2016年イスラエル・ヨルダン旅行記 2月21日 その1
1.神殿の丘
2.嘆きの壁
3.西壁トンネル
4.南壁考古学公園
5.ダビデの町
6.神殿再建財団
7.BFPエルサレムのホテル訪問
私たちの一日は礼拝で始まりました。ホテルの一室を借りて、妻がギターで賛美を導き、私がヨハネ20章の、イエス様が息を吹きかけて聖霊を受けなさいというところからお話しをしました。そして、バスに乗りエルサレム旧市街に向かいます。
この日は、「ユダヤ関連のエルサレム」見学です。といっても、昨日訪ねたところがユダヤ社会になかったということではありません。オリーブの山も、ベテスダの池も、ピラトの官邸も、ゴルゴダも、最後の晩餐も、カヤパ邸も、園の墓も、もちろん当時はユダヤ人との関連で起こっています。全てが、ユダヤ人ローマ支配下のユダヤ人社会の中で起こりました。この区別は、「今、どこの宗教が管理し、管轄しているのか?」の違いであります。キリスト教会が管理、管轄している敷地を中心に巡っていましたが、本日は、ユダヤ人やユダヤ教徒が情熱をかけて保存し、また発掘しているところが中心です。(例外は「神殿の丘」で。、今はムスリムの管轄ですが、その名のごとくユダヤ人の中心の中心でした。)
ぜひ過去のエルサレム旧市街の訪問をした資料を眺めてみてください。
エルサレムの概観(聖書にあるエルサレムの歴史、城壁の変遷、周囲の山や谷など)
そして私たちロゴス・ミニストリーの聖地旅行では、綿密な事前学習をしています。16年の旅は合計7回の準備会を行ないました。そこで、エルサレムの外観を、神殿の丘、西壁トンネル、神殿再建財団、西壁トンネル、南壁考古学公園、ダビデの町について総合的に説明しました。すべてが密接に結びついているからです。
(その2 その3)
1.神殿の丘
ホテルから「糞門」まで(グーグル地図)
(2013年の旅、2010年の旅、2008年の旅)
今の旧市街で最も低い位置にある糞門が、神殿の丘に近いところです。(私たちの糞門に入る姿)ここはユダヤ地区であり、濃厚なユダヤ教の雰囲気を味わえます。そのまま真っ直ぐに歩けば、嘆きの壁であり、手前右側には、南壁のところを発掘した考古学公園が見えます。そして左側は階段を上り、後でいく神殿再建財団に行きますが、私たちがチオペロンの谷の底にいることを少し感じ取ることができる地形になっています。そして右前方に、神殿の丘があり、その丘の西壁にある「モロッコ門」へ上がっていくための木製の通路を、イスラエル側が作りました。(モロッコ門に向かう通路の姿)しかし、嘆きの壁に入るにも、神殿の丘に上がるにも、空港の搭乗口に入る手前にあるようなセキュリティーを通らないといけません。神殿の丘ではムスリムによる暴動が起こりがちであり、嘆きの壁はテロリストが侵入することのないようにするための安全対策です。
このセキュリティー、特に神殿の丘へのセキュリティーを通るのに、時間がかかります。ある時は一時間近く待ったこともありました。しかし、今回はかなりスムーズ、10分もかからなかったのではないかと思います!私たちの行った時季はシーズン・オフです。イスラエルは、秋の祭りと春の祭りの間、雨季の11‐2月頃はシーズン・オフになっており、その時は飛行機代も安くなり、見学する所も比較的空きます。かつ、ナイフによる単独テロが散発していた時期が終わったばかりの頃で、全体的に旅行客が少なかったのです。私はこう言う時は、むしろ「旅行には絶好の機会」と個人的にはみなしています。なぜなら、事件が起こったばかりの時はみなが気を付けているので、再発しないように気を付けているのでかえって安全だからです。
セキュリティーでは、宗教的な物品は持ち込み禁止です。これは、ユダヤ教徒で神殿再建を願うような一派が、神殿の丘でユダヤ教徒の祈りを捧げようとしており、その時にムスリムとの衝突が起こるからです。そのため、聖書も持ち込むことはできません(スマホにあるアプリとかは可能でしょうが)。私は前回も今回も、小さなサイズの聖書を借りて、それを広告紙でカバーにし、バックパックの底に忍ばせていました。日本語のですし分からない、それに神殿の丘で開きさえしなければ問題ないです。この後の見学で私は小メッセージをしなければいけませんから、仕方のないことです。
木製の通路を歩きますと、左下には嘆きの壁の広場を見下ろせます。これはシャッターチャンスで、男性の区画だけしかいけない男性も(逆に、女性の区画しかいけない女性も)反対側の区画も含めて見下ろせるからです。(写真)西壁という側面はユダヤ教の最も聖なる地であり、その上の平面はムスリムの聖なる地ということですから、これだけ見てもイスラエルとパレスチナの問題の難しさを物語っているでしょう。
これから中に入って行きますが、右上の地図が参考になると思います。あるいはこちらの日本語の地図もあります。入口は5番Gate of hte Moroccans(モロッコ門)です。
歩いている右、すなわち南側にアル・アクサ寺院があります。私の関心事はもっぱら、当時の神殿の敷地においてはどうなっているのか?ということでした。アル・アクサ寺院の地下から階段で出て来る口が見えますが(1:38辺り)、そこが神殿の礼拝者が南壁のフルダ門から入って来たところと同じところなのか、気になっていました。ここで二つの図面をご紹介します。上の準備会のビデオでお見せしたものですが、聖書地図「バイブルワールド」(いのちのことば社)にあったものです。
第二神殿の変遷
エズラ記に書いてある、総督ゼルゼブルと大祭司ヨシュアが率いる神殿と、ネヘミヤが周囲の城壁を再建したものが一番上になります。それから、マカバイ家によってギリシヤの王アンティオコス・エピファネスから奪還し宮清めをした後、南側を拡張して、西壁の真ん中あたりに祭司たちが直接入っていくことができる橋を作っています(真ん中)。一般の民は南の壁にある門から入って、地下の階段を上がり、境内に入ります。それから、ヘロデが大改修を行なって、南と北の部分を大幅に広げました。南東にはムスリムが地下に新たにモスクを造ったようですが、そこにどのようにして埋め立てたのか、アーチを使った埋め立ての様子が見ることができるようです、「ソロモンの厩」と呼ばれています(ウェブサイト、Wikipedia、考古学者による現場からの説明動画)。
ヘロデ神殿の境内を上空から見た図です。
今、私たちは、一般の礼拝者たちが南壁から階段で上がって来て「異邦人の庭」に入って来たところにいます。盛り上げた高台のところが、おそらくは岩のドームがあるのですが、それゆえさらに階段を上ることになりますが、その手前で恭仁子さんが神殿についての全体の説明をしました。
そして岩のドームのほうに移動しました。
なぜ岩のドームが建てられたのか、その裏話もお話しされていますね。当時、エルサレムの中心であった聖墳墓教会に対抗するために、建てられたものです。しかも、カペナウムのペテロの家の上の教会と同じように、八角形の建物になっています。ユダヤ教の神殿に取って替わり、キリスト教の教会から目を逸らすために建てられたものです。(Jerusalem101)
黄金門の下に隠されていた、東の門
そして次に、東側に動き、昨日、下って行ったオリーブ山を見ました。ちょうど自分たちがいた主涙する教会も見ることができます(動画)。そして下におりて、左(北)に少し歩くと、黄金門を見ることができます。
こちらが、擁壁の外から見た黄金門です。
旧市街の門は、多くがオスマン朝の時に造られたものであるのに対して、これは最も古い、おそらくはビザンチン時代(520年代の頃)ではないかと言われています。。ヘブル語では「慈しみの門」と呼ばれます。(「黄金門」というのは、新約聖書の「美しの門」のラテン語訳から来ています。)これを外から見ると、封じられた門となっています。810年に門は閉じられ、十字軍が1102年に再開しましたが、サラディンが1187年に再び塞ぎ、オスマンのスレイマン壮麗王が1541年に閉じて、今に至っているとのこと。
イエス様は、オリーブ山から東の門を通られて、神殿の境内に入られ、宮清めを行なわれたと考えられます。手前にはムスリムの墓地があります。なぜかというと、エゼキエル43章によれば、東の門から主の栄光が戻るためであり、メシヤが到来するからです。「主の栄光が東向きの門を通って宮に入って行った。(4節)」ゼカリヤ書14章4‐5節には、メシヤがオリーブ山に立ち、ヨエル書3章12節には、ヨシャパテの谷(ケデロンの谷の神殿と丘とオリーブ山の間の部分)で国々を裁かれることが書かれています。ここは、メシヤが王として通られる門なのです。
そこで、ムスリムは、メシヤが入城されるのを阻むために、死体は汚れているため墓地によって阻んでいるということです。興味深いことに、オリーブ山のほうにはユダヤ人の墓地が、さらに初期のユダヤ人のキリスト者の墓地もありましたね。ここに主が戻られて、人々を甦らせるという信仰があるからに他なりません。
1969年、面白いことが起こりました。若い考古学者、ジェームズ・フレミングが、旧市街の壁を探索していました。その前夜に強い雨が降っていたため、彼が黄金門の前を歩いていたら、地面が割れ、下に落ちてしまったのです。それが下の写真です。これは、明らかにアーチの部分の上の部分になります。つまり、これは真上にあるビザンチン朝の門よりも前の時代ということになります。(The Undiscovered Gate Beneath Jerusalem’s Golden Gate、フレミング氏の動画)その後、ムスリムがその穴の部分をセメントで埋めてしまい、黄金門の回りに上の写真にあるように、鉄の柵を設けてしまいました。
考古学者ウォレンという人は、穴を掘っていったら、ここの東の門に止まってしまったとのことです。それで、黄金門の下の様子は、こうなっていると考えられます。
フレミング氏は、黄金門の下の東の門は、いつのものか分からないが、ヘロデ時代よりも前のものかもしれないと結論づけています。ソロモン時代のものだとしても、不可能ではないとしています。つまり、彼の見た門は、イエス様が棕櫚の聖日の時に入城された時には既に存在していた門かもしれないとのことです!
聖所の位置、岩のドームとは違うのか?
ですので、黄金門は東の門の真上にあったという可能性が大です。すると、岩のドームではなく、次の「霊のドーム」が、もしかすれば神殿の位置になるのではないかという推測が成り立ちます。「霊のドーム」の方に歩いて行きました(動画)、上の神殿の丘の地図では28番のDome of the Spiritsになります。
上で説明したのは、以下の可能性になります。
ですから、黙示録11章2節「聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。」が、次のように成り立つ可能性があります。
ここの霊のドームの前には、岩のドームの高くなっている敷地から周囲の低くなっている敷地に降りる階段があります。2013年の旅では、その一番下の階段部分は、第一神殿の時代のものであるかもしれないことを指摘しました。(図)神殿の丘やその周囲の考古学の発掘で有名なLeen Ritmeyer氏も、ソロモン時代の神殿の周囲の城壁かもしれないと指摘しています。(Locating the Original Temple Mount)
霊のドームのモリヤ山の床岩にしても、黄金門の下にある東の門にしても、ここの階段の一番下の段になっている切り石にしても、神殿の丘にも僅かに当時の第一神殿、第二神殿の境内の面影を見せていることが分かりました。
2.嘆きの壁
神殿の丘から嘆きの壁(グーグル地図)
(2013年の旅、2008年の旅)
私たちは、岩のドームのちょうど東にある、「綿商人の門(Cotton Merchant's Gate)」を通りました。(動画)マムルーク朝の時の門だそうです。ムスリム地区の通りに入り、とてもムスリム的な雰囲気が漂っていますが、回りのお土産屋さんで買うのを我慢して、次の十字路で左折、Al-Wad Hagai st.を少し歩けば、再びセキュリティーがありました。ここはもっと簡素で、通り過ぎれば、一気に西壁広場が広がります。
すべて壁がヘロデ時代のものではなく、下から七段目までです(ウィキペディア)。そして下の図にあるように、大きな西壁のごく一部だけになっています。(※表に見えるのは、ここの嘆きの壁の他に、先の綿商人の門の少し北に鉄の門というのがあり、その横に、小さな西壁があります。)けれども、先にムスリム地区を通ったその真下には、深くトンネルを西壁沿いに掘っており、それが次に見学する西壁トンネルであります。
(注:黒枠の位置が、少し間違っています。模型ではウィルソンのアーチ(Wilson's Arch)のところまで広がっていますが、ウィルソンのアーチは嘆きの壁の左のアーチを入って、少し歩いたところにあります。)
ここから、「嘆き」の壁について説明し、哀歌との関わりを説明しました。
そして左側の男性の区画に入りました。嘆きの壁の左のアーチに入ると、そこでも数多くのユダヤ教徒が祈りを捧げており、本棚もあり、そこ自体がシナゴーグになっています。その一番奥にウィルソンのアーチを見ることができます。
ウィルソンのアーチは、上町に住む祭司たちが直接、神殿の境内に入ることができるようにした石橋を支えるアーチの一部です。次の西壁トンネルの見学の時に詳しく説明します。
3.西壁トンネル
2013年の旅、2010年の旅、2008年の旅
たけさんの旅行記(2013年)
私たちは、神殿の丘の上面を歩き、そして西壁の一部、側面を見ました。次に、その左右(左が北、右が南)をそれぞれ見ることになります。かつては、そこは左はムスリム地区の家屋の地下、右は瓦礫が積み上がり、平面にならされていたところをそれぞれ掘り続け、嘆きの壁の北が「西壁トンネル」として、南の西壁と、南壁が「南壁考古学公園」として、一般旅行者にも開放されています。
嘆きの壁の前には、西壁広場があります。その北西の角の辺りに、西壁トンネルの入口があります。もうこちらの上はムスリム地区になっていますが、その地下から入るのです。ぜひ、こちらのグーグルのストリートビューをご覧ください。正面に見える、濃い緑の看板が、入口の標識です。カーソルを動かせば、360度、方向を変えて眺めることができるので、嘆きの壁も、先ほど神殿の丘の上に入っていった木製の通路も、眺めることができます。そして、次もクリックしてください。
西壁トンネルのグーグル探索
ここから辿って行けば、ずんずん、トンネルの最後のところまで入っていくことができます。
七十年のローマによる神殿破壊から、ここが廃墟になったり、また町が再建されたりの歴史を繰り返していましたが、嘆きの壁の部分だけは、辛うじて開かれていました。それでユダヤ人はここにきて、祈り始めました。至聖所に最も近いところだからです。けれども、19世紀、英国の探検家や考古学者がやって来て発掘を始めました。その一人がチャールズ・ウィルソンで1864年、続けて、チャールズ・ウォレンが1867‐70年に発掘しました。それで、彼の名にちなんで、祭司たちが神殿に入る時に使った橋を支えるアーチを、「ウィルソンのアーチ」と呼び、ウォレン氏については、彼が発見した至聖所の最も近いところに入口(トンネルと階段で神殿の境内に入れた)を、「ウォレンの門」と呼びます。
けれども、時はまだオスマン朝がそこを支配していました、それでかなり制限がかけられていましたが、1967年にイスラエルが六日戦争によって、ヨルダンから東エルサレムを奪還、それから「いつ、またここが取られるかもしれないから」ということで、急ピッチで発掘作業を始めたのです。そして今現在も、後で行くダビデの町の発掘と同様に、発掘が続いている、数々の発見が次々と起こっている場所となっています。Western Wall Heritage Foundationという団体が1988年に組織され、1996年から一般に完全公開されました。
「秘密の通路」
入口からすぐに右折すると、そこは細い地下道(グーグル)になっています。ここを「秘密の通路(Secret Passage)」と呼びます。
ここは、神殿の丘につながる門への橋が走っていたところの下の部分になります。ヨセフスは、「ユダヤ戦記」の中で「・・神殿の外庭の西側の場所に立った。そこにはクシュストスの上に通じるいくつかの門があり、また一本の橋が上町を神殿を結び付けていた(6, 6 2)」と書きました。橋はまた、下に導水路があり、橋と導水のどちらの用も足していたようです。ユダヤ戦争で橋は壊されましたが、ローマが、神殿の丘に偶像の宮を建てたら、ここも再建されてローマの町として機能し始めたようです。中世の時に「秘密の通路」という名が付けられたとのこと。そして七世紀にイスラム勢力がここを支配、今度はここを新たに建てた岩のドームとアル・アクサ寺院へ向かう橋として整えました。これは、上は神殿の丘につながるChain St.(Sha'ar Ha shalshelet)があり、Silsilaというミナレット(イスラム教の塔)があります。
ウィルソンのアーチ
そしてウィルソンのアーチに近づいてきた時、その下にある発掘現場を眺めましたが、ずっと下にローマ時代の遺跡があります(写真)。ここのアーチ、ウィルソンのアーチもそうですが、マムルーク時代に改築されたものだそうです。そしてウィルソンのアーチに向かいました(写真 右側が入口)。先ほどは、嘆きの壁から男性のみが左にあったシナゴーグに入って、中を見ることができましたが、こちらは女性専用です(写真)。そして今のウィルソンのアーチとかつてのヘロデ通りの図が、たけさんの旅行記に日本語訳入りであります。
そして、そのウィルソンのアーチの入口の前のところを左に進み(動画)、階段を下りると、屋根に特徴のある広い空間が出てきます(写真)。ここで恭仁子さんが、このアーチの建物を造ったのが、十字軍の後のマムルーク朝であることを言及し、あまり聞きなれないマムルーク朝についての説明を始めました。
マムルークが、奴隷王朝と呼ばれる経緯、アッコで十字軍の残党を完全に追い出したこと、それからなんと、ギデオンたちが水を飲んだハロデの泉で、蒙古軍を追い払ったという歴史的出来事が起こったということ。日本では神風(?)で追い出したわけですが、蒙古のすごさを思います。
そして西壁にぶつかります(グーグル)。ウィルソンのアーチのすぐ北隣に、それはぞれは巨大な石です。だいたい長さ14㍍、高さ4㍍、奥行きが4㍍ぐらいで、重さが600㌧だそうです。
長方形の穴については、後世に水溜にするための石膏を抑えるためのものだということは、意識していませんでした。恭仁子さんは、イエス様がおられた時は、青空天上だったということを強調していますね。 そして次は、ヘロデによる建築の優れものについて説明しています。石は積み上げているだけ、接着剤を使っていませんが、積み上げて壁にする時、ある工夫をしています。
3㌢内側に入れて、積み上げています。そして、次に至聖所に最も近い「ウェレンの門」に行きます(グーグル 女性たちの祈っている手前)(写真)。ここは、おそらく犠牲の動物やその他、祭儀に必要な用具の持ち運びを行なっていたのではないかと言われています。ウォレンは、この門を見たのではなく、神殿のほうから貯水槽に入ってこの近くまで来ていました。そしてすぐ奥に、女性たちが祈っている所が「土台の岩」と呼ばれ、ムスリムはここでユダヤ人が祈るのを許したそうですが、最近はラビがここでシナゴーグを作り、「洞窟」と呼ばれています。
ヘロデ通りを奥へ
ここを過ぎると、狭い道に入ります(グーグル)。そして上を向くと、ここが貯水槽だったということが良く分かる漆喰が、天井にあります(動画)。そして、少し行くと、ガラス張りの床になっていて、下を見ることができますが、貯水槽だったところだそうです(写真)
そして、ひたすら歩いて行き(動画)、モリヤ山の床岩にぶつかります。神殿はモリヤ山の上に建てられていて、敷地や通りは平坦になっていますから、埋めるところは埋め立て、削るところは削らないといけません。その埋め立てているところから、削るところ地点のところまで来ました(グーグル)。
切り出された石ではなく、床岩をヘロデ式の石のつもりで、同じ形に削っていきました(写真)。そして、ガードレール(グーグル)を通り過ぎると、そこには同時に三つのものが出てきます。
①西壁沿いのヘロデ通り終着地点(グーグル)
②西側にT字路で始まる通りを示す二本の柱(グーグル)
③ヘロデ神殿のための石切り場(グーグル)
足元を眺めると分かりますが、私たちはこれまで西壁の上のところを歩いていて、ヘロデ通りはもっと下にあったのですが、その間が小さくなっていき、ここではヘロデ通りになっています。ですから、ここがまさに、イエス様が歩かれたかもしれない道、新約聖書時代の通り道だということです。
ハスモン朝の水道へ
そして少し奥に石切り場があり、ここら辺に再び地図が出てきたので、恭仁子さんが説明します。
ここからは、ヘロデ時代の前、ハスモン王朝の時の遺跡が出てきます。階段を少し上がりますが、北から集められた貯水をし、水を流していた導水路のところを歩きます(動画)。恭仁子さんが説明しているように、当時はもっと南側のほうにハスモン時代の神殿の要塞があったのですが、ヘロデが拡張して、アントニオ要塞を作ったので、そこを遮断したので、用なしとなりました。けれども、アントニオ要塞の密接したところには、当時は青色天井であった雀の池があります。後でダビデの町に行ったら、そこでも岩を切り出した水道を通りますが、水の洗いの儀式のために、ここら辺は多くの水を必要としたので、水道システムが発達していますね。
そして昨日、エッケ・ホモ教会で見た「ストルティオン(雀)の池」の、もう片半分を見ます。(地下で外部とつながっているのは危険であり不謹慎でもあるので、仕切り壁を作ったと聞いています)。