イスラエル旅行記 2月26日 後半 - エルサレム旧市街(キリスト受難中心)

エルサレムの概観
1.オリーブ山
2.ゲッセマネの園
3.ベテスダの池
4.ヴィア・ドロローサ
5.聖墳墓教会
6.ユダヤ地区で昼食
7.神殿再建財団
8.主の晩餐・聖霊降臨
9.鶏鳴教会
10.カルド
11.西壁トンネル



3.ベテスダの池」からの続きです。

4.ヴィア・ドロローサ
ヴィア・ドロローサの説明(2008年旅行2010年旅行ウィキペディアBiblewalks.com
冊子からの抜粋

イエスが十字架を背負い、ゴルゴダまで歩かれた道(カトリックの伝承あり)
第一留 イエス、死刑の宣告を受ける (マルコ15:1−20等)
第二留 イエス、十字架を担わされる (ヨハネ19:17)
第三留 イエス、初めて倒れる
第四留 イエス、母マリヤに会う
第五留 イエス、クレネのシモンの助力を受ける (マタイ27:32等)
第六留 イエス、ヴェロニカより布を受け取る
第七留 イエス、再び倒れる
第八留 イエス、エルサレムの婦人らを慰める (ルカ23:28)
第九留 イエス、三度目倒れる
第十留 イエス、布を剥がれる (ヨハネ19:13等)
第十一留 イエス、十字架に釘付けされる (ヨハネ20:25,27等)
第十二留 イエス、十字架に死す (マルコ15:37等)
第十三留 イエス、十字架より下ろされる (ヨハネ19:31-38)
第十四留 イエス、墓に葬られる (マタイ27:59-60等) 

 ベテスダの池から出て、ステパノ門の道をさらに二百メートルぐらい行きますと、ヴィア・ドロローサに行きます。
(下の画像をクリックすると拡大します、「地球の歩き方」から)


 日本語による各ステーション(留)の説明がウィキペディアにあり御言葉も引用されています、きれいな写真がBiblewalks.comにあります。適宜、リンクしてみたいと思いますが、ここでは恭仁子さんの説明を中心に紹介します。私たちは、鞭打ちの教会宣告の招請堂(あるいは「有罪判決の教会」)の敷地内に入りました(右写真)。「19世紀にバチカンが、象徴的に決めた場所で14留がある。14という数字は、マタイ1章17節のイエス・キリストの系図が由来だ。アブラハムからダビデまでが14、ダビデからバビロン移住までが14、バビロン移住からキリストまでが14であった。歴史的、考古学的に検証されたわけではない。ビザンチン時代は百ぐらいの留を作り、一日がかりで歩いていた時代もあったし、イスラム時代にキリスト教徒の行動が制限されていた時は、聖墳墓教会の中に留を作っていた。第一留は、この向かいはアラブ系男子の小学校だが、その小学校の下に遺跡があり、アントニオ要塞の一部がある。ここでイエス様が判決を受けられた。発掘がそのためにできないため、一応、小学校の校庭の真中が第一ステーション(留)である。学校なので金曜日(ムスリムの休日)にしか入れない。そして今立っているところは第二留であり、鞭打ちの教会と宣告の招請堂にいる。ここで鞭を打たれ、茨の冠を被せられ、したがって入口が茨の冠の形になっている。どちらもアントニオ・バルルッチの作品である。そしてここで十字架を担がれて、ゴルゴダに向かう第一歩を歩かれた。」

 そして私たちは敷地を出て、歩きますと第三留に行く前にこのリンク先のアーチが見えます。「大きいアーチの一部です。これはおそらく二世紀に、ハドリアヌスというローマ皇帝がバル・コクバの反乱を抑えた後、ここに勝利の凱旋門を作ったのではと言われる。真中に大きいのと、両側に小さいのがあって、向こうの小さいのは壊れてなくなっており、大きいのは教会堂の中に組み込まれている。こちら側の北側の小さいのは祭壇になっている。「この人を見よ」とピラトが群集の前にイエス様を引き出した。凱旋門とは一世紀ぐらいの違いはあるけれども、一応、エッケ・ホモ教会と呼ばれている。」私は、これから入っていくところはイエス様当時のものとは違うのかと再度確認したところ、そうだほとんどがハドリアヌスの時代のものだという回答でした。

 中に入ると、地下にヘロデ時代の貯水槽があります。西壁トンネルの北端にもありますが、私もエッケ・ホモ教会の側から見たのはこれが初めてでした。「ヘロデの時代に、神殿の中では燔祭をしているが水がいくらでも必要だったが、城壁の外にたくさん水溜があったが、これもその一つである。これが一番小さいもので雲雀の水槽、ストルティオンの池と呼ばれている。中壁で仕切られており、今晩、嘆きの壁の続きを見るため西壁トンネルを通過する時にこの半分の向こう側のがあちら側から見ることができる。つまりそれが全部の大きさで、かなりの大きさだが、当時の中では小さいものだった。」雨水が天井からどんどん落ちていましたが、私が来た時は6月ですから、こんなにも雨量が多くなっているのだと実感しました。(左下写真)



 そして展示物がありました(右上の写真)。「第二神殿時代の土器の他に、ローマ・グラスと呼ばれている今日のベネチア・グラスに匹敵するような高価な食器や花瓶が出てきている。モザイクの石の剥がれたものもある。」

 そして敷石のところに来ました。「これがイエス様の時代のものではないが、同じ様子であったことは確か。アントニオ要塞の一部とされている。要塞がどのくらいの大きさでどこまで広がっていたかははっきりと分かっていない。このような敷石で、そして滑り止めの轍(わだち)も残っている程だ。アントニオ要塞のどこかでイエス様は十字架の判決を受けられた。」ここで私は、エッケ・ホモを叫んだ場面を聖書朗読しました。(右写真は、聖書朗読した時の敷石(リソストラトス)

 

 そしてエッケ・ホモ教会を出て、前進し、第三留へ向かいました。聖書記述のない「イエスがつまずかれた所」です。(下写真は第三留へ向かう道)


 「マリヤがイエスが十字架を担がれている時に会ったという中世以降の言い伝えが、第四留だ。第三も同じく中世以降の言い伝えである。」


 ウィキペディアを見ますと、興味深い記述があります。「ライオン門からはじまるヴィア・ドロローサはライオン門通りを西へと伸びてエッケ・ホモ・アーチを潜った後、エル・ワド通りと交わる角で南へと向きを変える(左折する)。エル・ワド通りは神殿の丘とシオン山に挟まれた谷底に相当し、フラウィウス・ヨセフスの文献では「チロペオン」と名付けられている。」ここがチロペオンの谷だったのだと地理的確認ができました。そして、このエル・ワド通りを右折すると城壁北の主要な門、ダマスカス門に行き、その外に「園の墓」があります。もし園の墓がゴルゴダの丘であればその道を主が通られたことになります。そこで、プロテスタントの教会の一部の人々はここから右折して園の墓に向かう人もいるそうです。

 第四留の通りから今度は右折しますが、その角に第五留があります(写真)。これは聖書に記述のある、クレネのシモンがイエス様の十字架を担ぐところです。「クレネという今のリビア出身の人だが、たまたま通りかかった。ここからの道は登坂になっているが、これがゴルゴダの丘につながる道だ。」

 「十字架刑というのは、一番苦しんで受ける死罪、辱めを受けるものである。そういう人たちが死んでもらうためには、疲労のために死んでしまわれては意味がない。善意からではなく、十字架まで生きながらえさせるために、シモンに十字架を担げと命じたのだ。」説明を聞いて、なるほどでした。そして、さらに上り、第六留、ベロニカの教会です。もちろん言い伝えですが、「その名前はギリシヤ語で「真実の像」という意味がある。」とのこと。

 そして第七留に行きます。イエスが二度目につまずいたとする伝承の場所です。けれども、ここが第二の城壁の場所であり、ここから先が城壁外になります。そして「裁きの門」と呼ばれて、ゴルゴダへつながる門です。

 「この裁判の門に、罪状書きが掲げられる。イエス様の罪状書きは、ラテン語、ギリシヤ語、ヘブライ語で、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」であった。ユダヤ人の王と自ら称して扇動し、ローマに反抗した。そしてナザレ人と言って、侮蔑的意味合いがあった。」ここで私が城壁だったという遺跡は残っているのか尋ねたところ、史実が残っているとのこと。ウィキペディアによるとヨセフスが残していることが書かれています。

 そして少し進んで第八留があります。女たちにイエス様が語られた場所です。「演出効果のために泣き女だったのではないかという説もある。そこでイエス様は、あなたがたは自分たちの身の上に起こることで嘆きなさい、と言われた。先ほど、オリーブ山のところで嘆かれたこと、神殿が破壊することをここで確認しておられる。」そして、大変混雑した小道を歩きます。右折してそこし入ったところに、第九留があります。イエス様が三度目につまずかれた、という言い伝えです。(下写真は第九留)


 そしてついに聖墳墓教会に入っていきます。途中で右折するところで見城さんが合図をしました。


 聖墳墓教会の屋上に来ました。中庭になっていてエチオピア教会を通って、聖墳墓教会の正面に行きます。この中庭の入口辺りで聖墳墓教会の説明を恭仁子さんがしてくださいました。

 「この聖墳墓の教会の中に、六つの宗派、ギリシヤ正教、アルメニア教会、シリア教会、カトリック、コプト教、が入っていて、とても仲悪く共存していて(笑)、今に至るまでムスリムの家族がここの教会の鍵を管理している。どちらかの宗派に渡してしまうと、独り占めにしてしまう可能性があるから、とのこと。NHKで何度も放送されたアルメニアとギリシヤ正教が殴り合いの喧嘩をした(Youtube動画!)。これから二階建てのエチオピア教会のチャペルを抜けて、聖墳墓教会の正面に出てくる。」下の写真が入口です。ちょうどスリランカからの巡礼の人々に出くわし、私たちが譲って先に行っていただきました。



 ゴルゴダの丘には上がらず、ちょうど聖ヘレナ大聖堂と呼ばれるものがこの真下にあり、そこに行き、その下の石切り場に行こう、ということにしました。そのように前もって、恭仁子さんにお願いしていました。二階はとても混んでいるし、実際の岩は祭壇の中にあるのを知っていたので、むしろ下の丘の下の岩が見られるところ、そして石切り場の見られるところがあるので、そちらを見せたいと思ったのです。(・・・・が、奇跡的に聖墳墓教会が以前よりずっと空いていました。後で恭仁子さんが、「二階も行ってみましょう!」と言ってくださり、結局全部を見ることができました。)こちらの写真は、入口を入ったところにあるエチオピア教会に掲げられている絵画です。彼らは、バテシェバがソロモンに謁見し、そこで彼女が子を宿し、その子孫が自分たちであるとします。そして、あのエチオピヤの宦官の回心によって始まった教派です。

ビデオでヴィア・ドロローサ: Jerusalem.com 詳しい説明を映像を見ながら聞けます。

5.聖墳墓教会
聖墳墓教会の説明(2008年旅行2010年旅行Biblewalks.com
冊子からの抜粋

歴史
  • 135年、ローマ皇帝ハドリアヌスがウェヌス(ビーナス)の宮をこの場に建てた。ユダヤ人信者がここを聖なる所だとみなしており、ハドリアヌスはユダヤ教の痕跡をなくしたかったため。
  • 聖ヘレナが336年、この異教の宮にこの教会を立てる。
  • 何回か建て直され、現存のものは十字軍によって建てられたもの。
根拠
  • 当時の城壁の外にあった(ヘブル13:12)
  • 紀元前七世紀に石切り場であった
  • 一世紀に埋め立てられ、園になった。
  • 少なくとも一世紀からの四つの墓がある。

 私は、前庭に出てきました。右側の階段を上がった小さなチャペルに、写真に載っていませんが第十留があります。イエス様が衣を剥がされたとする場所です。外庭に出てきたので2010年の旅でアーノルドから説明を受けた、「動かぬ梯子」を私が説明しました。三百年近くそこから位置が変わらず置いてあります。少しでも動かせば、先ほどのような暴力沙汰になりかねる対立を招くからです。

 そして恭仁子さんは、宗教間の戦争というのは、ナイチンゲールが活躍したクリミア戦争のように、実は同じ宗教の教派間のものであることが多いと説明してくださいました。なるほど、実際に私たちクリスチャンも、近ければ近い関係ほど、実は対立が激しくなるのは現実のものとして実感します。そして、そもそもここに教会が建てられるようになった、大元の石切り場に向かいます。

 ここから次の地図を見ながら読まれると良いでしょう。→ 聖墳墓教会内の地図(地球の歩き方から)
 そして、こちらがウィキペディアにある断面図です。

 ゴルゴダの丘のてっぺんになっているところが二階にあって、そこにイエスが釘打たれたとされる第十一留と、イエスが十字架につけられた第十二留になっています。そして第十三留は入口の正面にあり、イエス様が取り降ろされて、亜麻布で巻かれた所です。そこで大勢の人が石に接吻をしています。そして左奥にイエスの墓があり、そこが第十四留です。教会を建てるために、洞穴になっていたはずの岩山を打ち壊したため、面影は全くありません。ですから基岩を見るためには、ゴルゴダの丘の基盤の部分のところに行かないといけません。そして、当時のゴルゴダを想像した絵が次です(Jerusalem101から)。石切り場の跡地のところに墓、そして園があり、ゴルゴダの丘が十字架の処刑場になっていた、というものです。


 私たちはまず、入口から右にある第十四留にもなっているイエスの墓に行きました。オリーブ山から岩のドームの背後に見えた二つの灰色のドームが聖墳墓教会でしたが、その二つドームの大きい方の下にあります。

 一人の兄弟が「どこに墓があるのだ?」と質問したのですが、目の前にあるこれがそうでした。けれども、彼にとっては洞穴がイエス様の墓のはずだという考えがあったから分からなかったのです。それで私が位置関係を恭仁子さんに確認しました。先ほどの入口のところがゴルゴダの丘で、そしてここに岩山があって洞穴が複数あったものと考えられます。しかし、ギリシヤ正教風の教会を建てるために一つだけを残して切り壊し、さらにこの建物を建てたのです。「この中は二つに分かれていて、最初の間は「天使の間」と呼ばれているが、三日目に墓参りに来た時に現れた天使たちのことを指している。奥にイエス様の遺体が置かれたとされる岩が彫っていあるところがある。そして周りの柱は典型的な十字軍の作りだ。」

 そして私たちは、奥のほうをぐるっと回って墓のの反対側に位置するヘレナ大聖堂に向かいます。階段を下りて行きました。

 「この教会を建てた事の始まりは、ヘレナである。その時は死のイメージではなく復活の教会と呼ばれていた。先ほど屋上にあったエチオピア教会の中庭にドームがあったが、それが天井にあるドームだ。アルメニア教会のものである。アルメニアは紀元後二世紀に国を挙げてイエスを受け入れたことを誇りにしている。四世紀にはこの王国は滅び、アルメニア人は教会を中心に集まった。エルサレムにも二千人が住んでいる。名前が、〜ヤンで終わる人はアルメニア人である。祭壇の手前にあるモザイクで周囲に動物が描かれているのはノアの箱舟に入った動物である。アルメニア人は、ノアの箱舟を心の拠り所としており、箱舟の留まったアララテ山がかつてのアルメニアにあったためだ。」

 そしてさらに下に降りていくと、十字架が見つけられたとされる教会があります(リンク先をさらに下に下げて(p)Finding of the Crossのところ)。ヘレナを記念した像の横に煤で黒くなった石切りの跡が見えます。

 「大変古い石切り場である。ここにイエスが付けられた十字架の釘が投げ捨てられていて、それが見つかったから復活の教会を建てた、ということである。石を切り出した跡がある。切り出された跡が残っているが、第二神殿時代の規格の寸法ではなく、第一神殿時代の規格の寸法である。かなり昔から使っていたものだ。そこにイエス様の十字架が付けられたということで最初の復活の教会が建ち、614年ペルシヤ人の侵入によって壊され、その上に十字軍がその上に建てた。」


 そして私たちは階段をまた上がって一階に上がりました。上がるとすぐに「アダムのチャペル」があります。ここでゴルゴダの丘の基岩を見ることができます。「しゃれこうべの形をした不気味な岩が立ち並ぶ岩山が連なっていた。」


 そして、横を見ると二階に通じる階段があります。なんと人が全然並んでいません!そこで恭仁子さんが、「二階に上がりましょう」と言われました。


 あがると右側に、第十一留があり、イエス様が釘付けにされている絵画があります(上写真)。そして第十二留が左側、主が十字架に付けられたその地点であるとされる場です。そして下の写真は、その祭壇の左右にあるガラス張りのところから見える岩ですが、これが先のアダムのチャペルの丘の基盤のてっぺんのところに当たる部分です。


 そして階段の上から下を眺めると、第十三留の、イエスの遺体が取り降ろされたところであり、その奥が先ほど行ったイエスの墓になります。


聖墳墓教会をCGの案内で回れます → Jerusalem.com 3Dツアー 

6.ユダヤ地区で昼食
聖墳墓教会からユダヤ地区ファラフェルのお店へ(Google)

 これからお昼です。聖墳墓教会を出て、ムスリム地区とキリスト教地区の境目を歩き、ユダヤ人地区に入ります。少し道を外れると、まるで違う世界に入るように、がらっと雰囲気が変わります。けれども、変わらないのはこじんまりとしていることです。小さな空間にいろいろな内容が詰まっています。

 私の好きなムスリム地区の典型、香辛料のお店と、ユダヤ地区の広場
 

 お食事は、私がお願いしていたファラフェルです。これを食べずにイスラエルから離れてはいけないと思うぐらい、必ず食べてもらいたかったファーストフードです。ひよこ豆を揚げたものがファラフェルで、そこに野菜サラダとフライドポテトが入っています。それをほおばって、その後は休憩時間です。



7.神殿再建財団(The Temple Institute)
お昼の場所から神殿再建財団まで(Google)
神殿再建財団について(2008年2010年ウェブサイト
冊子からの抜粋

  • 神殿の丘に第三神殿を建てることによって、メシヤ到来を迎え入れると考える、ユダヤ教の一派。
  • 実際に使用するための祭具がすでに作られている。
  • 燭台、大祭司の装束、供えのパンの机など。
  • 出エジプト記25章から始まる主の幕屋の記述をよく読むこと。
  • 留意する点
    • 神殿はメシヤが建てるものであり、人間に拠らない。(ゼカリヤ6:13)
    • イエスがメシヤであることを受け入れないのであれば、他の人をメシヤと受け入れてしまう(ヨハネ5:43,ダニエル9:27)

 お昼を食べたテラスから、少し階段を降りるとそこは嘆きの壁を眺めるところになります。そしてテラスの前にある小さな道を行くと、一分もかからないところに神殿再建財団があります。これは明日、ユダヤ人関連の旅行で見る予定でしたが、予約が入らずに本日になりました。ここは私にとって四回目、お馴染みのところですが、恭仁子さんにとっては初めてだったそうです。それだけ、米国のイスラエル旅行では連れて行き、日本のそれでは連れていかな所だったと言って良いでしょう。ここで何を見て欲しかったのか?

1)神殿に使われる用具や、神殿全般の知識
2)この団体の目的、すなわち第三神殿を神殿の丘に建てようとしていること(黙示録11:1‐13)
3)聖書預言に警告されている反キリストの現れ(ダニエル9章27節)

 この三つです。案内は、この団体にいる若い女性です。正統派のユダヤ教徒ですが、この団体は他の一般のユダヤ教徒と異なり、「神殿を建て、自分たちの手によってメシヤを招来する。」という考えのあるところです。ユダヤ教ではメシヤが到来し、メシヤが神殿を作られると信じていますから、彼らの考えは少数派で、奇妙に見えることでしょう。彼女に付いたのは私の妻で、英語から日本語に訳しました。けれども、後で恭仁子さんがヘブライ語がぺらぺらなことを知った彼女は非常に喜んでいました。今度来る時は恭仁子さんに通訳をお願いしようと思います。→ 音声を聞いてください。


 香料の混合や祭司の装束、そして燭台の作りを説明しました。この燭台の皿の花弁やがくのところを、ヨシュアさんに持ってもらいました。かなり重いのです!


 レビ人の役割を話し、彼らが琴を奏でる話をしました。


 供えのパンの机の説明もしてくださいました。


 そして次の絵を見ながら、レビ人たちが主を礼拝していることを説明しました。


 そして、模型を見ました。西壁は神殿の裏の壁になります。


 そしてこの後で映画を観ました。英語なので日本語がなく、あとでかいつまんで説明するしかありませんでした。けれども、日本語字幕付きの神殿再建財団のニュースを見つけました。


 そして最近、「第三神殿」と題する映画が出たことを知り、興奮しています。まさに神殿再建協会が行おうとしていること、そしてその聖書預言的意味を掘り下げているからです。


 この後に、神殿再建財団で話されていた燭台(メノラ)を見に行きました。先ほどファラフェルを食べたところまで戻り、階段を降りると踊り場にあります。


 先ほどヨシュアさんが持っていた花弁は、このメノラの七つ枝の上にある部分です。この場所から少し動くと、あの有名な嘆きの壁の風景を見ることができます。


 こちらで、ヘロデ神殿の3D映像を楽しめます。


8.主の晩餐・聖霊降臨
神殿再建財団から「屋上の間」まで(シオン門経由)(Google)
「屋上の間」について(2008年2010年
冊子からの抜粋

  • 現存するのは、十字軍時代に建てられた
  • 一部、初代教会の跡が残っている。
    • 聖霊が降られる(使徒2章)
    • ユダヤ人信者が礼拝を守る
    • エルサレム議会(例:使徒15章)
    • エルサレム包囲が一部解除され、イエスの言葉に従って逃げ、ペラに住む(ルカ21:20-21)
    • 神殿破壊(70年)後戻り、バル・コクバの反乱(135年)の時までシオンの教会

 神殿再建財団からはユダヤ地区内を歩きます、そしてアルメニア地区の境の小道を歩いていきます。お店はユダヤ系のものから、アルメニア系のものに変わりました。そしてシオン門に来ます。上のGoogleの地図で確かめてください。そしてシオン門についても、2008年2010年の旅行記に書いてありますので、ご参照ください。


 ここの入口に、ユダヤ人音楽を立琴で奏でる音にかき消されながら、恭仁子さんがシオン門とシオン山に説明をしてくださいました。「門の傷は、独立戦争の時の弾痕の跡です。こちらのサイトの説明を引用します、「シオン門はエルサレム旧市街城壁の一番南側にある門です。この後訪れる「ダビデの墓」に近いことから「ダビデ門」とも呼ばれています。また、旧市街のユダヤ人地区に近いことから「ユダヤ人地区ゲットー」とも呼ばれるようです。1948年のイスラエル建国に伴う第一次中東戦争でこの地区は激戦となりました。その時の弾痕が現在でも数多く残っています。その時、ユダヤ人地区に取り残された人々を救出しようとしたイスラエル義勇軍がこの門から突入しましたが、敗れました。エルサレム旧市街がイスラエル領となるのは、意外なことに、1967年の第3次中東戦争でのイスラエルの勝利以降です。」

 そして恭仁子さんは言いました。「そしてここから城壁の外にいるが、この城壁は十六世紀のオスマントルコによって作られたもので、当時はシオン山は城壁内にあった。」次のシオン山の冊子の中での説明をお読みください、ここの地域は新約時代は、「上の町」と呼ばれておりなお城壁内であり、当時は南の城壁はヒノムの谷のところにありました。確か、2010年の説明で、アーノルドがオスマントルコ時の城壁建設で、シオンの山を囲わなかった失態に対してスレイマン壮麗王が建築者らを死刑にし、彼らの墓がヨッパ門の横にあるという話を聞きました。

 かつシオン山という名称も聖書記述の位置関係とは異なります。サムエル記第二5章に、「ダビデは、シオンの要害を攻め取った。これが、ダビデの町である。(7節)」とあります。ダビデの町は、神殿の丘の南にある、ケデロンとチオペロンの谷の間にある自然要害です。ですから、ここではありません。ビザンチン時代にここがシオン山だと間違ってしまいました。だから、「シオン山」と聖地旅行で聞くときは、いつもこのことを頭に入れて聞く必要があります。屋上の間の下には現在、ダビデの墓がありますが、ダビデは自分の町に葬られたと聖書にあるので、パッケージでダビデの墓もこっちだと思って葬っている、ということです。下は、冊子にあるシオンの山の説明です。

  •  「シオンの山」は、聖書的にはダビデの町のこと。しかし、ビザンチン時代にここがダビデの町だと間違った。それ以来、シオン門の外にある部分を指す。
  • 新約時代は「上の町」
  • ここで起こったこと
    • 屋上の間の最後の晩餐(マルコ14:15)
    • カヤパ邸の死刑宣言(マタイ26:57-75)
    • 屋上の間の聖霊降臨(使徒1:13,2:1-4)

 そしてGoogleの地図を辿りますと、南の車道に出て行くようになっていますが、きちんと歩道が中にあって、ほぼ直線に屋上の間「チェナクルム」に行くことができます。下の写真はその小道を歩いている様子です、正面にマリヤ永眠教会が見えます。カトリックの伝承ではマリヤが眠ったところは、ここと、エペソの二つがある、とのことです。


 そして、一階がダビデの墓のある建物に来ました。その二階がチェナクルムです。

 「もともと二世紀の巡礼の人の記録に、シオン山の近くで人々が盛んに賛美していた場所がここだったと言われているが、そこでここが最後の晩餐のところだったと言われている。ビザンチン時代には、聖なるシオン教会が建てられていて、永眠教会より二倍半ぐらいあったと言われている。それが614年のペルシヤ人の侵攻で壊されて、その廃墟となったところに十字軍が建て、当時のビザンチンの教会よりもさらに大きい教会だった。ここで聖餐の他に、イエスが足を洗われたこと、復活され現れたところ、そして聖霊降臨のところとして記念したチャペルがあった。13世紀の時に次のイスラム勢力によって壊された。奇跡に残ったのが、最後の晩餐を記念したチャペルだけが残った。やがてフランシスコ会が譲り受け、大切に守っていたのがこの部屋である。」この時に、ここで巡礼者の一団が賛美を歌い始めました。続けてダビデの墓について説明します。

 「この真下にダビデの墓というのがあるが、そこはシナゴーグになっている。シナゴーグを知るにも、ご覧になるとよいだろう。この最後の晩餐の真下にあるというのが興味深く、ペテロが、聖霊が降った後の説教で「その墓は今日まで私たちのところにあります。(使徒2:29)」と言ったので、まずイスラム教徒がそれを受け入れて、その後でユダヤ教徒が受け入れた、という経緯がある。そしてシオンのの山に巨大な石の棺が見つかったというのも手伝った。」ちなみにユダヤ人信者である、アーノルド・フルクテンバウム博士がここに私たちを連れてきた時は、初代教会の時からここがエルサレムのユダヤ人信者の集まる教会がここにあったことを説明していました。英語版のウィキペディアを見ますと確かに書いてあります。

 そしてここの装飾ですが、「基本的に十字軍のものですが、十六世紀にイスラム教徒が使っていた時のステンドガラスがあり(アラビア語が書かれています)、そしてここは独立戦争後、ぎりぎりイスラエル領であり、六日戦争の時までは屋根から射撃をしていたという物騒なところになっていた。」とのことです。


 そしてダビデの墓にはいります。男は必ず帽子を被り、男女別です。まずは男性側から。


 この小さな部屋を出たところで男三人が休憩しています。ここはシナゴーグです。


 そして女性側。

 恭仁子さんは、後のフォローアップでこう説明されました。「この墓を拝んでいるのではない。そして本棚にある本は聖書ではなく祈祷書で、ユダヤ教の場合は朝昼晩の祈りが全部違うし、安息日や祭りの祈りも違うものだ。」

 こちらに、シオンの山の3Dがあります。


9.鶏鳴教会
ダビデの墓から鶏鳴教会まで(Google)
鶏鳴教会について(2008年Biblewalks.com
冊子からの抜粋

  • カトリックの伝承ではカヤパ邸
  • 地下に、イエスがむち打たれ、後に使徒たちがむち打たれたとされる地下牢がある。
    • マタイ26章57-75節
    • 詩篇88篇(抑留の詩篇)
    • 使徒4:3,5:18
  • ローマ時代の階段があり、イエスがそこから裁判を受けるために引かれて行かれたのかもしれない。

 ダビデの墓から鶏鳴教会までは、歩いて三分ぐらいしかかからないところにあります。いったん車道で、降りていきます。ヒノムの谷への傾斜が始まっているところにあります。下の写真では、向こう側に見えているのがオリーブ山の南、「破壊の山」(2列王23:13)です。そして山を越えると、かすかに黄褐色が見えますがユダの荒野になります。


 そして、この辺りから神殿の丘の南壁に向けて撮った写真が次です。手前の低くなっているところが、チオペロンの谷です。そして灰色のドームがアル・アクサ寺院で、その後ろがオリーブ山です。


 教会に行きますと、まず目に留まるのが次の門に刻まれた絵です。

 「イスカリオテのユダが出ていった後なので11人しかいない。ペテロが主を知らないという前なので、雄鶏が待ち構えている状態だ。イエス様が三本指を上げておられるが、「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。(ルカ22:34)」と言われた。ペテロはそんなところは絶対にありえないと言った。ベツレヘムのクリスチャンがこれをデザインし、昨日の夕食の場所であったアブ・ゴシュのイスラム教の会社が受け持って、実際に手かげて作ったのはユダヤ教徒であったということで、三つの宗教の三本という意味合いもある。」

 中に入ると下のようにカトリック教会の会堂です。けれども、その次の写真にあるように、一部は岩を削ったところにあります。
 

 恭仁子さんは、当時の上の町に住んでいた裕福な祭司たちの家について説明を始めました。「神殿に仕えるような宗教関係の人は生活の保障が与えられていた。岩を切り出したところに家を建てるが、その切り出した石切り場の洞穴に、貧しい人たちが暮らしていたと言われています。裕福な家は地下に倉庫があって、そのさらに下に貯水槽があるという豪華なものであったが、一番下にあるのが、水槽の水を掻い出したところにイエス様が留め置かれていたと言われている。今でこそ階段があるが、当時はなかったので、何か紐でつり降ろされたかされた。過越の祭りは四月初め頃は夜になると、相当冷え込む。その冷え込む時間に石の洞穴はかなり寒かった。その前の晩からほとんど眠られていなかったから、さぞ一夜だった。こんな風に作られたのが当時の裕福な人の家の作りだった。」


 そして火に当たっている場面を描いた絵画もありましたが、ここの教会(Assumption)は、ペテロの失敗よりも、彼が泣いて悔い改めたことに焦点を当てた教会であると神父が言ったそうです。「ここには、神殿から下がってきたものを入れておいたり、それから兵隊が雨風をしのいだり、家畜を一時いれておいたり、取り調べの罪人を入れておいたり、いかにもここに意味ありげな穴が二つあいている。ここに、縛りつけられていたのではないかとも言われる。」そして使徒たちも、同じところに入れられていたことを話しました。三度否定したペテロが、同じところでイエスを大胆に告白しましたが、そこで留置されていたのは、とてつもなく恐ろしいところでした。


 下はイエス様が置かれていたであろう、「穴」へ向かう階段です(左)。「家を広くしたければ、奥へ奥へ掘り下げていけばよかった。ユダ地方は、基本的にこの白い石灰岩である。」そして一番下は、右の写真のようになっています。小さな講壇がありました、するとそこの本には何か国語もの詩篇88篇(4節に「私は穴に下る者とともに数えられ」とあります)が用意されていました。日本語もあります!
 

 ここで御言葉を分かち合いました。カヤパ邸にて、彼ら自身が自分たちの律法を破ってイエスを裁いていたこと、そしてねたみによって裁けば自分自身が裁かれることを話しました。


 そして外に出てきました。

 「カヤパ官邸のあった家のあったところで、立派な土台が残っている。水を溜めるところ、ぶどう酒を絞るところ、向こうに階段もある。身を清めるための水があったと思われる。大祭司カヤパでなくても、それくらいの地位の人の家であると思われる。」そして手前の階段ですが、「実際にはビザンチン時代のものと言われているが、イエス様がここを通ったものと思われる。」捕えられて、死刑判決を受けてからアントニオ要塞に行った時だけでなく、その前に最後の晩餐の席からこの階段を使ってゲッセマネに行かれた、ということらしいです。つまり、上町から下町に降り、ケデロンの谷に行く時の通り道でした。(別の写真

 この辺りで、大変なことが起こりました。一人姉妹がずっといないことに気づいたのです。皆さんにはここで待ってもらい、また祈ってもらい、入口まで上がっていきました。すると、そこに目撃した男性がいたのです。「誰も出てこなかったよ、と言ったのに、信じないで外に出ていった。」というのです。私は携帯拡声器を持っていましたから、大声で日本語で叫びました。車道まで出ましたが、そこで諦めました。「彼女は主のものだ」と信じられました。そして、私たちもそれを信じながら敷地内で他に見る所に向かいました。そこを見学している時に、すると恭仁子さんの携帯番号に電話がかかってきました!イスラエル人からです、彼女が助けを呼んだようです。恭仁子さんが初めに話し、私が話しました。シオン門のところにいるとのことでした。「絶対にそこから動かないで。」とお願いしました。後で上って行ったら、良かったです、おられました。

 そして残りの見る所は、ケデロンの谷とヒノムの谷がぶつかるところです。これは見物でした、目の前にはっきりと高低や地形がくっきり見えます。


 目の前に見える住居地はシルワン(Silwan)と呼ばれるアラブ人居住区で、その上に「破壊の山」があります。そして、下の車が交差しているところがケデロンとヒノム、そしてその間のチロペオンの谷が合流しているところです。ここで集まる水がワジの地下にもぐり、死海に流れ込むことになります。恭仁子さんの説明の動画を見てください。


 ダビデの町は明日訪問しますが、このアラブ人の町シルワンの家の造りが、当時のダビデの町を彷彿とさせてくれるそうです。ダビデの町もケデロンとチオペロンの谷の間にある山なので傾斜地になっているけれども、岩を平らに削り取ってその上に家を建てていきました。そしてヒノムの谷についての説明です。「ずいぶん、不気味な感じがします。ベン・ハーの映画でらい病の人たちが隠れ住むようにしていたのが、ここである。そのヒノムの谷にあるのが、アケルダマ、ちなわち「血の畑」だ(使徒1:18‐19)。裏切り者のユダが不正の金で得た地所である。(下写真の洞窟の部分。左にアケルダマ修道院がある。)」そして恭仁子さんは、西と南にヒノム、東にケデロンがある谷に囲まれたのがエルサレムであり、防備は北を固めていた。そして水が出る、というのが当時の集落を作る絶対要件であった。」




10.カルド
鶏鳴教会からカルド(「広い壁」経由)(Google
カルドについて(2010年)
冊子からの抜粋

  • ローマが建てたアエリア・カペタリナ(エルサレム)の南北に走る中央通。ビザンチン時代に拡張。ヨルダンのマデバ地図にもある。
  • カルドの下には、ハスモン朝時代、さらに第一神殿時代のまでが8メートル下に発掘されている。 

 そしてシオン門に戻りました。無事に姉妹に会うことができ、私たちはユダヤ人地区に向かいます。アルメニア地区の壁沿いを歩きましたが、アルメニア地区は城壁の中にさらに城壁で囲った町です(2010年旅行参照)。そして、私たちはユダヤ地区にある「広い壁」に来ました。

広い壁について2008年Jewishin Quarter Reconstrction, Biblewalks.com



 恭仁子さんの説明が始まります。「ヒゼキヤ王が、ラキシュまで襲って来たセネケリブの攻撃に備えて、北側の守りが必要だった。この壁が一番北だった。地図の黒い線は現在の城壁で、赤い点線が当時の城壁で、くの字のところがここである。まっすぐではない理由は、水の流れがここにあってそれを邪魔しないようにするためであった。」

 2008年に話していた、デービッド・ホーキングによる「マナセ」によるとする考えは、まだ忘れられません。次の聖書記述を比べると、マナセかもしれないという気がしないでもありません。
その後、彼(マナセ)はダビデの町に外側の城壁を築いた。それはギホンの西側の谷の中に、さらには、魚の門の入口に達し、オフェルを取り巻いた。彼はこれを非常に高く築き上げた。(2歴代33:14)
それから、彼(ヒゼキヤ)は奮い立って、くずれていた城壁を全部建て直し、さらに、やぐらを上に上げ、外側にもう一つの城壁を築き、ダビデの町ミロを強固にした。

 ヒゼキヤはダビデの町の周囲という印象があり、マナセは別個の外側の城壁を築いた、という印象をここの御言葉の比較で受けます。このことを恭仁子さんに伺ったら、「そんな考えがあるのですか?」という感じのお答えでした。私も調べましたが、マナセ説は一つの論文だけで他はみなヒゼキヤでした。一応、紹介しておきます。

 そしてカルドに行きました。ユダヤ地区のメイン・ストリートがそのまま、過去のカルドの上に存在します。所々に、深く掘った穴があります。


 「両側に列柱を並べる通りをカルドと言い、ローマがとても好きであった。中(地下)を見れば、さらに昔の歴史が広がっているが、見えているところはローマで、十字軍が屋根をつけて、さらに今はその上にお店を作っている。ローマの下にハスモン王朝時代のものだ。ハスモン朝の下が、第一神殿時代のものである。」いま音声を聞くと、ソロモン時代に遡ることを聞いてヨシュア君が興奮しています(先ほどの広い壁も、第一神殿時代のものです!)。


 そして私たちは、ローマのカルドを歩きます。


 マダバ(メデバ)のモザイクの複製のところまで来ました。


 「紀元六世紀に作られたものです。これがヨルダンのマダバで見つかりました。」行ったことのある人を尋ねたら、確か私一人だけだったと思います。2010年に訪れているのでぜひリンク先をご覧ください、実際のものをご覧になれます。「非常に客観的なキリスト教徒によるものであることは、一番上の列の真ん中に、ベージュのひし形みたいのがあるけれどもそれが神殿の丘だということで、あんな大きな神殿の丘をあんなに小さくして、今度は両側にカルドの柱の黒いのがあり、下の真ん中あたりが今朝の聖墳墓教会であり、子どもが自分の家だけは大きく書くような、キリスト教徒による非常に主観的な地図だ。」私は、「これは神学的な地図だ」と言いました。そして、カルドは左のダマスカス門から右のシオン門まで続いている列柱通りです。当時の様子を想像したい方はこちらへ → 3Dによる復元CG


 上の写真は、ローマ時代(二世紀)のカルドと今のメイン・ストリートの段差を示しています。これだけ高さが違うのは、瓦礫を埋めていったからに他なりません。「だから、エルサレム自体がテル(丘状遺跡)ですね」と私が言ったら、恭仁子さんは、「イスラエルの国自体がテルです」とお答えになりました!そしてさすが、日本人らしい説明で、「平家物語の京の焼け野が原、は同じ高さでもまた建てることができるのだけれども、ここは石だからそんなことはできない。」とのこと。私も津波による被災地での瓦礫処理がいかに大変か目の当たりにしたので、当時はそんなことはできないことは容易に想像できました。

 これで後は、確か6時あたりから入場ができる、西壁トンネルを待つだけとなりました。それぞれが30分ぐらいそこら辺で休憩、いよいよ西壁トンネルです。



11.西壁トンネル
カルドから西壁広場まで(Google)
西壁トンネルについて(2008年2010年
冊子からの抜粋

  • ヘロデ大王が神殿を建てるときに、モリヤ山とオフェルの起伏を平らにし、東西南北の四角形の擁壁を建てた。
  • その西側の壁のごく一部が「嘆きの壁」
  • 嘆きの壁の北の地下を掘り、至聖所に最も近い所も発掘。アントニア要塞にまで掘り進めた。
  • ウィルソンのアーチ
    • 上の町から神殿への入口(もっと南にはロビンソンのアーチがある)
  • 主段(マスター・コース)
    • 長さ15.5メートル、重さ560トン
  • ウォレンの門
    • 至聖所にもっと近いところ
  • トンネル
    • モリヤの山の基盤にぶつかる
  • ストルティオンの池
    • ハスモン朝時代の導水システム 

 夕方になっても西壁広場は、人がどんどん増えています。明日、嘆きの壁を訪問しますが、私たちがこれから見るのは、この嘆きの壁の左側(北側)です。嘆きの壁が見えている部分は神殿の丘の擁壁の、ごく上の部分で、しかも南のごくごく一部にしか過ぎません。これだけしか見られないと思っていたところ、なんと地下を掘っていき、実に北端のアントニオ要塞のところまでの西壁のトンネルを作ってしまったわけです。上はムスリム地区です、けれども彼らの家屋を壊すことなく地下だけを掘っています。ですからこの嘆きの壁を見て感動するのであれば、これからの西壁トンネルは、十何倍も感動します。しかも、イエス様がいつものように歩かれていたその道と同じところを通るのです。

 入口は、この写真の左手前にあります(写っていません)。中に入ると、その壁にまで向かう通路があり、そして壁にぶつかったら左折してトンネルを直進します。

 過去の旅行記にもリンクしてありますが、四つのサイトをお勧めします。
 The Kotel FonndationAish.comBiblewalks.comJerusalem.com

ウィルソンのアーチへ


 私たちは壁のほうに向かって、そこでまずウィルソンのアーチを見ます。男性は翌日、嘆きの壁の左側から中に入って見ることができますが、ガラス越しに、女性だけはいれるところからその様子を眺めることができました。

 向こう側に白いカーテンがありますが、そこで女性たちがウィルソンのアーチを見ながら祈祷ができる、というものです。ウィルソンのアーチがどういうものになっていたか、下を見てください。


 私たちは星印辺りにいます。そして、7がウィルソンのアーチです。8が、神殿の丘に入る橋になっていました。橋だけでなく、当時は建物を建てる時もアーチ状の支えをたくさん地下に作って、山の起伏があるところを平らにして建物を建てていたのです。そして4が、実際の西壁の下にあった通りでした。6が現在の嘆きの壁の高さです。この橋は、ずっと上町の西側、ヘロデ宮殿まで伸びていました。上に上がったり下がったりせず、そのまま神殿の丘に入ることができるようにするためです。庶民はここを使えませんが、王、貴族が使えました。

 女性たちの祈祷の場所(男性の姿は、明日の旅行記で紹介します)


 そしてウィルソンのアーチを全体から眺めてみると下の図の通りです。


広いホールでの模型説明

 手前の南壁に近いのは、明日見るロビンソンのアーチですが、北側(左側)の真ん中辺りの入口からの陸橋の下の部分がウィルソンのアーチです。「西壁全体は488メートルで、トンネルの部分が355メールであり、イエス様の時代はみな青空であった。中世になって埋め立てられて、この下の部分は水溜になったり、倉庫になったりしていた。」そして私たちは、大きなホールで、立方体の模型を見て、改めて学びました。下は、現在のムスリム地区の部分がのっかっていたままの状態です。これが外れて、以前の様子を伺うことができます。今でこそ西壁広場は青空天井ですが、六日戦争まではここにも家屋が立っており、それをイスラエルが取り壊して今の形にしました。



 左にアントニオ要塞があります。「祭りの時に騒動がないように監視するためカイサリアからローマ総督がやって来て、その時に重罪人が連れてこられる。その時にイエスが連れてこられて、ヘロデ宮殿のアンティパスのところまで送り、そして二人が仲良くなったということだ。」この地区の部分が上がると次の写真のようになります。

 「中世以降ここがどんどん埋められていったので、六日戦争でここを自分のものとしたイスラエルは、いつ返せと言われるか分からないので、ものすごい勢いで発掘を進めた。一番向こう側がアントニオ要塞だが、小学校があるのでなかなか発掘が進まない。祭りの時に重罪人を裁く。ユダヤ人はサンヘドリンで裁くことはできるが、モーセの五書を通してであるイエスに非を見つけることができず、異教徒の裁判に委ねた。明後日、エルサレムの50分の1日の模型がある。南壁は徹底的に発掘が進んでいる、そこが礼拝者が礼拝する入口だ。」

主段(マスター・コース)


 世界の不思議である巨大な石に出くわしました。これは長さ14メートル、高さ3.7メートル、奥行き4.3メートルで、重さは約600トンになります。2747機の乗客の載っているジャンボ機に相当するとのこと。興味深いのは上のほうは壊されているのは、ローマがここまで石を取り除けたがそれ以上できなかったことを示しています。「しっくいが落ち着くように杭が打たれていたが、石の穴がそれを物語っている。マムルーク王朝のイスラム教の神学校の下の水溜であった。」

至聖所に最も近いところ


 さらに前に進むと、このように、女性が祈っています。ここが、神殿が建てられていた、至聖所に最も近い場所です。「ここに祈りの紙を挟むが、これはとても私的なことが書かれているので、年に二度、新年(9月頃)と過越祭の時にオリーブ山に持っていき、埋葬されることになっている。イスラエルの神様へ、という手紙が結構イスラエルに届くが、その場合はここに持ってくる。」

ヘロデの石、ヘロデ通り?


 さらに進みます。「石が積み上がっている時、三センチぐらい内に入っている。まっすぐ積み上げると落ちてくるような感覚に襲われるため。これが嘆きの壁の続きである。」そして、恭仁子さんは定説を覆すような遺物の発見を説明されます。「ヘロデ王が造ったということになっているが、北に行くほど高度になっているので、南のほうは埋めているが、南の一番下から硬貨が見つかり、そのうちの四つにヴァレリウス・グラトュス(Valerius Gratus)という総督の年代が記されていて、ピラトの前の人である。15‐26年の人であり、ヘロデ大王は紀元前4年に亡くなっているから相当後のことである。それが、道の土台のところに見つかったので、ヘロデが亡くなった時には完成していたという定説を覆すことになる。」道がガラス張りになっているところがありましたが、中世の時代に貯水槽として使っていたところです。。



 そして道路は、ヘロデ時代そのものになっています。そしてモリヤ山の床岩をそのまま使うようになっていきます。


 ここからハスモン朝の階段、ヘロデ通りの柱、工事の中断した置かれたままの石などがあります。そして、どのようにして石を運んできたのか、アニメの映像を見ました。
 

 

ハスモン朝の水設備

 そして最後の部分は、ハスモン朝の導水橋に囲まれて進んでいきます。水が流れていました。


 そして行き着くところは、エッケ・ホモの教会で見たストルティオンの池です。


 そしてヴィア・ドロローサのところに出てくることができるのですが、夜で物騒になっているだろうかということで、一気に入口まで戻りました。次の地図で、どこを通ってきたか復習してみましょう(Jerusalem101より)。

Western Wall Prayer Plaza=西壁広場、Hasmonean Hall=ハスモン時代の広場、Causeway=通路、Warren's Gate=ウォレンの門、Bedrock in line with wall begins=西壁に接する床岩が始まる地点、Hasmonean watern cistern=ハスモン朝の貯水槽、Hasmonean Aqueduct=ハスモン朝の導水橋、Strouthion Pool=ストルティオンの池、Moat built to protet Fort Antonia in NT days=新約時代、アントニオ要塞を守るための掘。


夜のエルサレム

 外に出たら真っ暗になっていました。満月の嘆きの壁の風景です。


 長い長い一日でした!ここからまっすぐ西に横切り、ヨッパ門に行きます(Google)。その外でタイシールさんがバスで待っています。(下写真:ヨッパ門の手前)


 ホテルに帰ったら、遅い夕食を取りました。こんなにたくさん歩いたのは、奇跡的です!明日もまた、沢山歩きます。