2016年イスラエル・ヨルダン旅行記 2月20日 その2
1.オリーブ山
2.ゲッセマネの園
3.ベテスダの池
4.ヴィア・ドロローサ
5.聖墳墓教会
6.クライスト・チャーチ
7.チェナクルム(屋上の間)
8.鶏鳴教会
9.園の墓
※1から4までは、「その1」にあります。
5.聖墳墓教会(2013年の旅、Jerusalem101)
私たちがヴィア・ドロローサを通って、当時の面影を知るのは至難の業です。イエスが地上におられた時代から、数多くの勢力がここを支配し、そしてキリスト教会も主の十字架と埋葬の場を記念して、数多くの建物を建て、そのため当時のゴルゴダや墓の姿は、ごく僅かにしか見ることが出来ないからです。さらに、キリスト教会の五つ、あるいは六つの教派によって共同管理されているために、管理権を巡っての対立、それぞれの儀式や伝統があり、複雑になっています。そこでまず、私たちが本当に求めたいもの、すなわちイエス様の時代のゴルゴダと墓のことを思い起こしてみたいと思います。
当時の十字架刑と埋葬
先に話しましたように、しゃれこうべという意味のゴルゴダは、城外の石切り場で、もう使われなくなった所であります。エルサレムには、至るところに石切り場の跡がありますが、聖書にもソロモンの神殿の石が、その現場の外の石切り場で切られて、ただ石を積み上げていくだけであることが記録されています。そして、石切り場で突き出ている部分が、反逆罪や殺人罪などの重罪人が十字架に磔にされていました。
十字架でありますが、私たちは宗教画や映画によってその光景が固定化されてしまっていますが、1968年に十字架刑で死んだ人の遺骨が発掘されたことにより、当時の様子がさらに分かってきています。写真のように、右足の踵の部分に、11.5cmの鉄の釘が刺さっており、骨と釘の頭の間に気の破片が遺っていました。それがオリーブの木であることが判明しています。(再現写真)エルサレムでは木が貴重だったので、主も、横木だけを追って刑場に行かれた可能性があります。縦木は刑場にあって何度も再利用されたかもしれません。そして立ち木が使われた可能性もあります(写真)。そして、次が再現された十字架刑の姿です。
十字架刑の目的は、単なる死刑ではありません。以下に苦痛を与えるか、ということであり、長い時間、激痛の中で徐々に窒息死させるものです。そのために、足のための止まり木があり、それで体を持ちあげて呼吸ができるようにしました。さらに、十字架は、見せしめの目的があります。ですから、しばしば人里離れたように見えるゴルゴダの丘が映像で流れますが、いいえ、最近の映画では大通りに、通りがかりの人がすぐに目にすることができる位置にありました。主要道路が刑場になることが多かったのです。ところで、ゴルゴダ(しゃれこうべ)となぜ呼ばれるのか?なのですが、その石切り場の岩の形がしゃれこうべのように見えたという説があり、また伝承では、この丘の下に罪の始まりとなったアダムが埋葬されたところだというものがあるらしいです。
そして埋葬ですが、これは聖書に数多く出て来る話題でもあります。アブラハムがサラのために購入したマクペラの畑地があり、王国時代は王家の墓が出てきています。新約聖書でも、イエスご自身の墓の他に、ラザロの墓もありましたね。ユダヤ人は遺体はすぐに埋葬されることになっていました。死体に触れると汚れるという律法があったので、安息日にも埋葬は禁じられていたので、遺体を安息日の入る前に自分の墓に入れ、日が明けてから埋葬のための儀式をしようと考えていました。女たちが朝明けに、香料や香油を持って行っていましたが、それは死体の腐臭を消すためのものでした。墓の入口を閉じるのも、腐臭が漏れないためです。そして1年後、骨になったものを骨箱にいれます。ちなみに、「カヤパ」と書かれている骨壺が出てきており、イエス様の時の大祭司の子孫のものではないかと考えられています。
墓は岩を掘ったところにあります。横穴式は裕福な者だけが使っていました。洞窟付きの土地を買い、その穴の中に数々の柵を作るためです。貧しい人たちは、地面に掘った横50㌢、深さ180㌢程度の縦穴に埋葬されます。そして埋葬の場合、特別な布にくるまれます。先のオリーブ山の中腹での、ユダヤ人キリスト者の墓、また「園の墓」でも墓の姿を見ることが出来ます。そして、アリマタヤのヨセフの墓は、「園」の中にあり、新しい墓であったことが聖書記述から分かります。
上の図が、大体の様子を表したものです。そして、こちらのウィキペディアには、当時のゴルゴダと園の墓が聖墳墓教会の中にどう位置しているのかを示したものがあります。そして、新たにすばらしい動画を見つけました。現在の聖墳墓教会から、十字軍時代、ビザンチン時代、ハドリアヌス時代、そして総督ピラトの当時の姿に遡っている3D動画です。10:30辺りから総督ピラトの当時の姿が出て来ます。
聖墳墓教会の変遷
しばしば、ゴードン提督の発見した「園の墓」と、聖墳墓教会のどちらが本物の現場なのか?という議論が行われます。考古学者や歴史学者の多くが、聖墳墓教会であるだろうと結論付けています。(当時の姿を思い出すのは、断然、園の墓のほうが出来、平安があるというのは、カトリックなどの他の教会の人たちも認めているほどです。)
ユダヤ人が反乱を起こしたのは、紀元後66年であり、エルサレムの神殿をローマが破壊したのが70年です。けれども、バル・コクバの乱をユダヤ人が引き起こして、当時のローマ皇帝ハドリアヌスは、ユダヤ教とその文化がこのような反乱を引き起こすと考え、根絶を図りました。ユダヤ暦の廃止、指導者の殺害、律法の書は破棄、そしてエルサレムの名を「アエリア・カピトリナ」と改め、ユダヤ人は四世紀になるまで立ち入りを禁じられました。ちなみに、イスラエルもこの時に「シリア・パレスティナ」と改め、それで現代にまで「パレスチナ」という名前が使われています。
そして徹底的な、異教化を行なっています。ゴルゴダのところには、ヴィーナスの像を、墓にはユピテルの宮を建てていました。しかし325年、キリスト教に回心した皇帝コンスタンチヌス一世は、この場所に教会を建てることを命じました。326年に母ヘレナがエルサレムを訪問、貯水槽に十字架の遺物、また釘の遺物も発見しました。それでその偶像を取り壊して建て直したのが聖墳墓教会の始まりです。
614年にペルシヤの侵攻、その後、イスラム教徒によって破壊されて、1009年には教会そのものが無くなってしまいました。ところが、東ローマ皇帝が1048年に小さな建物の再建に成功、そして1099年、第一回十字軍により土地そのものを奪還しました。そして、12世紀に十字軍が教会をロマネスク様式で修築したと言われています。今、見る聖墳墓教会の外見は、主に十字軍時代のものです。(参照:ウィキペディア)
聖墳墓教会の構造
聖墳墓教会の中身の説明は、地球の歩き方にありました(上をクリックしますと、拡大できます)。けれども、これは一階部分だけを示したものです。二階もあり、それは次の立体動画と、ヴァーチャル・ツアーをお薦めします。
立体動画
バーチャル・ツアー
Jerusalem.com
(AUTOPILOT ONを押すと、ガイドしてくれます。OFFはマニュアルで見学します。)
このガイドは、次の恭仁子さんによるガイドと、ほぼ同じルートを通っていきますので、後で確認のために見るのもいいかもしれません!
実際の見学!
教会の正面で、出入り口の右側が封鎖されている経緯を話しておられます。
これから入るに際して、当時の石切り場ゴルゴタと墓を、イエス様の十字架と墓以外の他の部分をみな切り取ってしまったので想像するのが難しいと仰っていますが、これまで説明した通りです。もう一つ、このリンク先の動画もどのように切り取ったのかを説明している映像があります。
第十留: -衣服を剥ぎ取られる- (マルコ15:24 ウィキペディア Biblewalks.com)
閉鎖されたとの右に階段があり、その上がったところが第十留で、イエス様がご自分の服をはぎ取られるところです。「それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。(マルコ15:24)」ここは、「フランク人のチャペル?(Chapel of the Franks)」ということです。昔は、ここから、二階の、ゴルゴダの丘である第十一留と十字架の場所、第十二留へそのまま行けたらしいのですが、ムスリムによって通路が寸断されたとのことです。このチャペル自体も、通常は閉じられているのですが、ここの動画に中に入れた珍しい訪問が映っています。
そしてこちらの動画は、第十留から第十四留までの案内がありますので、文章だけで分からない場合、ご覧になるとよいと思います。
第十一留: -十字架に磔にされる- (ウィキペディア Biblewalks.com)
地上の入口から入り、右に急な階段があり、そこを上がって手前にあるのが第十一留です。(写真)
第十二留: -イエスの死- (ウィキペディア Biblewalks.com)
そしてすぐ左が、第十二留です。
こちらの写真を見ればもっとよく分かるでしょう。ここは、現在ギリシア正教会の管理下にあり、祭壇の足元に十字架が立てられたとされる窪みのある場所を、銀製の円形プレートが置かれています。両脇の二人の罪人の場所には黒いプレートが置かれているそうです。巡礼者がいつも、ここに並んで祭壇の中に入るのですが、遠くからでも見られるのは祭壇の両脇がガラス張りになっていて、ゴルゴダの岩が見えることです(写真)。岩に裂け目があります、これが伝承では大地震の時に裂けたのだとされています。そしてキリストの血潮が、下にまでしたたり、その丘の下にアダムが死んで眠っており(あくまでも伝承です)、アダムによる人類の罪がこれで贖われたとしています。
ところで動画の中では恭仁子さんが、教派間の管理権での争いについて言及しておられます。聖墳墓教会では、文字通り暴力沙汰になるほどの争いが長く続いていて、まさに二つのものを一つにするキリストの平和である十字架の御業で、そのことが起こっているのですが、本当に人間は十字架を必要としているという皮肉がありますね。
第十三留: -イエス、十字架から降ろされる- (ヨハネ19:40 ウィキペディア Biblewalks.com)
第十二留の左に階段があるので、そこを降りると第十三留であり、教会の入口の正面に戻ります。ここで、イエス様の遺体が十字架から降ろされたとされます。「そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。(ヨハネ19:40)」
壁のところに、フランシス会所有の祭壇があり、その手前に動画で人々が接吻している、「塗油の石(Stone of Unction)」があります。この石に横たえられて埋葬処置を施されたとされています。
第十四留: -イエスの墓- (ウィキペディア Biblewalks.com)
そして最後のステーションは、イエス様の埋葬です。
アリマタヤのヨセフの墓だったところです。当時は、洞穴の穴がずっと連なっていたけれども、それは全て壊しました。ここも、ギリシヤ正教会管轄とのことですね。入ると、御使いが復活を宣言した「天使の聖堂」の小部屋があり、さらに奥に入ると石棺が置かれた部屋ですが、主の墓が大理石の蓋で守られています。そして墓の回りを見上げると、十字軍時代のロタンダ(円形建築物)になっています。
ところで、2016年秋に、イエスの墓を二百年ぶりに修復したというニュースが流れました。
そういえば、映画「パッション」ですが、監督メル・ギブソンは熱心なカトリック教徒です。それで、ヴィア・ドロローサにもある伝承に基づいて映画を描いているので、改めて見直すと、なるほどと思われるかもしれません。必ずしも、福音書に載っていない場面があります。けれども、最近のカトリックは第十五留を作って、もっと復活を強調したり、福音書の記述に合わせたものに調整しているとのことです。(ウィキペディア)
その他の遺物
イエスの墓の建物の裏には、コプト正教会の聖堂があります。意外にここは見物なのではないか?と思いました。ここには、墓の岩がそのまま出てきているからです。(こちらの動画で見ることが出来ます。)
そしてさらに後ろ、向かい側にはシリア正教会の聖堂があります。これも見どころなのでは?と思います。四世紀のコンスタンチヌス時代の教会の壁があります。黒ずんでいるのは、過去に火事があったからだそうです。このチャペルの左側、つまり南側に、一世紀のユダヤ人の墓があります(右の写真)。伝承では、これがアリマテヤのヨセフとニコデモの墓ではないか?ということですが、そうでなくとも、ここに当時のユダヤ人の墓があったことを決定づける証拠です。(こちらの動画で見られます)
私たちは、ロタンダを出て、北側を東へと進みました。マグダラのマリヤ聖堂を見ました。ここが、カトリックによる第十五留、イエス様の復活を記念しているものです。そして東に進むと、「処女のアーチ」と呼ばれる、ビザンチン時代の柱頭が並んでいます。さらに進むと、四つの聖堂が並んでおり、当時の信者が自由に外を歩けなかった時に、この中でキリストの受難を辿るために建てられたそうです。
そして四つのチャペルの右から三つ目と最後の四つ目の間に、下り階段があります。これが先ほど、エチオピア正教会の屋根裏で見た小さい半円形ドームがあったところです。「聖ヘレナ聖堂」です。
ここの場所を見つけた、コンスタンチヌス帝の母ヘレナを記念した建てた、十二世紀のアルメニア使徒教会のものです。アルメニア教会は、二世紀に国挙げて初めてキリスト教を受け入れた人々であり、しかし四世紀に国が滅びます。それ以来、流浪の民であり、少しユダヤ人に似ています。トルコによって、アルメニア大虐殺もありました。モザイクは、ノアの箱舟を描いているのですが、アルメニア教会は箱舟がアララテ山がアルメニア王国の領域にあったからです。
そして大事なのが、そのさらに右奥に階段があり、そこを降りると「十字架発見の聖堂」があります。
ここでヘレナがキリストの十字架の遺物を見つけたという言い伝えなのですが、大事なのはここにかつての石切り場の跡があるということです。そして、これは、第二神殿ではなく、第一神殿時代、すなわちソロモン王の建てた神殿の時の石切り場です。ですから、かなり古い石切り場で、もう使えなくなったところをローマは刑場にしていたと言えるでしょう。
それでは私たちは西側に戻ります、上り階段を二つ上がって、真っ直ぐ行くと左側に、「アダムの聖堂」があります。
先ほど第十二留で、ゴルゴダのてっぺんの岩を見ましたが、こちらはその底辺の岩の部分です。岩が裂けている部分も見えますが、これで伝承ですが、アダムがここに葬られてキリストの血潮が流れて行った、ということです。大事なのは、聖墳墓教会の中で、僅かですが、当時のものを見ることが出来るところがあり、これはその中の大事な一つだということです。
そしてさらに西を歩き、左に曲がって建物から出ました。
最後のところで、ファサードの二階にかかっている梯子ですが、「不動(現状維持)の梯子」と呼ばれて有名です、250年そこに動かずにあります。教派間の対立がいかに熾烈であるを物語っています。実際に喧嘩したのもニュースになっているし・・。同じように、何百年も教会の開け閉めは、ムスリムの二つの家系がずっと行なっています(動画)。こちらは、ジェイ・マカール牧師さん(カルバリーチャペル)が、教会の一致についてこの梯子からお話ししました。
アルメニア地区へ!
聖墳墓教会からアルメニア系レストラン"Bulghourji"へ(Googleマップ)
私たちは、ムスリム地区から、ヴィア・ドロローサを通っている間にクリスチャン地区に入り、聖墳墓教会に着きました。そしてそこから市場と広場(写真)を歩いて行き、ダニエル通りアラブ市場(Daniel Street Arab Market)の通りの階段を上がりながら歩くと(写真)、ヨッパ門の前の広場、ダビデの塔のところに出ます。
そして、アルメニア総主教(The Armenian Patriarchate)通りを歩いて南に行くと、Bulghourjiに着きました。(写真)
私は、19日のシャバット・ディナーの時も、この時も、運転手のヤイールさんの隣に座っていました。ご家族のことを尋ねたり、いろいろな話題を話しましたが、クリスチャンについての印象について尋ねると、やはり大きく変わったと言っていました。お客さんはいつもクリスチャンだから、振る舞いを見ているし、キリスト教の名所に行くので、知識もつきます。「普通のユダヤ人の人たちは、そこまで知っているの?」と尋ねると、「いや、知らないだろう。」との答えが。主に、エチオピアかどこか、北アフリカのクリスチャンのグループの運転をしているようです。(まさに、さっきの聖墳墓教会の屋根裏の隣の聖堂で見ましたね。)
6.クライスト・チャーチ (2010年の旅)
"Bulghourji"からクライスト・チャーチへ(Googleマップ)
お昼を食べて、元来た道を少し戻ると、クライスト・チャーチ(Christ Church)に着きます。
ここは個人的には、非常に楽しみにしていたところです。私たちの聖書を信じる福音的信仰の復興の原点、そしてそのこととユダヤ人への働きかけの原点、さらに日本人の福音信仰とユダヤ人への働きかけにもつながっていく分岐点になっているところだからです。具体的には、一つに、ここは英国の福音的なキリスト者が、その聖書信仰のゆえ、ユダヤ人が回復するという預言を信じていたので、初のプロテスタントによる中東の福音宣教として建てた教会です。その前に、英国における福音的な教会は霊的覚醒を経験しており、その時期、全世界に宣教師を遣わしていました。その幻を持っていた人々が、聖書信仰によってユダヤ人への物質的、霊的働きかけの両方を行なっていたのです。日本にも大正、昭和にホーリネス・リバイバルという、プロテスタント教会の霊的復興がありました。彼らもまた、聖書信仰に立ち帰り、霊に燃えていて、ユダヤ人の回復を祈っていた人々であり、残念なことにその再臨信仰とユダヤ人支援のゆえ、戦時中、治安維持法によって指導者が捕縛されたという迫害の歴史も持っています。彼らが支援していた英国のユダヤ人キリスト者の団体は、確か、ここの宣教会の流れにある団体でした。
この宣教会のサイト:CMJ Israel CMJ UK
そして、ここは今も熱心に、ユダヤ人にイェシュアを紹介し、異邦人キリスト者には自分たちの信仰のユダヤ的ルーツを教えています。今回の訪問では、教会の奉仕者の方、ガイドの方ご自身が、素晴らしい証しを持って私たちに分かち合ってくださいました。
ぜひ、2010年の旅における、この教会の方が説明した文章をぜひお読みください。その経緯を詳しくお話ししています。そして、私はこの訪問記を書く前に、"The Cyrus Call"(クロスの召し)というドキュメンタリー映画を観ました。(Youtubeに動画が上がっています ⇒ Cyrus Call 1 HD CC Final +再生リスト)このビデオの中に、このCMJ(Church's Ministry Among Jewish People ユダヤ人の間の教会の働き)が中心的に描かれています。英国の霊的復興、奴隷制度廃止、聖書信仰の回復、世界宣教への幻、そして、神がかつてペルシヤの王、その異教徒クロスを動かして、神のユダヤ人に対する帰還を成し遂げさせたように、英国にいる福音宣教者と政治の中にいるキリスト者を通して、また非キリスト教徒をも用いて、バルフォア宣言と国連委任統治にまで至しめる神の御手があったことを克明に記しています。
そのままガイドの方の説明を聞いて行きましょう。ウィリアムさんは、私たちを新約時代のエルサレムの模型の前に連れて行き、説明を始めました。クライスト・チャーチの敷地は、ヘロデの宮殿の上にあります。
この教会の説明だけでなく、新約時代のエルサレムの説明もしてくれていますね。次の、神殿の丘の模型に移りました。
そして次は、教会の中です。これが凄い、いろいろなユダヤ人に対する配慮があります。そして彼自身が何と・・・。
凄いですね!彼の表情から、この方は生きているって分かりますね。この教会の働きのために祈っています。
クライスト・チャーチから、「屋上の間」まで(グーグル地図)
聖ヤコブ主教座聖堂 (2010年の旅)
私たちはクライスト・チャーチに付属のカフェで少し息抜きをし、またある人はアルメニア人のお店で買い物をして、それから南に下り、シオン門を通って、「屋上の間」に行こうとしています。けれども、その途中にアルメニア地区で最も大きな建物である「聖ヤコブ主教座聖堂」(Biblewalks.com)に立ち寄りました。2010年の旅で、ガイドのアーノルド・フルクテンバウムがじっくり説明してくれていますので、そちらをお読みになるとよいと思います。印象に残っているのは、アルメニアは初めてキリスト教を国教として受け入れた国であること、けれどもユダヤ人のように流浪の旅を続け、虐殺もされ、最近はトルコによるアルメニア虐殺があったこと。それで彼らのアルメニア地区は、城壁に囲まれた旧市街の中にさらに壁で囲んでいて、二重になっていることです。そして、ユダヤ人には同情的で、けれどもパレスチナ人とも溶け込み、中立的な立場にいるとのことです。そしてここは、イエス様の弟ヤコブを記念している教会です。
初めて、教会堂の中にはいることができました。
そしてアルメニア地区に住んでいる人について、ちょっと説明をお願いしました。
そしてシオン門に向かいます。
こちらがシオン門です。(2013年の旅、2010年の旅)
今回の旅ではスルーしましたが、2013年の旅で恭仁子さんガイド付きで、また詳しい説明をしましたのでぜひお読みください。一つは、ここがイスラエルが独立戦争でヨルダンと激しい銃撃戦になったためにたくさんの銃痕が残っていること、それからこのオスマン帝国の時の門は、彼らが新約時代の上町の城壁に沿って建設したつもりが、ずっと北のほうに城壁を建ててしまったという点です。ここから今は城壁外に出るのですが、新約時代は未だ城壁内だったの、これから行く最後の晩餐の屋上の間は当時は城壁内、ということです。
シオン山(Biblewalks.com、Wikipedia、seetheholyland.net)
この辺りはシオン山と呼ばれます。シオン山について、過去の旅行記、上の三つのサイト、そして恭仁子さんの説明をまとめて、ご紹介したいと思います。
「シオン山」は、正確には三つの場所の変遷があります。厳密に、聖書的なシオンの山は、ダビデがエブス人から奪取したシオンの要害です。サムエル記第二5章に、「ダビデは、シオンの要害を攻め取った。これが、ダビデの町である。(7節)」とあります。次の日に、嘆きの壁、南壁を訪問した後、糞門を通って、下のところに「ダビデの町(City of David)」の発掘現場に行きますが、そこが元祖エルサレムであり、シオンの山と言うべきでしょう。
そして右のエルサレム拡大の変遷図にあるように、ソロモンの時代に、北側、すなわち、モリヤ山のところに神殿、また王宮を建てることになりました。そして、イザヤ60章14節、詩篇、マカバイ記第一(紀元前2世紀)などでは、おそらくは神殿の丘の頂上を指して「シオンの山」と言っているようであります。
それから今日のシオン山です。ヒゼキヤの時代、それからマナセの時代へと城壁が西へ拡張されていきました。そして、新約時代にはそこは「上町」と呼ばれるようになりました。こちらの画像写真で確認していただけると分かります。ちょうど東、オリーブ山の頂上から眺めるとこのような風景になりますが、手前がダビデの町、厳密にここがシオンの山で、後にその上の神殿の丘のほうもそう呼ばれるようになり、その向こうチオペロンの谷があり、そして谷の向こうの丘の部分が上町になっています。ここには、裕福な祭司が住んでいたところで、ダビデの町と上町の間、チオペロンの谷のところは下町と呼ばれ、貧しい人々が住んでいました。
ここに主の晩餐の屋上の間、それからカヤパ邸があり、その他、エッセネ派がここに住居を構えていたと言われています。上の図を見れば、今日の城壁(Today's Wall)の下の部分がそこに当たります。先ほどシオン門をくぐりましたが、新約時代のエルサレムは、ずっと下のところまで、ヒノムの谷に沿って城壁が建てられていたので、まだ当時は城壁の中にあったことが分かります。
その時は、ここはシオンの山と呼ばれていませんでした。しかし、ここではユダヤ人の信者による初代教会が発展していった場所となっていました。「使徒たちの教会」と呼ばれていくようになります。それは、今のような教会堂ではなく、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の形態をもったユダヤ人信者の教会であり、言い伝えでは、使徒の働き15章のエルサレム会議はここで行われたと言われています。次に訪れるチュナクリム(屋上の間)で、ギリシヤ語のなぐり書きのある断片が見つかり、イエスの御名を意味するものだったそうです。その階下にある「ダビデの墓」の石碑の前にある三つ石は、当時のユダヤ人信者の使っていた「使徒たちの教会」の一部ではないかと言われています。そして、ユダヤ人反乱が起こって、ユダヤ軍がローマ軍の補給線を断ち切ることにより、一次、包囲が解除されましたが、初代キリスト者はイエス様の「逃げなさい」(ルカ21:20‐21)の言葉を真剣に受け止め、ペラの町に移り住みます。エルサレムがローマによって紀元70年に破壊されてから、彼らは戻って来て、第二次反乱であるバル・コクバの反乱(135年)まで、ここに十五人の監督が管理していた教会がありました。そしてヨセフスは、ユダヤ戦記の中で、ダビデの町がこちら側にあったことを言及していました。
そして、キリスト者たちが活発に動いていた所として、ビザンチン時代にここにハギア・シオン(聖なるシオン)と呼ばれる大きな教会を建て、キリスト者が頻繁に訪れるところとなりました。そうしているうちに、ここが「シオンの山」という認識が生まれて行ってしまったようです。ペテロが、聖霊降臨の時に屋上の間から説教したので、主の晩餐の時と同じ場所であるとみなし、ペテロが説教時に、ダビデの墓を言及したため、十世紀に十字軍が教会を建てた時、その下にダビデの墓を十字軍が建てました。この時には既に、そこがシオンの町だと思われており、それで聖書のシオンとは異なる、上町の一部であったところがシオンの山と呼ばれるようになったのです。
このように、「シオンの山」が聖書の言っているダビデの町の山、また神殿の丘と違うところにあるので、とても混乱します。十九世紀になって、近代の考古学の発掘により、神殿の丘の南壁の下、オフェルと、さらにその下を掘り起こして、元来のシオンの丘を発見しました。けれども、これまで長い事シオンは、西にあったと思われていたので、何を今さら、という感じでシオンの山と呼ばれ続けています。加えて、ここにダビデの墓までがあるので、さらに混乱するでしょう。けれども、そこに初代のユダヤ人信者が祈りを捧げ、礼拝を捧げており、その後のキリスト者たちも盛んにここで礼拝を捧げていたという意味では、象徴的に、霊的に天のシオンを求めていた場所と言えるかもしれませんね。(考古学者による論文・議論がこちらとこちらにあります。)
それでは、シオンの門をくぐったところに戻りたいと思います。先のグーグルの地図では、シオンの門を出ると遠回りの道を指していますが、もっと近道があります。シオンの門を左に行きますがすぐに真っ直ぐ小道に入っていきます。シオン山の印とも言うべき、マリヤ永眠教会があります。
7.チェナクルム(屋上の間)
(2008年の旅、2010年の旅、2013年の旅)
恭仁子さんが、ここの説明をしてくださいます。
上に説明しましたように、二世紀の記録に、シオン山のどこかで祈りを捧げいたキリスト者の姿があるので、ここで主の晩餐が行なわれた推測が出来、紀元四世紀にハギア・シオンが建てられ、ペルシヤ軍に壊され、けれども十字軍が大きな建物を建てました。それも、イスラム勢力によってその後、破壊されますが、ここチェナクルムだけは残っており、シリア系キリスト者が守り、その後、フランシスコ会に受け継がれたということです。オスマン朝時代に入ったら、彼らがここをモスクに変えました。ですので、ここには十字軍の建造が基で、イスラム教の装飾も残っています。
ここの部屋は長方形のアーチのあるものとなっていますが、柱はビザンチン時代のもの、そしてその上のアーチ状のものが十字軍時代のものです(写真)。そして南西の角に、十字軍のホールが階段の上にあります(確か、聖墳墓教会の正面にもこの形がありました)。そこの大理石の柱頭に、コウノトリの母親の胸から子鳥が餌をついばんでいる様子がありますが、これは十字軍が好んでいたということ(写真)。あるいは、これは母親の胸を突いて血が流れていることを示し、キリストの犠牲の血潮を示しているとも言われます。そしてイスラム教の時代の装飾があり、メッカの方角を示す窪みがあります(写真)。
この下がチャペルにとって聖なる物が秘かにしまわれていると言われますが、それがダビデの墓ということです。十字軍の建設の時に大きな石棺のようなものが見つかり、遺体なき石棺があります。ここはシナゴーグになっていますので、入れば男性は被り物をしないといけません。今回は、ダビデの墓は素通りしましたが、2013年の旅に写真があるので、良かったらご覧ください。
8.鶏鳴教会
最期の晩餐の部屋から、鶏鳴教会まで(グーグル地図)
鶏鳴教会について(2013年、2008年、JerusalemTour Video)
上の地図ではかなり遠まわりの道順になっていますが、真っ直ぐに行くことができ、徒歩三分ほどです。ここは、シオン山(上町)の東側の降斜面にあり、神殿の丘、その奥のオリーブ山、ケデロンの谷、そして手前のヒノムの谷までを見渡せる場所に位置しています(Googleの立体写真)。先に見たのは、最後の晩餐が行なわれたところとみなされていた所ですが、そこからイエス様と弟子は、オリーブ山のゲッセマネの園まで行き、そこでイエス様が捕えられて、そしてアンナス邸に連行されて、それからユダヤ人裁判を受けたのが、ここカヤパ邸です。
こちらのイエス様が辿られた最後の一週間の地図をご覧ください、上町の南の部分から下町のシロアムの池の近くの門を通って、ゲッセマネに行かれ、それから連行されて戻っていく行程が書かれています。この地図では、カヤパ邸が最後の晩餐の上に?の印入りで載っていますが、ここ鶏鳴教会は、そこではなく南東の斜面にあります。(どこの位置か、意見が別れているということです。)
ここは、三つの部分に分れます。一つは、入口を入ったところが、1931年に建てられたカトリックのフランシスコ会の教会です。ペテロが、イエス様を三度否んだことを、そこで鶏が泣いたことを記念しています。そしてその地下に、ビザンチン時代の教会の跡があります(457年)。そして、その下に、カヤパ邸の跡があり、そこに貯水槽や穀物蔵などに使われていたであろう穴があり、その一つでイエス様がユダヤ人たちによって死刑宣告を受け、夜明けにサンヘドリンでそれを公式に決議後、ピラトに引き渡すまでに抑留していたと考えられています。
まずは、教会の入口の扉です。イエス様がペテロに、あなたは三度、わたしを知らないというというところ場面を描いたものです。イエス様が三本指を立てられているのが、三度否むという意味に加えて、ベツレヘムのアラブ人のキリスト教徒の依頼、依頼を受けた会社がイスラム教徒、そして実際に手かげたのがユダヤ人という三つを示しているということです。
次にカトリックの教会の礼拝堂の中に入ります。ここで、他の旅行グループが入っていたので、外で恭仁子さんの説明を聞きました。中の写真は2013年の旅行のほうでご覧ください。正面はイエス様がユダヤ人の裁判を受けられている姿、また最後の晩餐の姿が描かれており、後方は裸岩が剥き出しになっています。
「上町は、貴族級の裕福な祭司たちが住んでいたが、ここはカヤパの家、あるいは他の大祭司の家と考えらます。石灰岩質の岩を切り出して造られている。必要な部屋は、石灰岩質なので奥へ奥へ掘ることができる。神殿からのものであるとか、ローマ兵の一次的な駐屯、容疑者の拘束、家畜小屋であるとか、いろいろな用途で使うことができる。その下に水溜の装置があり、その一つにイエス様が、一晩、釣り降ろされたのではないかと思われる。」
そして次の説明がとても興味深かったです。「当時の庶民の暮らしは、このような大邸宅とは夢にも思えない質素なもので、イエス様がお生まれになったのは家畜小屋と言われるが、人々が寝泊まりする洞窟に家畜もいるということもあり、庶民の一番低い層の人々の生活をされていた。エジプトに逃げた後、ナザレに戻られたが、そこの遺跡もやはり洞窟で、庶民の低層の暮らしであった。
イエスはエルサレムで、昼間は神殿の境内で教えられて、夜は危険であったので、オリーブ山の洞穴で寝泊まりされた。ゆえに、『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。』と言われたとおりである。そして、イスラエルの考古学者によると、洞穴というのは旅人が寝泊まりしたユダヤ教では人が死んだら、その日のうちに埋葬するので、切羽詰まっているので、すぐに使えるように亜麻布がたたんで窪みに置いてあった。イエス様がくるまれた布は遺体のための亜麻布であった可能性があったし、イエス様が寝かされた飼い葉おけは木製ではなく、石の四角い箱であり、ということは棺桶であり、その考古学者は「誕生の時点で、死のイメージがあった。生まれた時点で、既に死に近づいていた。」すごい、絶妙な説明です。
そして、その礼拝堂の中から、イエス様が吊り下げられたかもしれない穴を見ます(写真)。エルサレムと言えども、過越の祭りの時期の夜は寒く、それでペテロがたき火に近づいていました。
そして、地下に下がっていき、石灰岩が掘られた様々な穴を見ます。
意味ありげな穴が二つありますが、ここに縛り付けられたのではないかと思われます。そして、2008年の旅で受けた話を思い出しますが、ペテロが三度イエス様を否定したカヤパ邸で、後に大胆にイエス様の復活と福音を宣言し、捕縛されました(使徒4章)。イエス様と同じような所に入れられ、縛られた可能性もあります。
そしてさらに下にある穴に降ります(2013年の写真)。そこには、多言語の詩篇88篇が用意されています。ここから、小メッセージを話しました。
時間が少なかったので、手短に話しましたが、原稿はこちらのリンク先のを用意していました。ユダヤ人指導者らが自分たちの掟をことごとく破った22か条も、こちらにあります。
そしてここを出ますと、第一神殿時代からビザンチン時代に長きにわたる、遺跡が発掘されているところに出てきます(写真)。ここもまた、カヤパ邸の一部であったと考えられます。その手前にある階段が、有名な「聖なる階段」と呼ばれているものです。
この階段自体は、ビザンチン時代のものではないかと言われていますが、恭仁子さんはその下に当時の階段が眠っているかもしれないと言われています。この階段(あるいは地下に眠っている階段)、ケデロンの谷からシオン山までつながっており、ゆえに最後の晩餐からゲッセマネの園、ゲッセマネの園からカヤパ邸の時に使われた可能性がかなりあります。(写真、上のほうからとったもの)
そして私たちは、鶏鳴教会の屋上の広場に行きます。ここから、ケデロンの谷とヒノムの谷が重なるところを見ることができます。(グーグルで、その地点を立体写真地図で探してみました。)ここは2013年の旅で、大変感動しました。その時の写真をご覧になってから、次の動画を見たらよいと思います。
シルワンの町の建物が、山の斜面の岩を切り崩して、それを建物に使うという方法は、当時のダビデの町の時もその手法が使われていたとことです。ここから、陶器師の畑アケルダマも見ることができます(2013年の写真)。
9.園の墓
鶏鳴教会から園の墓まで(グーグル地図)
(2013年、2010年、2008年、園の墓サイト)
私たちは急いで、バスに戻り、ヨッパ門側の旧市街のほうを周り、北のダマスカス門のすぐ北にある園の墓に向かいました。私たちがお昼に行ったのが、教会の歴史の中でずっとキリストの墓であったと信じられている所でしたが、こちらは十九世紀の時に見つけた墓であり、エルサレムにおいては数少ない、プロテスタント教会の所有している場所です。ここの園の墓のパンフレットが日本語であります。
東エルサレムのパレスチナ人の緊張
次の映像はあまり見せたくないのですが、けれども現実のエルサレムを知るには必要でしょう。園の墓は六日戦争以前の休戦ラインの東側、すなわちその前はヨルダンの占領の中にあったところです。イスラエルの支配下に入りましたが、そこの住民のほとんどがアラブ・パレスチナ人であり、東エルサレムとも呼ばれているところです。・・というか、今日の旅はすべて東エルサレムにあるものでしたが、ダマスカス門は旧市街で最もにぎやかなところで、ムスリム地区が接しています。そして城外には近くに、超正統派の人々が住む地区があり、この門を利用して嘆きの壁に行きます。そのため、何か事件が起こるとすると、この辺りは頻繁に起こります。私は2010年のパレスチナの独り旅で、ダマスカス門を通って、それから昼食をファラフェルをこの付近で食べて、そして園の墓の左隣にある、アラブ人バス・ステーションからラマラ行きへのバスに乗りましたから、そんな危険だというものではありません。けれども、その頃は、一匹狼のテロ、ナイフによるテロが散発的に起こっていました。それで、次の光景に出くわしました。
イスラエル治安警察の人が、一人のパレスチナ人の若者をしっかり抑えています。私は他の旅行メンバーが恐がらないように、わざと道案内のふりをしてその場を過ぎ去らせるようにしました。気づいた方々は何人かいましたが、ほとんど知らずにいたと思います。ちょっと恐いかもしれませが、逆に言うと、捕えてくれていることで安全なのだということです。帰り際に同じ警察の人たちがいたので、「お勤めありがとう!」と声をかけました。といっても、パレスチナの人たちが危険な人たちということでは、決してありません。これまで出会った人たちは、大方気さくで、優しい人たちでした。人懐っこいです、今回もパレスチナ人の少女たちが、絵に描いたような笑顔で私たちに挨拶してくれました。
「園の墓」の意義
それでは園の中の話に入りましょう。初めに、ここの施設の職員の方が、私たちに挨拶をしてくださいました(写真)。そして恭仁子さんが直接日本語で、説明してくださいます。初めに行ったのが、ゴルゴダ(しゃれこうべ)の形をした岩です。
園の墓は、しばしば「ゴードンのカルバリー」と呼ばれますが、ここが今のようになった経緯を話しています。ゴードン提督は英国の軍人であり、クリミア戦争の後、アメリカン・コロニーというクリスチャンのグループを訪ねに骨休みをしていた時に、北の壁のほうからここの岩を見ると、しゃれこうべに見えたというのが始まりです。彼は、城壁内に聖墳墓教会があるのはおかしいと思っていました(ヘブル13:12)。彼は考古学に造詣が深かったということで、発掘を手伝ってもらうと、ここに大きな集落の跡が出てきたとのことです。そして古い墓が次から次に出てきました。けれども、最終的に出てきたのは、第一神殿時代のもの、イエス様の時代よりも古いものでした。それが第二次神殿時代にも再利用された可能性はありましたが、イエス様は新しい墓に葬られたとありますから、ここではないということになります。しかし、ヨハネ20章にある「園の墓」の雰囲気を、十分に出しているところとして、聖墳墓教会よりも、はるかに当時のことを偲べるというところに、意義があります。興味深いのは、カトリックの人たちもすばらしい雰囲気のため、こちらに来て祈っているだそうです。今は、英国教会の人たちが管理しています。
そして、次はぶどうの酒ぶねの跡です。これがあるので、イエス様がマグダラのマリヤに会われた「園」の根拠となっています。
そして墓そのものです。
この説明の後、旅行の仲間は次々と墓の中に入っていきました、ここでよいのは看板ですね、He is not here; He is risen.つまり、「彼はここにはおられません。よみがえられたのです。」とのこと。探しても探しても、どこにもご遺体がない。そう、生きられたのです!私たちの信仰の根幹、イエス様が今も生きておられるという事実です。
至るところにある墓の跡
当たり前と言えば当たり前なのですが、今日一日だけでも、またヨルダンのペトラもそうでしたが、墓の遺跡が多かったですね。オリーブ山の麓にあるユダヤ人信者の墓の跡、聖墳墓教会、今のシオンの山にあるダビデの墓、そしてここの園の墓です。この園の墓は、一般に第一神殿時代のものだと言われています。園の墓の北に接する「聖ステパノ教会」の敷地に、列王記に出て来る「王たちの墓」ではないかと思われる第一神殿時代の墓が発掘されました。園の墓とは、ほんの1㍍しかないそうです。(紹介ビデオ)
その造りも、遺体が埋葬される部屋が二つあるのが特徴で、園の墓がそうですが、第二神殿時代のものは、入口の部屋とその奥に部屋がある造りなのが普通だそうです。そして、アルコソリア(arcosolia)と呼ばれる、遺体を寝かせるための岩壁を掘った部分があるのが第二神殿時代のものの特徴で、それがその墓にはありません。そして園の墓には、元々、遺体の頭を置く馬蹄形の出っ張りがあったのですが、それは第一神殿時代の墓にはあるのですが、第二にはありません。その他、墓の掘り方の詳細も第二神殿時代のものにはそぐわず、第一神殿時代、あるいは鉄器時代の墓を、ビザンチン時代の教会が改良して使っていたと考えられるそうです。(イスラエル人考古学者Gabriel
Barkayによる)
そして、明日訪問する、ダビデの町の南にあるシロアムの池のすぐそばには、「ダビデの墓」の遺跡があります。いろいろ議論がありますが、もしかしたらこちらこそがダビデの墓ではないか?ということです。そして、直ぐ近くにケデロンの谷には、「アブシャロムの墓」(実際のアブシャロムのものではない)など、墳墓群があります。ここら辺は、2013年にそこを訪れた「たけさんのイスラエル紀行」をご覧ください。
Tombs of the Davidic Dynasty(ダビデ王家の墓)
Abshalom’s Tomb(アブシャロムの墓)
では、第二神殿時代のユダヤ人の墓と埋葬については、どんなものがあるでしょうか?2010年の旅でヘロデ家の墓(旧市街の西、ヘロデ宮殿を眺める所にあります)を見ました、2008年にはイズレエル平原にある墓などがあります。下のビデオは、福音書のイエス様の墓の記述と、当時のユダヤ人の墓を比較して、いろいろな墓を紹介しています。
THE TOMB OF JESUS: FIRST CENTURY JEWISH BURIALS
イエスの墓はどこか?
そこで、「イエスの墓はどこか?」ということになります。上のビデオと同じ教授が、園の墓と聖墳墓教会をじっくり調べていきます。
HAVE ARCHAEOLOGISTS FOUND THE TOMB OF JESUS?
結論は、「園の墓」は違くて、「聖墳墓教会」はたぶんです。聖墳墓教会は第二神殿時代の墓で、伝承もあります。でも確かなことは言えない、ということです。でも、この教授は、「でも、私たちの復活を信じる根拠は、場所ではなく、甦ったという聖書の事実だ」と結論づけたのです。アーメンです。