イスラエル旅行記 2月28日 - ベツレヘム、新市街、園の墓

1.ベツレヘム
2.イスラエル博物館
3.ヤド・バシェム
4.園の墓
5.最後の別れ


 ついに最後の日になりました。最後の日と言え、飛行機の出発は深夜になるので、たっぷり見学することができます。荷物をすべてホテルから出し、バスに入れて出発です。

1.ベツレヘム
ホテルからベツレヘムへ(Google)
ベツレヘムについて(2008年2010年
冊子からの抜粋

  • 名前の由来(1歴代2:50-51)
  • ベツレヘムへの道でラケルが葬られる(創世35:16-20,48:7)
  • 士師時代
    • レビ人ミカの家(士師17:1-13)
    • レビ人のそばめの実家(19:1-9,18)
    • ルツ記の舞台
  • ダビデの故郷
    • 1サムエル16:18,17:58,20:6)
    • 油注がれる(16:1-13)
    • エラの谷に向かう(17:12-18)
    • ヨアブ、アビシャイ、アサエルの故郷(2サムエル2:32)
    • ベツレヘムの井戸(2サムエル23:14-17)
  • バビロン帰還後に再建(エズラ2:21,ネヘミヤ7:26)
  • メシヤ降誕
    • ミカの預言(5:2、ヨハネ7:42)
    • イエスの降誕(マタイ2:1-12,ルカ2:1-20)
      • 二歳以下の男の子の虐殺(マタイ2:16-18)
  • 見るところ
    • 生誕教会
    • 羊飼いの丘
 


 最後の旅の始まりは、エリコと同じくパレスチナ自治区内にあるベツレヘムです。ですので、恭仁子さんはジェイコブさんといっしょにベツレヘムの検問所のところでしばしばのお別れ、けれどもバス運転手のタイシールさんがイスラエルのバスをそのまま運転し、中に入ります。


ベツレヘムの地図(「地球の歩き方」から)


聖誕教会ウィキペディアGoogle地図

 検問所からバスは、メンジャー(Manger 飼葉桶)通りを走ります。そして、メンジャー広場に到着。


 ガイドさんが入口の門から説明します。そのままこちらの音声をお聞きください(3:30辺りまで)。


 内堂に入りました。こちらの音声(3:40辺りから)聞いてください。


 レバノン杉の天井と、主が降誕された洞窟に向いている天使のモザイクです。


 48本ある柱です。


 こちらのサイトに、全体のモデルがあります。


 地震の後に発見された326年当時、最初の床です。


 そして洞窟に入りたかったのですが、20−30分待たなければいけないと言われました。それで申し訳なかったのですが、諦めていただきました。中は下の写真のようになっています。反対側から入口に向かって撮している感じです。


 左側が、マリヤがイエスを出産した地点。そして右側が飼葉桶があったとするところです。出産したところをアップしたのが次です。


 3DのCGでも、この教会の様子を現物のような鮮やかさで見ることができます。⇒ Jerusalem.com

 次に私たちは外に出て、隣接するカトリック教会のほうに動きました。


 そしてこの中庭にヒエロニムスの像があります。彼はここでラテン語のウルガタ訳に没頭しました。彼についての説明をしていただきました。→ 音声(4:50辺りまで)

 ここで私がガイドさんに尋ねて興味深かったのは(ご本人はギリシヤ正教の信者ですが)、ウルガタ訳を行う動機は、一般の人々が読むことができるにするという目的だったのに、十六世紀の宗教改革の時までラテン語以外の聖書は禁じられ、ラテン語以外の祈りも禁じられていた、ということなのです。実は初めの目的が一般人が読めるようにというウルガタ訳の目的が後に正反対になってしまったという皮肉です。しばしば、教会において起こる本末転倒の話です。

 そして降誕教会を終えました。次の写真は外に出たところから見えた遠景ですが、おそらく白い住宅街はイスラエル領でしょう。手前のベツレヘムが、まばらな家々、そして質素な家々が並んでいるというのが少しお分かりになりますでしょうか?そしてベツレヘムは、ユダ山地にあり、イスラエルの中で、ヘブロン、エルサレムなどと並んで高いところにあります。


羊飼いの野

 そしてバスに乗るのではなく、二つのワゴン車に分かれて移動だと言われました。次は羊飼いの野です。


 2010年に行った時に、一般の貧しい家庭がどのように洞窟暮らししているのかを想像できる、その洞窟がここにあります。行ったら、他のグループがそこにいたので、その間、隣にあるまた別の洞窟でガイドさんの説明を聞きました。⇒ 音声(4:50辺りから)

 羊飼いの野の教会のあるところはベツレヘム近郊の町で、80%がキリスト教徒だと言うことです。そして、音声を聞いていただければ分かりますが、イエス様がお生まれになった状況を尋ねていきました。洞窟で生まれたこと、家畜小屋、飼い葉桶など、それが何で作られたのかを細かく尋ねました。「飼い葉桶が藁でできている」との答えに戸惑ったのですが、隣の洞窟に移動したとき合点が行きました。



 この洞窟の中の様子です。


 そして僕がここから、イエス様の降誕について聖書から分かち合いました。


 そして外を出ると、このようにオリジナルの羊飼いの野を眺めることができます。


 そして私たちは、お土産屋さんに行きます。約一時間だったでしょうか。2008年の旅でも行きましたが、結構、質の良い商品が並んでいます。気に入っているのは(高いので買いませんでしたが 汗)オリーブの木で作られた最後の晩餐です。



2.イスラエル博物館
ベツレヘムからイスラエル博物館へ(Google)
イスラエル博物館について(2008年2010年

死海写本館(死海文書についてウィキペディア

 ベツレヘムの検問所を出ると、恭仁子さんとヤコブさんが待っていました。次に行くのは、イスラエル博物館、そこにはクムランで発見された死海写本が集められている死海写本館、そしてエルサレムの50分の1の模型があります。まず、死海写本館を見学します。


 「死海写本館だが、素焼きの壺の蓋の形をしている。大事な巻き物一本ずつ、それに合うように素焼きの壺を作った。素焼きの中に水を入れると、素焼きから水分が蒸発し、その気化熱で水が冷たくなる。壺の中に湿気が入っても、壁を通って蒸発して、気温を下げる効果があった。黒い壁が立っているのは、クムラン集団は終末思想の、光の子の戦いと闇の子の戦いで打ち勝つと信じていたので、黒の壁がある。」


 館内は写真撮影が禁じられています。したがって音声だけのガイドになります。その前に、2010年の時にはなかった、驚くべき技術を紹介します。イスラエル博物館のサイトにあるものです。

The Digital Dead Sea Scrolls

 かなり公正なデジタル画像の、死海写本を閲覧することができます。今や、博物館に行かなくても、パソコンの前で現物を見るのにかなり近い形で写本を眺められるわけです。では、恭仁子さんの説明を書いていきます。

 「クムランの砂漠です。最初に巻き物を見つけた羊飼いがいる。この人が最初に入った洞穴に壺がそっくりそのまま残っていた。七本の巻き物が入っていた。そして、こちらの写真が、巻き物を二束三文で買い取った骨董品屋である。その後、スケーニクという教授が三本を買い取った、残りの四本は、あるヨルダン人の神父によって非合法に持ちだされてしまった。シリア教会の神父がこの値段(約100ドル)で持ちだした。両方の巻き物が二千万円ぐらいして、それを買い取ることができた。」

 「ガラスケースに入っている巻き物は本物だが、展示すると痛むので三か月毎に取り替えている。ヘブライ大学などで保存してある。紙は羊の皮である。中には牛の皮もある。ほんの一部、パピルスに書かれていた。神殿の宝物の目録は銅板に書かれていた。」

 「くしゃくしゃになっている巻き物だが、これを広げていくだけでも大変である。イガエル教授が発掘を始めると、どんどん巻き物が出てきた。遊牧民との間で、探す競争みたいになってしまった。この写真は共同生活の場に最も近い「第四洞窟」である。これが、東エルサレムのダマスカス門からほど遠くないところにロックフェラー博物館がある。そこに保管され、一部、展示されている。」

 「これがアメリカに渡ってしまった四本の巻き物についての新聞広告である。スケーニク教授の息子イガエル教授が買い取った。七本揃ったところで研究が始まったが、その当時はクムランはヨルダン領で、イスラエル人は夢にも行くことはできないと思っていた。この博物館ができた時には、まず現場に行くことはできないと考えていて、それを前提にできたのがこの博物館である。そうしたら、1967年にイスラエル領になった。それまではヨルダンのオフィスがバックアップして、フランスの考古学者が研究していた、ごく一部、ヨルダンのアンマンの国立博物館に保管されている。」

 「クムランの人たちが使っていた、石の日時計である。これが見つかって目的が分からず、ようやくその目的が分かった。・・オリーブ油のランプの下で、薄暗いところで、写本をしていた。そのランプが残っている。ランプは、そこが粘土質なので、自給自足の生活をしていた。乾燥地域なので、このように腐りもせず出てきている。・・籠がすっかり炭化してしまっている。なつめやしもすっかり炭化している。・・巻き物が一本仕上がるために、壺を作って、蓋をして入れて、山の上のほうの洞窟に隠しておいた。国連がイスラエル建国を承認した1947年に、羊飼いによって死海文書が出てきた。」

 そして、聖書だけでなく、注解書などもあり、一つ一つ見ていきました。恭仁子さんに読めるかどうか尋ねたところ、字体がかなり異なっているようで、頑張らないと読み取れないとのこと。けれども古語ではなく、今の現代のヘブライ語とほぼ変わりない言葉であるとのこと。「羊の皮に縫い目がある。ヨッパの皮なめしのシモンは、このような文書のための重要な仕事であったに違いない。」そして、共同体の規則の文書もありました。

 クムランで、最近は彼らがエッセネ派だとは言わないと聞いていましたが、これだけ出ていても、クムランの人たちがエッセネ派なのかそうでないのか分からないのか、と尋ねたところ、やはり分からないとのこと。最近は、エッセネ派ではなくクムラン集団と呼ぶらしいです。

 墨については、「いろいろな植物を乾かして、粉にして、松脂などを混ぜて、最後に水を触れて振ると黒い墨になった。それを、葦の先を尖らしたようなもので書いていった。・・ヤハウェという名が出るたびに筆を折る、また間違えたら大変なことになる。切り取って訂正もあるが、最初からやり直す時もある。できあがった書物の価値というのは、今の私たちには想像できない。今でもシナゴーグのモーセ五書は巻き物である。手書きの写本を書く人たちがいる。人を助けるぐらいの熱意を持っている。一年かかって、同じ聖書箇所を世界中のユダヤ人が読む。仮庵の祭りの最後に全部読み切り、その巻き物を人格扱いして、みなで担ぎ上げ、祭る、そして翌日から最初から読む。」

 「他の書物は断片的に出てきたが、イザヤ書だけは全部出てきた。けれども、欠けたところは他のところから出てきたイザヤ書で補った、ということだ。イザヤ書はクリスチャンの世界で重要だ。」

 「時間測定については、周囲環境と、炭素14による測定である。」ある兄弟がその測定方法はあまり信用できないと疑義を挟みましたが、「確かに、寄生虫が呼吸しただけで変わってしまう。けれども大体のところは分かる。」とのこと。

(画像は、Ferrel'sTravel Blogから)

博物館内でお食事

 館内にModernというレストランがあります。なんか、日本食も出すところで、箸もきちんと出してくれました。


 ウェイトレスの彼女は、大阪に観光に行ったことがあるようで、私たち日本人客を喜んでいました。


 ご飯が出たのが特徴的。そしてお肉が柔らかくておいしかった。

エルサレム模型3Dのパノラマ

 上のパノラマのサイトで自由に模型を楽しむことができます。恭仁子さんの説明を書きこみながら、該当する写真を掲載させていきます。


 これは模型の前にあったもので、シロアムの池からエルサレムに水を取り入れるための水道管です。


 「考古学者の管理によって正確だ。修正の必要があればその都度直している。素材も石灰岩。立っているところから見えるのは、ちょうどオリーブ山から見た現代のエルサレムと同じものを見ている。大体だが、今の黄金のドームが立っているところと神殿が同じところに立っている。こういうような光景を見て、イエス様は涙を流して、エルサレムの破壊を嘆かれた。そして、イエス様は都に来られると宮の中で教えられていた。ソロモンの柱廊とは、周りに柱があるところである。そして、南壁から出入りする時の階段が赤い屋根のすぐそばのところに二つある。そして、周囲の囲いのないところが異邦人の庭で、囲いの中の手前が婦人に庭、入ってすぐのところが男性のユダヤ人、聖所は祭司、至聖所は大祭司。囲いの手前に金色の門があるが、それが麗しの門(美しの門)である。あそこに足なえの人がいたところだ。」

 「東の谷がケデロンの谷で、東から西への谷がヒンノム、敵が攻めるなら北からになる。昨日、ヘロデ地区で裕福な家を見たが、赤い屋根のところがそれで、その手前が貧しい人たちが住む下の町だ。一番手前にシロアムの池で、チロペオンの谷のところを昨日上がっていただいた。その谷とケデロンの谷の間の1500人ほどが住んでいたところがエルサレムの始まりだ。ソロモンの代になってから上に拡張された。ウィルソン・アーチが西壁の真中から出ていて、それがヘロデ神殿まで続いている。」そしてシロアムの池がダビデの町の外にあるではないかと尋ねたら、それはヘロデ時代のことであり、ダビデの時代にはダビデの町の一部になっていた、とのこと。


 「西の壁は、神殿を囲んでいる壁のことで、赤い矢印が嘆きの壁、その後(左側、北側)は中世以降建物が立ってしまって、けれどもそのトンネルを見た。全長480メートルある。手前のヘロデの宮殿まで陸橋が見える。庶民は南壁の階段を利用するか、ロビンソン・アーチを使うが、王侯貴族はこの橋を通って、神殿から直接、宮殿まで来た。ヨッパ門を昨日出てきたが、北側にあることもあり、三つの塔が守りのためにある。」


 「周囲の城壁(写真で見えていない)は、66年に反乱が起こった時に第三城壁が作られて、70年に壊されると言うはかない命の城壁だ。イエス様の時代はその内側の壁である。第二城壁のところに開いている裁判の門があって、イエス様の罪状書きがあって、その外にゴルゴダの丘だ。そこが当時の死刑場だった。」下の写真で見ると、ゴルゴダの丘がもっとはっきり見えます。



 下の写真は、ゴルドンのカルバリーです。第二城壁の外側にあります。

 「クリミア戦争で活躍したゴルドン将軍が発見した園の墓は、彼は考古学に造詣が深かったが考古学者ではなかった。知らなかったのはイエス様の時代は第三城壁がなかったこと。クリミア戦争の後エルサレムで休んでいたところ、たまたま骸骨のした岩がダマスカス門の傍に見つかった。そこで発掘したところ、非常に古い墓が出てきた。人々が住んでいた、巨大な水槽の跡やぶどう搾りの跡も出てきた。まさに園の墓の雰囲気そのものだったが、考古学的には墓は古すぎる(第一神殿時代)。第一神殿時代の墓をもう一度使うこともありあえるが、イエス様は新しい墓に葬られたとあるから合致しない。」


 赤い屋根のところは、ベテスダの池です。


3.ヤド・バシェム
イスラエル博物館からヤドバシェムまで(Google
ヤドバシェムについて(2008年2010年ウィキペディアウェブサイト
冊子より抜粋

  • イザヤ56:5「名前と記憶」6百万のホロコーストの犠牲者の名を覚える記念館。
    • ホロコースト博物館
    • 名前の殿堂(三百万以上)
    • 記憶の殿堂(永遠の光と22のナチ強制収容所)
    • 記憶の広場の壁
      • ワルシャワ・ゲットー蜂起
      • 最後の三月
      • あなたの血で生きる(エゼキエル16:6)
    • 子供の記念館(殺された150万の子を朗読)
    • 正義の諸国民の通り
      • いなごまめの木を、ホロコースト下のユダヤ人を助けた異邦人を覚えて植える。
    • デンマークのボート(デンマーク系ユダヤ人の救出)
      • 破壊された共同体の谷(500の共同体)
  • 知っておくべき御言葉
    • モーセの預言(申命28:63-68)
    • 異邦人への警告(創世12:2,エレミヤ50:4-7,ローマ11:18-24)
    • イスラエル建国の預言(エゼキエル20:33-38) 

 イスラエル博物館からヤド・バシェムは同じエルサレム新市街近郊にあり、20分ぐらいで到着します。バスの中で私は、冊子の知っておくべき御言葉を引用しました。あまりにも重いテーマになりますので、心の準備が必要です。到着すると、数多くの軍服を身につけたイスラエル人の若者がいます。私たちが修学旅行で必ず行く決まった所があるように、ヤド・バシェムもその一つです。これからヤドバシェムのサイトにある地図を見て辿りながらご覧になると良いでしょう。


 @がビジター・センターです。そして目の前に、C「諸国民の中の正義の人」の小路があります。

 「ユダヤ人以外で、ユダヤ人に手を差し伸べた人たちが大勢いる。日本で有名なのは杉原千畝だ。その一人一人を記念して、一歩ずつ植えて、名前と出身国をヘブライ語と英語で記す。ここにあるのはオスカー・シンドラーのものだ。映画「シンドラーのリスト」の主人公だ。これはイナゴマメの街路樹で、他の木々もある。ここは、ホロコーストの事実があった場所ではなく、記憶の記念のための場所である。それで今に至るまで、世界中から小さな手紙とか写真が記録がぞくぞくと送られてくる。今や、その時、十代を過ごした方たちも八十歳を過ぎている。あと十年過ぎると、若い方々に至るまでこの世の人ではなくなる。それで、今のホロコースト記念館の次の課題は、新しい世代にいかに正しい方法でこの事実を伝えていくか、ということである。」


 そしてD「ホロコースト歴史博物館」の前を通り過ぎています。「それまであったものがマンネリ化してしまい、新しい世代に伝えているために、建物も斬新な建て方をしている。」建物が長細く、ジグザグに歩くような行路になっていて、その合間に犠牲者の遺した物が展示されていたりと、芸術性の高いものとなっています(スライドショー)。確かに1999年のイスラエル旅行で以前の博物館を訪問しましたが、かなりおんぼろでした(汗)。


 再び場内は写真撮影禁止です。なので、まずはこの中の様子をウェブサイトにある動画でご紹介します。


 そして次の館内地図を見ながら、恭仁子さんの音声を書き下ろしてご説明していきます。また、他のウェブで探した写真も掲載します。


 初めは、1.「ホロコースト前のユダヤ人世界1900-1933」です。軽快な踊りの音楽の流れる映像の中でこう話されました。「これまでもポグロムなどの迫害が長いことあったが、あれだけの被害はなかった。比較的、ユダヤ人たちが東欧で暮らしていた時の様子を描いた映画だ。住んでいた人たちは、ドイツ語が分かる人には分かる言葉で、文字はヘブライ語の文字で綴っていくという独特な、イーディッシュを使って暮らしていた。聖書だけがどの時代もヘブライ語で読みつづけ、教え続けた。」

 次に、おそらく3.「戦争の勃発とゲットーまだ」に移ります。「リトアニアで、ゲットーから引き連れたユダヤ人を森の中で、うつぶせに寝かせて撃ち殺して、その上に木を載せて、また撃ち殺す。最終的には火を付けて、焼却する。火を付ける前にロシア兵がやって来て、残された死体である。焼かないで残されていたので、ポケットから証明書であるとか、手紙とか出てきた。ちょうど、撃ち殺されずに残っていた少年だった人が、今80歳近い。」写真は1944年、リトアニアのゲットーにおける、殺された後、焼かれた死体です。


 ちょっと順番が逆になりますが、2.「ナチスドイツとユダヤ人」に関連することをお話しなさいます。「ナチス・ドイツは1933年に政権を取ったが、初めからユダヤ人撲滅を目的としていたわけではない。国民投票の三分の一以下で上手に連立内閣を作って政権を取った。非常に無理があったわけで、反対する人々を粛清していった。だから、共産主義など反対する人々の書物を火を付けて焼いた。詩人のハインリヒ・ハイネが書物が焼かれるところに、必ず人が焼かれる、と言ったがその通りのことが起こった。」

 「今イスラエルに、自らをユダヤ人と称する人が戻ってくると、お父さんがユダヤ人でもお母さんがユダヤ人でないと認められない。改宗があるいは母親がユダヤ人でなければいけない。ナチスの場合は、先代にユダヤ人の血が入っていれば、ユダヤ人扱いだった。そして死に至らしめた。」

 「ドイツのユダヤ人家庭の居間を再現している。ごく普通のドイツ人家庭と変わらない。ところどころ、ユダヤ教の伝統を残すようなものがある。宮清めの燭台とか。自分たちもユダヤ人というよりも、モーセの伝統を担ぐドイツ人だという意識だった。ごく普通に暮らしていたところで、突如として迫害が襲って来た。」

 今、どこにいるのか分かりませんが、ヒットラーの演説の声が聞こえるところで、お話しされています。「各国に住んでいたユダヤ人の犠牲者の数だ。・・・」その後、音声が聞き取れなくなりました。ウィキペディアにはこうなっています。

ドイツ: 165,000
オーストリア: 65,000
フランスおよびベルギー: 32,000
オランダ: 10,000以上
ギリシャ: 60,000
ユーゴスラヴィア: 60,000
チェコスロヴァキア: 140,000以上
ハンガリー: 500,000
ソ連: 2,200,000
ポーランド: 2,700,000 

 4.「ゲットーと、西欧ユダヤ人の運命」に移ったのでしょう。「1939年からホロコーストが始まる。39年から42年にかけて、ユダヤ人が壁に囲まれたゲットーに押し込められる。ゲットーを作らされるのもユダヤ人だった。」(下の写真は、
リガゲットーの垣根を越えたり、中の住民に連絡を取ろうとした場合は射殺されるという警告がドイツ語とラトビア語で書かれた標識。 リガ、ラトビア、1941年?1943年)


 証言者のビデオが流れています。「ホロコーストの生き残りの人たちには、後世に語り継げるのに辛抱強く傾ける人たちもいれば、絶対に口を閉ざして語らない人もいる。」飢え死にしている子の写真が掲載されているのでしょう、「生産活動も何もない、貧困を極めた。子供たちが、食べ物もなく道端で飢え死にしてしまう。最低限の生活条件が満たされないと、人々は無関心になっていく。」(写真は、ワルシャワゲットーの通りに座って物を食べる痩せ衰えた子供。 ワルシャワ、ポーランド、1940年?1943年。)「ドイツに、戦後、証拠隠滅のためにセメントで固めた場所がある。そこでイスラエルの考古学者が彫り出した。中から、ミッキーマウスの絵のついたものがある。その中で考古学者が貢献するというのも、何とも言えない。」


 「ゲットーの分布図である。各地に千個あった。しかし、やましい思いがあったのだろうドイツ国内には一つもなく、占領した国々にある。」(地図は、39−44年のヨーロッパにおける主なゲットーです)


 ナチス犯罪人の写真が掲げらえていると思われます(Wikipedia参照)。「かつてのナチスの残党狩りが今も続いていて、最近も90歳代になった張本人がいる。一番有名な話が、上から二番目のアドルフ・アイヒマンである。名前をすべて変えて、アルゼンチンに逃れていたところ、モサドがつきとめ生け捕りして、ここイスラエルで裁判をした。イスラエルに死刑はないが、この人だけは絞首刑、そして遺体を焼く習慣がないが、この人は全部焼き、灰を地中海に蒔いた。最後の世話をしていた人もホロコースト生き残りだが、遺体を焼いたあとの灰を見て、それまで持ちこたえていたが、いろんな思いが巻き起こり、これだけの灰になった者がこれだけの犠牲者を出したのかと思い、泣き崩れてしまった。ワルシャワの強制収容所の入口に、山のように死体焼却の灰が積み上げられ、それをお百姓さんが肥料代わりに使っていた。あの山のような灰がどれだけの人が犠牲になったのかということから、持ちこたえることができなかったという史記を書いている。」

 8.「強制収容所と死の行進、解放まで」のところに来ているのだと思います。「各地から強制収容所へ運ぶための、家畜運搬用の貨物列車で詰めて、80人入れるなら100人を入れる具合だった。ギリシヤ辺りからポーランドに連れてこられるようなことがあれば、到着した時には半分ぐらいは死んでいた。中にあるのは、トイレ代わりのバケツと飲料用のバケツがあるのみだった。42−45年まで続いた。」


 戻るのですが、6.「『最終解決』とゲットーでの蜂起」に関することを話されています。「ワルシャワのゲットーで蜂起を起こした人です。若い人たちが計画を立てた。4月23日に記念日になっている。このことで亡くなった人々はなくなった場所も日も分からない。共同墓地を設けている。」そして、「強制収容所でそんなことが待っていると思ってもいなかったから、せいぜい強制労働をさせられるという程度で身の回りのもの、貴重品などを持って行っただけだった。今の私たちの感覚では、こんなに大勢いるのだから、どうせ殺されるものなら、立ち上がって蜂起したらいいではないかと思うのだが、まず、そんなことが起きるとは考えられなかったということ、そして、もう少し大人しくしていれば、という感覚で生き延びていこうとした。」


 強制収容所のガス室の説明をされています。「衣類を脱がされて、シャワーを浴びて、水の代わりに出てきたのが毒ガスだった。そして、全員死んだ後、窯に入れて焼くが、その作業をさせられたのがユダヤ人だった。ある男性は、遺体作業をしていて、その時に自分の奥さんの遺体が出てきて、それ以来、口が利けなくなってしまったという方になった。」(アイシュウィッツ強制収容所のウィキペディアにその図と手順が載っています。)「蜂起した人もいれば、妊娠していた女性など戦うこともできない人もいたが、イスラエルでは、全員、戦死した人と同じように、国の礎を築いた方として数えられている。」

 7.「世界の反応」のところにいるのでしょうか、デンマークのことを話しておられます。「デンマークに7800人のユダヤ人がいたが、だんだんナチスの手が伸びてきた時、彼らはユダヤ人に非常に親切な態度を取り、王を始め、国民全員が黄色いダビデの腕章を付けた。デンマークの岸辺からこの漁民のボートで一晩中行き来して、スウェーデンの岸辺まで連れていった。最後には、7000人のユダヤ人が救出された。その本物のボートがイスラエルに寄贈された。」


 8.の「死の行進」について話しています。「戦争終結の間際に、収容所から外に出して、わずかな服、裸足もいたが、雪の降る中、行進をさせられて「死の行進」と言われている。今、イスラエルの若者は「命の行進」と呼んで、イスラエルの国旗を掲げて強制収容所のところで行いました。」(ニュース動画)そして犠牲者の数について話されます。

 「青い方が元々のユダヤ人の数で、黒い方が犠牲者の数、全部で六百万と言われており、その中で三百万がポーランド、最終的には北欧にも伸びて、北アフリカでチュニジア、リビアでわずかな数が犠牲を受けた。ヒトラーの最終解決の計画書を、イスラエルが見つけて、それには、北欧を全部占拠して、イスラエルへの入植者、アメリカへの移民もすべて殲滅させる計画であった。」

 「ホロコーストで生き長らえるためにイスラエルに帰還してきたのだが、英国がこれ以上受け入れないという白書を出した。この船に乗っている人たちは、目の前にイスラエルを見ながら、燃料が切れて船が沈没してしまったり、収容所から出てここまで来たのに、キプロス収容所に入れられるという悲劇が待っていた。そしてようやく戻ってきた人たちも、独立戦争がすぐに始まり、その中に二千人ほどの生き残りの人たちがいた。ある人は、その家系の最後の人だった、ということだ。この国を造りあげるのは只事ではなく、イスラエルの礎になっている。」

 歴史博物館を出てきました。最後にご紹介した資料があります。上の写真の何枚かは、次のサイトからのものです。

 アメリカ、ワシントンD.C.にある「ホロコースト記念博物館」「日本語」の資料 たくさんの資料があります、ご活用ください。

 次に私たちは、L「記憶の殿堂」に来ました。下には虐殺用強制収容所の名前が書いてあります。

 「世界の指導者はここに訪れる。絶え間なく火がともされている。亡くなられた方を気持ちを表している。お花には、ごく一部の犠牲者の遺灰がある。砂漠における天幕をここは表している。そのため、わずかな隙間が空いているように見える、、透明の杭が打たれている。」

 そして記憶の殿堂の前の中庭で、博物館内で出てきた疑問、また恭仁子さんご自身が「旅行者に、ホロコーストの原因を説明するのにどうしても適切な言葉が見つからない。」との思いを伺ったので、私のほうから聖書から見た反ユダヤ主義またホロコーストをお話ししました。


 次に行ったのが、N「子供の記念館」です。「子供の犠牲者は六百万人のうち百五十万人が子供である、乳幼児から16‐17歳までを含む。子供をこれだけ殺したのはユダヤ民族を絶滅させることだった。だから若い世代を摘み取ってしまえばよい。名前もどこで死んだか分からなかったが、最近、どんどん解明されて増えてきている。ここには三千人の名前と亡くなった場所と年代を読み上げている。背景の音楽はポーランドの民族音楽で、中には五本のろうそくだけなのだが、鏡によって無数の星のように見える。アブラハムへの神の約束のことである。それと反対のことのように見えることが起こった。そして、主のみことばは、私たちのともしびという御言葉もその背景にある。」


 そして再び、C「諸国民の中の正義の人」の街路樹に戻りました。そして過去三回見逃した、ついに杉原千畝さんの木を見ることができました。すごい、いいですね、日本語も書いてあるし、日本名が「千畝(ちうね)」なのに英文またヘブライ語は、呼び名"Sempo"になっています!
 

 「もともとリトアニアの領事館だった人、東欧もナチスに抑えられていた時、唯一の道は日本を通過してアメリカかどこかに逃げる方法だった。そのためにはロシアを通過せねばならず、日本を通過するための許可書が必要であった。自分の一存でそんなことはできるわけもなく、けれども敢えて発行しつづけ、八千の人がロシアを通過できた。助けられた人の二代から五代までおり、ユダヤ人にとっては恩義の気持ちを忘れない。神戸に辿りついて手を差し伸べた人たちが、ホーリネスの人々であった。ナチスと日本は同盟国だったけれども、同盟国が追い出した民族を助けるということは国家反逆罪になりえる。そのため、杉原さん自身も外務省を追われて、家族そろって貧困の中にいた時期もあった。自分の命の危険を冒すにもかかわらず、この行為をせざるを得なかった。神戸からの牧師さsンがイスラエルにいらしたことがあり、『それで、分かった』と仰った。小さい時にみすぼらしい身なりをした人々が何人かずつやって来て、数日神戸に滞在して、消えていく。そうすると次のグループがやって来て、あの人たち一体誰なのか?と思っていた。神戸の港の税関に務めていたお父さんに聞いたところ、内緒話を明かすようにして、「あれはユダヤ人なんだよ」という、その意味がようやく分かった、とおっしゃっていたとのこと。」杉原千畝については、日本語のウィキペディアがかなり詳しいです。


4.園の墓
ヤドバシェムから園の墓まで(Google
園の墓について(2008年2010年日本語のパンフレット
冊子からの抜粋

  • 英国軍人ゴードンが発見(1883年)。
  • エルサレムにあるプロテスタントが唯一所有している遺跡。イエスの十字架と復活の場。
    • ゴルゴダ(されこうべ)の形をした岩
    • ぶどう園に必要な貯水槽、酒ぶねの跡
    • 岩に彫られた墓
  • 反対意見
    • 紀元前七・八世紀の墓
    • 第二神殿時代の墓と合致しない
    • 聖墳墓教会も、イエスが死なれた時は城壁の外にあった。
  • 園の墓の価値
    • 主の復活は場所ではなく、主ご自身を知ること。聖墳墓教会より、聖書記述に合致する環境になっている。その中で主を礼拝する。

 ついに、私たちは最後の目的地「園の墓」に行きます。ヤド・バシェムがエルサレムの西にあり、園の墓は、旧市街付近の東エルサレムにあるのでベングリオン空港のことを考えると逆方向になってしまいます。けれども、最後は聖餐式にしたいという思いからこの順番にしました。そして、曜日は木曜日、イスラエルは土曜が安息日なので、日本でいうならちょうど金曜夕方だと考えてください。だから帰りが混むでしょう。

 ようやく開通したエルサレムの路面電車です


 キリスト教地区にある唯一の門「新門」


 園の墓入口、はるか向こうに旧市街の城壁が見えます。


 園の墓の方が挨拶に来てくださいました。


 では初めに上の写真をそのまま前進して、ゴルゴダの丘に行きます。

 「ゴルドン将軍は、城壁内にある自宅で、クリミア戦争後休みを取っていた時に、眺めていると骸骨のように見えるこの岩が見えて、もしやという思いが湧き上がってきた。当時、19世紀の終わり、あるアメリカ人家族が全財産を売り払ってやってきた人たちがいた。苦しみの中にいた人たちだが、この苦しみに打ち勝つにはその苦しみのそばにいなければいけないと思った。当時はイエメン系のユダヤ人が帰還していて、東欧のユダヤ帰還民から見下げられていた、そのような弱者に手を差し伸べていた。だんだん、そういう奉仕に共鳴する人たちが増えて、百年ほど前、オスマントルコから買い取って、アメリカン・コロニーという共同体ができてきた。その共同体はホテルになっているが、そういう奉仕活動に関わっていた人がゴルドン将軍であった。発掘を進めると、非常に古い墓が出てきて、巨大な水溜の装置であるとか、ぶどう酒搾り機であるとか、将軍はますます確信を深めるようになっていった。やがてその後の研究の結果、墓は第一神殿時代のものであり古すぎる結果が出た。考古学的には説得力が足りないのだが、雰囲気がとても良いので、祈りの場所になってきた。六日戦争の前まではヨルダン人クリスチャンの家族が守っていたが、その戦争の中でそのご主人が殺されてしまった。イスラエルとヨルダンで誰が殺したかで未だ言い合いになっている。その家族はアメリカに移住した。その後、だんだん英国国教会の方々が奉仕の来られるようになった。先ほどの挨拶された方も牧師で、受付も奉仕で見えている方たちばかりだ。ここは、アラブ系バスのセントラル・ステーションだ。イスラエルのバスは、宿泊していたホテルのそばにある。」

 
 「貯水槽だ。後ろの写真を見ると、はしごをかけてあれだけ降りるぐらいの大きな槽であることかが分かる。」


 「ヤド・ハシュモナで見たような、ぶどう搾り機だ。相当な集落があったと考えられる。」


 「手前の溝に、円形の石をごろごろ転がした。」石は下写真のようなものです。



 ここまでが恭仁子さんの説明ですが、園の墓の日本語のパンフレットがとても良い紹介です、どうぞ読んでみてください。そして皆さん、ここで墓の中に入っていきました。

 





 そして私たちは敷地内で聖餐式を持ちました。




 無事に終わり、出ていくときに事務所で奉仕をしておられた人たちの中で、カルバリーチャペルの方がおられました。



5.最後の別れ
園の墓からベングリオン空港まで(Google

 ここで私たちはたけさんご夫妻とお別れです。お二人は現地集合で合流されて、私たちが到着する前からイスラエルに入り、私たちよりも後にイスラエルを立ちます。そして私たちは車中で、一人一人感想を話していただきました。そうするとあっという間に空港に着きました。そしてベングリオン空港では、米国からいらした二人の姉妹とお別れです。私たちのほうが一時間ぐらい早く出発するので、ちょっとぶれていますが写真を撮ってくださいました。


 そして最後は、恭仁子さんとヤコブさんとのお別れです。テルアビブから確か、アラドへ向かう鉄道、あるいは高速バスがあったと思います。だからそのままご自宅に帰れるとのことでした。そして日本帰国チームは、韓国の仁川国際空港で乗り換え、無事に3月1日の夜に成田空港に到着しました。


おわりに、そして次回の聖地旅行

 私は団長で、団長からの見方で旅行記を書いてきましたがが、他の旅行仲間のお話しを聞きますと、一人残らず「とても不思議な、一体感のある旅であった」と言っています。すでに復習会を4月に行い、それから明日2013年11月23日にも第二回復習会を行います。すでに「これだけでは淋しすぎる」という声が上がっています。あの不思議な空間はなんだったのか?と私も思います。私はとにかく、人々をどのように導いていくのかで頭がいっぱいでしたが、こんなにたくさん見学地を回れたグループは他にあるのか?と思います。ガイドの恭仁子さんは知識的にも、経験的にも、何と言ったらよいでしょうか、団長が団長でいられるようにする能力をお持ちです。つまり、どのような趣旨の旅になるのか早目に察知して、そのように旅程や動きを調整していくことがおできになります。

 次回の聖地旅行を祈り始めています。まだ分かりませんが、再来年(2015年)になるだろうか?と思います。そしてヨルダンも入れた旅行にしようか、とも考えています。この旅行記を読まれた方で興味のある人は、ぜひご連絡ください