簡易でした)。
嘆きの壁を眺めながら、恭仁子さんが説明してくださいます。「人々はここに集まっては、至聖所に近いところに集まって、将来神殿が立つことを祈り、涙を流しながら祈ったら、壁にも夜露が降りて壁が泣いているように見えたということで、嘆きの壁という別名である。ここの下から七段目までが昨日のトンネルでご覧になった中央が浮き上がっているような石の造りで、ヘロデ大王による(あるいは、新たな別人の)によるものだ。」
この説明を、昨日見た西壁トンネルの模型と比べると良く分かります。(Jerusalem101の写真)
Herodian Stones in Western Wall as seen Today=今日見えるヘロデ式の石、Wilson's Arch=ウィルソンのアーチ、Robinson's
Arch=ロビンソンのアーチ
私たち旅行仲間が撮った写真です。
上の写真のアーチ型の入口がウィルソン・アーチです。次は昨日、女性たちが見たものです。男性は、直接嘆きの壁から入ることができます。
ここはシナゴーグになっています。この奥の大きなアーチがロビンソン・アーチですが、子供たちのシナゴーグ学校らしきものが行われていました。
次は嘆きの壁の女性の祈りの区画ですが、こちらも幼い子たちの何かが行われている様子
そして女性たちの祈りの動画をどうぞ。
そして、次の3Dは西壁の紹介と共に、次に行くエルサレム考古学公園のロビンソン・アーチの説明もしています。当時に遡って再現するのをアニメーションで見せており、分かり易いです。
西壁の3DのCG
3.エルサレム考古学公園
エルサレム考古学公園について(2008年、2010年、Biblewalks.com, 公園のウェブサイト)
冊子からの抜粋
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西壁広場の隣に、エルサレム考古学公園があります。確か、広場を出てから再びセキュリティーを通って中に入りました。
恭仁子さんが、下の地図を見せながら考古学公園の概要をお話しになります。
「(矢印のある所が)糞門(Dung Gate)だ。今朝ほど入ってきた所だ。ヘブライ語では「ごみの門」となっている。この狭い四キロ程の城壁は高低があるが、その中で最も低いのがここだ。古代から下水や場内の汚物が集まってきたというのが由来である。神殿の丘の南に当たる。イスラエル人は神殿で礼拝する時は、南側から上っていたので、興味深いものがたくさん出てくる場所だ。」そして旧市街の説明をしています、「神殿の丘と、神殿の丘の北のムスリム地区(Moslem
Quater)、そして西壁の前に広がっているのがユダヤ人地区(Jewish Quater)、少し北の、聖墳墓教会のある回りがキリスト教地区(Christian
Quater)、それからユダヤ人地区の隣のアルメニア人地区(Armenian Quater)だ。昨日見たように、もう一つ回りを城壁で囲んでいる。」そして、私たちは中に入りました。下は、神殿の丘の擁壁、南西の角です。
そして、私たちは中に入りました。上は、神殿の丘の擁壁、南西の角です。
「西壁の一番南端である。北側の端は昨日通ったトンネルの最後の部分だ。ここから北端までが488メートル、神殿が壊れた時に唯一の名残だ。ここは嘆きの壁よりも床岩(ベッドロック)が低い。この辺りはアーチを作ったり、路を作るのに相当下にいろいろ細工をしなければならなかった。この、路の低いところからポンティオ・ピラトの前にいたヴァレリウス・グラトゥス(紀元後15‐26年)の硬貨が出てきた。そこで混乱状態にある。(注:恭仁子さんが何度も言及されている硬貨の発見記事(2011年11月)を見つけました。)壁の中腹の大きめの石が当時のもので上の小さいのは後世のもの。その頃になると、接着剤も発展し、昔の石を使うのでさらに小さくなっている。巨大な石は大体、古いものだ。
中腹の右側に出っ張っているところは、昨日は西壁トンネルでウィルソンのアーチを見たが、その手前に(南側)、もう一つアーチがあって、それがロビンソン・アーチだ。(Wikipediaから)
一般の人は南からの階段を上り下りしていたが、一部の人はここからも上り下りしていた。広々としている。この階段を支えていたのがそのアーチであり、ロビンソンという人が19世紀終わりに発見したためその名が付けられた。当時は、アーチの上ぐらいしか顔を出しておらず地面に埋もれていた。オスマン・トルコの支配下であって、イスラムは考古学は大嫌いだ。イギリスがこの壁を研究したいと頼んだが拒否された。それでもあきらめなかった考古学者が縦穴を掘って、そして横穴を掘り、そこまで行き、わずかながらの研究を続けていた。1917年に英国委任統治になってから考古学発掘が非常に進んだ。」
その、アーチの下まで地面に埋まっていたという写真がこちらです(Wikipediaから)。西壁広場もムスリム地区の家々があって、それを1967年以降に潰したというのが、この写真から分かりますね。
そして私たちは西壁のすぐそばまで来ました。今、南に向かっ通りを眺めています。
「これは、今、ローマによって崩された、ということをそのままわざと残してあるところだ。石一つ一つを見ると、幅、高さなど、石がどれほどの大きさであったかを教えてくれる。小さいもので、中くらいの像の重さがあると言われている。一番大きいものは、昨日見た、570トンのもの、イスラエル戦車8台分の重さがある。大きな石は権力を誇示するためのもの、ヘロデ大王は好んで使っていた。もう一つの特典は一度載せたら、接着剤を使わずともびくとも動かないことだ。昨日、西壁トンネルで床岩を見たが、ここが一番低いところなので、アーチを作るとかして調節している。」そして僕が、「ここはモリヤ山なので、こちらが低くなっている、そしてそちら(北側、神殿の丘の方角)が高くなっている。」と説明しました。「そして一番低いところが糞門という汚い名前が付いている。」
そして次は、反対側から撮った写真です。大きく窪んでいるところの上にロビンソン・アーチがあります。そして通りの向こう側(左)の四角形が四つ並んでいるところは、商店でありました。(写真と詳しい説明を読みたい方はJerusalem101へどうぞ。)
「後で、当時の映像を見るが大変にぎやかな場所であった。神殿を作ってユダヤ人にこれだけのことをしてあげたという誇示の意味もあり、また、失業者が職を得たということ、礼拝者がますます増えるということで、経済が回っていくのに貢献したということがある。」そして路が陥没しているところを見てください。「石が落ちたため陥没しているが、つまり下を上げ底していたということだ。」
そして私たちは南西の角を曲がり、南壁の階段に行きました。
アル・アクサ寺院から突き出している、中世に建てられた壁が公園の南側を遮っていますが、小さなトンネルをくぐると当時の南壁階段です。
「上り下りしていた階段の跡である。復元しているものはきちんとした石になっている(丸く、古いのが当時のもの)。当時の人々は向こう(擁壁の右に見える三つ門)から神殿に上り、こちら(二つ門、現在は右側の一部しか見えない)から下りてきた。その逆をしている人は喪に服しているということだ。この階段の真ん中に、沐浴の場がある。神殿に入る前に全身を清めて、白い衣に着替えて礼拝する。」そして三つ門のほうに少しずつ動いていきました。当時の絵があります。「右側の門がフルダ門と呼ばれる。フルダは女預言者にちなんで付けられたが、元々の意味は「ドブネズミ」だ。そこから入る。三つ門と二つ門の間が沐浴をするところだ。フルダ門から入る。そこは神殿より低いので、通路をずっと通って階段を上って、目が薄暗いところに慣れたところ、急に青空の下の、目を眩むばかりの神殿が建っていた。今の壁は後世のものだが、当時の南壁もだいたいここにあった。」
続けて、その沐浴の遺跡を見ます。「クムランの遺跡にあったように、階段で上り下りして全身水を清め、白い衣を着て神殿に入った。」そして、私は「使徒行伝2章で三千人の男がバプテスマを受けたとあるが、滴礼を主張する人たちは全身浸礼の場所が神殿の付近にないではないか、という主張だったが、このように数多くの浸礼槽があった。」と付け加えました。
そして三つ門(フルダ門)のほうに行きました。
下りて行って、木陰のところで私が、ヨハネの福音書7章にある仮庵の祭りのイエス様の言葉から分かち合いをしました。私の頭の後ろに、二つ門が見えます。そして私たちがいるところがオフェルであり、その先(南)にダビデの町があります。
そして私たちは、元の入口にある建物に戻ってきます。そこに展示物があり、いろいろな遺物が紹介されています。例えば当時、巡礼者が両替するために持ってきた当時の硬貨が見つかっています。
そして、当時の姿をCG化した映画を観ました。同じものではありませんが、次のCGのようなものを観ました。
初めのほうに出てくる、シロアムの池から南壁のほうに上がる階段は、後で訪問することになります。
そして下の今のエルサレムの模型にしたがって、恭仁子さんが説明してくださっています。
ユダヤ人地区でお昼
私たちは、考古学公園からそのまま階段を上がって、昨日来た、ユダヤ人地区に来ました。右に曲がれば、神殿再建財団です。正面には、ファラフェルのお店があります。そのテラスの右角にThe Quater Cafeがあります。二階、三階にあるので、嘆きの壁、オリーブ山など、絶景です。
お食事のメインに、サーモンが出てきました。
この後は、一時間ぐらい、旧市街で自由行動です。ここら辺の写真がすごく少ないのですが、おそらく皆さん、お買い物にお忙しかったのでしょう。私は妻といっしょに、ムスリム地区の商店街に跳びました。香辛料やドライ・フルーツを買いたかったのです。そしてナザレで味わったザクロの搾り立てジュースを、交渉して安くしてもらって、仲間数人で飲みました。休んで椅子に座りたかった人々は、ファラフェルのお店のベンチに座っていましたがが、初めはだめだといったお店のおじさんが、昨日のお客だと知りOKしてくれました。そこでアイスを買ったりしてあげました。:)
4.ダビデの町
ユダヤ人地区からダビデの町へ(Google)
ダビデの町について(2008年、2010年、ウェブサイト、Biblewalks.com)
冊子からの抜粋
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糞門から出ると、すぐそばに下り坂があります。チロペオンの谷に沿った坂ですが、その坂を入り始めるとすぐに左側に、ダビデの町の入口があります。この立琴は、もちろん少年ダビデが奏でていたのを思い起こさせるものです。
ダビデの町は、とにかく考古学発見の宝庫です。ここで聖書の箇所を読むと、そこに出てくる地名や地形、人名も、わんさわんさと目の前にあるので、タイムスリップした気分になるほどです。まず入りますと、ビジターセンターになっています。ここは板張りになっていますが、その下にはダビデの宮殿であった遺跡の現場です。ここで粘土上の印章が発見されており、それぞれに「バシュフルの子ゲダルヤ」「シェレムヤの子ユカル(エレミヤ38:1)」と記されていました。また、ここにエレミヤが捕えらえて、穴に入れられた(同38:6)であろう貯水槽も見つかっています。(ダビデの宮殿遺跡を発見したクリスチャン番組のニュース特集があります、こちらとこちらです。)
さらに行くと、王家地区(G区画)があります。ここからケデロンの谷、向かいのシルワンと呼ばれるアラブ人の町、そしてオリーブ山もアップで見られます。下を見ると、エブス人のミロ(塁壁、後にダビデが続けて用いる))、紀元前600年頃(ユダ王国末期)のアヒエルの家、バビロンによる包囲の時に焼かれた家、ネヘミヤが再建した城壁(紀元前445年頃)など、見つかっています。下の写真は、私が上からG区画を撮ったものです。
どこに何があるか説明している図面がJerusalem101にあります。詳しく知りたい方はこのサイトへどうぞ。
Stepped-Stone Scructure=ミロ、Ahiel's House=アヒエルの家
そして急な階段を降りていき、なぜエブス人がここを町にしたのか、そしてダビデがここを自分の町にしたのか、その理由となった「泉」を見ます。つまり、ケデロンの谷底「ギホンの泉」です。下の写真は、向かいがシルワンの町、そして左下にギホンの泉の流出口(赤い屋根の近く)があるのですが、私たちはここを右に曲がり、カナン人(エブス人)の作った、泉を城壁内に取り込む遺跡、そしてヒゼキヤが作った地下水道など見ることのできる道に進みました。
そして急な螺旋階段を下りますと、途中で元祖エルサレムの絵があります。
恭仁子さんが説明しました。「右側の泉がギホンで、左下の池がシロアムである。ギホンの泉を城壁から出ずして、岩を掘って地下にトンネルを作って、ここまで水を引いてきた。町の左の谷がチロペオン、右がケデロンに囲まれた1500人ほどの町がそもそものエルサレムで、エブス人が住んでいたところをダビデが取り、国を造った。シロアムの池から嘆きの壁までのトンネルが発掘され、去年、貫通し、一般公開されるようになった。イエスが神殿を出たところ生まれつきの盲人をご覧になったが、そこからシロアムの池に行かせたとうことは、道なき道を行ったのかもしれないが、この路を通って降りて行って洗ったということになる。」
ダビデの町のウェブサイトには、カーソルを動かすことによって、現代から古代までを眺める絵があります(こちら)。そして3Dのアニメーションもあります。
上の、当時と現代を比べる写真と絵はダビデではなく、正確にはソロモン王の時の絵です。神殿もあります。ダビデの時代はオフェル(考古学公園の南壁のところ)から下の自然要害「シオン」だけです。エルサレムにある唯一の水源がここなので、カナン人たちはこの周りに住み、けれども谷底に泉があり、敵から守られるためにはシオンの要害の上に住みたいわけです。
そこで泉から横穴を掘り、そして縦穴を掘って水を汲んだ、ということになります。その縦穴(ウォレンの縦穴 Warren's Shaft)をよじ登ったのがヨアブで、それでダビデがエブス人の町を攻略した、ということになります。それから、水道技術が少しずつ発達するにしたがって泉よりも離れていても住めるようになるにしたがって町が拡張した、ということでしょう。ヒゼキヤの時代、彼がアッシリヤの包囲を予測して、横穴をさらに引き伸ばし町の低いところにあるシロアムの池までの水道を作りました。Jerusalem101に詳しい断面図がありますし、右上の絵が立体的になっていて分かり易いです。(Jebusite Water Shaft Used by Joab=ヨアブによって使われたエブス人の水道(橙色)、Pool of Siloam=シロアムの池、Hezekiah's Tunnel=ヒゼキヤの水道、David's Palace=ダビデの宮殿、そして、エブス人の水道で垂直になっているのがウォレンの縦穴です)。
どんどん降りて行きました。
この辺りで恭仁子さんが、ここギホンがソロモンが王に即位したところであること(1列王1章38節)、そしてメルキゼデクがアブラハムに会ったところ(創世記14章17‐20節)であることを言及しました。私は、「あれっ、メルキゼデクとアブラハムが会ったところって、エルサレムだったっけ?」と思いまして本文を読み返しますと、シャベの谷となっています。調べてみますと、なるほどエルサレムに隣接する谷であるとの説明がありました。エブス人がエルサレムの元祖だと冊子に書いてしまいましたが、実は、その千年前(紀元前二千年頃)に、シャレム(エルサレム)の王メルキゼデクがその大元祖であることを書き忘れていました、この方の位によってイエス様が大祭司となられたのですから、絶対見逃してはいけない歴史的出来事ですね。
そしてヨアブがよじのぼって来た、エブス人の時からあった縦穴が上写真です。エブス人がダビデを、「足なえでも、おまえたちをやっつけられる。」と豪語した理由、つまり強固な要塞だったということ、そしてヨアブがこんな垂直の穴をよじのぼるという、強靭な体力の軍人であったのが分かります。
そして次は、私も2008年、2010年に来ても、いつも様変わりしている発掘現場に来ました。カナン人の作ったギホンの泉を守る要塞の跡です。私たちの仲間が撮った写真では下のしかなかったのですが、Biblewalks.comやJerusalem101には、詳しい写真がたくさんあります。メギドやハツォルでもそうでしたが、カナン人の町はものすごい発達したところであったのを彷彿させます。下が復元図です。
ダビデの町ウェブサイトにあるビデオも紹介します。
そして次についに私たちは、ヒゼキヤの水道の入口に来ました。季節は二月です、水が冷たいので、団長との判断でここは通らないことにしました。でも入口だけは見ました。 恭仁子さんの説明です。「約500メートルのトンネルを岩を掘って作り、両側から掘っていって巡り合った。」
今回初めて知ったのですが、このヒゼキヤの水道の入口の手前で、カナン人時代の水道跡がまた別にありました。ヒゼキヤは、この水道を遮って、城内にシロアムの池につながる水道を新たに作った、ということになります。(矢印が↑となっているのがヒゼキヤの水道、←となっているのがカナンの水道です。
かなり狭いのがお分かりでしょう、ヒゼキヤの水道より狭いと思います。
そしてカナン水道の出口です。シルワンに出てきます。
そしてここから、シロアムの池に行きたいのですが、いったんダビデの町の敷地を出れば最短距離です。ということで、いったん出て、そしてシロアムの池の出口から再入場しました。下の写真は、その途中にあった発掘現場、Well
Exavationという標識があったので、カナン人の井戸だったのでしょうか?
城外に出た時に見た、シルワンの通行人
そして再入場します。ここが新約時代のシロアムの池の一部です。
ここを通過して今のシロアムの池に行きましたが、今のはビザンチン時代のものであり、新約時代の実際のものはもっと大きいです。ここで、生まれつきの盲人が自分の目から泥を拭って、目が見えるようになりました。詳しくは、Jerusalem101とBiblewalks.comを見てください。下は後で上がるヘロデの路の入口にある復元の絵です。
シロアムの池は、巡礼者が神殿に行く前に清める役割を担っており、ここから神殿の擁壁の南壁にある入口までの階段を上る出発点でした。次は恭仁子さんの説明です。「ここがシロアムの池です。写真集に載っているのはビザンチン時代に、この遺跡の一部なのだが、教会がそこに建っていた。大変大きなものだった。」そしてこの池が巡礼者にとってどんな意味があるのか尋ねたところ、やはり清めの水であり、清めには流れた水が必要だったけれどもここは、水が流れ込んでいるのでいつも動いていた。」とのことです。
これがビザンチン時代のシロアムの池です。今はモスクがありますが、元々は教会です。そして下のように、アメリカ人の聖地旅行の人々がどんどんヒゼキヤの水道から出てきました。太ももまで濡れていますね。
ここで私が御言葉を分かち合いました。
(最後まで収まらなかったのですが、続きはこちらです。)
最後に面白い場面に出くわしました。近所の人がなんと今も、この池を水汲みに使っているのです。観光客がいてもお構いなしに、水を組んでいました。シルワンの家の造りといい、アラブ人庶民のほうがむしろ昔の聖書時代を彷彿させることをしてくれますね。
シロアムからの巡礼の路 - Jerusalem101, Biblewalks, City of David website
ところで恭仁子さんは何度か私に、シロアムの池から神殿南壁までの上り階段の発掘と一般公開が最近行われたことを言及していました。そして私は次の目的地である、ユダヤ人地区にある上町の裕福な祭司の家の遺跡にも行かなければいけないので、シロアムの池から再び上がっていくのはたぶんみんな疲れているだろうから、アラブ人タクシーに乗るかという話を恭仁子さんとしていました。ところが彼女が、「階段で上がっていきましょう」と言い始めるのです!私は嬉しいのですが、他の仲間が疲れていないか・・・心配だったのですが、後で感想を聞くと、ここが記憶に残った場所の一つとして何人かの方が仰っていました。主に感謝。
当時の様子が絵になっていました。
Jerusalem101にある、エルサレム模型における大体の道筋がこちらです。
階段をよく見ますと、石段の縦幅が長いの、短いのが交互になっているのに気づかれるかと思います。これはわざと、巡礼者が下を向いて注意して歩くようにさせるためで、神殿に対する敬いを持たせるためだとか。あと、横幅はもともともっと広く、一部しか発掘されていません。だからもっと広い通りでした。
そして、私がずっと疑問だったことが、今回の旅行記を書くときに勉強して分かったことがあります。途中から、下のような左右のみならず上部も削られた石で囲まれた、極端に狭い道へと変わったことです(次第に高さもなくなってきて、普通に歩いたら頭をぶつけるほどになります!)。
これは何なのか?いろいろな記事を見て総合的に考えますと、初めに歩いていたのは上り階段だったのですが、それからこの路の下を流れている側溝だったということです。最後はロビンソン・アーチの下まで行きますが、そこから階段を上って外に出ます。ということは、(誰か聞いて確認できていないので確信は持てませんが)地上の路ではなく地下の側溝だったようです(参照記事)。ちなみに私たちは、ダビデの町のところにある途中出口で出ました。その先は有料で、西壁のロビンソン・アーチに辿りつくようです。
ダビデの町のウェブサイトにこの紹介ビデオがあります。
シロアムの池と第二神殿の路
中央下水道
ヨセフスによると、紀元70年にエルサレムが破壊される、ユダヤ人反乱の時に、シロアムへの地下を使って逃げた、という記述があるとのこと。その遺物もたくさん見つかっています。
歩いて30分ぐらいかかったことでしょう(実際に案内にそう書いてあったみたいです)。上がってみると、これまで熱心に発掘されている現場に出てきます。
もともと駐車場であったところからビザンチン時代の遺物が発掘されているとのこと。
ここで改めて恭仁子さんが、生まれつきの盲人の話をされました。私はもう感動しきりだったのですが、歩いて来て、まだ自分がどこを通ってきたのか分からないという表情をしている人が多かったのです。そこで私が改めて、恭仁子さんの説明を繰り返しました。皆さんの感動の声が聞こえるかと思います。
5.ヘロデ地区
ダビデの町からヘロデ地区へ(Google)
ヘロデ地区について(2010年、紹介サイト)
冊子の説明
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そして私たちは外に出て、今度はヘロデ地区と呼ばれるところに行きます。再びユダヤ地区の、ファラフェルのお店の前を通り(何度、ここを通ったことか!)、ユダヤ地区の中庭のようになっている広場に出ます。そこを左折すると、この博物館の入口です。
入口の説明は、こう書いてあります。「エルサレムの上町にある、第二神殿時代の豪華な住区。裕福で貴族的祭司の家族がここに住んでいた。」さらに、「この地区はローマによって紀元70年に破壊された。ユダヤ地区の改築の際(1969‐1982)発見された。その豪華、富裕から、ヘロデ地区の名が付いた。」とあります。
恭仁子さんの説明が始まります。「今階段を降りて来て、この遺跡は低いところにあるが、それが今の生活の高さと当時の高さとの違いだ。ユダヤ人地区に家を造ろうとすると、遺跡が出てきてしまう。それでいちいち建てるのをやめては生活が成り立たないので、下駄を履かせたように、発掘はそれでして、その上に中二階のようにして家を建てるという方法で町造りをした。
明日、イスラエル博物館のエルサレムの五十分の一模型があるが、それを見るともっと分かる。当時、ここシオン山から近いところから糞門は高低の差がある。山の手の高いところには裕福な人々が住んでいて、一番高いヤッフォ門のそばには、ハスモン王家を始め、ヘロデ王家の代々の王の宮殿があった。そのそばの小高いこの辺りも、裕福な人々が住んでいた。さらに糞門に近いずっと低いところは、庶民の家が立ち並んでいた。もっと貧しい人たちは洞穴暮らしをしていた。
ここはお金持ちの、それはそれは広い六百メートル四方の大邸宅の跡である。床はモザイクで飾られているし、家の中にミクベという清めのための沐浴の装置もある。」モザイクと、それに接するミクベが下写真です。
「裕福な層というのは、神殿に仕えている人々がほとんどだった。彼らは反乱さえ起こさなければ、本人も末裔も豊かな生活が約束されていた。庶民が反乱を起こしたとすると、彼らもユダヤ人として処分を受ける。それも、イエス様に彼らが反対した大きな理由である。イエス様は庶民に慕われていた。庶民を扇動してやっかいなことを起こすのではなかろうかということで、イエス様が邪魔で邪魔でしょうがなかった。」なるほどです、この言葉がずしんときます。「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。(ヨハネ11:48)」
恭仁子さんによると、身を清める時は流れる水でなければならないそうです。その流れを作るために、二つの槽を作り、管でつないで片方の栓を抜いてもう片方に流すなどして、神さまを騙しているように掟を守る、その柔軟さ(?)がユダヤ教がこれまで生き残った理由の一つであろう、とのことでした!続けて話します。「このような600メートル四方の大屋敷がここら辺にざらにあった。70年の陥落は、そんなことは起こりうるはずはないと高を括っていた。」
上は、ペリスタイルと呼ばれる、ローマの建築様式の柱頭です(ウィキペディア)。ポンペイの屋敷、またマサダやエリコのヘロデの宮殿にも見ることのできるものだとか。
「昔は、一つの石をくり抜いて作った水瓶をよく使っていた。陶器だと汚れた物が入ったら心配だが、石であればその心配がない。それがヨハネ2章の清めに用いる石の水瓶は、たぶんこういうものであったと思われる。」次が模型です。
二階建てですね。一家庭のなのか尋ねたところ、「そうだけれども、三代が住んでいただろう。召使もいるし、イエス様がペテロの家に長居されたのと同じように、長い期間住んでいる人もいたであろう。地下に降りて行くと、水溜のための槽あるし、倉庫もある。そして大抵、中庭がある。」そして下水について他の人が尋ねたら、「陶器の管は見つかっているから、そのぐらいはできるでしょう。」とのこと。
こんな感じでした。最後にユダヤ地区の開発団体による動画を紹介します。
6.アルメニア地区通過
ヘロデ地区からヤッフォ門まで(Google)
アルメニア地区について(2010年)
私たちは、後は、ホテルに戻るだけです。けれども、ここユダヤ地区から、昨晩も使ったヤッフォ(ヨッパ)門の間にアルメニア地区があります。そこを通過して帰りました。仲間の撮った写真を辿って、路の名前も見ながら、たぶん通ったであろう道をGoogleで示しました。まず、ヘロデ地区の目の前にユダヤ地区の中庭があります。
大きなシナゴーグが見えます。有名なフルバ・シナゴーグです(2010年の旅参照)。
次にシリア正教の聖マルコ教会を通り過ぎます。シリア正教ではここが屋上の間だと信じているようです。
今歩いているのは、「アララト通(Ararat St.)」です。アルメニア地区らしい名称ですね、聖墳墓教会の聖ヘレナ聖堂でノアの箱舟のモザイクがありましたが、かつてのアルメニアにアララト山がありました。
そして「聖ヤコブ通(St.James)」に右折して、「アルメニア総主教(Armenian Patriarchate)」という通りを歩きました。ここで恭仁子さんが、「聖ヤコブ聖堂」のことを言及しました。このヤコブとは、ヘロデによって斬首されたヤコブのほうです。アルメニア地区で最も大きな教会です。2010年の旅で訪問しています。下写真のように、両側が壁になっています。アルメニア地区が右で旧市街の城壁が左です。アルメニア地区は壁の中にさらに壁を作っています。
そしてヨッパ門から出ます。
ホテルに戻りました。今晩が最後の夜です。ギターの弾ける野島さんと見城さんで、ホテルの一室で賛美集会をしました。